寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
詮議のあと、工房の空気は変わった。
団員たちは、昼は紙を綴じ、夜は町へ出て「風」の噂を拾い集めた。酒場で、市場で、関所の前で。風と名乗る者を知らないか。風という符丁を聞いたことはないか。狐は私にも訊いた。私は黙っていた。狐は、私の沈黙に何かを読み取ったらしく、深く頷いて去っていった。何を読み取ったのかは、知らない。
リリアは、毎日、昼に黒パンを持ってきた。何も言わずに作業台の端に置き、私が紙を折るのを少しだけ見て、帰っていく。礼を言う間もない。黒パンは、いつも半分に割ってあった。
返事が来たのは、詮議から四日後のことだった。
丘の上の修道院から、修繕に出す古い祈祷書が三冊、荷車で届いた。その一冊の見返しの下に、紙が一枚、挟まっていた。
その夜、地下に全員が集められた。
ソフィエは蝋燭の前に立ち、紙を広げた。短い。遠目にも、一行しかないのが分かった。
「修道院からの返事よ」
そして、読み上げた。
「――風に、気をつけよ」
私は、凍りついた。
北門の朝。三歩の距離に立つ弟子。削りに削って、最後に残った一語と、注意を促す言葉。
――風に、気をつけろ。
あれは、私がエレナに残した、別れの言葉である。
それが、国境の向こうの修道院から、私の詩への返事として、ここに戻ってきた。
私の内部で、会議が開かれた。議場は、開会と同時に傾いた。
仮説一。修道院に、エレナがいる。ありえない。エレナは剣士である。祈祷書の見返しに文を忍ばせる趣味はない。
仮説二。北門のあの朝、誰かが聞いていた。十三人の若手と、門番の老人が聞いていた。私の一言は、あの町で何かになり、丘の上まで届いたのかもしれない。私の一行が、合言葉になったように。
仮説三。偶然である。風に気をつけろ、という言い回しは、山の国ではありふれている。
仮説三を採用しようとした。耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。鹿の論法である。
だが今夜、鹿は立ち上がらなかった。立ち上がる前に、私のほうが座り込んでしまったのである。
「修道院の丘の下には、町がある」ソフィエが言った。「イァーリという傭兵ギルドの町よ。鳩が逃げた先の国境にも、イァーリの剣士たちが待ち構えていた。前髪の剣姫とやらが率いて」
地下が、ざわめいた。
「修道院の院長は、怯えている。院長が気をつけろと言う『風』は、あの町にいる」
いない。ここにいる。
ソフィエは、私とリリアを順に見た。
「鹿、リリア。イァーリの町へ行って。『風』の正体を突き止めなさい。鳩があの町にいるなら、連れ戻すか」
ソフィエは、少しだけ間を置いた。
「黙らせるか」
地下の誰も、何も言わなかった。私も、何も言えなかった。
「修道院へ届ける祈祷書を、二人に持たせる。製本工房の使いとして行けば、関所は通れるわ」
リリアが、静かに頷いた。私は、頷く前に、一度だけ天井を見た。
イァーリ。
私が、十三往復して、詩帳を運び出して、腰を痛めて、夜明けの北門から逃げ出してきた町である。
断る理由は、三つあった。
第一に、あの町の全員が、私の顔を知っている。
第二に、あの町には、エレナがいる。
第三に、あの町には、マルタがいる。マルタに見つかれば、昼までに町じゅうが知る。
断れない理由も、一つあった。口外の掟に逆らった者は、命はない。
一つが、三つに勝った。三は美しい数だが、命の前では、美しさは二の次である。
その夜、私は屋根裏で、工房の裁ち鋏を手に、鏡の欠片の前に座った。
