寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
修道院の客間に、私とリリアは泊まった。
祈祷書を受け取った院長は、蝋燭のように青い顔をしていた。リリアが「風」の噂を訊くと、黙って窓の外の町を指さした。それ以上は、何も言わなかった。言えなかったのだと思う。私にも覚えがある。
鳩は、ギルドの宿舎にいるという。
「明日、町へ降ります」とリリアは言った。「鹿さんは、ここで待っていてください」
私は頷いた。頷く以外に、できることがなかった。
翌朝、客間の窓から、私は町を見下ろしていた。
宿舎の屋根の端に、小さな窓が一つある。私の部屋の、真上の屋根裏だ。二十二年分の詩帳を隠していた場所である。今は、空っぽのはずだった。空っぽの屋根裏を、外から見るのは初めてだった。思っていたより、小さかった。
稽古場では、若手たちが目を閉じて剣を振っていた。その真ん中に、エレナが立っていた。昨日の朝、あの子はこちらへ顔を向けた。今朝は、向けなかった。私は、窓から一歩下がった。
リリアが町へ降りる支度をしているうちに、空の色が変わった。
嵐は、その日の昼に来た。
山の吹き下ろしが、秋の終わりに何年かに一度だけ見せる顔がある。空が鉛色に沈み、風が向きを決めずに暴れ、雨が横から叩きつける。町の古老は「山が怒った」と言う。私は二十二年この町にいて、二度しか見たことがない。
窓の外で、町の屋根が一枚、空へ剥がれていった。
リリアが、外套を掴んで立ち上がった。
「今なら、誰も他人の顔など見ていません。鳩を探しに行きます」
止める言葉を探しているうちに、リリアは扉を開けていた。私は、その背中を追った。理由は、自分でもよく分からない。
丘を駆け下り、町に入った。風は、人の言葉を千切っていく。私は頭巾を両手で押さえた。前髪がないので、額に雨が直接当たる。前髪とは、雨よけでもあったのだ。失って初めて知る。
角を曲がったところで、ギルド長のバルドが、私の三歩横を走り抜けていった。濡れた髭から雨を滴らせ、誰かの名を叫びながら。こちらを一瞥もしなかった。前髪がないと、人は人を見分けられないものらしい。変装は、成功している。成功していることが、なぜか少し寂しかった。
鍛冶屋の裏の薪小屋に、私たちは身を寄せた。板壁の隙間から、町の大通りと、その先の広場が見えた。
そこに、エレナがいた。
大通りの真ん中を、目を閉じたまま走っていた。飛んでくる瓦を、身を傾けただけで避け、倒れてくる樽を、肩で受け流す。その後ろを、若手たちが、合図ひとつで散り、また集まる。
「東の三軒目、梁が鳴っています。中の人を出して」
ティモとハンスが飛び込み、老人を一人抱えて飛び出した。三つ数えたところで、三軒目の屋根が、音を立てて落ちた。
「酒場の看板」
エレナが、短く言った。
次の瞬間、マルタの酒場の看板が、蝶番ごと千切れて宙を舞った。その下を、雨の中で泣いていた子どもが歩いていた。エレナは、子どもを抱え上げるより先に、片手で看板を空中から掴み取っていた。掴み取ってから、子どもを抱えた。順番が、逆である。逆であるのに、間に合っている。
酒場の扉から、マルタが飛び出してきて、前掛けで子どもを包んだ。前掛けは、今日は涙ではなく雨で濡れていた。
北門の門扉が、蝶番を鳴らした。一度目は軋み、二度目は悲鳴だった。その真下に、門番の老人が閂を押さえて立っていた。二十二年、夜ごと私を黙って通してくれた老人である。
エレナは、三度目の悲鳴より先に、門の下へ滑り込んでいた。老人の腰を抱えて転がり出た瞬間、門扉が、二人のいた石畳に倒れ伏した。
私は、薪小屋の板壁に、指を食い込ませていた。
飛び出そうとしたのだと思う。弓はない。関所で「紙を、少々」と答えた男が、弓を背負っているわけにはいかなかった。弓のない私に、できることは何もなかった。
それに、あの子は、私を必要としていなかった。
師の手を離れた弟子が、師を必要としない。それは、師にとって、最上の誇りである。誇りであるはずだ。胸の奥が少し痛むのは、雨が冷たいせいである。
薪小屋の陰で、リリアが息を呑んだ。
「……あれが、前髪の剣姫」
私は、答えなかった。
知っている。十年、見てきた。だが、私の知っているエレナは、ここまでではなかった。私がいなくなってからの、ひと月足らずのあいだに、あの子は、私の知らないところまで行ってしまったのだ。
そのとき、広場の真ん中で、風が渦を巻いた。
つむじ風、と呼ぶには大きすぎた。収穫祭の舞台に使った板を巻き上げ、荷車を一台、軽々と持ち上げ、灰色の柱になって、ゆっくりと動き始めた。
向かう先には、ギルドの宿舎があった。その隣には、町の子どもたちが逃げ込んだ礼拝堂がある。
若手たちが、足を止めた。誰も、動けなかった。ティモが何か叫んだが、声は風に千切られて、こちらまでは届かなかった。灰色の柱は、通り道の柵を一つずつ呑み込みながら、宿舎の軒先まで、あと百歩に迫っていた。
エレナだけが、歩き出した。
灰色の柱の正面に立った。百歩ほど先の私からも、その小さな背中が見えた。
エレナは、腰の短剣を抜いた。
七年前、初めての依頼の朝に、私が黙って握らせた短剣だった。あの子がそれを人に向けて抜いたところを、私は一度も見たことがない。守り刀として持たせたのだから、それでいい。その短剣を、今、あの子は風に向けて抜いた。
