寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第14章 鳩は、灰色

 推敲は、夜明けに終わった。

 第二行の「運命(さだめ)は落ちる」を「静けさ落ちる」に改めた。鹿の角が落ちたあとの酒場の静けさこそが、あの光景の核心だったのだ。三時間の甲斐はあった。運命という語を一つ救ったことにもなる。この語は、もっと大事な場面のために取っておきたい。

 

 問題は、推敲以外のすべてだった。

 朝の食堂に降りると、客たちの目が一斉にこちらを向いた。亭主は黙って、私の皿に腸詰めを一本多くのせた。隣の卓の男が、自分の前髪を指でつまみかけて、慌てて手を下ろした。昨夜の一件は、すでに町の朝食の話題になっているらしい。

 

 募集所へ行くべきか。私は黒パンをちぎりながら考えた。

 行けば、昨夜の四人の同僚になる。行かなければ、職がない。職がなければ、詩帳十四冊を背負ったまま、異国の路上で冬を迎えることになる。

 それに、前髪の剣姫のこともあった。弟子の噂が国境を越えてくるなら、王国の傭兵隊は、いずれその師の顔も知るだろう。傭兵隊とは、噂がいちばん早く集まる場所である。

 

「おはようございます」

 

 顔を上げると、向かいの席に、昨夜の灰色の外套の女が座っていた。いつ座ったのか、分からなかった。エレナといい、この女といい、近ごろの女性は気配を消すのが上手すぎる。

 

「リリアと申します。昨夜は、ありがとうございました」

 

 私は頷いた。

 

「募集所へ、行かれるおつもりですか」

 

 私は黙っていた。考えていたのである。

 

「あそこへ行けば、昨夜の四人がいます」

 

 知っている。

 リリアは声を落とした。

 

「代わりに、お連れしたい集まりがあるのです。言葉で、この国を変えようとしている者たちの集まりです」

 

 私は、黒パンをちぎる手を止めた。

 

「人前では、決して口にできない言葉を書いている者たちです。ですから、口の堅い方でなければ、お誘いできません」

 

 私の内部で、会議が開かれた。今朝の議場は、静かだった。審議するまでもなかったからである。

 

 第一に、言葉で国を変えようとしている。

 第二に、人前では決して口にできない言葉を書いている。

 第三に、口の堅い者を求めている。

 

 詩である。

 第四の根拠もある。昨夜、彼女は、書状入れを命がけで守っていた。恋文かと訊かれて、手首を掴まれても離さなかった。命がけで守る紙。それは、詩以外にありえない。私には分かる。私も、屋根裏から十三往復した男だ。

 

 それ以外に、何があるというのか。人前で読めない言葉を書き、それでも言葉が世界を変えると信じている者たち。それは、二十二年間の私そのものである。

 

「今夜、鐘が九つ鳴ったら、町外れの製本工房へ。扉の前で『鳩は』と問われたら、『灰色』と答えてください」

 

 製本工房。本を綴じる場所。そして、問いに答える合言葉。

 上の句に、下の句を返す。これは連歌の作法である。

 

 私の胸の中で、何かが、小さく鳴った。

 言うべきことは、山ほどあった。喜んで行く。いや、ぜひ行かせてほしい。私は二十二年、こういう場所を待っていた。ただし、私の作品は見せない。聴くだけだ。それでもよければ。

 

 長い。削る。「二十二年待っていた」は、重すぎる。削除。「作品は見せない」は、作品があることを自白している。削除。「喜んで」は、私の顔に似合わない。削除。

 

「……行こう」

 

 リリアは、私の顔をしばらく見つめていた。それから、静かに頷いた。

 

「やはり、そういう方なのですね」

 

 どういう方なのかは分からなかったが、私は否定しなかった。否定する言葉も、削ってしまったあとだったからである。

 

◇

 

 帳面を見せ合いたい、と言い出したのは、エレナのほうだった。

 リンデ村から戻った夜のことだ。稽古場の隅で手帳を開いていた俺の前に、エレナは三冊目の帳面を抱えて立った。

 

「ルカさん。いつかの、約束を」

 

 断る理由を、俺は探さなかった。

 事実一。三度目の満月まで、あと四日。

 事実二。拾った指令書の解読は、陣形までは読めた。だが、誰がどこで前衛を動かすのかが読めない。

 事実三。弓聖の言葉をいちばん多く書き留めているのは、目の前にいるこの弟子だ。

 

 鍵は、あの帳面の中にある。

 決まりを作った。一頁ずつ、交互に見せる。見せたくない頁は、見せなくていい。

 エレナは、最初の一頁を開かなかった。

 

