寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
ソフィエが鞄を床に下ろしたとき、床が鳴った。
私は、その音を知っている。屋根裏から十三往復で運び下ろし、鞄に詰めて背負ったとき、腰の骨が同じ音を立てた。二十二年分の重さの音である。
「話があるわ。――風」
風。詮議の夜から、詩の会は作法を破った返歌の作者を、そう呼んで探していた。その作者の詩帳を、主宰が背負ってきた。
見つかった。詩帳ごと。
二十二年、それが「終わり」だと信じてきた。だが、私は数日前に知っている。見つかっても、終わらないことがある。私は、逃げずに椅子に座った。ソフィエは寝台の端に腰を下ろした。詮議の夜より、目の下の影が濃かった。坂の途中で、何度も休んだのだろう。分かる。
グンターの前でなら、削らずに話せる。この人の前では、まだ削る。削って、待つ。
「二十二年分、読ませてもらったわ」
膝から力が抜けた。座っていてよかった。
「……全部か」
「全部は、まだ。でも、分かったことはある」ソフィエは、いちばん古い一冊を取り出した。「最初の頁から、もう始まっていたのね」
始まっていた。私の詩人としての人生が、という意味だろう。
「我が名を、まだ誰も知らぬ。知らぬがよい、いずれ知るゆえ」
読まないでほしかった。十六の私が、三晩かけて書いた二行である。
「……十六だった」
「十六から」ソフィエは、静かに言った。「覚悟が違うわね」
十六の私にあったのは、覚悟ではなく自意識だった。だが、褒められている。第四の理由が、床下から顔を出した。
「宿命と黄昏」ソフィエは続けた。「一冊に四十と三十。二十二年、比が変わらない。何を数えているの」
「……数えては、いない」
「数えずに、比を保つ」ソフィエの目が細くなった。「体に、刻んであるのね」
使いすぎているだけである。グンターにも言われた。
「……癖だ」
「癖。そう呼ぶのね」
「黄昏は、三たび我が戸を叩く」ソフィエは、別の一冊を開いた。「私たちが北の扉の合図を決めたのは、二年前よ。この頁は、それより十年は古い。どうして知っていたの」
「……黄昏は、毎日来る。三度くらいは、叩く」
「毎日」ソフィエは、ゆっくりと息を吐いた。「十年前から、毎日。……見ていたのね」
見ていたのは、窓の外の夕焼けである。
「工房では、一字も書かなかったわね。なぜ」
「……屋根裏には、暖炉がなかった」
下書きは、燃やすものだからである。
「痕跡を残さないため」ソフィエは頷いた。「徹底しているわ」
ソフィエは頁をめくり、それから、私の顔を見た。
「前髪」
心臓が、一度止まった。
「前髪だけが、分からなかった。前髪とは、何」
答えれば、終わる。前髪とは前髪である。物憂げに見えるための、額の一筋である。それ以上でも以下でもない。私の詩は、意味が分かりすぎるのだ。
「……前髪は、前髪だ」
「答えない、というわけね」ソフィエは小さく笑った。「いいわ。鍵は、抜かれた一頁にあるんでしょう」
「……抜かれた?」
「九冊目。綴じ糸が緩んで、一頁足りないわ」
九冊目。風と前髪の契約。旅立ちの夜明け前、私はあの頁を読み返して、鞄のいちばん上に戻した。そのせいで、留め金が一つ閉まらなかった。
あの頁が、ない。
あの町に、私の紙は一枚も残っていないはずだった。
「……どこに」
「それを訊きたいのは、私のほうよ。あなたが、誰かに渡したんでしょう」
渡していない。落としたのだ。どこかで。誰かが拾ったかもしれない。その誰かが、今この瞬間にも、「されど我が後ろ髪に、触れることは許さぬ」を読んでいるかもしれない。
私は、生まれて初めて、本気で気を失いかけた。
それでも、口が勝手に動いた。第四の理由は、気絶しかけた男からも這い出してくる。
「……読んで、どうだった」
ソフィエは、少し考えてから答えた。
「恐ろしかったわ。ところどころ、胸に来るの。暗号なのに」
胸に来る。
グンターは「下手だった」と言った。それはそれで、二十二年分の真実である。だが、胸に来る、と言われたのは、生まれて初めてだった。最後のひとことは、よく聞き取れなかった。聞き取れなかったことにした。
「あなたの返歌」ソフィエは、懐から一枚の紙を出した。私の字だった。四度目の下書きである。「鳩よ、急ぎて扉を叩くな。……あれで、私は止まりかけた」
「……急がなくても、届く。そう書いた」
「そう。急いでいたら、終わっていた。王国は、見張っていたもの」
私は、目を見開いた。
この人は、一行目を読めている。詩は、急がなくても届く。二十二年で初めて、私の詩を、書いたとおりに読んだ人が現れたのだ。胸の奥が熱くなった。後ろ髪のことは、一瞬だけ忘れた。
「鳩は、あなたの巣にいるわね」
「……あの若者は、足を挫いていた」
「手当てまで」ソフィエは、少しだけ目を伏せた。「返せとは言わないわ。あの子はもう、あなたの鳩でしょう」
「……鳩は、誰のものでもない」
空を飛ぶ鳥のことである。少なくとも、私はそのつもりで言った。
「そうね」ソフィエは顔を上げた。「言葉を運ぶ者は、誰のものでもない。……リリアも、同じことを言っていたわ」
「本題よ」ソフィエは、鞄の留め金に手を置いた。「王国の兵が、国境に来る。剣姫を狙って。たぶん、数日のうちに」
