寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第22章 拒否権を持つ議員

 翌晩、私は鍛冶屋の裏口を三度叩いた。三は、美しい数である。

 修道院を出るとき、リリアに「どちらへ」と訊かれた。「……散歩を、少々」と答えた。二晩続けての散歩である。リリアは何も言わずに頷いた。頷き方が、少しだけ深くなっていた。

 

 扉は、一度目で開いていた。

 炉の前の丸椅子が、今夜は二つ並んでいた。白湯も二杯あった。グンターは片方に座り、もう片方を顎で指した。

 議題は一つである。国境の向こうから、あの子を守ること。ただし、私が私であることを、誰にも知られずに。

 

 二十二年、私の会議はいつも私の内部で開かれてきた。議長も書記も被告も私だった。今夜、その会議が初めて外に出た。議員が一人増えた。その一人は、拒否権しか持っていなかった。

 開会を宣言しようとしたら、グンターが白湯をすすった。開会の合図は、それで足りるらしい。

 

「第一案」と私は言った。削らずに話してよいと言われてから、口が軽い。「名乗り出る。弓聖は町を去っていない、森の十四人は私の矢だ、とギルド長に告げる。そうすれば王国の恨みは、あの子ではなく私に向く」

 

 グンターは黙っていた。

 黙っているあいだに、私は自分の案の続きを考えてしまった。十四人は、闇の中の声を聞いている。「違う」も、「闇こそ、我が友なりける」も聞いている。私が名乗れば、あの声が私だと知れる。あの声が私だと知れれば、あの下書きが私だと知れる。

 

「……撤回する」

 

 グンターは、何も言わなかった。提案者による撤回である。議事録には残さない。もともと、どこにも書いていない。

 

「第二案。ギルド長に、名を伏せた手紙で警告する。国境の向こうが剣姫を狙っている、と」

 

「字が残る」

 

「左手で書く」

 

「左手でも、宿命と書くだろう」

 

 書く。おそらく、三回は書く。却下である。

 

「第三案。お前から、あの子に伝えてもらう。国境に気をつけろ、と」

 

「俺は黙っている」

 

 拒否権の行使である。この議員は、拒否権以外を持っていない。

 

「第四案。もう一段、深く化ける。ギルドに新入りとして入り、あの子のそばに張りつく」

 

「無理だ」

 

「なぜ」

 

「あの子は、気配で分かる」

 

 グンターは、それ以上言わなかった。言わなくても分かった。前髪を切ろうと、頭巾をかぶろうと、あの子は千歩先から顔を向ける。三歩横に立てば、目を閉じたままでも、私だと分かるだろう。分かったうえで、何も訊かないだろう。それが、いちばん困る。

 却下である。拒否権というより、事実の指摘だった。

 

「第五案」

 

 私は白湯を一口飲んだ。ここからが本命である。

 

「夜ごと、国境の森に潜む。境を越えてくる者があれば、矢で縫い止める。一人も傷つけず、誰にも見られず、あの子のところへ辿り着く前に、全部止める」

 

「矢は、ない」

 

 そうだった。十四本は、ルカが持っている。私の矢筒は空だ。

 

「……ない」

 

「打つ」

 

 グンターは、それだけ言った。

 可決である。この議員は、可決のときも一語しか使わない。

 

「何本、要る」

 

「……多いほどいい」

 

「百、打つ」

 

 百本。私は頭の中で数えた。矢は韻の語で放つ。百本の矢には、百の韻が要る。一篇に韻が四つとして、二十五篇。新作で。

 私は生まれて初めて、締め切りというものを持った。

 ところが、グンターは白湯を置いて、もう一語つけ加えた。

 

「詠め」

 

「……何を」

 

「詩だ。黙って射ると、お前は外す」

 

 私は、丸椅子の上で固まった。

 

「詩のない夜は、矢の音が乱れていた。二十二年聞いていれば、分かる」

 

