寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第16章 風を探せ

 満月の夜が明けた朝、私は北の森の入口で目を閉じていた。

 師匠が旅立たれてから、夜明けの森の入口が私の稽古場になった。風に、気をつけろ。風の中の変化を、ひとつ残らず拾う。毎朝、ひとつずつ、拾えるものが増えていく。

 その朝の変化は、ひとつだった。

 

 森の奥、倒木の下で、浅く速い息がしている。熱のある息だ。昨夜、境の石を越えていった足音と、同じ人だった。

 倒木の陰に、灰色の外套の若い男がうずくまっていた。足首が、ひどく腫れている。私の気配に気づくと、男は震える手で小刀を抜いた。

 私は、剣を抜かなかった。怯えている人に、剣は要らない。

 

「足を、見せてください」

 

 男は答えなかった。小刀を構えたまま、私の顔をじっと見ていた。しばらくして、小刀の先が、ゆっくりと下がった。

 名を訊こうとして、やめた。名乗らない人に、名を訊くつもりはない。黙っている人には、黙っている理由がある。師匠が、そうだった。

 私は男を背負った。男は軽かった。師匠の背中の鞄よりも、ずっと。

 ギルドに戻ると、ギルド長は事情も聞かずに言った。

 

「エレナが拾ってきたなら、客だ」

 

 男は、宿舎の空き部屋に寝かされた。熱は高く、足首は添え木が要った。若手たちが代わる代わる覗きに来ては、ティモさんに追い払われた。ティモさんは早くも男を「灰色さん」と呼んでいて、ハンスさんとフリッツさんにも、同時にそう呼ばれていた。

 私は男の足首に添え木を当て、薄い麦粥を匙で口に運んだ。男は最初の一匙を拒み、二匙目を黙って受け入れた。

 三匙目のあとで、男は初めて口を開いた。

 

「……境の、剣士か」

 

「はい。昨夜は、境の石におりました」

 

「……前髪の、剣姫」

 

 私は、少し困った。

 

「風読み、と呼んでくださる方もいます」

 

 男は、それ以上何も言わなかった。目を閉じ、天井に顔を向けた。黙っている顔が、旅立つ前の師匠に、少しだけ似ていた。

 昼過ぎ、ルカさんが部屋に来た。

 ルカさんは、戸口で立ち止まった。視線が、男の外套の襟に止まっている。襟には、灰色の鳩の羽根が二枚、飾り紐で留めてあった。三枚目の場所だけが、空いていた。

 

「昨夜、ルカさんが境の石で拾われた羽根と、同じ色ですね」

 

 ルカさんの顔から、色が引いた。

 この方の身を、案じておられるのだ。昨夜、遠くから見ておられた方なのだから。

 夕方、男は熱にうなされて、何かを呟いた。

 

「……三たび……北の扉を……」

 

 私は、聞かなかったことにした。眠っている人の言葉は、その人が見せようとした言葉ではない。

 戸口の向こうで、ルカさんの羽ペンが、紙の上を走る音がした。

 しばらくして、ルカさんが部屋の外から、低い声で訊いた。

 

「この男を、どうする」

 

「足が治るまで、ここにいていただきます」

 

 ルカさんは、それきり何も言わなかった。羽ペンの音だけが、もう一度、短く鳴った。

 

◇

 

 祈祷書は、夜明けに送り出された。

 国境の向こうの修道院から来た荷車が、十二冊を積んで、まだ暗い路地を出ていった。私は屋根裏の小窓から、それを見送った。七冊目か、八冊目か。どれかの見返しの下に、あの詩と、私の返歌が眠っている。

 荷車の轍の音が遠ざかるまで、私は窓辺を離れなかった。

 

 瓶は、海に流された。どこの浜に流れ着くのか、誰が拾うのか、私には分からない。分からないことが、これほど心地よいとは知らなかった。二十二年、私の詩は屋根裏と森から一歩も出なかった。今朝、初めて、国境へ向かって出ていったのである。

 

 問題が起きたのは、昼だった。

 地下から上がってきたソフィエが、作業台の鴉に何か訊いた。鴉は、のんびりと答えた。

 

「ああ、二枚とも七冊目に綴じたよ。見返しの下に、重ねてな」

 

