寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第23章 同好の士

 ソフィエが鞄を床に下ろしたとき、床が鳴った。

 私は、その音を知っている。屋根裏から十三往復で運び下ろし、鞄に詰めて背負ったとき、腰の骨が同じ音を立てた。二十二年分の重さの音である。

 

「話があるわ。――風」

 

 風。詮議の夜から、詩の会は作法を破った返歌の作者を、そう呼んで探していた。その作者の詩帳を、主宰が背負ってきた。

 見つかった。詩帳ごと。

 二十二年、それが「終わり」だと信じてきた。だが、私は数日前に知っている。見つかっても、終わらないことがある。私は、逃げずに椅子に座った。ソフィエは寝台の端に腰を下ろした。詮議の夜より、目の下の影が濃かった。坂の途中で、何度も休んだのだろう。分かる。

 グンターの前でなら、削らずに話せる。この人の前では、まだ削る。削って、待つ。

 

「二十二年分、読ませてもらったわ」

 

 膝から力が抜けた。座っていてよかった。

 

「……全部か」

 

「全部は、まだ。でも、分かったことはある」ソフィエは、いちばん古い一冊を取り出した。「最初の頁から、もう始まっていたのね」

 

 始まっていた。私の詩人としての人生が、という意味だろう。

 

「我が名を、まだ誰も知らぬ。知らぬがよい、いずれ知るゆえ」

 

 読まないでほしかった。十六の私が、三晩かけて書いた二行である。

 

「……十六だった」

 

「十六から」ソフィエは、静かに言った。「覚悟が違うわね」

 

 十六の私にあったのは、覚悟ではなく自意識だった。だが、褒められている。第四の理由が、床下から顔を出した。

 

「宿命と黄昏」ソフィエは続けた。「一冊に四十と三十。二十二年、比が変わらない。何を数えているの」

 

「……数えては、いない」

 

「数えずに、比を保つ」ソフィエの目が細くなった。「体に、刻んであるのね」

 

 使いすぎているだけである。グンターにも言われた。

 

「……癖だ」

 

「癖。そう呼ぶのね」

 

「黄昏は、三たび我が戸を叩く」ソフィエは、別の一冊を開いた。「私たちが北の扉の合図を決めたのは、二年前よ。この頁は、それより十年は古い。どうして知っていたの」

 

「……黄昏は、毎日来る。三度くらいは、叩く」

 

「毎日」ソフィエは、ゆっくりと息を吐いた。「十年前から、毎日。……見ていたのね」

 

 見ていたのは、窓の外の夕焼けである。

 

「工房では、一字も書かなかったわね。なぜ」

 

「……屋根裏には、暖炉がなかった」

 

 下書きは、燃やすものだからである。

 

「痕跡を残さないため」ソフィエは頷いた。「徹底しているわ」

 

 ソフィエは頁をめくり、それから、私の顔を見た。

 

「前髪」

 

 心臓が、一度止まった。

 

「前髪だけが、分からなかった。前髪とは、何」

 

 答えれば、終わる。前髪とは前髪である。物憂げに見えるための、額の一筋である。それ以上でも以下でもない。私の詩は、意味が分かりすぎるのだ。

 

「……前髪は、前髪だ」

 

「答えない、というわけね」ソフィエは小さく笑った。「いいわ。鍵は、抜かれた一頁にあるんでしょう」

 

「……抜かれた?」

 

「九冊目。綴じ糸が緩んで、一頁足りないわ」

 

 九冊目。風と前髪の契約。旅立ちの夜明け前、私はあの頁を読み返して、鞄のいちばん上に戻した。そのせいで、留め金が一つ閉まらなかった。

 あの頁が、ない。

 あの町に、私の紙は一枚も残っていないはずだった。

 

「……どこに」

 

「それを訊きたいのは、私のほうよ。あなたが、誰かに渡したんでしょう」

 

