寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
翌晩、私は鍛冶屋の裏口を三度叩いた。三は、美しい数である。
修道院を出るとき、リリアに「どちらへ」と訊かれた。「……散歩を、少々」と答えた。二晩続けての散歩である。リリアは何も言わずに頷いた。頷き方が、少しだけ深くなっていた。
扉は、一度目で開いていた。
炉の前の丸椅子が、今夜は二つ並んでいた。白湯も二杯あった。グンターは片方に座り、もう片方を顎で指した。
議題は一つである。国境の向こうから、あの子を守ること。ただし、私が私であることを、誰にも知られずに。
二十二年、私の会議はいつも私の内部で開かれてきた。議長も書記も被告も私だった。今夜、その会議が初めて外に出た。議員が一人増えた。その一人は、拒否権しか持っていなかった。
開会を宣言しようとしたら、グンターが白湯をすすった。開会の合図は、それで足りるらしい。
「第一案」と私は言った。削らずに話してよいと言われてから、口が軽い。「名乗り出る。弓聖は町を去っていない、森の十四人は私の矢だ、とギルド長に告げる。そうすれば王国の恨みは、あの子ではなく私に向く」
グンターは黙っていた。
黙っているあいだに、私は自分の案の続きを考えてしまった。十四人は、闇の中の声を聞いている。「違う」も、「闇こそ、我が友なりける」も聞いている。私が名乗れば、あの声が私だと知れる。あの声が私だと知れれば、あの下書きが私だと知れる。
「……撤回する」
グンターは、何も言わなかった。提案者による撤回である。議事録には残さない。もともと、どこにも書いていない。
「第二案。ギルド長に、名を伏せた手紙で警告する。国境の向こうが剣姫を狙っている、と」
「字が残る」
「左手で書く」
「左手でも、宿命と書くだろう」
書く。おそらく、三回は書く。却下である。
「第三案。お前から、あの子に伝えてもらう。国境に気をつけろ、と」
「俺は黙っている」
拒否権の行使である。この議員は、拒否権以外を持っていない。
「第四案。もう一段、深く化ける。ギルドに新入りとして入り、あの子のそばに張りつく」
「無理だ」
「なぜ」
「あの子は、気配で分かる」
グンターは、それ以上言わなかった。言わなくても分かった。前髪を切ろうと、頭巾をかぶろうと、あの子は千歩先から顔を向ける。三歩横に立てば、目を閉じたままでも、私だと分かるだろう。分かったうえで、何も訊かないだろう。それが、いちばん困る。
却下である。拒否権というより、事実の指摘だった。
「第五案」
私は白湯を一口飲んだ。ここからが本命である。
「夜ごと、国境の森に潜む。境を越えてくる者があれば、矢で縫い止める。一人も傷つけず、誰にも見られず、あの子のところへ辿り着く前に、全部止める」
「矢は、ない」
そうだった。十四本は、ルカが持っている。私の矢筒は空だ。
「……ない」
「打つ」
グンターは、それだけ言った。
可決である。この議員は、可決のときも一語しか使わない。
「何本、要る」
「……多いほどいい」
「百、打つ」
百本。私は頭の中で数えた。矢は韻の語で放つ。百本の矢には、百の韻が要る。一篇に韻が四つとして、二十五篇。新作で。
私は生まれて初めて、締め切りというものを持った。
ところが、グンターは白湯を置いて、もう一語つけ加えた。
「詠め」
「……何を」
「詩だ。黙って射ると、お前は外す」
私は、丸椅子の上で固まった。
「詩のない夜は、矢の音が乱れていた。二十二年聞いていれば、分かる」
「新月の夜は、たまたま韻が冴えていただけだ。詩がなくとも、私は――」
「十一万三千本、聞いた」
反論は、それで尽きた。数で負けたのは、初めてである。
弓聖とは、推敲の残りかすである。私は、そう言ってきた。冗談のつもりだった。冗談ではなかったのだ。私の矢は、韻の語でしか、まっすぐ飛ばない。
つまり、こういうことになる。あの子を守るためには、境を越えてくる兵のすぐそばで、私は詩を詠まねばならない。誰にも見られず、誰にも聞かれず、詩を詠みながら。
可決された案が、可決された瞬間に、最大の欠陥を抱えた。
「……小さい声で、詠む」
「それでいい」
「小さい声では、韻が立たない」
「立たせろ」
会議は、それで終わった。
国境の向こうに兵が集まっていることは、グンターが行商人から聞いていた。数は分からない。いつ動くかも分からない。ただ、次の満月まで待つ連中ではない、とグンターは言った。それから、斥候が町じゅうの弓屋を回っている、とも言った。ルカは、矢柄の出どころまで洗うつもりらしい。私は、新月の夜に十四人の前で没にした十行を思い出し、次はもっと良い下書きを用意しておこうと決めた。決めてから、それが作戦会議の結論としては最悪の部類だと気づいた。
裏口を出るとき、グンターは灯りを持ち上げて、私の額を照らした。
「……まだだ」
前髪の話である。分かっている。
丘への道で、締め切りに取りかかった。二十五篇。新作で。グンターが百本打ち終える前に、こちらも打ち終えねばならない。坂の途中で、一篇目ができた。
宿命の炉に 鉄は鳴る
我は詠う 闇の境にて
――汝の夜明けを、誰も知らずともよい
宿命は、一度で済んだ。それでもグンターに聞かせれば、多いと言うだろう。