「新月の夜は、たまたま韻が冴えていただけだ。詩がなくとも、私は――」

 

「十一万三千本、聞いた」

 

 反論は、それで尽きた。数で負けたのは、初めてである。

 弓聖とは、推敲の残りかすである。私は、そう言ってきた。冗談のつもりだった。冗談ではなかったのだ。私の矢は、韻の語でしか、まっすぐ飛ばない。

 つまり、こういうことになる。あの子を守るためには、境を越えてくる兵のすぐそばで、私は詩を詠まねばならない。誰にも見られず、誰にも聞かれず、詩を詠みながら。

 可決された案が、可決された瞬間に、最大の欠陥を抱えた。

 

「……小さい声で、詠む」

 

「それでいい」

 

「小さい声では、韻が立たない」

 

「立たせろ」

 

 会議は、それで終わった。

 国境の向こうに兵が集まっていることは、グンターが行商人から聞いていた。数は分からない。いつ動くかも分からない。ただ、次の満月まで待つ連中ではない、とグンターは言った。それから、斥候が町じゅうの弓屋を回っている、とも言った。ルカは、矢柄の出どころまで洗うつもりらしい。私は、新月の夜に十四人の前で没にした十行を思い出し、次はもっと良い下書きを用意しておこうと決めた。決めてから、それが作戦会議の結論としては最悪の部類だと気づいた。

 裏口を出るとき、グンターは灯りを持ち上げて、私の額を照らした。

 

「……まだだ」

 

 前髪の話である。分かっている。

 丘への道で、締め切りに取りかかった。二十五篇。新作で。グンターが百本打ち終える前に、こちらも打ち終えねばならない。坂の途中で、一篇目ができた。

 

  宿命の炉に 鉄は鳴る

  我は詠う 闇の境にて

  ――汝の夜明けを、誰も知らずともよい

 

 宿命は、一度で済んだ。それでもグンターに聞かせれば、多いと言うだろう。

 三行目だけは、推敲しなかった。する気になれなかった。

 

◇

 

 三晩続けて、鍛冶屋の炉が朝まで鳴っていた。

 宿舎の寝台で目を閉じると、小槌の音が町の屋根を渡ってくる。四つ打って、一つ休む。四つ打って、一つ休む。休みのあとには、決まって、少し強い一打があった。

 どこかで聞いた拍子だった。

 

 思い出したのは、三晩目の明け方だった。師匠が夜の森へ行かれた晩、目を閉じると、遠くで同じ拍子が聞こえていた。何かを四つ唱えるような間があって、そのあとに、乾いた音がひとつ。十年、眠る前に聞いてきた音だ。

 師匠が町を去られてから、その音は一度も聞こえなかった。

 グンターさんが何を打っているのかは、知らない。訊くつもりもない。

 

 その朝、ギルド長に呼ばれた。国境の向こうに兵が集まっている、と行商人が言っているという。狙いは、北の森の十四人の件だろう、と。

 

「前に立つ者を、倍にします」と私は言った。「境の石にも、北の森の入口にも」

 

 北の森の十四人のことを、町は私の手柄だと言う。ティモさんの話では、もう二十二人になっていた。私は、何もしていない。あの夜明け、森から出てきた男たちは、何かに一晩じゅう縫い止められていた。森の中で、何かが彼らを止めたのだ。

 私は、森の中には入らない。師匠の場所だからだ。あの朝も、入らなかった。

 ギルド長は泣かなかった。卓にも登らなかった。黙って頷き、私の肩を一度だけ叩いた。

 

 稽古場へ戻る途中で、鍛冶屋の前を通った。炉の火は落ちていた。戸口に、灰をかぶった木箱がひとつ置いてあった。中身は見なかった。

 宿舎の窓に、灰色さんの顔が見えた。このところ、灰色さんは丘の上の修道院のほうばかり見ている。私が見ていることに気づくと、さっと窓から離れた。

 小槌の拍子が、耳に残っていた。

 似ているだけかもしれない。このところ、似ているものが増えた。

 

