寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
境の石から、北の森の縁まで、四十歩。
切り株までと、同じ距離である。体が覚えている距離で射るのが、いちばん外さない。私は、森の縁の最後の木の陰に膝をついた。
あの子は、境の石の前に立っている。前に立つ者を倍にして、目を閉じて。四十歩では、気配は筒抜けである。千歩先の丘にいた私にさえ、顔を向けた子だ。
だが、あの子は森に入らない。見せようとしないものを、見に行かない。十年、そういう子だった。
私は、弟子の信条の陰に隠れることにした。師として、これ以上に恥ずべき布陣はない。
境の向こうに、松明が並んでいた。六十を数えたところで、やめた。兵は三百はいるだろう。前列に弩、後ろに槍、両脇に騎馬。中央の一騎の兜に、ひときわ長い房が揺れていた。あれが長だろう。
人には、当てない。
慈悲ではない。新月の森で学んだのである。人に当たった矢は、鈍い音を立てる。鈍い音は、不採用である。今夜は最初から、澄んだ音のするものだけを射る。松明の柄。弩の弦。兜の房。旗の綱。
矢筒には、百本。頭の中の白い頁には、新作が六篇。行にして、二十一。七十九、足りない。
矢をつがえ、囁いた。
「――宿命の炉に、鉄は鳴る」
「鳴る」の「る」で放った。矢は、いちばん手前の松明の炎をかすめて、闇に消えた。
外した。声が小さすぎて、韻が立っていない。炉の前の声が、耳の奥で言った。――立たせろ。
二本目は、囁きと独り言のあいだの声で詠んだ。
「――我は詠う、闇の境にて」
かん、と鳴った。松明の柄が折れ、火が地面に落ちて消えた。
弩兵は、横一列に並んでいた。森の縁から見れば、斜めの一列である。斜めの一列は、矢の側から見れば、縦の一列である。
「――汝の夜明けを、誰も知らずともよい」
「よい」の「い」で放った三本目は、弦を七つ、続けざまに鳴らして、闇へ抜けた。一篇目の最終行にしては、出来すぎである。
一行に、一本。一本に、ひとつの澄んだ音。松明が、端から一つずつ消えていった。境の向こうで、兵たちが騒ぎはじめた。騒ぐ声は、韻の邪魔である。声を、もう少し上げた。
二十二本目で、新作が尽きた。
七篇目は、詠みながら書くしかなかった。三時間かけて一語を直す男が、一行に、息ひとつしか使えない。
松明は消ゆ 我が韻に
弦は切れたり 我が韻に
二本とも、当たった。同じ語で韻を踏むのは、詩人として最も恥ずべき行為である。当たったのが、かえって腹立たしかった。八篇目は、一行目で止まった。戦場では、推敲ができない。
矢は、まだ七十七本ある。
詩帳は、ソフィエが井戸の道へ運んでいった。だが、詩帳は要らなかった。二十二年分、一行残らず、覚えている。
旧作を詠むしかない。誰にも聞かせないために書いてきた行を、三百の兵の前で。詠みなさい、いくらでも、と主宰は言った。いくらでも、詠むことになった。
「――黄昏の射手は、孤独を番える」
弩の弦が鳴った。
「――放たれし矢は、我が宿命(さだめ)」
兜の房が飛んだ。
「――黄昏よ、我が背に乗れ」
直す前のほうで詠んだ。旗が、綱ごと落ちて、旗手の頭にかぶさった。
一篇ごとに、声が大きくなった。小さい声では、韻が立たない。立たせるたびに、声のほうが勝手に育っていく。「宿命」は一篇に一度まで、という規則は、四半刻で跡形もなくなった。
弓聖が黙ったら、次の矢で終わる。そういう噂がある。今夜の私は、一度も黙らなかった。弓聖が黙らないと何が起きるのか、誰も知らない。私も知らなかった。
行の終わりが近づくと、境の向こうで、兵たちが一斉に身をすくめるようになった。韻の落ちる場所を、体で覚えはじめている。良い聴衆である。
「――かぶの汁など、宿命の前には」
一拍、置いた。
「――ぬるい」
長の兜の房が、夜空へ飛んだ。ほどなく、境の向こうで、兵たちが一斉に兜を脱ぎはじめた。房を射られるのが嫌なのだろう。気持ちは分かる。私も、前髪を射られたら嫌だ。
そして、あの一行が来た。第二連の頭、転調の行である。二十二年、最大の声で詠むと決めてきた。作法には、逆らえなかった。
「――三度目の満月の夜、風は国境(さかい)を越える!」
私の声が、国境じゅうに響き渡った。こだまが、三度、返ってきた。三は、美しい数である。今夜だけは、聞きたくなかった。
丘の上で、何かが一度、硝子のように光った。
矢筒に手をやった。残りは、一本だった。
◇
闇の奥から文句が聞こえるたびに、灯りが一つ消えた。
兵どもは「詠唱だ」と囁き合った。魔導師がいる、と。馬鹿を言え。魔法など、剣に小さな光を灯す程度のものだ。灯りを消して回る魔法など、聞いたこともない。
十四人が森で縫い止められたときも、傭兵どもは「森に何かいる」と言った。俺は信じなかった。何かではない。誰かだ。
兵の誰かが「弓聖だ」と言った。馬鹿を言え。弓聖は、ひと月前に国境を越えて行方知れずだ。それに、弓聖とは黙る男だと聞く。あの声は、一度も黙らない。
あれは、号令だ。
