寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第15章 十四枚目

 製本工房で働き始めて、五日が過ぎた。

 ソフィエは、私に仕事と寝床をくれた。昼は工房の見習い、夜は工房の屋根裏で眠る。鞄は、屋根裏の梁の陰に置いた。屋根裏。どうやら私は、どの国へ行っても屋根裏に縁があるらしい。

 

 見習いといっても、私の指は思いのほか役に立った。紙を折る。糸を通す。二十二年、弓の弦を張り替えてきた指は、紙の縁を一筋もずらさずに折り、綴じ穴に針を一度で通す。親方格の鴉は、三日目に、黙って私の肩を叩いた。言葉のない賞賛は、言葉のある賞賛より、ずっと信用できる。

 

 工房の者たちは、相変わらず作品を見せ合わなかった。誰もが黙々と紙を綴じ、ときどき地下へ降りては、思い詰めた顔で戻ってくる。地下で推敲しているのだろう。私にも覚えがある。

 その朝は、雅号を鳩という若い男が、灰色の外套を羽織って工房を出ていくのを見た。旅支度だった。詩人は、旅をするものである。

 昼過ぎに、リリアが工房へ来た。私の作業台の横に立ち、しばらく、私が紙を折るのを黙って見ていた。

 

「鹿さんの指は、弓を引く人の指ですね」

 

 私は頷いた。

 

「……何を、射てこられたのですか」

 

 私は答えを探した。岩背猪の右目。山賊の角笛。森の切り株、十四本。どれも、口に出せば説明が要る。

 黙っているうちに、リリアは目を伏せ、「いえ。訊くべきではありませんでした」と言って、工房を出ていった。何か、ひどく重いものを射てきた男だと思われた気がする。切り株だが。

 

 その日、私に任されたのは、見返し紙を折る仕事だった。

 国境の向こうの修道院へ納める祈祷書が、十二冊。その一冊ずつの表紙の裏に貼る、厚手の白い紙である。

 十二枚を数えて折り、十三枚目に手を伸ばしたところで、私は気づいた。

 十三枚目には、字が書いてあった。

 

  灰色の鳩は 三たび北の扉を叩く

  塩は七つ 麦の月の満ちる夜に

  眠る見張りの 古き井戸の道を

 

 私は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。三度、読み返した。

 詩である。

 韻を、踏んでいない。一行目と二行目の終わりは、何の響き合いもない。三行目は、文として終わってすらいない。「道を」で、突然、断ち切られている。

 そして、意味が分からない。灰色の鳩が、なぜ三度も扉を叩くのか。塩が七つとは何か。眠る見張りとは誰か。

 

 だが、分からないことが、少しも不快でなかった。

 鳩と塩と麦と井戸。どれも、手に取れるほど具体的な言葉である。それなのに、並べられると、どこにも辿り着かない。辿り着かないまま、宙に浮いている。読む者は、その宙に、自分の何かを置くしかない。

 韻を捨てている。意味を捨てている。捨てることで、読む者のために場所を空けている。

 

 私には、書けない。

 私の詩は、意味が分かりすぎる。黄昏は黄昏であり、前髪は前髪である。

 ただ一つ、「満ちる夜に」の一句にだけは、親しみを覚えた。私にも、満月の詩がある。三度目の満月の夜、風は国境を越える。満月の詩を書く者は、どの国でも、同じ病にかかっているらしい。

 

 誰の手か。字は細く、ところどころインクが青く滲んでいる。だが、ここでは誰もが雅号で呼び合い、作品を見せ合わない。詮索は、この会の作法に反する。

 問題は、なぜ見返し紙の束に紛れていたのか、である。

 

 第一に、見返し紙は、表紙の裏に貼られて、本の一部になる。

 第二に、この祈祷書は、国境の向こうの修道院へ送られる。

 第三に、修道士は毎朝、祈祷書を開く。

 

 つまりこの詩は、本の中に綴じ込まれ、国境を越え、見知らぬ誰かに、ある朝ふと読まれるために、ここに置かれたのだ。

 瓶に詰めて、海に流す手紙と同じである。

 私は紙を、元の場所にそっと戻した。十二枚の白い紙と、一枚の詩。

 胸が、うるさかった。

 

