寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
町の北門を出て、牧草地を抜け、小川を渡った先に森がある。
昼は薪拾いの老人や木の実を探す子どもが入るが、夜になると誰も近づかない。狼が出るという噂があるからだ。実際に出る。年に二度ほど。私はそのたびに一本ずつ矢を使い、噂の維持に協力している。人が近づかない森は、詩人にとって得難い資源である。
森の奥、古い樵小屋の跡に、木々の途切れた空き地がある。かつて切り倒された木の切り株が、十いくつ、ばらばらの距離に残っている。
ここが私の書斎であり、舞台であり、射場だ。
月が出ていた。満月だった。
私は空き地の中央に立ち、詩帳を開いて手近な切り株の上に置いた。朗読しながら射るには、両手が要る。文字は月明かりで十分に読める。読めなくとも、暗記している。
儀式の手順を説明しておく。
一、詩を一行ずつ、声に出して読む。
二、行の終わり、つまり韻を踏む語を発した瞬間に、矢を放つ。
三、矢が狙った切り株の中心に当たれば、その行の拍子は正しい。外れれば、どこかに淀みがある。
詩の良し悪しは、読む者の主観に左右される。だが、矢は嘘をつかない。言葉の拍子が乱れれば呼吸が乱れ、呼吸が乱れれば弦が乱れる。これは私が二十年以上かけて確立した、客観的な推敲の手法である。
副産物として、弓の腕が上がった。
計算したことがある。十六の頃から、ほぼ毎夜、一晩に二、三十本。延べにして十万本を優に超える。人は私を天才と呼ぶが、私に言わせれば、弓聖とは推敲の残りかすにすぎない。
今夜の課題は明確だった。
数刻前にようやく埋まった三行目を、「目覚め」で止めるか、「目覚めよ」と命じるか。
私は三晩を見込んでいたが、矢に問えば一晩で済むかもしれない。
まず、「目覚めよ」から試す。
息を吸う。
「黄昏の射手は――孤独を番える」
放つ。左手前、十二歩の切り株。中心。
「放たれし矢は――我が宿命」
放つ。右奥、二十五歩。中心。
「闇よ震えよ――世界よ、目覚めよ」
放つ。正面、十八歩。
矢は、中心からおよそ指一本ぶん、左に逸れた。
私は弓を下ろし、しばらく切り株を見つめた。
やはりそうか。「よ」の一音が、拍子を一つ余らせている。命令形の力強さは魅力的だが、行全体が前のめりになる。前のめりになった詩は、矢と同じく的を外す。
もう一度、最初から。
「黄昏の射手は――孤独を番える」
中心。
「放たれし矢は――我が宿命」
中心。
「闇よ震えよ――世界よ、目覚め」
中心。先ほどの矢と、矢羽が触れ合うほどの位置に。
決まった。
三晩の予定が、一晩で片付いた。矢は偉大である。
さて、ここからが本番だ。
この詩には第二連がある。先週のうちに書き上げ、第一連の完成を待っていた。今夜、この詩は初めて、頭から終わりまで通して読まれる。
私は詩帳の頁をめくり、深く息を吸った。
断っておくが、朗読には声量の規則がある。第一連は語るように抑える。第二連の一行目で詩全体が転調するため、そこだけは最大の声量で読む。転調を声で示さない朗読は、山場のない合戦のようなものだ。
第一連を、通しで。
黄昏の射手は 孤独を番える
放たれし矢は 我が宿命(さだめ)
闇よ震えよ 世界よ目覚め(めざめ)
――我は、風に選ばれし者
四本の矢が、四つの切り株の中心に立った。
そして、転調。
私は顔を上げ、満月を正面に見据え、腹の底から声を放った。
「三度目の満月の夜――風は、国境(さかい)を越える!」
矢が夜気を裂き、もっとも遠い切り株、四十歩先の中心を射抜いた。
残りの三行は、再び声を落として。
名もなき星よ 我が名を知れ
この胸の傷は まだ癒えぬ
――黄昏は、ただ我がためにある
最後の矢が中心に立ち、森が静まり返った。
私はしばらく、その場から動けなかった。
陶酔である。第一の目的「表現」と第二の目的「陶酔」が、同時に、かつ最大値で満たされた瞬間だった。
念のため補足すると、私の胸に傷はない。古傷と呼べるものは左膝の打ち身くらいで、それも酒場の樽につまずいたものだ。だが詩人には、架空の傷が少なくとも一つは必要である。それは嘘ではない。演出である。
「三度目」の三にも理由がある。数字の三は、詩においてもっとも美しい数だ。二では足りず、四では多すぎる。「三度目の満月」とすることで、宿命が満ちるまでの時間の重みが表現される。具体的に何が満ちるのかは、私にも分からない。分からないところが、良い。
月光の下、矢の立った切り株に囲まれて立つ自分の姿を想像する。
今の私を、誰かに見てほしい、と思った。
