寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
この話をするのは、これで十回目になる。
マルタさんの店で五回、稽古場で二回、実家への手紙で一回、それから床屋で一回。話すたびに猪が大きくなる、とハンスに言われた。フリッツにも言われた。双子は、言うことまで似ている。
でも、俺は嘘をついたことは一度もない。思い出すたびに、あの猪が大きく感じられるだけだ。だから今日は、できるだけ正確に話す。
依頼が来たのは、弓聖さまが旅立たれてから十日目のことだった。
北の森の外れの、炭焼きのリンデ村。秋の終わりから、森の奥に岩背猪の主が棲みついたという。並の岩背猪の倍。いや、三倍はある。背中の岩の板は斧も通らない。畑は掘り返され、炭焼き小屋が二つ潰され、村の男たちは冬の薪を取りに森へ入れなくなった。
「岩背猪か」
ギルド長は、なぜか俺の顔を見た。
岩背猪は、俺の初仕事の相手だ。街道で突っ込んできたやつの前で、弓聖さまは目を閉じ、弦も引かずに立っていた。俺は叫んだ。目を、目を開けてください、と。弓聖さまは十歩手前で目を開け、一矢で右目を射抜いた。
あれから、まだ季節ひとつぶんしか経っていない。
「班は、エレナに任せる」
エレナさんは頷き、帳面を閉じた。
班は、エレナさんと若手が十人。峠の山賊退治に行った八人に、二人が加わった。もちろん、俺も入っている。
リンデ村は、森に半分食われかけているような村だった。
畑は、巨大な鋤で耕したみたいに掘り返されていた。潰された炭焼き小屋の前の泥に、足跡が残っていた。洗濯桶がそのまま入る大きさだった。双子が並んで覗き込み、並んで青くなった。
村長が出てきて、ひとしきり猪の恐ろしさを語った。エレナさんは黙って聞いていた。それから村の真ん中の井戸のそばに立って、目を閉じた。
長かった。百数えても開かない。村の子どもたちが遠巻きに集まってきて、ひそひそ言った。
「あのお姉ちゃん、立ったまま寝てるの?」
寝てない。俺には分かる。あれは、聞いているんだ。
やがてエレナさんは、目を閉じたまま言った。
「井戸の水が、汲み桶の跡より指一本ぶん低いです。森の奥の沢で、何か大きなものが水を飲んでいます」
「鶏が、小屋の東の隅に固まっています。夜のあいだ、西から臭いが来るのでしょう」
「森から吹いてくる風が、奥で一度止まってから出てきます。風の通り道を、何かが塞いでいる。高さは、この家の屋根ほど」
村長の口が、開いたまま閉じなくなった。
「寝床は、西の沢の上の、倒木の多いあたりです。夜明け前に沢へ水を飲みに下りて、日が昇る前に戻ります」
「……三十年、この森で炭を焼いてきたが、そこまでは知らなんだ」
「師匠の教えです」
エレナさんは、そう言ってから続けた。師匠は最後に、風に気をつけろ、とおっしゃいました。風とは、移ろうもの。あらゆる変化のことです。ひとつも見逃すな、と。
俺は震えた。旅立ちの朝の、たった一言だ。俺もあの場にいて、同じ一言を聞いていた。それなのに俺には、北門の門番のじいさんのくしゃみしか聞こえていなかった。
その夜、村長の納屋を借りて休んだ。
誰も、なかなか眠れなかった。藁の上で寝返りばかり打っていたら、暗がりから、エレナさんの声がした。
「ティモさん。息が、浅くなっています」
見えているはずがない。灯りは消してあるし、エレナさんは納屋の反対側の隅にいる。
「……怖いです」
正直に言った。エレナさんの前では、どうせ隠しても無駄だ。
「私も、初めてのときは怖かったです」
少し間があって、エレナさんは続けた。
「怖いと、息が変わります。それが分かれば、怖さも、風のひとつです」
意味はよく分からなかった。でも、その夜は眠れた。
◇
作戦は、短かった。
「夜明け前、沢で待ちます。前列は私と、ティモさんと三人。後列は、ハンスさんとフリッツさんと四人。沢の上の岩場です」
