寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
嵐の翌朝、私は修道院の中庭で薪を割っていた。
客人にも仕事を与えるのが、この修道院の流儀らしい。院長は私に斧を渡すとき、目を合わせなかった。昨日から、この人は誰とも目を合わせない。
丘の下から、稽古場の声が上がってきた。「今日も、風に、気をつけなさい」「はい!」。嵐の前より大きく、よく揃っていた。
昼前に、マルタが丘を登ってきた。焼き菓子の籠を抱えて息を切らし、院長を見つけるなり、日曜の祈りで剣姫さまとあの短剣にひとこと祝福を、とまくしたてた。私は斧を振り上げたまま背を向け、頭巾を目深に引き下ろした。
「あの短剣がね、光ったんですよ、院長さま。青白く、こう、ぼうっと」
院長の顔が、蝋燭の色になった。
「刻んであるのは弓聖さまの文句でね。風よ、我が前髪のみを、ってやつ。正直、あたしにはさっぱり分からないんだけどさ。前髪だけ揺らして、どうするんだろうね」
斧が、薪の真ん中から、指一本ぶん逸れた。
どうするのか。物憂げに見えるのである。説明すれば、一言で済む。一言で、すべてが終わる。
「でもまあ、光るくらいだから、ありがたい文句なんだろうよ」
次の薪は、木目の真ん中から割れた。
「若い連中なんか、弓聖さまより剣姫さまのほうが上だって言い出してさ。弓聖さまは風に気をつけろって言っただけ、剣姫さまは風を黙らせた、ってね。あたしは、そうは思わないけどね」
マルタは前掛けで目元を押さえた。「あの方が見たら、どんなに喜んだか」
見た。薪小屋の隙間から。
マルタは私に気づいて「見ない顔だね」と言いかけたが、院長が「……工房からの、客人じゃ」と遮った。「無口な人だねえ」とマルタは言い、もう一度前掛けを目元に当てて、丘を下りていった。無口な男を見ると、誰かを思い出すらしい。
丘の下の道では、子どもたちが嵐ごっこをしていた。一人が両腕を広げてぐるぐる回り、もう一人が棒切れを掲げて叫ぶ。
「風よ、我が前歯のみを揺らせ!」
回っていた子が、目を回して倒れた。前歯は、揺らしてはいけない。
私は斧を置いた。
整理しておく。第一に、私の一行は「さっぱり分からない」と言われた。第二に、それでも「ありがたい」とされた。理由は、光ったからである。つまり、私の一行の値打ちは、光った分だけということになる。
昨日、私は、私の詩に生まれて初めて意味があったと思った。訂正する。意味があったのは、短剣のほうだった。
断っておくが、私は弟子に嫉妬しているのではない。断じて、ない。あの子は私の誇りである。嫉妬の相手は短剣である。正確には、あの鉄の塊に施された付与である。収穫祭の夜、三十八歳の弓聖は、槍使いのかぶのスープに負けた。今度は、鉄に負けた。
負けたままでいるわけにはいかない。
詩に意味を与えるのは、付与ではなく、詩人であるべきだ。そして、私には矢がある。
二十二年、私の詩は矢で推敲されてきた。「目覚めよ」で放った矢は指一本ぶん逸れ、「目覚め」で中心に戻った。矢は、どの一語が正しいかを、私より先に知っている。刃が風に命じるなら、矢は詩に答えを出す。
新しい詩を書き、矢で仕上げる。弟子の短剣が風を黙らせたように、私の矢で、私の詩に意味を与える。
問題は一つだけだった。弓がない。
◇
夕方、リリアが町から戻った。
鳩には、近づけなかったという。「宿舎の周りには、いつもあの方の気配があります。近づこうとすると、こちらを向くんです。目を閉じたまま」
代わりに、町でいろいろと聞いてきたらしい。リリアは客間の机に紙を広げ、ソフィエへの報告を書き始めた。院長が、修繕に出す祈祷書の見返しの下に挟んでくれるという。
机の端には、半分に割った黒パンが置いてあった。国境を越えても、リリアはこれをやめない。私はそれをかじりながら、報告を聞いた。
「風は、イァーリの傭兵ギルドの剣士。前髪の剣姫と呼ばれる娘。嵐の日、短剣ひと振りにて、つむじ風を鎮めたり――」
