寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
新月の夜は、本当に暗い。
二十二年、満月の夜を選んで射ってきた。月のない夜に森へ入るのは、初めてだった。客間を出る前に、隣の部屋のリリアの寝息を確かめた。三度確かめた。三は、美しい数である。
丘を下り、宿舎の裏口の灯りを避け、門扉のない北門をくぐった。門は今夜も、ただの穴だった。
何も見えない。だが、足が覚えていた。北門から小川まで八百十二歩。小川から空き地まで四百四十歩。二十二年、数えるつもりもなく数えてきた歩数である。
空き地に着き、いつもの場所に立った。切り株たちまで、四十歩。
ひと月ぶりの森は、少し様子が違った。空気が、いつもより温かい。森の匂いに、革と汗と、かすかに麦酒の匂いが混じっていた。私の外套の匂いだろう。修道院の客間には、窓がひとつしかない。
どこかで、布の擦れるような音がした。風だ。新月の夜にも、風は吹くらしい。
矢をつがえた。グンターの弓は、私の弓より、ほんの少しだけ重かった。悪くない重さだった。
弦を引くと、ひと月ぶりに、肩の奥で何かが正しい場所に戻った。紙を折る指でも、薪を割る腕でもない。これが、私の体の本来の使い道である。少なくとも、詩の次には。
息を吸い、闇に向かって詠んだ。
「――新月の森に、我は還る」
「還る」の「る」で放った。
矢は闇の向こうの切り株に、鈍い音を立てて刺さった。乾いた音ではない。ひと月の雨を吸って、木が湿っているのだろう。どこかで短く「ひっ」と鳴ったのは、切り株が軋んだのだ。ひと月ぶりの矢に、驚いたのかもしれない。
二行目、「刃が風を、黙らせるなら」の「なら」で二本目。三行目、「我が矢は、闇を詠わせん」の「ん」で三本目。どちらも鈍い音だった。一度、布の裂けるような音がした。樹皮が剥がれたのだろう。
ここからが、本当の仕事である。最終行は、まだない。
候補を詠み、韻の語で射る。芯を射抜けば、切り株は乾いた音で答える。私の詩が正しいときだけ、森は澄んだ音を返す。暗闇でも、耳は嘘をつかない。
「――闇こそ、我が友なりける」
鈍い音。誰かが息を呑むような、湿った音。
「……違う」
「――黄昏は、新月にも訪れる」
鈍い音。切り株が、また軋んだ。違う。黄昏に頼るのは、私の悪い癖である。
「――我は、風に選ばれし者なり」
放つ前から違うと分かっていた。自作の使い回しである。案の定、切り株は低く鳴った。
「――前髪なき額に、星は宿る」
切り株が「ぎゃ」と鳴いた。前髪の話は、まだ傷が新しい。違う。
「――鉄よ、汝は詩を知らぬ」
鈍い音。私怨が出た。違う。詩に私怨を持ち込んではならない。持ち込むなら、もっと上手に隠すべきである。
十本目を過ぎたあたりで、さすがに不安になった。私が「違う」と口にするたびに、闇の向こうで切り株たちが一斉に軋んだ。森も、私と同じくらい焦れているらしい。
十三本目まで、すべて外れだった。矢筒には、あと一本。
私は目を閉じた。目を閉じても、新月の闇は変わらない。変わるのは、耳だけである。
あの子の刃は、風を黙らせ、町を救った。私の言葉は、何も救わなくていい。ただ、遠くへ届けばいい。
最後の一行が、来た。
「――言の葉は、刃より遠く翔ける」
「翔ける」の「る」で、十四本目を放った。
かん、と澄んだ音がした。
鐘のような音だった。森じゅうに響いて、ゆっくりと消えた。二十二年で、いちばん澄んだ音だった。
「……これだ」
陶酔が、足の先から上ってきた。誰にも見られていない。誰にも聞かれていない。新月とは、なんと良いものだろう。
矢を抜いて帰りたかったが、新月の闇では一本も見つからない。明日の夜に回収することにして、空き地を後にした。
帰り道、切り株たちは、ひとつも鳴かなかった。満足しているのだろう。