◇

 

 祈祷書を修道院へ届ける荷車に、鞄を積んだ。積もうとして、腰に響いた。鴉と狐に手伝わせた。三人がかりだった。

 工房は鴉に任せた。狐には何も言わなかった。言わなくても、狐は頷いた。

 風は、敵か。味方か。分からない。あの返歌は、私の計画を見抜いたうえで、止まれと警告してきた。敵なら、黙って王国に売ればいい。わざわざ警告する敵はいない。だが、鳩は風の巣にいる。リリアは今、風の隣の部屋で眠っている。

 確かめるには、会うしかない。暗号を携えて。

 

 荷車に揺られながら、私は暗号を読んだ。

 読むほどに、分からなくなった。分からなくなるほどに、確信が深まった。暗号とは、そういうものだ。

 まず、語の数を数えた。宿命が、一冊につき四十前後。黄昏が、三十前後。冊ごとに数は揺れるが、二つの比は、二十二年ほとんど変わらない。数そのものではない。比に意味がある。

 

 次に、前髪を数えた。

 前髪だけが、どの表にも収まらなかった。十年ほど前から急に増え、九冊目のある頁を境に、ぷつりと消える。綴じ糸の緩んだ、あの一頁が抜けた跡の前後で。

 鍵は、抜かれた一頁にある。誰かが、もう持っている。

 いちばん新しい一冊には、こんな行があった。

  かぶの汁など 宿命の前には

 

  ――ぬるい

 

 かぶの汁。麦や塩と同じく、物資の隠語だろう。宿命の前には、ぬるい。国境の守りが手薄だという報せだ。この男は、イァーリの側の守りまで、こちらへ書き送るつもりでいたのかもしれない。

 古い一冊に、こんな行もあった。

 

  黄昏は 三たび我が戸を叩く

  我は開けぬ まだ詩が成らぬゆえ

 

 三たび、戸を叩く。

 私が修道院長と交わしてきた合図と、同じだった。二年前に私が決めた合図だ。この頁は、それより十年は古い。

 私たちの暗号が、この男の真似だったのか。それとも、この男が十年前から、私たちが生まれるのを待っていたのか。

 厄介なことに、ところどころ、暗号のはずの行が、ただの詩のように胸に来た。戸を叩かれても、詩が成らぬうちは開けない。私にも、覚えがある。暗号を書く者が、暗号の行に泣かされてはならない。それが、この暗号のいちばん恐ろしいところだった。

 関所で、役人に荷を訊かれた。

 

「……紙を、少々」

 

 役人は、鞄の大きさを見て眉を上げたが、通してくれた。

 丘の上までは、荷車が上がらなかった。鞄は、自分で背負った。坂の途中で三度休んだ。あの男は、これを背負って国境を越えてきたのだ。腰も、きっと痛めたに違いない。少しだけ、同情した。

 修道院の門で、院長が私を見て、蝋燭の色になった。目が、私の背の鞄に吸い寄せられた。

 

「それは……」

 

「祈祷書よ」と私は言った。「二十二年分の」

 

 院長は、それ以上訊かなかった。

 中庭の向こうから、リリアが駆けてきた。

 

「ソフィエ様……なぜ、ここに」

 

「あとで話すわ。鹿は」

 

 リリアの手に、半分に割った黒パンがあった。誰の分かは、訊かなくても分かった。

 院長が、黙って客間の窓を指さした。

 客間の扉を開けると、壁に弓が一張り、立てかけてあった。矢筒には、真新しい矢が詰まっていた。やはり、射る男だ。

 背の高い男が、窓辺に立っていた。前髪のない額。頭巾。振り向いた男の目が、私の顔を見て、それから、私の背の鞄を見た。

 男の顔から、血の気が引いた。

 正体を見抜かれた男の顔だった。

 私は、鞄を床に下ろした。床が、鳴った。

 

「話があるわ」と私は言った。「――風」

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