◇

 

 三度目の満月の日、俺は国境の丘にいた。

 国境の古い街道に、境の石が一本立っている。俺のいる丘から、その石まで五百と二十歩。弟子の五百歩の内側には入らない。代わりに、遠眼鏡を持ってきた。ギルド長の物置から、無断で。

 ギルド長には、満月の夜の修行だと届け出てあったらしい。ギルド長は、弓聖の教えの続きだと聞いて泣き、即座に許した。

 エレナが連れてきたのは、前に立つ者だけだった。ティモを入れて、五人。弓を持つ双子は、町に残された。朝、稽古場の前で「俺たちも行きたい」と同時に言い、同時に断られていた。

 

 事実一。後衛は、連れてこない。後ろには手を出すな。

 事実二。両脇の林に、誰も伏せていない。両脇に兵を伏せるな。

 事実三。五人は、境の石の手前に、横一列に並んだ。前衛だけで、国境の一点。

 事実四。日が沈む。黄昏時。東の山の端から、満月が昇り始めた。

 

 全部、指令どおりだ。

 遠眼鏡の中で、五人は身じろぎもしなかった。いちばん端のティモだけが、ときどき鼻をこすっていた。山から下りてくる風は冷たく、五人の外套の裾を、同じ向きにはためかせていた。

 

 遠眼鏡を握る手が、汗ばんだ。

 月が山の端を離れたころだった。

 国境の向こうの街道を、一人の男が走ってきた。灰色の外套。何度も振り返り、足をもつれさせながら、境の石を目指している。

 その後ろから、騎馬が来た。十二騎。月の光に、肩の徽章が光った。セリグマンの国境警備隊だ。

 遠眼鏡の中で、エレナの唇が動いた。声は届かない。だが、形で分かった。

 

 ――風よ。

 五人が、目を閉じた。

 灰色の外套の男が、五人の脇をすり抜け、境の石を越えた。

 

 ――我が前髪のみを。

 五人が、一歩、踏み出した。境の石の真横、国境の線の上に、剣を抜いて横一列。

 

 騎馬が、止まった。

 先頭の騎手が手綱を引き、馬が棹立ちになった。五人は動かない。目を閉じたまま、剣先ひとつ揺らさない。山からの風が、五人の前髪だけを揺らしていた。

 騎手たちは、しばらく睨み合っていた。境の石を越えれば、国と国の揉めごとになる。それを越えさせなかったのは、五本の剣ではなかった。目を閉じたまま立つ五人の、異様な静けさだった。

 やがて、十二騎は向きを変え、来た道を戻っていった。

 「揺らせ」は、最後まで唱えられなかった。

 灰色の外套の男は、こちら側の林へ駆け込み、消えた。

 

 俺は、遠眼鏡を下ろした。

 三度目の満月の夜。黄昏。前衛だけが国境の一点に立ち、向こうの騎馬を止めた。その陰を、一人の男が、国境を越えていった。

 風は、国境を越えた。

 背後で、草を踏む音がした。

 

「ルカさん」

 

 エレナだった。五百二十歩を、いつの間に。

 

「見ておられたのですね」

 

 俺は、頷くしかなかった。

 

「教えのとおりに、動いただけです。後ろは揺らさず、両脇には伏せず、前に立つ者だけで。……向こうの方々は、引いてくださいました。剣を、一度も振らずに」

 

「追われていた男は、何者だ」

 

「分かりません。でも、怯えていました。助けを求める者の足音でした。境のこちらへ来たのなら、もう追われる理由はないはずです」

 

 エレナは、少し間を置いてから続けた。

 

「ルカさんの読みのおかげです。後ろを揺らさず、両脇に伏せず。あの教えがなければ、私は弓の二人も連れてきて、向こうの方々と矢を交えていたかもしれません」

 

 俺の読みが、この弟子を国境に立たせた。そして、この弟子は、それを礼として言っている。

 俺は、何も答えられなかった。

 息を切らして、ティモが丘を登ってきた。

 

「エレナさん! 向こうの騎手、エレナさんを見て『前髪の剣姫だ』って言ってましたよ! 風読みだって、あれほど言ってるのに!」

 