「……違う」
口から、出ていた。
削る前だった。頭の中で文面を組み立てるより先に、結論だけが勝手に外へ出ていった。二十二年、こんなことは一度もなかった。
リリアが、羽ペンを止めた。「違う、とは」
次の言葉が要る。今度こそ、削らねばならない。
――違う。あの子は風ではない。あの子が唱えたのは、私が二十代の終わりに書いた一行であり、風を従えたのは、その一行である。つまり、あの子に言葉を与えた者こそが、本当の――
長い。削る。
「あの子は」。あの子と呼べば、知り合いだと知れる。削除。「二十代の終わりに書いた」。歳が割れる。削除。「私が」。論外である。削除。絶対に、削除。
残ったものを、口にした。
「……言葉を、与えた者がいる」
リリアの目が、見開かれた。羽ペンの先から、インクが一滴落ちた。
「剣姫に、言葉を与えた者……剣姫の、師」
しまった、と思った。「私が」を削ったせいで、文の主語が外へ出ていってしまったのだ。私は、私を三人称にした。
「町で、聞きました」リリアの声が震えていた。「剣姫には、ひと月前に町を去った師がいる。弓聖と呼ばれていた人。最後に『風に、気をつけろ』と言い残して、国境のほうへ去った。短剣に刻まれた一行も、その人の言葉だと。……背の高い、無口な方だったそうです」
リリアは、そこで言葉を切り、私を見た。
喉の途中で、黒パンが止まった。
リリアはしばらく私の頭巾のあたりを見ていたが、やがて目を伏せた。
「……鹿さんは、紙を折る人です」
自分に言い聞かせるような声だった。
リリアは報告の最後の一行を線で消し、書き直した。
「風は剣姫にあらず。剣姫に言葉を与えし者、すなわち剣姫の師、弓聖と呼ばれし男。ひと月前に国境を越え、行方知れず。――鹿の見立て」
最後の一言は、要らなかった。
「鹿さんは、どうしてそこまで」
私は黙った。
「……言えないことが、あるのですね」リリアは報告を丁寧に折り畳んだ。「顔も知らない男を、そこまで読めるなんて。ソフィエ様が『鹿は使える』とおっしゃった意味が、今日、分かりました」
顔なら、毎朝、水桶に映して見ている。前髪のない顔を。
詩の会は、作法を破った返歌の作者を探している。私は今、その会に、作者を差し出した。名前と居場所以外のすべてを添えて。
黒パンは、まだ喉の途中にあった。石のように固かった。
◇
射るなら、新月の夜と決めた。
月のない夜なら、誰にも見られない。月を数えるのは暦屋の仕事だが、今回ばかりは私が数えた。新月まで、あと五日。
それまでに、弓を手に入れなければならない。ギルドの物置の弓を借りれば、双子のどちらかに見つかる。二人同時に見つかるかもしれない。市の弓屋は、二十年来の顔なじみである。修道院の物置には、鋤と、古い祈祷書と、なぜか錆びた鍋が四つしかなかった。弓を一から作るには、一年かかる。
結論は出なかった。代わりに、借りたものを返しに行くことにした。グンターの頭巾である。私の頭巾は、一晩で乾いた。借りたものは返す。それが礼儀である。弓のことは、帰り道に考えればいい。
夜更けに、丘を下りた。
ギルドの宿舎の裏口に、灯りが一つ置いてあった。夜更けに出かけた誰かが、迷わず帰れるように置かれた灯りに見えた。誰が、誰のために置いたのかは知らない。私は、その灯りを避けて歩いた。
北門の門扉は、倒れたまま、門の脇に立てかけてあった。門番の老人の姿はない。門は、ただの穴になっていた。
鍛冶屋の裏口の取っ手に、畳んだ頭巾を掛けた。音を立てずに、背を向けた。
扉が、開いた。
グンターが立っていた。炉の残り火を背にして、煤けた顔で、私を見た。正確には、私の額を見た。前髪のあった場所を。
グンターは、取っ手から頭巾を外した。それから、壁際から布で包んだ長いものと矢筒を取り、私の胸に押しつけた。
何も言わなかった。扉が閉まった。
星明かりの下で、布をほどいた。
弓だった。
