寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
北風の夜は、煙突から声が降ってくる。
二十二年、そうだ。
最初の冬は、狼だと思った。違った。言葉だった。北の森のほうから風に乗ってきて、炉の煙突に落ちてくる。行の終わりで、必ず一度、乾いた音がする。矢の音だ。
詩だった。
下手だった。
毎晩、聞いた。
宿命、という言葉が聞こえた夜が、いちばん多かった。
あの男に売った矢じりは、二十二年で十一万三千。全部、俺が打った。その一本一本が、どこかの夜の、どこかの韻の語で放たれたことになる。
十年前の秋の夜、「風よ、我が前髪のみを揺らせ」と降ってきた。何の話か分からなかった。分からないまま、覚えた。
七年前、あの男は、うちでいちばん出来のいい短剣を、黙って買っていった。守り刀だと、顔に書いてあった。
この秋、その短剣を持って、娘が作業場を借りに来た。刻みたい一行がある、と言った。
あの一行だった。
背中が震えた。笑ったのではない。
あの男が町を出た朝、炉の奥で一度だけ小槌を鳴らした。それから、ひと月、煙突は黙っていた。
物足りなかった。
今朝、斥候のルカが来た。布の包みを作業台に広げると、矢が十四本あった。どの矢じりも、俺の炉の形をしていた。
「この形を、二十年、誰よりも多く買っていった男がいる。それは分かっている」ルカは、俺の顔を見ずに言った。「訊きたいのは、別のことだ。この十四本を、最近、誰に渡した」
俺は黙っていた。炉の火を、少し強くした。
ルカはしばらく待ってから、矢を包み直し、「……そうか」と言った。あの男の口癖だ。出ていくルカの手は、震えていなかった。
斥候は、いずれ辿り着く。
あの男は、まだ何も知らない。森に十四人いたことも、自分が何をしたかも。今朝の噂を聞いても、気づいていないだろう。そういう男だ。
知らせるのは、俺の仕事じゃない。二十二年、そう決めてきた。
だが、弓を渡したのは、俺だ。
今夜、口を開く。
◇
矢は、なかった。
新月の翌晩、空き地の切り株を、手探りで一本ずつ確かめた。十四本とも、芯に穴が開いているだけだった。根元には布の切れ端がいくつか落ちていて、靴が片方あった。ひと月留守にすると、森にはいろいろなものが落ちるらしい。
誰かが、矢を抜いた。だが、矢は詩ではない。字は一字も書いていない。何本拾われようと、私の詩は見つからない。そう結論して、帰り道についた。
門扉のない北門の穴に、灯りがひとつ立っていた。
グンターだった。手提げの灯りの向こうで、煤けた顔が私を見ていた。
「……来い」
この男の声を自分に向けて聞いたのは、二十二年で初めてだった。
鍛冶屋の炉には、まだ火が残っていた。グンターは私を炉の前の丸椅子に座らせ、白湯を一杯置いた。麦酒でなくてよかった。噴かずに済む。
「矢は、ない」とグンターは言った。「斥候が持っていった。今朝ここへ来た。矢じりの形を、訊きに」
ルカ。背筋が冷えた。だが、すぐに温まった。矢は詩ではない。
「昨夜、森には、お前のほかに十四人いた」
白湯の湯気が、まっすぐに上っていた。
私の内部で、昨夜の音が順に再生された。鈍い音。「ひっ」。布の裂ける音。「ぎゃ」。一斉の軋み。
切り株は、鳴かない。二十二年、一度も鳴いたことがない。
「……十四人」
「国境警備隊だ。今朝、剣姫の前で膝をついた連中だ。ひと晩じゅう、切り株に縫い止められていた。お前の矢でだ」
誰も死んではいない。グンターの口ぶりで、それは分かった。
次に浮かんだのは、下書きのことだった。
下書きは、毎晩暖炉で燃やす。清書だけを残す。二十二年、守ってきた規則である。昨夜、私は没にした十行を、声に出して詠んだ。「闇こそ、我が友なりける」。「黄昏は、新月にも訪れる」。「前髪なき額に、星は宿る」。
それを、十四人が聞いていた。燃やすこともできない下書きを。
「……最後の、あの澄んだ音は」
「兜だ。隊長の」
私の最終行は、兜に選ばれた。
訊かねばならないことがあった。なぜ、この男はそこまで知っているのか。私の夜の森のこと。私の矢のこと。私が鹿であること――いや、私が私であること。
頭の中で文面を組み立てた。長い。削る。まず「なぜ」だけを残して――
「削らなくていい」
グンターが言った。私は、口を開けたまま止まった。
「お前は、口に出す前に削る。顔で分かる。削らなくていい。全部、知ってる」
「……全部、とは」
「北風の夜は、炉の煙突から、お前の声が降ってくる」グンターは、炉の上の煙突を顎で指した。「二十二年だ」
それから、低い声で一行を口にした。
「『黄昏よ、我が背に乗れ』」
「……二十三の夏だ」
口が、勝手に答えていた。
「第五冊の終わりのほうで、命令形が強すぎると思って、翌年に『黄昏よ、我が背に乗るがよい』と直したのだが、直したほうが悪くなったと、今でも思っている。乗れ、のほうが背中に重みがある。乗るがよい、では、黄昏が遠慮をしてしまう」
止まらなかった。二十二年削り続けてきた言葉が、一語も削られずに、炉の前へ転がり出ていった。
「……知ってる」とグンターは言った。「直す前のほうが、良かった」
生まれて初めて、自分の推敲について、誰かと意見が一致した。
グンターは、思い出したように、もう一行を口にした。