知っている。グンターから聞いた。
「その夜、私たちは井戸の道を使う。七つの塩を、運ぶわ」
七つの塩。あの前衛詩の一句である。詩の会は、井戸の道という場所で、七篇を朗読するのだろう。人目を忍んで。
「兵が国境に張りついているあいだだけ、道が空く。だから、あなたには国境で、兵を縫い止めておいてほしいの。新月の夜の、森のように」
私は凍った。森のことを、知っている。
「……あれは」
「噂で聞いたわ。闇の中で、詩を詠みながら射る男がいたって」
「……詠みながらでないと、当たらない」
言ってしまった。削る前に、本当のことが出た。
ソフィエは、少しも驚かなかった。
「知ってるわ。だから来たの」まっすぐに、私を見た。「――詠みなさい。国境で。いくらでも」
詠め。グンターに続いて、二人目である。しかも今度は、詩の会の主宰の口からだ。二十二年、柱にもたれて人の朗読を聞いてきた私に、詩の会の主宰が、国境という壇を用意してくれるというのだ。聴衆は王国の兵である。拍手は期待できない。
だが、あの子を守る壇でもある。
「……行こう」
ソフィエが、手を差し出した。指先が、インクで青かった。私は、その手を握った。
「同志ね」
「……同好の士だ」
ソフィエは、それを、もっと深い言い方だと受け取ったようだった。
扉の向こうで、息を呑む音がした。ソフィエが「入りなさい」と言うと、リリアが灯りを持って入ってきた。握り合った手を見て、それから私の顔を見た。
「……よかった」
何がよかったのかは、訊かなかった。リリアも、言わなかった。
◇
荷車が丘の下で止まるのを、宿舎の窓から見ていた。荷台から降りた女が、大きな鞄を背負って、坂を上りはじめた。あの背格好は、遠目にも分かった。
ソフィエ様だった。
連れ戻すか、黙らせるか。どちらにしても、僕のために来たのだと思った。
夜更けに、裏口から出た。灯りは、今夜も置いてあった。
坂の下で、外套の襟に触れた。鳩の羽根が二枚。三枚目の場所は、空いたままだ。どこで落としたのかは、知らない。
北の扉は叩かなかった。修道院の塀を回り、客間の窓の下にしゃがんだ。鎧戸の隙間から、灯りが漏れていた。
ソフィエ様の背中が見えた。その向こうに、背の高い男が座っていた。頭巾を脱いでいた。前髪がなかった。
鹿さんだった。
鹿さんの足もとに、鞄があった。真鍮の留め金が四つ。行商人が半年の旅に使うような、でかい鞄。
――背の高い、無口な方でした。でかい鞄を背負って。
ティモさんの声が、耳の奥で鳴った。
鹿さんは、紙を折る人だ。ずっと、そう思っていた。思い込もうとしていた。
二人が、手を握り合った。ソフィエ様の声が、鎧戸を抜けてきた。
「同志ね」
僕は、窓の下で動けなくなった。
鹿さんが、弓聖。風の長。工房の屋根裏で、ずっと、僕たちの頭の上で寝ていた人。ソフィエ様は、それを知ったうえで、手を結んだ。
では、僕は何だったのだろう。風に通じた裏切り者だと言われた僕は。風の長とソフィエ様が、今、手を握っている。
分からなくなった。分からないまま、丘を駆け下りた。北門の穴には、いつもの倍の見張りが立っていた。みんな目を閉じていた。目を閉じたまま、僕が通るのを見送った。
宿舎の裏口に、灯りが置いてあった。その横に、剣姫さんが立っていた。
「おかえりなさい」
「……剣姫さん。丘の、修道院に――」
言いかけた僕を、剣姫さんは、静かに止めた。
「言わなくていいです。言いたくなったら、言ってください」
僕は、口を閉じた。
訊かれないことが、いちばん怖かった。この宿舎に来てから、ずっとそうだった。
今夜、生まれて初めて、訊かれないことに救われた。
◇
その夜は、眠らなかった。二十五篇の締め切りがある。壇が決まった以上、なおさらである。
夜明け前までに、六篇目まで書いた。頭の中の白い頁に。
壇は境に 聴衆は兵
拍手はいらぬ ただ止まれ
六篇目にしては、正直すぎる。推敲の余地がある。だが、時間がない。
九冊目の一頁のことは、考えないようにした。考えると、手が震える。手が震えると、矢が逸れる。矢が逸れると、詩が逸れる。
あの子は、境の石に立つだろう。前に立つ者を倍にして。目を閉じて。
私は、あの子に見られてはならない。見られずに、詠まねばならない。小さい声で、韻を立たせて。グンターの言うとおりに。
窓の外が、ぼうっと明るくなった。
夜明けには、まだ早かった。
国境の向こうに、灯りが並んでいた。松明だった。一列ではなかった。数えようとして、やめた。三では、とうてい足りなかった。
町のほうで、ギルドの鐘が鳴った。
扉が開いた。ソフィエだった。
「始まったわ」
ソフィエの後ろで、リリアが灯りを握りしめていた。「鹿さん。どうか……」と言いかけて、リリアは黙った。その先は、削ったのだろう。私にも、覚えがある。
「私たちは、井戸の道へ行く」とソフィエは言った。「国境は、あなたに任せるわ」
それから、ソフィエはリリアと二人で、鞄の持ち手を片方ずつ握った。
「暗号は、預かっていくわ。同志でも、鍵は別々に持つものよ」
私の詩帳が、詩の会の朗読会へ運ばれていく。七篇のついでに、読まれるのだろうか。それとも、読まれないのだろうか。どちらがより恐ろしいのか、もう分からなかった。
私は弓を取り、矢筒を背負った。矢は百本ある。
二十五篇には、まだ十九篇足りなかった。