古い弓だった。私がこの町に来た頃から、鍛冶屋の壁にずっと掛かっていた弓である。誰のものかは知らない。訊かなかった。訊くには、言葉が要る。
握りの革だけが、新しかった。弦を引いてみた。私の腕の長さに、指一本の狂いもなく合っていた。
矢筒には、矢が十四本入っていた。矢じりは、私が二十二年使ってきたものと同じ形だった。当然である。この町の矢じりは、すべてあの炉で打たれている。
十四という数には、縁がある。
なぜ鍛冶屋は、頭巾を返しに来ただけの見知らぬ男に、弓を渡したのか。
考えるべきだった。考えなかった。ひと月ぶりの弦の手応えが、指先から肘まで、まっすぐに上ってきていた。弓を握った手が、考えることを拒んでいた。
客間に戻り、蝋燭を灯して、新しい詩を書いた。紙には書かない。詩帳は国境の向こうにあり、紙に書けば字が残る。頭の中の白い頁に、書いた。
新月の森に 我は還る
刃が風を 黙らせるなら
我が矢は 闇を詠わせん
最終行は、まだない。最終行の韻は、矢で決める。
夜の森の切り株たちは、ひと月、私を待っている。待たせた分だけ、良い詩になるはずである。
◇
隊では、俺は「髭」と呼ばれている。隊の半分は髭を生やしているが、俺のがいちばん濃いからだ。
あの晩のことは、思い出したくない。錆びた拍車亭で、俺は鹿の角に縫い止められた。あの無口な男は、椅子から一歩も動かなかった。麦酒を噴いただけだ。俺が剣姫の合言葉を真似た、その最後の一音で。
あれは、合図だった。今なら分かる。あの男は、剣姫の手の者だ。
十日前の満月の黄昏、境の石で引き返した十二騎のなかにも、俺はいた。目を閉じた小娘どもが横一列に立っていただけで、馬が一歩も前へ出なかった。
だから、詰所で隊長が今度の仕事を口にしたとき、俺は笑えなかった。
「境の石を越えた灰色の外套の文使いが、イァーリの宿舎にいる。剣姫に拾われたそうだ。生かして連れて帰れ」
「剣姫がいるんでしょう」と誰かが言った。「嵐を短剣で黙らせたって話だ」
「だから、新月を待つ」と隊長は言った。「新月の夜は、風が凪ぐ。昔からそう決まっている。風を使う女も、風がなけりゃ、ただの小娘だ」
誰も逆らわなかった。逆らえるほど風に詳しい奴は、隊にいなかった。
隊長は、地図の境の石ではなく、その北の森に指を置いた。境の石には、また目を閉じた連中が立つかもしれない。森を抜ければ、見張りはいない。おまけに町の北門は、嵐で扉が倒れたまま、まだ直っていないという。
斥候が、森の中の話をした。北の森の奥に、樵小屋の跡がある。開けた空き地に、切り株が並んでいる。どの切り株も真ん中に矢の跡が密集していて、一本は拳が入るほどえぐれていた。
「弓の稽古場か」と隊長が言った。
「剣姫の一味のでしょう。ただ、苔の具合から見て、ここひと月は誰も来ていません」と斥候は言った。「町の連中は、あの森の奥には入らないそうです。剣姫でさえ、入口で引き返すとか」
「曰くつきか。なら、見張りもいないな」
新月の夜、俺たちはその空き地に集まり、夜更けを待って宿舎を叩く。それで決まった。
斥候は、町の若い連中が毎朝唱えている合言葉も聞き込んできていた。風よ、我が前髪のみを揺らせ。
「前髪のみ、ってのは何だ」と隊長が訊いた。
「前に出た奴だけをやる、って意味でしょう」と斥候が言った。「境の石でも、あいつらは前に出た騎馬にしか向かってこなかった」
それで、誰も前を歩きたがらなくなった。森を進む順番は、くじで決めることになった。俺は、まだ引いていない。
ひと月、誰も来ていない稽古場。町の連中が近づかない森。剣姫さえ入らない。これほど安全な場所は、ほかにない。
あの無口な男のことは、もう考えないことにした。あれは国境のこっち側の酒場の話だ。あっち側の森の奥で、会うはずがない。
隊は、俺を入れて十四人。酒場で一緒に縫い止められた三人も、その中にいる。
斥候の話では、切り株も十四本あった。
夜更けを待つあいだ、一人一本ずつ、尻を下ろせる。
ちょうど、俺たちの数だった。