「……二枚?」

 

 ソフィエの顔から、血の気が引いた。

 彼女は工房の隅へ走り、反故紙の籠をひっくり返した。

 反故紙の籠。私の下書きの捨て場所である。

 下書きは燃やす。それが私の規則だ。だが、屋根裏に暖炉はない。そこで私は、昨夜の下書き四枚を、丸めて反故紙の籠に入れておいた。清書したほうは、見返し紙の束の中である。反故紙は翌朝には裁断され、糊の下張りになる。燃やすより確実な消滅である、と私は判断した。

 

 ソフィエは、散らばった紙屑の中から、丸めた紙を一枚拾い上げた。四度目の下書きだった。清書の、一つ手前である。広げて読み、ゆっくりと顔を上げた。指先が、震えていた。

 あれほど震える詩人を、私は初めて見た。

 自作に、見知らぬ者から返歌を差し込まれた詩人は、こんなにも震えるものなのか。分かる。私も、自分の一行が弟子の短剣に刻まれているのを見たとき、同じように震えた。

 

 規則は、一つ破ると、必ず報いがある。

 私は紙を折る手を止めずにいた。止めれば、怪しまれる。弓手の指は、動揺しても震えない。二十二年の鍛錬は、こういうときのためにあったのかもしれない。違うと思うが。

 

 字は、照らし合わされるだろうか。私の字が書かれた紙は、この世に十四冊の詩帳しかない。その詩帳は、この屋根裏の梁の陰にある。誰も、私の字を知らない。

 その夜、地下に全員が集められた。鳩だけがいなかった。昨日の朝に旅に出たきり、戻っていないという。

 ソフィエは、丸めた跡の残る紙を、蝋燭の前で広げた。

 

「これを書いた者が、この中にいる」

 

 そして、読み上げた。

 

「鳩よ、急ぎて扉を叩くな。眠る見張りも、夢にて見ている。塩は涙に、麦は灰に。――汝の歌は、すでに風に聞かれたり」

 

 私の詩が、朗読された。

 二十二年で、初めてのことだった。十人の前で、他人の声で。

 ソフィエの声は、悪くなかった。第三行の「灰に」の落とし方が、私の想定より半拍早かったが。

 地下は、静まり返っていた。

 

「鳩を止めろ、ということね」

 

 口火を切ったのは狐だった。

 

「鳩が北の扉を三たび叩く手筈を、こいつは知っている」

 

「眠る見張りも見ている」鴉が唸った。「国境の見張りは眠っとらん。井戸の道は、見られておる」

 

「塩は涙に、麦は灰に」リリアが、低い声で言った。「計画は涙で終わる。麦の月は、灰になる」

 

「汝の歌は、すでに風に聞かれたり」ソフィエが、紙を見下ろした。「私の書いた言葉は、もう読まれている。『風』という何者かに」

 

 違う。

 第一行は「詩は急がなくても届く」であり、第二行は「人知れず書いた詩も読まれている」であり、第三行は「悲しみの詩として読んだ」であり、第四行の風は私である。

 一行も、合っていない。

 

 だが、十人の詩人が、私の詩の一行一行を、これほど真剣に読み解いている。その事実に、私は少しだけ胸を打たれていた。

 

「昨夜、国境で、灰色の外套の男が警備隊に追われて、向こうへ逃げたそうだ」狐が続けた。「境の向こうでは、イァーリの剣士たちが待ち構えていたらしい。前髪の剣姫とやらが」

 

 私は、むせた。

 なぜエレナが、国境にいるのか。分からない。分からないが、今それを考える余裕はなかった。

 詮議が始まった。

 最初に疑われたのは、鴉だった。七冊目に二枚を綴じたのは鴉である。だが鴉は、黙って紙に「鴉」と書いてみせた。字は、象形文字に近かった。あの流麗な返歌を書ける手ではない。鴉は放免された。

 

 次に、狐。青く滲むインクを使うのは誰か、という話になった。狐のインクは黒かった。放免された。

 私は、黙っていた。

 蝋燭の向こうで、リリアが一度だけこちらを見た。私が身じろぎもしないのを確かめて、すぐに目を伏せた。動じない人だ、と思われた気がする。動じていないのではない。動けないのである。