「この頁は、私だけのものです」

 

 俺も、一頁を飛ばした。「弟子エレナ、見張り役の可能性」と書いた頁だ。互いに一頁ずつ、伏せたことになる。公平な取引だった。

 エレナが開いたのは、収穫祭の夜の頁だった。

 

 ――遠慮しておく。

 

 その下に、小さな字で書き添えてある。

 

 ――遠きを、慮れ。間合いの外の敵まで、先に読め。

 

 俺は、自分の手帳の同じ日の頁を見せた。

 

 ――人前での発言を拒否。「遠慮しておく」。合図か。

 

 エレナは、首をかしげた。

 

「合図……。そうかもしれません。遠きを慮れ、という教えを、皆の前で、皆に向けて出されたのだとしたら」

 

 皆に向けた合図。中身は、遠くを読め。遠くとは、国境の向こうだ。

 俺は、手帳に一行書き足した。

 次の頁は、同じ夜の森だった。

 

 ――ぬるい。

 

 エレナの解釈は、「師匠が、ご自分の修行を戒めた言葉」。俺の手帳には、「国境の守りへの言及か」とある。

 二人で、しばらく黙った。

 

「……師匠は、国境の守りを、ご自分の守りのように案じておられたのですね」

 

 エレナが言った。俺の解釈と、エレナの解釈が、一つになった。

 国境の守りがぬるい。弓聖は、それを自分の目で確かめていた。

 つまり、下見だ。

 手帳の文字が、少し震えた。

 エレナが開いたのは、旅立ちの朝の頁だった。

 

 ――風に、気をつけろ。

 ――最後の奥義。風とは、あらゆる変化のこと。ひとつも見逃すな。

 

 俺は、手帳の最初のほうの頁を見せた。

 

 ――「風」とは、誰か。

 

 エレナは、二つの頁を並べて見比べた。

 

「風という変化を、見逃すな。……風が、来るのですね。いつか」

 

 弓聖は、最後に、弟子に「風」の到来を待てと命じていた。

 今度は、俺のほうから頁を開いた。森で聞いた一行だ。

 

 ――三度目の満月の夜、風は国境を越える。

 

 エレナの目が、わずかに見開かれた。

 

「師匠のお言葉ですね。存じませんでした」

 

 彼女は帳面に書き写し、少し考えてから、下に書き添えた。

 

 ――変化は、境を選ばない。

 

「三度目の満月の夜」エレナは顔を上げた。「あと四日ですね。国境へ行って、確かめてきます。師匠が、何を見せようとなさったのか」

 

 弟子が、決行の夜に、国境へ行くと言い出した。

 俺は、次の頁を開くかどうか迷った。拾った一枚の解読だ。

 迷った末に、紙そのものは見せず、解読だけを読み上げることにした。

 

「弓聖が、旅立ちの朝に落としていった一枚がある。中身は、こう読める」

 

 エレナは、すぐに目を伏せた。

 

「その紙は、見ません。師匠が、見せようとなさらなかったものですから」

 

「紙は見せない。読み上げるのは、俺の読みだけだ」

 

 エレナは目を伏せたまま、頷いた。

 

「後ろには、手を出すな。両脇に、兵を伏せるな。前に立つ者だけを、動かせ」

 

 しばらく、エレナは何も言わなかった。

 それから、顔を上げた。目が、光っていた。

 

「陣の教えだったのですね。前に立つ者だけが踏み出し、後ろは決して揺らさない。私が若手に伝えた合図と、同じです。師匠は、続きの教えを残していかれた」

 

 エレナは、帳面の新しい頁に、俺の読みを一字一句書き写した。

 

「三度目の満月の夜、前に立つ者だけを連れて、国境へ行きます」

 

 事実四。弟子は、指令書の全文を、師の教えとして受け取った。

 事実五。本人には、まったく自覚がない。

 事実六。決行の夜、弓聖の前衛は、国境に立つ。

 

 俺の解読が、弟子の帳面に入った。弟子の帳面は、明日には若手全員に伝わる。

 俺は、止めるべきだった。止めれば、俺が何を知っているかを明かすことになる。明かせば、この弟子を、もう教えの側には置いておけなくなる。

 俺は、止めなかった。

 最後に、エレナが、俺の手帳の一頁を指さした。

 

 ――紙とインクの消費量が、弓手として明らかに多い。

 

「師匠も、帳面をつけておられたのですね」

 

 エレナは、嬉しそうに言った。

 

「私と、同じように」

 その夜、手帳の最後の頁に、俺は書いた。

 

 ――解読、弟子の帳面に移る。もはや、俺の手を離れた。

 

◇

 