◇
くじ引きで、俺は森を進む列のいちばん前を引いた。森の中では、何も起きなかった。空き地に着くまでは。
切り株は、ちょうど十四本あった。一人一本ずつ尻を下ろし、自分の手も見えない闇の中で、夜更けを待った。
声がしたのは、夜更けの少し前だった。四十歩ほど先の闇から、男の声が、何かを詠んだ。
「――新月の森に、我は還る」
最後の一音と同時に、何かが右隣の切り株に突き立った。右隣の奴の外套の裾ごと、だ。そいつが「ひっ」と言った。
「伏せろ」と隊長が囁いた。
俺たちは切り株から滑り降り、切り株にしがみついた。闇の中で、身を隠せるものはそれしかなかった。
二行目。最後の一音で、矢が、左の奴の袖を切り株に縫いつけた。三行目。三本目は、俺の後ろの奴の頭巾を貫いた。
俺は気づいた。矢は、切り株に来る。俺たちが抱きついているものこそが、的だった。
声の詠む文句は、半分も分からなかった。ただ、刃が風を黙らせる、というのは剣姫のことだ。嵐を短剣で黙らせた女。そして、我が矢は闇を詠わせん。闇に歌わせる。この闇の中にいるのは、俺たちだけだ。
歌わされるのは、俺たちだ。
それから、声は長く黙った。
弓聖が黙ったら、次の矢で終わる。どっち側の傭兵でも、一度は聞かされる言葉だ。なぜ今それを思い出したのか、考えたくなかった。
次の矢は、来た。行の終わりと同時に。そして声は、低く、ひとこと言った。
「……違う」
何が違うのか。外したということか。次は外さない、ということか。隊長が、俺の知らない神に祈り始めた。たぶん、隊長も知らない神だ。
矢は、次々に来た。一本来るたびに、誰かの帯が、誰かの靴の踵が、誰かの髪の毛が、切り株に縫いつけられた。そのたびに、声は言った。
「……違う」
俺の外套の裾にも、一本来た。尻のすぐ下だった。
闇の中で、四十歩。声の主には、俺たちの姿など見えているはずがない。それなのに、矢は一度も迷わなかった。切り株の真ん中にしか、来なかった。
あの晩も、俺は縫い止められた。あの無口な男は、椅子から一歩も動かなかった。今夜の声の主も、たぶん、一歩も動いていない。
十三本目のあと、声は、ひどく長く黙った。誰も、息をしていなかった。
「――言の葉は、刃より遠く翔ける」
かん、と鳴った。隊長の兜だった。兜は隊長の頭から弾け飛び、いちばんえぐれた切り株に、矢で縫いつけられた。
「……これだ」
声は、満足そうだった。足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
新月の夜は、風が凪ぐはずだった。確かに、風は一度も吹かなかった。吹いたのは、矢だけだった。
誰も、動かなかった。動いたら、次の一行が来る気がした。
夜が明けるまで、俺たちは、切り株を抱いていた。
◇
十四の影が北の森へ入るのを、俺は日暮れに遠眼鏡で見た。嵐のあと、毎夕、森の縁を見張っていた。灰色さんが逃げ込んできた道は、追う者も使う。
五百二十歩あけて尾けた。影たちは迷わず、切り株が十四本ある、あの空き地へ向かった。俺は空き地の縁の茂みに身を沈めた。満月の夜に弓聖を見た、あの茂みだ。今夜は、小枝を踏まなかった。
そして、聞いた。いつもの射場のあたりから、低い声が、詩のようなものを詠んだ。行の終わりごとに、矢が来た。十四本。最後の一本は、鐘のように鳴った。
声の主は見えなかった。新月だ。だが、行の終わりで射る、あの拍子を、俺は知っている。この茂みで、一度聞いている。
聞き取れた文句は二つ。「刃が風を、黙らせるなら」。嵐の日、弟子は短剣で風を黙らせた。「我が矢は、闇を詠わせん」。刃が昼の風を鎮めるなら、矢は夜の闇を受け持つ、という意味だろう。師と弟子の、昼と夜の分担だ。
夜明け前、男たちは外套を引きちぎり、靴を脱ぎ捨てて、森の入口へ逃げた。