刃の根元が、光った。
青白い光だった。雨の中で、そこだけが、夜明けのように明るかった。光っているのは、刃の根元に刻まれた文字だった。
私の一行だった。
エレナは、光る短剣を胸の前に掲げ、目を閉じたまま、はっきりと言った。
「――風よ、我が前髪のみを揺らせ」
そして、灰色の柱の芯へ、短剣を突き入れた。
風が、聞いた。
そうとしか、言いようがない。
荷車が、落ちた。板が、落ちた。唸りが、ひとつずつ消えていった。灰色の柱は細くなり、人の背丈ほどになり、腕の太さになり、指の太さになり、一筋の糸になった。
最後に残った一筋の風が、エレナの額に回り込み、前髪だけを、そっと揺らした。
町が、静まり返った。
雨は、まだ降っていた。だが、まっすぐに降っていた。風が、どこにもなかった。
私の内部で、会議は開かれなかった。議員が全員、見とれていたからである。
風よ、我が前髪のみを揺らせ。
二十代の終わりに書いた一行である。十年かけて、一度も叶わなかった契約である。峠でも、北門でも、風は私の言うことなど聞かなかった。あの朝、鞄が風除けになって、ようやく一度だけ守られた。
その契約が今、私ではなく、弟子の手の中で、完全に履行された。
あの短剣には、何かが付与されていたらしい。付与とは、刻まれた言葉に力を与える術である。つまり、私の一行が、そのまま命令になったのだ。
私の詩が、風を従えた。
私の詩に、生まれて初めて、意味があった。
隣で、リリアが震える声で言った。
「……風を、従えた。あの人が、風」
違う。風を従えたのは、私の詩である。
……言えないが。
薪小屋の隙間から吹き込んだ雨が、私の額を打った。揺らすべき前髪は、もうなかった。
鍛冶屋の裏口が、きしんで開いた。
グンターだった。煤けた顔を出し、雨の中で、まっすぐ薪小屋のほうを見た。それから、乾いた頭巾を一枚、こちらへ放り投げた。何も言わずに、扉を閉めた。
「……お知り合いですか」とリリアが訊いた。
私は、頭巾を拾って、黙ってかぶった。
◇
嵐の音は、私には、町じゅうの家の声に聞こえた。
十年、この町で暮らしてきた。どの家の梁がどんな音で軋むのか、どの屋根の瓦がどの風で鳴るのか、目を閉じれば分かる。今日は、その全部が、悲鳴を上げていた。悲鳴の大きい順に、走った。
つむじ風が広場に立ったとき、宿舎の窓の向こうで、灰色さんの息が止まりかけているのが分かった。礼拝堂の中で、子どもたちが息をひそめているのも分かった。
剣では、風は斬れない。
短剣の柄に、手が触れた。師匠からいただいたものを、山賊の血で汚したくなくて、ずっと抜かずにきた。でも、風に向けてなら、抜いていいと思った。この短剣には、風への言葉が刻んである。
短剣が光ったのは、鍛冶屋で文字を刻んだ夜以来だった。
抜いたとき、手のひらが熱くなった。刃の根元で、師匠の一行が青白く光っていた。光る理由は、分からない。分からなくていいと思った。師匠の言葉は、いつだって、私の思うより遠くまで届く。
つむじ風の芯は、静かだった。
外側はあれほど暴れているのに、芯の中では、風が迷っていた。どこへ行けばいいのか分からずに、ぐるぐると回っていた。
だから、行き先を告げた。
風よ、我が前髪のみを揺らせ。
師匠の言葉を、声に出して、風そのものに告げたのは、初めてだった。
風は、言うことを聞いてくれた。
短剣を鞘に戻すと、光は、ゆっくりと消えた。
広場に、人が集まってきた。ギルド長が、雨の中で泣いていた。泣きながら、卓もないのに何かの上に登ろうとして、ティモさんに止められていた。マルタさんが、前掛けで子どもを包んだまま泣いていた。若手たちは、泣きながら合言葉を唱えようとして、誰も声が揃わなかった。
「見たか! 風読みだ! 風を読むどころか、従えたぞ!」とティモさんが叫び、マルタさんが「前髪の剣姫さまだよ! 前髪だけが揺れてたじゃないか!」と叫び返した。二人はしばらく雨の中で言い合い、最後は抱き合って泣いていた。どちらでもいい、と思った。どちらも、師匠の言葉から生まれた名前だ。
宿舎の窓に、灰色さんの青い顔が見えた。窓枠を、白くなるほど握りしめていた。
広場の端で、ルカさんが手帳を開いていた。羽ペンを持つ手は、今日は震えていなかった。ただ、ひどくゆっくりと、何かを書いていた。
昨日の朝、丘の上に、千歩先の気配を一つ感じた。知らない人と、もう一人。もう一人のほうが、ひどく懐かしい揺れ方をしていた。私は顔を向けただけで、それ以上は確かめなかった。
私は目を閉じて、町の気配を確かめた。
崩れた三軒目の老人は、ティモさんの肩で息をしている。礼拝堂の子どもたちは、みんな無事だ。修道院の院長は、丘の上の窓辺に立ち尽くしている。
そして、鍛冶屋の裏の薪小屋に、気配が二つあった。
一つは、知らない人の気配だった。息が速い。怯えているのではなく、何かに打たれたような息だった。
もう一つは、よく知っている気配に、少しだけ似ていた。
似ているだけかもしれない。風の強い日には、気配も揺らぐ。
私は、振り返らなかった。
見せようとなさらないものを、見に行くつもりはない。
ただ、今日の風は、少しだけ、師匠の匂いがした。
その夜、帳面を開いた。
新しい頁に、師匠の一行を、もう一度書いた。その下に、小さく書き添えた。
――風は、聞いてくださる。