 私はこの工房で、まだ一字も書いていない。折って、綴じただけだ。字を見せたことのない者は、字で疑われない。

 

「鳩よ」と、誰かが言った。

 

「鳩だ。昨日の朝から戻らない。紙を書き残して、自分は国境の向こうへ逃げた。イァーリの剣士が待ち構えていたのは、鳩が知らせていたからだ」

 

 地下の空気が、鳩という一点に向かって固まり始めた。

 鳩には申し訳ないと思った。だが、作法を破った返歌の作者として名乗り出れば、口外の掟がどう適用されるか分からない。命はない、とソフィエは言った。比喩であってほしいが、確かめる勇気はない。

 ソフィエが、私を見た。

 

「鹿。あなたは、どう思う」

 

 言うべきことは、あった。

 

 ――風というのは、私のことで、つまり、その詩を書いたのは私で、作法を破ったことは詫びるが、決して悪意は。

 

 長い。削る。「私のことで」は自白である。削除。「書いたのは私で」も自白である。削除。「詫びる」は、何を詫びるのかを問われる。削除。

 残ったのは、一語だった。

 

「……風、か」

 

 蝋燭の炎が揺れた。誰かが息を呑んだ。

 

「風……」リリアが繰り返した。「国境の向こうに、『風』と名乗る者がいる」

 

「鹿の言うとおりよ」ソフィエが紙を握りしめた。「書いたのは鳩でも、読ませたのは『風』。鳩は、『風』に通じていた」

 

 ソフィエは、全員を見回した。

 

「風を探しなさい。どんな手を使っても」

 

 詮議は、そこで終わった。

 梯子を上がり、屋根裏の暗がりに横になって、私は天井を見上げた。

 風を探せ、と言われた。

 探す必要はない。ここにいる。

 ……言えないが。

 

◇

 

 祈祷書十二冊が丘の上の修道院に届いたのは、満月から二日後の朝だった。

 わしは院長室の扉に閂をかけ、七冊目の見返しを、小刀で静かに剥がした。

 この修道院が国境の向こうと文を交わすようになって、二年になる。祈祷書の見返しの下は、誰も剥がさない。修道士は祈祷書を開いても、表紙の裏までは見ないものだ。

 あの方の詩は、いつもどおりそこにあった。灰色の鳩は、三たび北の扉を叩く。塩は七つ、麦の月の満ちる夜に。わしにだけ、意味の分かる詩だ。

 

 だが、鳩は来なかった。

 満月の夜、わしは北の扉の内側で、夜明けまで待った。扉は、一度も叩かれなかった。

 見返しの下には、もう一枚、紙が重ねてあった。あの方の字ではない。整った、少し気取った字だった。

 

 鳩よ、急ぎて扉を叩くな。

 眠る見張りも、夢にて見ている。

 塩は涙に、麦は灰に。

 ――汝の歌は、すでに風に聞かれたり。

 

 わしは、紙を取り落としそうになった。

 鳩は来なかった。来なかったのではない。止められたのだ。見張りは眠っていなかった。わしらの歌は、すでに何者かに聞かれている。

 

 風。

 何者だ。

 朝の鐘が鳴り終わったころ、丘の下の町から、いつもの声が聞こえてきた。傭兵ギルドの若い者たちが、毎朝、稽古場で唱える文句だ。この丘まで、風に乗って届く。

 

 ――風よ、我が前髪のみを揺らせ。

 

 ひと月ほど前から、毎朝聞こえるようになった。わしは今まで、若い者の他愛ない掛け声だと思っていた。町の噂では、あのギルドの弓の名人が、旅立つ前に残していった教えなのだという。名人は黙って町を去り、行き先は誰も知らない。

 

 風よ。

 わしは、窓から町を見下ろした。稽古場の庭で、若い傭兵たちが、目を閉じて剣を振っている。その真ん中に、前髪だけを風に揺らして立つ娘がいた。

 

 あの者たちが、風か。

 わしは祈祷書を閉じ、新しい紙を一枚取り出した。国境の向こうの、あの方への返事だ。いつもなら、詩の形に整えるのに半日かける。

 今日は、一行で足りた。

 ――風に、気をつけよ。

 祈りの形に組んだ手が、まだ震えていた。

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