寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
国境を越えて二日目の夜、私はセリグマン王国の、国境の町の酒場にいた。
国境の関所では、名と生業を訊かれた。私は生業のほうにだけ答えた。
「……弓を、少々」
関所の役人は私の顔を見て、それから背中の鞄を見て、また私の顔を見た。少々の弓を引く男の荷物には見えなかったのだろう。結局、何も訊かずに通された。沈黙は、国境も越える。
セリグマンの風は、乾いていた。山の吹き下ろしとは違う、平らな土地を渡ってくる風だ。前髪だけでなく、全体を均等に乱す。この国の風とは、まだ契約を結んでいない。
「錆びた拍車亭」。看板の拍車は、本当に錆びていた。名と実が一致している店は、信用できる。
明日の朝、王国の傭兵募集所へ行く。それまでの一夜を、隅の席で、一杯の麦酒とともに過ごすつもりだった。鞄は椅子の横に置いた。部屋に置いてくることも考えたが、私が鞄から離れられなかった。
異国の酒場は、よい。誰も私を知らない。誰も私の沈黙に意味を読まない。私は十年ぶりに、ただの無口な男だった。
その平穏は、麦酒が半分に減ったところで終わった。
カウンターの前で、大男が女の手首を掴んでいた。
髭面である。腕は丸太のようで、腰の剣は使い込まれている。同じ卓の仲間が三人、にやにやと眺めている。肩の徽章からして、王国の国境警備に雇われた傭兵らしい。
女は三十ほどだろうか。地味な灰色の外套を着て、胸に革の書状入れを抱えていた。
「中身を見せてみろよ。恋文か?」
「離してください」
女の声は低く、震えていなかった。ただ、書状入れを抱く腕だけが、白くなるほど強張っていた。
酒場の誰も、動かなかった。
私の内部で、会議が開かれた。議題は、介入すべきか。
第一に、新天地で目立つことは得策ではない。私は今、ただの無口な男であることを満喫している。
第二に、あの徽章は、私が明日門を叩くつもりの傭兵隊のものである。入隊前に先輩を殴るのは、職業倫理に反する。
第三に、私は今、麦酒を飲んでいる。
三つの理由が揃った。三は、美しい数である。静観する。
そう決議したのとほぼ同時に、髭面が仲間のほうを振り返り、上機嫌に言った。
「そういや、聞いたか。国境の向こうのイァーリって傭兵ギルドに、『前髪の剣姫』ってのがいるらしいぜ」
私は、麦酒を口に含んでいた。
「弓聖とかいう男の弟子の娘でな。目をつぶって戦って、前髪だけが揺れるんだと。戦の前に、こう唱えるんだとよ」
髭面は、女の手首を掴んだまま、もう片方の手で自分の前髪をつまみ上げ、裏声で言った。
「風よぉ、我が前髪のみをぉ、揺らせぇ」
仲間たちが、卓を叩いて笑った。
その先のことを、私は正確に記述しておかねばならない。のちに何度思い返しても、信じられないからである。
第一に、私は麦酒を噴いた。
意図したものではない。私の肺は、二十二年、弓を引くための長い呼吸を鍛えてきた。その肺が、自分の詩を裏声で聞かされた衝撃に、全力で応えたのである。麦酒は霧ではなく一筋の線となって卓を二つ越え、振り返っていた髭面の両目に、正確に吸い込まれた。
第二に、髭面は女の手を離し、目を押さえてよろめいた。二歩下がった先に、仲間の座る長椅子の端があった。
第三に、長椅子は髭面の体重を受けて跳ね上がり、反対の端に置かれていた豆の大皿が、天井へ飛んだ。
第四に、大皿は、天井から吊られた鹿の角の燭台に当たった。燭台の鎖が外れた。
第五に、鹿の角が、卓の二人の上に落ちた。枝分かれした角は二人の首と腕を正確に挟み込み、卓に縫い止めた。どちらにも、かすり傷ひとつない。
第六に、残る一人が剣を抜き、麦酒の飛んできた方角、つまり私に向かって突進してきた。私は動かなかった。動けなかったのである。会議はまだ、次の議題に移ってもいなかった。
第七に、男は私の椅子の横の鞄につまずいた。十四冊の詩帳を詰めた鞄は、微動だにしなかった。男は宙を飛び、ようやく目を開けかけた髭面の腹に、頭から突っ込んだ。