変装の手段を、私は検討した。
付け髭。工房に、膠と馬の毛はある。だが、膠で貼った髭は、汗で落ちる。山道で落ちれば、それは変装ではなく事件である。
眼帯。片目では、弓が引けない。
訛り。私は、しゃべらない。訛りの出しようがない。
頭巾。峠で一度、風に飛ばされている。
残るは、前髪だった。
二十年、物憂げに揺れるためだけに伸ばしてきた前髪である。風よ、我が前髪のみを揺らせ。私は、契約の条項を思い出した。揺らすべき前髪がなくなれば、契約は成り立たない。
鋏が、鳴った。
契約は、私の側から、一方的に破棄された。
さらば前髪 風の友
汝なくして 我は誰ぞ
――鏡よ、答えるな
翌朝、工房の前で待っていたリリアは、私の額を見て、しばらく言葉を失った。
「……覚悟を、なさったのですね」
覚悟ではない。変装である。だが、否定する言葉を探しているうちに、リリアはもう歩き出していた。
◇
僕は、鳩と呼ばれている。
イァーリの宿舎に担ぎ込まれて、三日が過ぎた。足首の腫れは引き、壁伝いなら歩けるようになった。若い傭兵たちは僕を「灰色さん」と呼び、朝夕に麦粥を運んでくる。剣姫は、何も訊かない。名も、どこから来たのかも、なぜ追われていたのかも。
訊かれないことが、いちばん恐ろしかった。
僕がソフィエさんの使いになったのは、去年の冬だ。兄が、国境警備隊に言いがかりをつけられて連れて行かれ、そのまま戻らなかった。ソフィエさんは、言葉でこの国を変えると言った。僕は、言葉を運ぶ役を引き受けた。文を運ぶ者は、鳩と呼ばれる。
廊下の向こうでは、手帳を持った痩せた男が、ときどき僕を見ていた。目が合うと、男は何かを書きつけて、去っていった。
三日目の夜、僕は宿舎を抜け出した。
足を引きずって丘を登り、修道院の北の扉を、三たび叩いた。満月の夜に叩くはずだった扉だ。
扉が、細く開いた。院長の顔は、蝋燭の明かりの中で、ひどく青ざめていた。
「鳩か。なぜ、ここへ来た」
「満月の夜に、来られませんでした。国境で、追われて」
「知っておる。お前は、止められたのだ」
院長は、震える声で、祈祷書に綴じ込まれていたという一枚の詩のことを話した。鳩よ、急ぎて扉を叩くな。眠る見張りも、夢にて見ている。汝の歌は、すでに風に聞かれたり。
「風とは、何者です」
院長は、丘の下の町を指さした。
「お前が寝泊まりしている、あの者たちだ。毎朝、風よ、と唱えておる。ここには置けん。風に見られている者を、置くわけにはいかん。戻れ。何も気取られるな」
扉は、閉ざされた。
宿舎に戻ったのは、夜明け前だった。裏口に、小さな灯りが一つ、置かれていた。僕が出ていったときには、なかった灯りだ。
出ていったことも、戻ってくることも、知られていた。
僕は灯りの横を、息を殺して通り過ぎた。
朝、稽古場の声で目が覚めた。
窓の下の庭で、若い傭兵たちが、目を閉じて剣を振っていた。二十人はいる。声を揃えて、唱えていた。
「――風よ、我が前髪のみを揺らせ」
風よ。
僕は、寝台の上で動けなくなった。
ここが、風の巣か。
庭の真ん中に、剣姫が立っていた。目を閉じ、若い者たちの剣の音を聞いている。やがて目を開け、静かに言った。
「今日も、風に、気をつけなさい」
若い者たちが、声を揃えて答えた。
「はい!」
風に、気をつけよ。院長が、震えながら口にした言葉だ。それを、風の者たちが、毎朝の挨拶のように言い交わしている。
分からない。何も分からない。だが、一つだけ分かったことがある。
僕は今、風の巣の真ん中で、風の者たちに粥を食べさせてもらっている。