 エレナは、少しだけ困った顔をした。それから、月を見上げて、小さく言った。

 

「変化は、境を選ばないのですね」

 

 五人が町へ引き上げたあと、俺はひとりで境の石まで下りた。月明かりの街道に、蹄の跡が乱れていた。石の根元に、灰色の羽根が一枚、落ちていた。鳩の羽根だった。あの男の外套から抜け落ちたものかもしれない。俺は、それを手帳に挟んだ。

 その夜、手帳に書いた。

 

 ――三度目の満月。黄昏。前衛のみ、国境の一点に前進。セリグマンの騎馬十二を、剣を振らずに退ける。灰色の外套の男、一名、越境。

 

 ――「風」、国境を越える。境の石に、灰色の鳩の羽根。

 

 ――指令は、実行された。実行した本人たちは、それを修行と呼んでいる。

 

◇

 

 その夜、屋根裏の小窓から、大きな満月が見えた。

 私は窓辺で第十四冊を開き、羽ペンを握ったまま、一刻、動けずにいた。

 返歌を書こうとしていたのである。

 

 二十二年、私は詩を書いてきた。千を超える詩を書いた。だが、誰かに宛てて書いたことは、一度もない。宛てる相手がいなかったのではない。宛てれば、読まれる。読まれれば、私が詩人であることが知られる。だから、私の詩は、いつも誰にも宛てられていなかった。

 規則がある。私の詩は、誰にも見せない。

 規則を破らずに返歌を書く方法を、私は検討した。

 

 第一に、返歌に名は記さない。雅号すら記さない。

 第二に、返歌は見返しの裏に綴じ込まれ、国境を越え、見知らぬ修道院の、見知らぬ誰かの手に渡る。その誰かは、私の顔を知らない。

 第三に、あの詩の作者もまた、名を記していない。名のない詩に、名のない詩を返す。それは、見せることではない。風が、風に応えるようなものだ。

 

 三つの理由が揃った。三は、美しい数である。

 最初の下書きは、十二行になった。黄昏が三回出てきた。削った。二度目の下書きは、八行になった。宿命が二回出てきた。宿命は一篇に一度までと決めている。削った。あの詩は、三行しかない。返歌が長すぎては、礼を失する。

 窓の外の満月を、私は見上げた。そういえば、あの町を出てから、満月を見るのは初めてかもしれない。いや、数えてはいない。満月の数を数えるのは、詩人ではなく、暦屋の仕事である。

 四度目の下書きで、羽ペンが止まらなくなった。

 

  鳩よ 急ぎて扉を叩くな

  眠る見張りも 夢にて見ている

  塩は涙に 麦は灰に

 

  ――汝の歌は、すでに風に聞かれたり

 

 第一行は、あの詩の鳩への呼びかけである。そんなに急いで、三度も扉を叩かなくていい。詩は、急がなくても届く。

 第二行。眠っている見張りも、夢の中では見ている。人知れず書かれた詩も、思っているより多くの者の目に触れている、という意味である。私の一行が、そうであったように。

 第三行。塩は涙に、麦は灰に。あの詩の、意味の分からない具体物に、私なりの意味を与えてみた。塩は涙の味がする。麦は刈られ、焼かれ、灰になる。あなたの詩を、悲しみの詩として読ませてもらった、という返事である。

 第四行。あなたの歌は、もう風に聞かれている。

 風とは、私のことだ。

 我は、風に選ばれし者。二十代の私が書いた一行を、ひそかに忍ばせた。気づく者は、いないだろう。気づかれなくていい。届いた、ということだけが伝わればいい。

 

 満月が窓の真ん中に来たころ、私は梯子を降りた。

 暗い工房を、手探りで進む。見返し紙の束は、作業台の端にあった。十二枚の白い紙と、一枚の詩。

 私は、あの詩の下に、自分の返歌を、そっと差し込んだ。

 

 十四枚目。

 十四という数には、縁がある。

 梯子を上がりながら、思った。二十二年で初めて、私の詩が、私の手を離れていく。今度は、自分の意思で。

 悪くない。いや――

 良い、と言い切るには、まだ胸がうるさすぎた。

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