第八に、二人がもつれて倒れたところへ、つまずかれた反動で傾いていた鞄が、ゆっくりと倒れ込んだ。
鞄は、二人の上で止まった。三つの留め金は、持ちこたえた。
酒場は、静まり返った。
髭面とその仲間は鞄の下で呻き、残る二人は鹿の角の中で目を白黒させていた。私は空になった杯を持ったまま、椅子に座っていた。一歩も、動いていなかった。
そんなことは、ありえない。
私は確率を見積もった。麦酒が卓を二つ越えて目に入る確率。長椅子の端に下がる確率。皿が鎖の留め具に当たる確率。鹿の角が人の首を傷つけずに挟む確率。剣を抜いた男が、ちょうど鞄につまずく確率。
掛け合わせた数は、私の詩が王都の詩会で一等を取る確率よりも、低かった。
それでも、起きた。
鹿は、またしても私を救った。今度は論法ではなく、角で。
噴いた麦酒の一部は、鼻へ回っていた。目の奥が、まだしみている。
「……あんた」
酒場の亭主が、震える声で言った。
「今の、全部、狙ったのか」
答えるべき言葉は、なかった。私は黙っていた。
正確に言えば、韻を探していた。
麦酒の泡と、鹿の角と、異国の酒場に倒れた男たち。この光景には、詩がある。詩のある光景を前にして韻を探さない者は、詩人ではない。たとえ、その光景を作ったのが自分の肺であったとしても。
酒場の誰かが、ささやいた。
「……黙ってる。本物だ」
亭主が、私の杯に黙って麦酒を注ぎ足した。代金は要らないという。客の何人かが、鞄の下と鹿の角の中から四人を引きずり出し、店の外へ放り出した。誰かが「明日には、国境警備隊が仕返しに来るぞ」と言い、誰かが「この人がいるなら来ねえよ」と言った。どちらにも、私は同意できなかった。
異国の酒場に 泡は散り
鹿の角より 運命(さだめ)は落ちる
――我が沈黙は、誰がために
悪くない。ただ、第二行がやや過剰である。部屋に戻ったら推敲しよう。
そこへ、灰色の外套の女が、私の卓の前に立った。
「……ありがとうございました」
言うべきことは、決まっていた。
――いや、礼には及ばない。というより、私は何もしていない。あれは私の肺と、鹿と、鞄がやったことだ。
長い。削る。「鹿と鞄」は説明を要する。削除。「肺」は、なぜ肺なのかを問われる。削除。「何もしていない」は、四人が床に転がっている現状と整合しない。削除。
「……いや」
女は、しばらく何も言わずに、私の目をじっと見ていた。麦酒のしみた目が、潤んでいたのだと思う。
「お名前を、うかがっても」
私は答えなかった。答えられなかった、のほうが正確である。
前髪の剣姫。
エレナが、国境の向こうで二つ名を得ている。弟子が名を上げるのは、師として誇らしい。誇らしいはずだ。
だが、その二つ名の半分は、私の詩でできている。
そしてもう一つ。名を訊かれたら、本名を名乗ればいいと、宿場で決めたばかりだった。だが、前髪の剣姫の師の名を、この酒場で名乗れるはずがない。
私は今夜、名を失った。
ついでに言えば、職場も失いかけている。明日、募集所へ行けば、今夜の四人の同僚になる。あるいは、今夜の四人に囲まれる。どちらにしても、穏やかな職場ではない。
私は鞄を背負い、二階の部屋へ上がった。推敲が、待っていた。
◇
あの書状入れの中身を、私は読んだことがない。
読んだところで、意味は分からないだろう。あの方の書く詩は、いつもそうだ。けれど、意味が分からないからこそ、誰にも解けない。もし誰かに解かれれば、私たちの首が飛ぶ。
王国は、腐っている。国境警備の名で雇われた傭兵が町で好き放題をしても、誰も咎めない。咎めれば、咎めた者が国境の向こうの間者にされる。そういう国を変えるために、私たちは集まった。
だから、髭面の傭兵に書状入れを掴まれたとき、私は覚悟を決めていた。書状入れごと暖炉に飛び込むか、外套の裏の刃を男の喉に突き立てるか。どちらを選んでも、私はここで終わる。
隅の席に、男が一人いることは知っていた。
背が高く、無口で、椅子の横に行商人のような巨大な鞄を置いていた。店に入ってきてから一言も口をきかず、杯の中の麦酒を、ずっと見つめていた。世界の終わりでも覗き込んでいるような目だった。