同時に、誰にも見られてはならない、とも思った。
この二つの願いは、私の中で常に同じ強さで引き合っている。
そのとき、空き地の外れで、乾いた音がした。
小枝が折れる音だった。
私は動きを止めた。
内部で、緊急の会議が開かれた。
仮説一、鹿。この森には鹿が多い。夜に動くこともある。
仮説二、人間。この場合、朗読を聞かれた可能性がある。特に、最大声量で読んだ第二連の一行目を。
仮説二が正しかった場合、私は終わる。
検証する方法はある。音の方向へ歩いていき、確かめればいい。
だが、確かめた結果が仮説二だった場合、私は今夜眠れない。明日も眠れない。おそらく、残りの生涯にわたって眠れない。
私は論理的に結論した。耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。
鹿である。
私は矢を回収し、詩帳を懐の奥にしまい、何事もなかったように森を後にした。帰り道、鹿である可能性について、三回ほど念を押した。
三は、美しい数である。
◇
夜警の当番は、北の見張り台から森の縁を回り、小川沿いに町へ戻るのが決まりだ。
イァーリの斥候になって八年。俺はこの道筋の夜の音を、全部知っている。梟の声、小川の水音、風が枝を擦る音、狐が落ち葉を踏む音。どれも聞けば分かる。
だから、その音を聞いた瞬間に足が止まった。
トン、という乾いた音。
間が空いて、またトン。
規則正しい。獣の足音でも、枝の落ちる音でもない。矢が木に刺さる音だ。それも、狙って射た矢がまっすぐ刺さる音。
夜中の森で、誰かが矢を射ている。
俺は道を外れ、音のほうへ向かった。足音を殺すのは斥候の基本だ。木の幹から幹へ、影から影へ。
音に混じって、声が聞こえてきた。低い男の声だ。何かを、一定の調子で唱えている。言葉までは聞き取れない。唱えるたびに、トン。唱えるたびに、トン。
まるで、合図だった。
木々の隙間から、空き地が見えた。
満月の光の真ん中に、背の高い男が立っていた。
灰色がかった髪。弓。見間違えようがない。
弓聖、ミリアン・ロスだった。
俺は息を殺した。
弓聖は、空き地に散らばった切り株を一本ずつ、決まった順番で射ていた。何かを唱え、射る。唱え、射る。その矢がどれも、恐ろしいほど正確に切り株の中心に立っていく。
やがて弓聖が顔を上げ、月を見据えた。
次の瞬間、森全体に響くような声が、はっきりと俺の耳に届いた。
「三度目の満月の夜――風は、国境を越える!」
矢が闇を裂き、いちばん遠い切り株に突き立った。
俺は無意識に、一歩下がっていた。足の下で、小枝が折れた。
しまった、と思った瞬間、弓聖の動きが止まった。
俺は木の陰で身を固くした。心臓の音がうるさかった。見つかれば、どうなる。あの男は、夜の闇の中で四十歩先の切り株の中心を射抜く男だ。
長い沈黙があった。
やがて弓聖は、何事もなかったように矢を回収し始めた。そして静かに森を去っていった。
気づかれなかった。いや。
気づいたうえで、見逃したのか。
見張り台に戻るまでのあいだ、俺は頭の中で事実を並べた。斥候の仕事は、見たものを見たまま並べることから始まる。
事実一。弓聖は深夜、人の近づかない森にいた。
事実二。意味の取れない文言を、一定の間隔で唱えていた。
事実三。文言の区切りごとに、決まった順番で切り株を射ていた。
事実四。唯一聞き取れた文言は、「三度目の満月の夜、風は国境を越える」。
ここから何が導けるか。
あれは詩か。いや、違う。詩にしては意味がない。風が国境を越えるなど当たり前すぎて、詩にもならない。意味のない文章を、わざわざ夜中に、人のいない森で、矢を射ながら唱える人間はいない。
ゆえに、あれは詩ではない。
暗号だ。
では、誰に向けた暗号か。あの場には弓聖しかいなかった。ならば、音そのものが合図なのかもしれない。矢の音の数と間隔を、森のどこかで数えている者がいる。
そして、「三度目の満月」。
俺は空を見上げた。今夜は満月だ。これを一度目と数えるなら、三度目はおよそふた月後になる。
「風」は、おそらく誰かの符丁だ。その誰かが、ふた月後の満月の夜に国境を越える。
馬鹿げている、と思う自分もいた。弓聖はイァーリの柱だ。ギルド長が誰より頼りにしている男だ。
だが、俺は前から思っていた。
完璧な人間など存在しない。完璧に見える人間は、何かを隠している人間だ。
あの人は、完璧すぎる。
見張り台に戻った俺は、懐から手帳を取り出し、月明かりの下で書きつけた。
――ミリアン・ロス、要観察。
――ふた月後の満月の夜。国境。
羽ペンを置いてから少し考え、もう一行足した。
――「風」とは、誰か。