三行目だけは、推敲しなかった。する気になれなかった。
◇
三晩続けて、鍛冶屋の炉が朝まで鳴っていた。
宿舎の寝台で目を閉じると、小槌の音が町の屋根を渡ってくる。四つ打って、一つ休む。四つ打って、一つ休む。休みのあとには、決まって、少し強い一打があった。
どこかで聞いた拍子だった。
思い出したのは、三晩目の明け方だった。師匠が夜の森へ行かれた晩、目を閉じると、遠くで同じ拍子が聞こえていた。何かを四つ唱えるような間があって、そのあとに、乾いた音がひとつ。十年、眠る前に聞いてきた音だ。
師匠が町を去られてから、その音は一度も聞こえなかった。
グンターさんが何を打っているのかは、知らない。訊くつもりもない。
その朝、ギルド長に呼ばれた。国境の向こうに兵が集まっている、と行商人が言っているという。狙いは、北の森の十四人の件だろう、と。
「前に立つ者を、倍にします」と私は言った。「境の石にも、北の森の入口にも」
北の森の十四人のことを、町は私の手柄だと言う。ティモさんの話では、もう二十二人になっていた。私は、何もしていない。あの夜明け、森から出てきた男たちは、何かに一晩じゅう縫い止められていた。森の中で、何かが彼らを止めたのだ。
私は、森の中には入らない。師匠の場所だからだ。あの朝も、入らなかった。
ギルド長は泣かなかった。卓にも登らなかった。黙って頷き、私の肩を一度だけ叩いた。
稽古場へ戻る途中で、鍛冶屋の前を通った。炉の火は落ちていた。戸口に、灰をかぶった木箱がひとつ置いてあった。中身は見なかった。
宿舎の窓に、灰色さんの顔が見えた。このところ、灰色さんは丘の上の修道院のほうばかり見ている。私が見ていることに気づくと、さっと窓から離れた。
小槌の拍子が、耳に残っていた。
似ているだけかもしれない。このところ、似ているものが増えた。
◇
祈祷書を修道院へ届ける荷車に、鞄を積んだ。積もうとして、腰に響いた。鴉と狐に手伝わせた。三人がかりだった。
工房は鴉に任せた。狐には何も言わなかった。言わなくても、狐は頷いた。
風は、敵か。味方か。分からない。あの返歌は、私の計画を見抜いたうえで、止まれと警告してきた。敵なら、黙って王国に売ればいい。わざわざ警告する敵はいない。だが、鳩は風の巣にいる。リリアは今、風の隣の部屋で眠っている。
確かめるには、会うしかない。暗号を携えて。
荷車に揺られながら、私は暗号を読んだ。
読むほどに、分からなくなった。分からなくなるほどに、確信が深まった。暗号とは、そういうものだ。
まず、語の数を数えた。宿命が、一冊につき四十前後。黄昏が、三十前後。冊ごとに数は揺れるが、二つの比は、二十二年ほとんど変わらない。数そのものではない。比に意味がある。
次に、前髪を数えた。
前髪だけが、どの表にも収まらなかった。十年ほど前から急に増え、九冊目のある頁を境に、ぷつりと消える。綴じ糸の緩んだ、あの一頁が抜けた跡の前後で。
鍵は、抜かれた一頁にある。誰かが、もう持っている。
いちばん新しい一冊には、こんな行があった。
かぶの汁など 宿命の前には
――ぬるい
かぶの汁。麦や塩と同じく、物資の隠語だろう。宿命の前には、ぬるい。国境の守りが手薄だという報せだ。この男は、イァーリの側の守りまで、こちらへ書き送るつもりでいたのかもしれない。
古い一冊に、こんな行もあった。
黄昏は 三たび我が戸を叩く
我は開けぬ まだ詩が成らぬゆえ
三たび、戸を叩く。
私が修道院長と交わしてきた合図と、同じだった。二年前に私が決めた合図だ。この頁は、それより十年は古い。
私たちの暗号が、この男の真似だったのか。それとも、この男が十年前から、私たちが生まれるのを待っていたのか。
厄介なことに、ところどころ、暗号のはずの行が、ただの詩のように胸に来た。戸を叩かれても、詩が成らぬうちは開けない。私にも、覚えがある。暗号を書く者が、暗号の行に泣かされてはならない。それが、この暗号のいちばん恐ろしいところだった。
関所で、役人に荷を訊かれた。
「……紙を、少々」
役人は、鞄の大きさを見て眉を上げたが、通してくれた。
丘の上までは、荷車が上がらなかった。鞄は、自分で背負った。坂の途中で三度休んだ。あの男は、これを背負って国境を越えてきたのだ。腰も、きっと痛めたに違いない。少しだけ、同情した。
修道院の門で、院長が私を見て、蝋燭の色になった。目が、私の背の鞄に吸い寄せられた。
「それは……」
「祈祷書よ」と私は言った。「二十二年分の」
院長は、それ以上訊かなかった。
中庭の向こうから、リリアが駆けてきた。
「ソフィエ様……なぜ、ここに」
「あとで話すわ。鹿は」
リリアの手に、半分に割った黒パンがあった。誰の分かは、訊かなくても分かった。
院長が、黙って客間の窓を指さした。
客間の扉を開けると、壁に弓が一張り、立てかけてあった。矢筒には、真新しい矢が詰まっていた。やはり、射る男だ。
背の高い男が、窓辺に立っていた。前髪のない額。頭巾。振り向いた男の目が、私の顔を見て、それから、私の背の鞄を見た。
男の顔から、血の気が引いた。
正体を見抜かれた男の顔だった。
私は、鞄を床に下ろした。床が、鳴った。
「話があるわ」と私は言った。「――風」