助けを期待したわけではない。この町で、国境警備隊の傭兵に逆らう者はいない。
だから、何が起きたのか、最初は私にも分からなかった。
髭面があの妙な文句を裏声で唱えた、その最後の一音で、隅の男が、ほとんど身じろぎもせずに、口に含んだ麦酒を吹いた。
霧ではなかった。一本の矢のようだった。
そこから先は、一つながりの大きな仕掛けを見ているようだった。長椅子が跳ね、皿が飛び、鹿の角が落ち、剣を抜いた男が宙を舞い、最後に、あの巨大な鞄がすべてを押さえ込んだ。
男は、その間ずっと、椅子から立たなかった。
偶然では、ありえない。あれは全部、最初の一吹きから計算されていた。そうでなければ、説明がつかない。
ただ、一つだけ気になった。男が動いたのは、私が手首を掴まれたときではなかった。髭面が、国境の向こうの剣士たちの合言葉だという、あの文句を唱えたときだった。
あの文句に、何かあるのだろうか。
店じゅうの客が、隅の男を見ていた。誰かが「黙ってる。本物だ」とささやいた。男は、聞こえていないようだった。天井の一点を見つめて、身じろぎもしない。四人の男を床に転がしたあとの人間の顔ではなかった。何か、もっと遠くのものを見ている顔だった。
私は男の前に立ち、礼を言った。
男はしばらく黙り、ひとことだけ言った。
「……いや」
それきりだった。礼など要らない、ということなのだろう。あれほどのことを、この人は、取るに足らないことだと思っている。
近くで見ると、男の目は、濡れていた。
泣いていたのだ。四人の男を倒したばかりの人が、礼を言われても何も言わずに、天井を見つめて。
何を思っていたのだろう。あれほどの技を持つ人が、なぜこんな国境の町の酒場で、一人きりで麦酒を飲んでいるのだろう。
「お名前を、うかがっても」
男は答えなかった。わずかに眉を寄せ、目を伏せた。
名乗れない理由があるのだ。名を捨ててきた人なのだ。
男は立ち上がり、床に倒れたままの、あの鞄を持ち上げた。ひどく重そうだった。腰に手を添え、一度息を整えてから、背に負った。
あれは、荷物の重さではないと思った。
亭主は代金を受け取らなかったが、男は黙って卓に銅貨を置き、二階への階段を上がっていった。外套の隠しから、折りたたんだ紙が一枚のぞいていた。王国の、傭兵募集の貼り紙の写しだった。
国境警備隊の傭兵を四人のしたその夜に、明日、王国の募集所の門を叩くつもりなのだろうか。
だとしたら、この人は、王国の側に行ってしまう。
◇
その夜遅く、私は町外れの製本工房の地下へ降りた。
蝋燭の灯りの中で、あの方は紙の束を綴じていた。
ソフィエ。セリグ憂国団の長。
昼は製本師として、町の商人の帳簿や、司祭の祈祷書を綴じている。夜は、同じ針と糸で、王国をひっくり返すための言葉を綴じている。細い指先は、いつもインクで青い。
私は書状入れを差し出し、酒場でのことを話した。ソフィエは綴じ針を動かしながら黙って聞き、それから、短くいくつか訊いた。
「その男、口は堅いの」
「一晩で、ひとことしか話しませんでした。『……いや』と」
ソフィエは、綴じ針を止めた。
「腕は」
「四人を、椅子から一度も立たずに」
「それは、腕じゃなくて頭ね」
ソフィエは、薄く笑った。
「名は」
「名乗りませんでした」
「上等ね。口が堅くて、頭が切れて、名を捨てた男。いくらいても足りないわ。王国に取られる前に、こちらへ連れていらっしゃい」
私は頷いた。
あの男の目が濡れていたことは、話さなかった。なぜか、話したくなかった。
ソフィエは書状入れを開き、中の紙に目を落とした。蝋燭の火が、紙の文字を照らした。
灰色の鳩は 七つの塩を数え
北の扉は 麦の月にひらく
やはり、意味は分からなかった。
あの男の沈黙の意味も、まだ私には分からない。けれど、あの沈黙の底には、きっと、言葉にできないほど深いものが沈んでいる。
その夜、男が宿の部屋で、第二行の推敲に三時間をかけていたことを、私はずっと後になって知る。