 渡していない。落としたのだ。どこかで。誰かが拾ったかもしれない。その誰かが、今この瞬間にも、「されど我が後ろ髪に、触れることは許さぬ」を読んでいるかもしれない。

 私は、生まれて初めて、本気で気を失いかけた。

 それでも、口が勝手に動いた。第四の理由は、気絶しかけた男からも這い出してくる。

 

「……読んで、どうだった」

 

 ソフィエは、少し考えてから答えた。

 

「恐ろしかったわ。ところどころ、胸に来るの。暗号なのに」

 

 胸に来る。

 グンターは「下手だった」と言った。それはそれで、二十二年分の真実である。だが、胸に来る、と言われたのは、生まれて初めてだった。最後のひとことは、よく聞き取れなかった。聞き取れなかったことにした。

 

「あなたの返歌」ソフィエは、懐から一枚の紙を出した。私の字だった。四度目の下書きである。「鳩よ、急ぎて扉を叩くな。……あれで、私は止まりかけた」

 

「……急がなくても、届く。そう書いた」

 

「そう。急いでいたら、終わっていた。王国は、見張っていたもの」

 

 私は、目を見開いた。

 この人は、一行目を読めている。詩は、急がなくても届く。二十二年で初めて、私の詩を、書いたとおりに読んだ人が現れたのだ。胸の奥が熱くなった。後ろ髪のことは、一瞬だけ忘れた。

 

「鳩は、あなたの巣にいるわね」

 

「……あの若者は、足を挫いていた」

 

「手当てまで」ソフィエは、少しだけ目を伏せた。「返せとは言わないわ。あの子はもう、あなたの鳩でしょう」

 

「……鳩は、誰のものでもない」

 

 空を飛ぶ鳥のことである。少なくとも、私はそのつもりで言った。

 

「そうね」ソフィエは顔を上げた。「言葉を運ぶ者は、誰のものでもない。……リリアも、同じことを言っていたわ」

 

「本題よ」ソフィエは、鞄の留め金に手を置いた。「王国の兵が、国境に来る。剣姫を狙って。たぶん、数日のうちに」

 

 知っている。グンターから聞いた。

 

「その夜、私たちは井戸の道を使う。七つの塩を、運ぶわ」

 

 七つの塩。あの前衛詩の一句である。詩の会は、井戸の道という場所で、七篇を朗読するのだろう。人目を忍んで。

 

「兵が国境に張りついているあいだだけ、道が空く。だから、あなたには国境で、兵を縫い止めておいてほしいの。新月の夜の、森のように」

 

 私は凍った。森のことを、知っている。

 

「……あれは」

 

「噂で聞いたわ。闇の中で、詩を詠みながら射る男がいたって」

 

「……詠みながらでないと、当たらない」

 

 言ってしまった。削る前に、本当のことが出た。

 ソフィエは、少しも驚かなかった。

 

「知ってるわ。だから来たの」まっすぐに、私を見た。「――詠みなさい。国境で。いくらでも」

 

 詠め。グンターに続いて、二人目である。しかも今度は、詩の会の主宰の口からだ。二十二年、柱にもたれて人の朗読を聞いてきた私に、詩の会の主宰が、国境という壇を用意してくれるというのだ。聴衆は王国の兵である。拍手は期待できない。

 だが、あの子を守る壇でもある。

 

「……行こう」

 

 ソフィエが、手を差し出した。指先が、インクで青かった。私は、その手を握った。

 

「同志ね」

 

「……同好の士だ」

 

 ソフィエは、それを、もっと深い言い方だと受け取ったようだった。

 扉の向こうで、息を呑む音がした。ソフィエが「入りなさい」と言うと、リリアが灯りを持って入ってきた。握り合った手を見て、それから私の顔を見た。

 

「……よかった」

 

 何がよかったのかは、訊かなかった。リリアも、言わなかった。

 

◇

 

 荷車が丘の下で止まるのを、宿舎の窓から見ていた。荷台から降りた女が、大きな鞄を背負って、坂を上りはじめた。あの背格好は、遠目にも分かった。

 ソフィエ様だった。

 連れ戻すか、黙らせるか。どちらにしても、僕のために来たのだと思った。

 夜更けに、裏口から出た。灯りは、今夜も置いてあった。

 坂の下で、外套の襟に触れた。鳩の羽根が二枚。三枚目の場所は、空いたままだ。どこで落としたのかは、知らない。

 