森に伏せた射手どもへの号令だ。一本ごとに、狙う的が違う。松明、弦、房、旗。的ごとに、受け持ちの射手がいるのだ。号令一つに、矢が一本。一本も外れない。統制が、取れすぎている。百人はいる。
兵どもは、文句の終わりが近づくと伏せるようになった。伏せても、矢は兵には来ない。来るのは、松明と弦と房と旗だけだ。
副官が、号令の文句を書き留めていた。
「『黄昏の射手は、孤独を番える』。……黄昏の射手隊。少数精鋭の意かと」
「『黄昏よ、我が背に乗れ』。……騎馬隊への合図では」
「『かぶの汁など、宿命の前には』――」
副官が読み上げたとき、森から、ひとこと来た。
「――ぬるい」
俺の兜の房が、夜空へ飛んだ。
ぬるい。俺の陣を、ぬるいと言ったのだ。
「兜を脱げ」と俺は命じた。「房が、闇で的になっている」
三百の兜が、地面に置かれた。俺も脱いだ。
「――三度目の満月の夜、風は国境を越える!」
森から、ひときわ大きな声が来た。副官の羽ペンが止まった。
「……長。今夜は、満月ではありません」
「だから恐ろしいのだ。今夜の号令ではない。次の作戦の予告だ。奴らは三度目の満月に、国境を越えてくる」
弩は、弦を切られた。松明は、もう数えるほどしかない。旗は、一本も立っていない。
それなのに、誰ひとり、血を流していない。それが、いちばん恐ろしかった。
だが、射手どもは森から出てこない。森の外にいるのは、境の石に立つ娘と、目を閉じた前列だけだ。十四人の恥を雪ぐには、あの娘ひとりで足りる。
夜明けが近かった。夜明けには、山から風が吹き下ろす。こちらの背から、あちらの顔へ。
風を使う女には、風で当たる。
「騎馬、二十。俺に続け。狙いは、剣姫ひとり」
兜のない頭に、山の風が当たりはじめた。
◇
山からの風が、砂を連れて吹き下ろしてきた。
蹄の音が、二十。風を背に、まっすぐ、境の石へ。
私は、百本目をつがえた。口を開いた。
「――黄昏は、ただ我が……」
違う。
黄昏は、今、私のためにあるのではない。
二十二年分の行を、頭の中で、全部めくった。どの行も、私のことしか書いていなかった。あの子のことを書いた行は、一行もない。書こうとして、一行目で止まった詩が、一篇あるだけだ。
黙って射れば、外れる。黄昏で射れば、嘘になる。
詩にならないものは、矢にならない。
十年前、焼けた村の台所の床下で、あの子は二日、隠れていた。盗賊じゃない人が来るまで、と言われて。私は弓を床に置き、黒パンを半分かじってから、差し出した。
――もう、出ていい。
あのとき私が言えたのは、それだけだった。
百本目を、矢筒に戻した。弓を下ろした。
最後の木の陰から、出た。
四十歩。数えなかった。
あの子と、蹄の音とのあいだに、立った。あの子に背を向けて、二十騎のほうを向いて。
前髪のない額に、砂が当たった。
背中で、あの子が息を吸うのが分かった。
◇
夜のあいだ、森の縁から、声が聞こえていた。
言葉は、聞かないことにした。森は、師匠の場所だ。森から来る言葉も、きっと、そうだ。
拍子だけが、聞こえた。四つ打って、一つ休み、強い一打。そのたびに、境の向こうで灯りが一つ消えた。十年、眠る前に聞いてきた拍子だった。鍛冶屋の小槌と、同じ拍子だった。途中で、三百の兜が地面に置かれる音がした。
似ているだけかもしれない、とは、もう思わなかった。それでも、私は振り返らなかった。
夜明け前に、拍子が途切れた。
代わりに、山の風が来た。砂が頬を打ち、蹄の音が二十、まっすぐ私に向かってきた。前列のティモさんたちが、息を詰めた。
合図を出そうとしたとき、森の縁から、足音がした。
その足音を、私は知っていた。焼けた村からの帰り道、私の足音に合わせて止まり、また歩き出した足音だ。
足音は、私の前で止まった。私と、蹄の音のあいだで。
大きな背中が、風を受けていた。私の代わりに。
短剣を抜いた。刃の根元が、熱くなった。
風が、迷っていた。山から来て、行き先を知らずに、その背中に、まっすぐ吹きつけていた。
だから、行き先を告げた。
「――風よ、我が前髪のみを揺らせ」
風が、聞いた。
砂が、落ちた。ぱらぱらと、まっすぐに。唸りが消え、蹄の音が乱れて、止まった。馬が、一斉に鼻を鳴らした。
それから、ひと筋の風が、刃の先から境の向こうへ走っていった。
三百の息が、一度に止まった。
「……前髪が」
「俺の前髪が、勝手に……!」
「馬の前髪まで、揺れてやがる……!」
誰かが、叫んだ。
「前髪の剣姫だ……!」
いちばん偉そうな声が、退け、と叫んだ。蹄の音が、向きを変えた。三百の足音が、境の向こうへ遠ざかっていく。兜を拾う音は、一つもしなかった。
――風は、聞いてくださる。帳面に書いたとおりだった。
風が、戻ってきた。
最後のひと筋が、私の前に立つ人のところへ行った。額のあたりを、何かを探すように、しばらく回っているのが分かった。
それから、布の擦れる音がした。頭巾の外れる音だった。
師匠は、森から出ていらした。
見せようと、なさったのだ。
私は、目を開けた。