 鐘が九つ鳴った。

 町外れの製本工房は、通りから一本入った路地の奥にあった。看板はない。扉の隙間から、膠と紙の匂いがした。私の好きな匂いである。二十二年、屋根裏と森でしか嗅いだことのない匂いだった。

 扉を叩くと、内側から、低い声がした。

 

「鳩は」

 

 下の句を返す。私はこの瞬間のために、午後いっぱいを使って声の調子を検討していた。重すぎず、軽すぎず、韻律に敬意を払った声。

 

「……灰色」

 

 扉が開いた。

 リリアに導かれて、地下への階段を降りた。

 蝋燭の灯る石の部屋に、十人ほどの男女がいた。誰も笑っていない。誰もが、何かを深く思い詰めた顔をしている。言葉と格闘している者の顔だ。二十二年、毎晩、夜の小川に映っていた顔である。

 壁際の棚には、剣と弓が並んでいた。最近の詩人は、物騒である。いや、私も弓を持っている。人のことは言えない。

 リリアが、何人かを引き合わせてくれた。

 

「鳩です」と、若い男が言った。「狐」と、痩せた女が言った。「鴉だ」と、髭の老人が言った。

 雅号である。

 

 私は感動した。詩人は皆、雅号を持つものだ。ここでは誰も本名を名乗らない。作品と作者を切り離し、言葉だけで向き合う。これこそが、私の求めていた詩の会のあり方である。

 部屋の奥で、綴じ針を手にした女が立ち上がった。指先が、インクで青い。

 

「ソフィエよ。ここをまとめている」

 

 私は頷いた。

 ソフィエは、集まった者たちを見回し、それから私を見て、話し始めた。

 

「この国の言葉は、腐っている。王都の連中が決めた言葉しか、口にすることを許されない。それ以外の言葉を口にした者は、捕らえられ、黙らされる」

 

 王都の詩会のことだ。

 私も、噂には聞いている。王都の詩会は、型に外れた詩を認めない。韻の踏み方ひとつで、門前払いにされるという。

 

「だから、私たちは、私たちの言葉を書く。人に知られないように書いて、知られないように届ける。そして、いつか、その言葉で、この国をひっくり返す」

 

 詩壇の革命である。

 私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「ここで見聞きしたことは、決して外へ漏らさないこと。漏らせば、命はないと思って」

 

 厳しい。作品を勝手に広めた者への制裁としては、いささか厳しすぎる。

 だが、気持ちは、痛いほど分かる。私の詩の一行は、私の知らないところで広まり、弟子の短剣に刻まれ、ギルドの合言葉になり、国境を越えて、他人の二つ名になった。命を取るとまでは言わないが、正直に言えば、それに近い気持ちになったことはある。

 まったく、そのとおりだ。私は深く頷いた。

 ソフィエの目が、わずかに細くなった。

 

「あなた、何ができるの」

 

「……弓を、少々」

 

 部屋の何人かが、顔を見合わせた。昨夜の酒場の話は、もうここにも届いているらしい。

 

「十分よ」ソフィエは言った。「名は」

 私は答えなかった。

 ソフィエは、しばらく私を見ていた。それから、ふっと笑った。

 

「いいわ。名を捨てた人に、名を訊くのは野暮ね。ここでは、あなたのことを『鹿』と呼ぶ。鹿の角で四人を縫い止めた男だから」

 

 鹿。

 私は、その名を口の中で転がした。悪くない。いや、良い。偽名を考えると、どうしても詩になってしまう。だが、人につけられた名は、詩にならない。おまけに鹿には、これまで何度も救われてきた。論法で、そして角で。

 

 私は頷いた。

 ソフィエは、リリアに何か耳打ちした。「鹿は、使えるわ」と聞こえた気がした。

 使える。韻律が、だろうか。まだ一篇も見せていないのに。だが、詩人は詩人を見抜くという。鹿という名に、何か感じるところがあったのかもしれない。

 その夜、朗読はなかった。皆、黙って何かを書いたり、綴じたりしていた。作品は、ここでも人前では読まないのだ。奥ゆかしい。私は、ますますこの会が好きになった。

 

 帰りぎわ、私は壁に貼られた大きな地図に気づいた。セリグマン王国の地図だった。無数の針が刺さり、ところどころに赤い糸が渡されていた。

 会員たちの出身地だろう。赤い糸は、詩を届け合う道筋に違いない。

 この国には、こんなにも多くの、人前で読めない詩を書く者たちがいるのだ。

 二十二年、私はひとりだと思っていた。

 階段を上がりながら、私は、少しだけ泣きそうになった。今夜は、麦酒は飲んでいない。

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