逃げれば、気取られる。院長は、何も気取られるなと言った。
僕は、足が治らないふりを続けることにした。
昼過ぎ、灰色さん、灰色さん、と言いながら、ティモという若い傭兵が部屋に入ってきた。誰も頼んでいないのに、寝台の横の椅子に座り、あの合言葉の由来を話し始めた。
「弓聖さまの教えなんですよ。風よ、我が前髪のみを揺らせ。弓聖さまは、この町でいちばんの弓の名人で、黙ったら次の矢で終わる方でした。剣姫さまのお師匠です。ひと月前に、黙って旅に出られて。最後に北門で、剣姫さまにひとことだけ残していかれたんです。風に、気をつけろ、って」
風に、気をつけろ。
風の長が、最後に残した言葉。
「どこへ、行かれたのですか」
「誰も知りません。国境のほうへ向かわれた、って噂ですけど。背の高い、無口な方でした。でかい鞄を背負って」
背の高い、無口な男。
工房にも、一人いる。鹿さんだ。僕が旅に出る数日前に入ってきた、紙を折る人。
……まさか。鹿さんは、紙を折る人だ。
僕は、その考えを、粥と一緒に飲み込んだ。
夕方、剣姫が粥を運んできた。
「昨夜は、よく眠れましたか」
「……はい」
剣姫は、それ以上何も訊かなかった。
やはり、それがいちばん恐ろしかった。
◇
国境を越えるのに、二日かかった。
私は、関所で生業を訊かれ、「……紙を、少々」と答えた。リリアは、製本工房の使いだと名乗った。修道院へ祈祷書を届けに行く、という名目である。鞄は、工房の屋根裏に置いてきた。十四冊の詩帳と離れるのは、二十二年で初めてだった。背中が軽すぎて、何度も後ろを振り返った。
道中、リリアは一度だけ、自分のことを話した。
「この国で、言葉を奪われた人を、何人も見てきました。言ってはいけないことを言った人は、いなくなる。だから私は、言葉を運ぶ側にいることにしたんです」
それから、私を見た。
「鹿さんは、なぜ」
私は黙っていた。言えないことしか、なかったからである。
「……言えないことが、あるのですね」
リリアは、それ以上は訊かなかった。この人は、訊かないことの重さを知っている。エレナと同じように。
国境の古い街道で、私たちは境の石の脇を通った。石の手前の土に、足跡が残っていた。横一列に、五人分。その半歩後ろに、もう一人分。人の通らない古道で、雨も降っていないので、まだ崩れていない。
「満月の夜、ここで前髪の剣姫が、警備隊の騎馬を止めたそうです」とリリアが言った。
私は、半歩後ろの、他より少し小さい足跡を、しばらく見下ろしていた。
三日目の夜明け、私たちは、修道院へ続く丘の道に立っていた。
眼下に、町があった。
酒場の角。鍛冶屋の煙突。北門。宿舎の屋根。屋根裏の小窓。
逃げ出してから、まだひと月も経っていない。
朝の鐘が鳴り終わったころ、町から声が上がってきた。
「――風よ、我が前髪のみを揺らせ」
リリアが、外套の襟を握りしめた。
「……あれが、風の」
私は、答えなかった。答えられなかった。
声は、ひと月前よりずっと大きく、ずっと揃っていた。若手の数が、増えている。私の一行は、私がいないあいだも、毎朝この町で唱えられ続けていたのである。
丘の上を、朝の風が吹き抜けた。
風は、私の額を、素通りしていった。
揺らすものが、何もなかった。
稽古場の庭が見えた。二十人ほどの若手が、目を閉じて剣を振っている。その真ん中に、一人だけ、剣を振らずに立っている者がいた。
エレナだった。
千歩は離れている。顔までは見えない。だが、立ち姿で分かった。十年、毎日見てきた背中である。
エレナが、ふと、顔を上げた。
こちらを向いた。
目は、閉じたままだった。