「矢は、背中には通りません。鼻先と、脚だけを狙ってください。倒すためではなく、向きを変えるためです」
夜明け前の沢は、霧で真っ白だった。自分の手の先も見えない。
エレナさんが、小さく言った。
「――風よ」
俺たちは目を閉じた。
閉じてしまえば、霧も闇も同じだ。沢の水音。霜を踏む音。隣の誰かの、早すぎる心臓の音。それから、地面の、かすかな揺れ。
「北から。四百歩。ゆっくり歩いています」
揺れが、だんだん大きくなる。
俺は、ほんの少しだけ薄目を開けた。後悔した。
霧の向こうに、黒い丘が動いていた。牛三頭分。いや、今にして思えば四頭分はあった。背中の岩の板が、ひとつひとつ、俺の顔より大きい。
丘は沢に鼻を突っ込み、水を飲み始めた。
「後列、鼻先」
ハンスとフリッツの矢が、霧を裂いて、鼻先の水面を叩いた。猪が顔を上げた。怒りの声が、沢の両岸を震わせた。
「右の前脚」
三本の矢が、右の前脚に刺さった。浅い。でも、巨体が左にかしいだ。
猪は、こちらに向き直った。
前列の真ん中。俺の正面だった。
地面が跳ねた。突っ込んでくる。
あのときと、同じだった。街道で、弓聖さまの横で。あのとき俺は、目を開けてくださいと叫んだ。
今度は、俺が目を閉じている。
足が動かなかった。膝が、言うことをきかなかった。
「ティモさん。右へ、二歩」
エレナさんの声がした。いつもの、静かな声だった。
跳んだ。
鼻息が、左の頬をかすめた。熱かった。猪は止まりきれずに俺のいたところを通り過ぎ、向こう岸の倒木に頭から突っ込んだ。倒木が、焚き付けみたいに砕けた。
そのときだった。
「……足音が、一つ多い」
エレナさんの声が、初めて低くなった。
「沢の下流。霜を踏む、小さな足。子どもです」
俺は凍りついた。井戸のそばで「立ったまま寝てるの」と言った、あの子だ。後で聞いたら、剣士のお姉ちゃんの戦いを見たくて、夜明け前に家を抜け出してきたのだという。
猪も、気づいた。倒木から頭を引き抜き、鼻を下流へ向けた。霧の中で、小さな悲鳴がした。
猪が走り出した。下流へ。
エレナさんは、それより先に走り出していた。
目を閉じたまま、霧の中を、沢の石から石へ。一度も足を取られなかった。猪の鼻先が子どもに届く三歩手前で、エレナさんは子どもを抱えて横へ跳び、猪の牙は、さっきまで子どもが立っていた霜の地面をえぐった。
エレナさんは子どもを岸の岩陰に下ろし、頭に手を置いて、何か一言だけ言った。それから、また沢の真ん中へ戻っていった。
それからのエレナさんのことを、俺はうまく話せない。九回話して、九回ともうまく話せなかった。
エレナさんは、目を閉じたまま沢の真ん中に立っていた。そして、猪が動くより先に、俺たちを動かした。
「ハンスさん、三歩下がって」
ハンスが下がった瞬間、さっきまでハンスのいた岩を、猪の後ろ脚が蹴り砕いた。
「フリッツさん、弦を引いたまま、待って」
猪が、後列の岩場へ鼻を向けた。弓の連中を、先に片づけるつもりだ。
「我が前髪のみを」
前列の四人が、一歩踏み出した。踏み出して、剣の腹で沢の石を打ち鳴らした。猪の耳が、こちらへ戻った。岩場の後列は、誰ひとり動かなかった。
「ティモさん、そこにいて。動かないで」
猪がどこへ跳ぶか。どこを蹴るか。どこで息を吸うか。エレナさんには全部、起こる前に聞こえていた。
後で訊いたら、こう言った。
「主は、動く前に、必ずどこかが変わります。息が止まる。爪が霜を噛む。背中の岩が軋む。それを聞いていた、だけです」
それを「だけ」と言う人を、俺は他に知らない。
霧が、揺れた。
「風が変わります。三つ数えたら、北風」
一つ。二つ。
三つ目で、本当に北から風が吹いた。霧が沢の下へ押し流され、それで、ええと、猪の鼻に、俺たちの匂いが届かなくなった。理屈は、エレナさんに三回説明してもらったが、まだよく分かっていない。