「『風よ、我が前髪のみを揺らせ』」
私は白湯を噴いた。麦酒でなくても、噴けるものらしい。
「あれは、ひどかった」とグンターは言った。「あの子は、あれを刻んだ。俺は、止めなかった」
「……なぜ」
「あの子の顔を見たら、止められなかった」
私は、濡れた膝を見下ろしたまま、何も言えなかった。削るものが、何もなかった。
炉の火が、ぱちりと鳴った。
訊いてはならない、と分かっていた。それでも、第四の理由が、喉の奥から勝手に這い出してきた。
「……どうだった」
「何がだ」
「……二十二年」
グンターは、長いこと黙っていた。弓聖が黙ったら次の矢で終わるという。鍛冶屋が黙ると、何が終わるのだろう。
「下手だった」
終わった。
「だが、毎晩、聞いた」
嬉しい気持ちと、困る気持ちが、また同じだけ増えた。いや、今夜だけは、嬉しい気持ちのほうが、少しだけ多かった。
「宿命が、多い」とグンターは付け加えた。
「……一篇に一度と、決めている」
「守れてない」
知っている。
グンターは、炉の灰を火掻き棒でならした。
「あの子が、お前の十四人を背負った」
白湯が、急に冷めた気がした。
「国境の向こうは、黙っていない。十四人を一晩で縫い止めた剣姫を、王国は放っておかん」
嵐の日のつむじ風。森の入口の十四人。町は、そのどちらもあの子の手柄にした。ひとつは本物で、ひとつは私の推敲だった。あの子に背負わせたのは、短剣の一行だけではなかった。私の夜まで、背負わせてしまった。
「弓は、返すな」
「……あの弓は」
「お前のだ」
グンターは、壁の、弓が掛かっていた跡を見た。そこだけ、二十二年分、煤の色が薄かった。
「十六のお前は、毎日、あの弓を見に来た。値を、訊かなかった。だから、売らなかった」
思い出した。いや、忘れたことにしていたのを、思い出した。十六の冬、私はこの店の前を、用もないのに毎日通った。値を訊くには、言葉が要る。十六の私には、その言葉がなかった。安い弓を、町の反対側の店で買った。
「……二十二年、売れ残っていたのか」
「売らなかった、と言った」
グンターは立ち上がり、裏口の扉を開けた。話は終わり、ということらしい。
「俺は黙っている。今までどおりだ」
敷居をまたいだ私の背中に、もうひとことだけ、声が届いた。
「……前髪は、伸びる」
扉が閉まった。
丘への道で、私は何度も立ち止まった。
詩は、生きているうちに見つかったら終わりだ。二十二年、そう信じてきた。
見つかっていた。二十二年前から。
何も、終わっていなかった。
原則の訂正を、検討する。検討するだけである。今夜のところは。
それより先に、考えねばならないことがある。国境の向こうが、あの子のところへ来る前に。
◇
リリアの報告は、修繕から戻った祈祷書の見返しの下にあった。三日前のことだ。
風は剣姫にあらず。剣姫に言葉を与えし者、すなわち剣姫の師、弓聖と呼ばれし男。ひと月前に国境を越え、行方知れず。――鹿の見立て。
私は三日間、最後の一言を眺めていた。鹿は、なぜそこまで読めたのか。
今朝、国境の町から噂が来た。警備隊の十四人が、イァーリの北の森で一晩じゅう縫い止められ、夜明けに剣姫の前で膝をついた。闇の中で男の声が詩を詠み、行の終わりごとに矢が来たのだという。警備隊の長は、十四人の恥を雪ぐために兵を集め始めたらしい。私たちの麦の月より先に、王国が国境で動く。
詩を詠みながら、射る男。
ひと月前、大きな鞄を背負って国境の町に現れた、背の高い、無口な男。
錆びた拍車亭で、四人を、椅子から一度も立たずに縫い止めた男。
工房で、一字も書かなかった男。
地下では、鴉がいびきをかいていた。私は灯りを一つだけ持って、屋根裏へ上がった。リリアは今、その男の隣の部屋で眠っている。
梁の陰に、行商人の鞄が押し込んであった。半年の旅に使う大きさだ。真鍮の留め金は四つ。閉まっているのは三つだけだった。引き出そうとして、腰に響いた。何が入っていれば、こんな重さになるのか。
留め金を三つ外した。
革表紙の手帳が、十四冊。
製本師の癖で、まず綴じを見た。素人の綴じだった。糸の締めが甘い。一冊だけ綴じ糸が緩んで、頁が一枚抜けた跡がある。それでも、どれもほどけずにもっていた。何度も、何度も開かれてきた本の手触りだった。
前掛けの隠しから、反故紙の籠で拾った下書きを出した。返歌の、四度目の下書き。いちばん古そうな一冊の一頁目を開き、隣に並べた。
字は、同じだった。
一頁目には、二行だけ書かれていた。
我が名を まだ誰も知らぬ
知らぬがよい いずれ知るゆえ
名を伏せよ。時が来れば明かす。二十二年前の頁で、この男は、もう決行を予告していた。
十四冊。二十二年分の、暗号。
いちばん新しい一冊を開いた。墨の色が、まだ若い。
三度目の満月の夜 風は国境(さかい)を越える
手が止まった。
三度目の満月の夜。鳩が工房を発ち、国境を越えた日だ。その日付が、二十二年分の暗号の、いちばん新しい頁に書いてある。少し前の行には、こうあった。
――我は、風に選ばれし者
名乗りだ。鳩が風に通じていたのではない。鳩の越境そのものが、風の筋書きだったのだ。
私は、鞄の上に手を置いた。
「……鹿。あなたが、風だったのね」
留め金を三つ閉め、鞄を持ち上げた。腰に響いた。
二十二年分の暗号は、ひどく重かった。