 北の扉は叩かなかった。修道院の塀を回り、客間の窓の下にしゃがんだ。鎧戸の隙間から、灯りが漏れていた。

 ソフィエ様の背中が見えた。その向こうに、背の高い男が座っていた。頭巾を脱いでいた。前髪がなかった。

 鹿さんだった。

 鹿さんの足もとに、鞄があった。真鍮の留め金が四つ。行商人が半年の旅に使うような、でかい鞄。

 

 ――背の高い、無口な方でした。でかい鞄を背負って。

 

 ティモさんの声が、耳の奥で鳴った。

 鹿さんは、紙を折る人だ。ずっと、そう思っていた。思い込もうとしていた。

 二人が、手を握り合った。ソフィエ様の声が、鎧戸を抜けてきた。

 

「同志ね」

 

 僕は、窓の下で動けなくなった。

 鹿さんが、弓聖。風の長。工房の屋根裏で、ずっと、僕たちの頭の上で寝ていた人。ソフィエ様は、それを知ったうえで、手を結んだ。

 では、僕は何だったのだろう。風に通じた裏切り者だと言われた僕は。風の長とソフィエ様が、今、手を握っている。

 分からなくなった。分からないまま、丘を駆け下りた。北門の穴には、いつもの倍の見張りが立っていた。みんな目を閉じていた。目を閉じたまま、僕が通るのを見送った。

 宿舎の裏口に、灯りが置いてあった。その横に、剣姫さんが立っていた。

 

「おかえりなさい」

 

「……剣姫さん。丘の、修道院に――」

 

 言いかけた僕を、剣姫さんは、静かに止めた。

 

「言わなくていいです。言いたくなったら、言ってください」

 

 僕は、口を閉じた。

 訊かれないことが、いちばん怖かった。この宿舎に来てから、ずっとそうだった。

 今夜、生まれて初めて、訊かれないことに救われた。

 

◇

 

 その夜は、眠らなかった。二十五篇の締め切りがある。壇が決まった以上、なおさらである。

 夜明け前までに、六篇目まで書いた。頭の中の白い頁に。

 

  壇は境に 聴衆は兵

  拍手はいらぬ ただ止まれ

 

 六篇目にしては、正直すぎる。推敲の余地がある。だが、時間がない。

 九冊目の一頁のことは、考えないようにした。考えると、手が震える。手が震えると、矢が逸れる。矢が逸れると、詩が逸れる。

 あの子は、境の石に立つだろう。前に立つ者を倍にして。目を閉じて。

 私は、あの子に見られてはならない。見られずに、詠まねばならない。小さい声で、韻を立たせて。グンターの言うとおりに。

 

 窓の外が、ぼうっと明るくなった。

 夜明けには、まだ早かった。

 国境の向こうに、灯りが並んでいた。松明だった。一列ではなかった。数えようとして、やめた。三では、とうてい足りなかった。

 町のほうで、ギルドの鐘が鳴った。

 扉が開いた。ソフィエだった。

 

「始まったわ」

 

 ソフィエの後ろで、リリアが灯りを握りしめていた。「鹿さん。どうか……」と言いかけて、リリアは黙った。その先は、削ったのだろう。私にも、覚えがある。

 

「私たちは、井戸の道へ行く」とソフィエは言った。「国境は、あなたに任せるわ」

 

 それから、ソフィエはリリアと二人で、鞄の持ち手を片方ずつ握った。

 

「暗号は、預かっていくわ。同志でも、鍵は別々に持つものよ」

 私の詩帳が、詩の会の朗読会へ運ばれていく。七篇のついでに、読まれるのだろうか。それとも、読まれないのだろうか。どちらがより恐ろしいのか、もう分からなかった。

 私は弓を取り、矢筒を背負った。矢は百本ある。

 二十五篇には、まだ十九篇足りなかった。

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