とにかく、猪は俺たちを見失った。匂いを探して、大きく首をひねった。
首をひねると、首の付け根で、背中の岩の板が一枚だけ浮いた。
「――揺らせ」
エレナさんが跳んだ。
目を閉じていろと言われていたのに、俺は開けた。見たかったんだ。一生に一度のものを。
霧の切れ目に、朝の最初の光が差していた。その光の中で、エレナさんの剣が、岩の板の隙間へ吸い込まれていった。
前髪だけが、揺れていた。
猪は声も上げず、ゆっくりと横に倒れた。地面が、最後にもう一度だけ、揺れた。
◇
村じゅうが沢に下りてきた。
抜け出してきた子どもの母親が、子どもを抱きしめて泣き、それから拳骨を落とし、それからまた抱きしめた。
あの岩陰で何と言われたのか、俺はその子に訊いてみた。
「ここで待っていて。必ず、迎えに来るから、って」
エレナさんは、少し離れたところで、それを聞いていなかったふりをしていた。
村長はエレナさんの手を握って泣いた。子どもたちが倒れた猪の背中によじ登った。誰かが猪の長さを歩幅で測った。十八歩あった。
「さすがは、弓聖さまのお弟子さまだ」
「師匠の教えです」
俺たちは剣を掲げて、合言葉を唱えた。風よ、我が前髪のみを揺らせ。村の子どもたちが、意味も分からずに真似をした。
エレナさんは、腰の短剣の柄に一度だけ手を添えた。抜きはしなかった。
その夜、納屋の隅で、エレナさんが帳面を開いているのを見た。新しい頁ではなかった。少し前の頁の一行の下に、細く、線を引き直していた。
風に、気をつけろ。
覗くつもりはなかった。でも、目に入ってしまった。俺は、こういうことだけは目ざとい。
帰り道、俺は考えた。
弓聖さまには、二つ名がある。だったら、エレナさんにも二つ名がいる。霧の中で、風が変わるのを三つ前に言い当てた人。風を読む剣士。
風読みの剣姫。
口に出してみたら、ハンスとフリッツが同時に「それだ」と言った。エレナさん本人は、師匠の教えを守っているだけです、と困った顔をした。でも、二つ名というのは本人が決めるものじゃない。弓聖さまだって、自分で弓聖と名乗ったわけじゃないはずだ。
それで俺は、この話を九回した。
最初の一回をマルタさんの店で話すと、マルタさんは前掛けで目を押さえ、次の日には町じゅうが「風読みの剣姫」を知っていた。猪は町を一周するあいだに、牛六頭分になっていた。俺のせいじゃない。たぶん。
店の隅では、ルカさんが手帳に何か書いていた。あの人は最近、いつも何か書いている。
数日して、マルタさんの店に、セリグマン王国から戻ったという行商人が来た。俺がちょうど、九回目の話をしているところだった。
行商人は麦酒を飲みながら笑った。
「その話なら、国境の向こうでも聞いたぜ」
俺は身を乗り出した。
「向こうじゃ、何て呼ばれてました。風読みの剣姫ですか」
「いや」行商人は首を振った。「『前髪の剣姫』だ」
俺は卓を叩いた。
「前髪じゃない! 風読みです!」
「知らねえよ。俺は聞いたとおりに言ってるだけだ」
行商人は、指を折って数えた。峠の茶屋では「風呼びの剣姫」だった。街道の宿場では「髪揺らしの剣姫」になっていた。国境を越えたら、「前髪の剣姫」だった。
「目を閉じて戦って、前髪だけが揺れる剣士だってな。おおかた、お前らの妙な合言葉と混ざったんだろうさ」
俺は頭を抱えた。マルタさんは、なぜか誇らしげに前掛けで目を押さえていた。
それから行商人は、思い出したように付け加えた。
「そういや、向こうの国境の町の酒場でな。その名前を聞いた途端に、麦酒を噴いた男がいたよ。背の高い、無口な男でな。行商人みたいなでかい鞄を、椅子の横に置いてた」
俺は、少し考えた。
弓聖さまも、でかい鞄を背負って旅立たれた。
でも、まさかな。弓聖さまは、麦酒を噴いたりしない。あの方が黙ったら、次の矢で終わるんだ。
ちなみに猪は今、牛八頭分になっている。これは、俺のせいかもしれない。