入口には、エレナがいた。若手を五人連れて、目を閉じて立っていた。
「森から、十四人、出てきます。……ひどく、怯えています」
転がり出てきた男たちの前で、エレナは静かに言った。
「風よ」
若手たちが目を閉じた。
「我が前髪のみを」
前列が、一歩、踏み出した。
男たちは凍りついた。誰ひとり、前に出ようとしなかった。押し合い、互いを前へ押し出そうとして、最後には全員がその場に膝をついた。
「怪我は、ありませんか」とエレナは言った。
髭の濃い男が、泣きながら言った。「森に……何か、いる」
ティモが「気配だ! 剣姫さまの気配だけで、十四人だ!」と叫んだ。昼までには二十人になっているだろう。エレナは、森を振り返らなかった。
俺は、空き地へ戻った。
切り株十四本の真ん中に、矢が一本ずつ立っていた。どの矢にも、外套の裾か、袖か、帯か、髪の毛が縫いつけられていた。いちばんえぐれた切り株には、兜が一つ。矢じりは、この町の形をしていた。グンターの炉の形だ。
一本ずつ、矢の位置を測った。どの矢も、切り株の芯から指一本と外れていなかった。新月の闇の中、四十歩で、十四本。一本の狂いもない。
俺は十四本を抜き、布に包んだ。
事実一。切り株は十四本、敵も十四人。座る場所が、ちょうど人数分あった。
事実二。矢は、敵が身を隠した切り株そのものに来た。隠れ場所が、そのまま的だった。
事実三。行の終わりで射る拍子。二十年以上、この森でそういう射ち方をしてきた男は、一人しかいない。
手帳の古い頁を開いた。「切り株十四本。配置に意味なし。射る順に意味あり」。訂正する。配置にも、意味があった。二十年分の夜の稽古は、この一夜のための演習だったのだ。あの男は二十年前から、敵の座る場所を用意して待っていた。
――弓聖、この森にあり。あるいは、最初から去っていなかった。
一行、書き足した。
――手柄は、弟子のものになった。それも、筋書きのうちだろう。
ギルド長には、まだ報告しない。報告して、信じてもらえる話ではない。
◇
翌朝、町から戻ったリリアが、息を弾ませて言った。
「剣姫が、夜明けに北の森の入口で、国境を越えてきた警備隊の十四人を捕らえたそうです。剣も、抜かずに。男たちはひと晩じゅう森で何かに怯えていて、膝をついて泣いていたとか。町の人たちは、剣姫の気配に縫い止められていたのだと言っています」
私は、黒パンをかじる手を止めた。
北の森。昨夜、私がいた森である。もっとも、北の森は国境まで続いている。私のいた空き地は、その奥のほんの一角にすぎない。新月の森は、慣れない者には恐ろしい。十六の私もそうだった。
あの子は、私が切り株を相手に推敲をしているあいだに、同じ森の入口で、国境を越えてきた者たちを捕らえていたのだ。同じ夜、同じ森で、私は詩を一行仕上げ、あの子は町を守った。
また、鉄に負けた。
今度の鉄は、鞘から抜かれてすらいない。
「それと」リリアが、少し声を落とした。「昨夜、夜更けに物音がして……鹿さんのお部屋の扉が、少し開いていました。どちらへ?」
「……散歩を、少々」
関所で二度使った言い回しである。少々どころではなかったが、歩いたのは事実である。北門から、千二百五十二歩。
「新月の夜に、お一人で」リリアは、ゆっくりと頷いた。「……鹿さんも、風の気配を探っておられたのですね」
私は黙った。黙ることには、慣れている。
窓辺に立ち、北の森を見た。朝日の中で、森は何事もなかったように静かだった。
昨夜の一行を加えて、頭の中の白い頁に清書した。
新月の森に 我は還る
刃が風を 黙らせるなら
我が矢は 闇を詠わせん
――言の葉は、刃より遠く翔ける
「還る」と「翔ける」が、闇の中で手を結んでいる。良い詩である。誰も知らない。
それでいい。それでいいはずである。第四の理由については、今は考えない。
矢は、今夜、抜きに行くことにする。