寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
風は、律儀である。
「我が前髪のみを揺らせ」の「我」を、あの一行を書いた者だと受け取ったらしい。最後のひと筋は、私の額をしばらく探し回り、探すものがないと分かると、代わりに頭巾を持っていった。
前髪は、半月前に切った。契約を先に破ったのは、私のほうである。
背中で、あの子が目を開けたのが分かった。気配ではない。十年、同じ屋根の下にいれば、目を開ける音くらいは聞こえる。
私は、振り返った。
あの子は、短剣を下ろしたまま、私を見ていた。刃の根元の光が、ゆっくりと消えていくところだった。泣いてはいなかった。目を開けたまま、まっすぐに私を見ていた。
削らない、と決めていた。
森の縁の木の陰を出たときに、決めたのである。グンターの前でなら、削らずに話せる。この子の前で削らずに話したことは、十年、一度もない。今日は、全部、言う。
言うべきことは、頭の中に並んでいた。
一つ。黙って出ていったことを、詫びる。
二つ。北門の「行ってらっしゃいませ」を訂正しなかったことを、詫びる。
三つ。嵐の日、薪小屋の隙間から見ていた。誇らしかった。
四つ。新月の森の十四人は、私の矢だ。だが、手柄は返さなくていい。
五つ。短剣の一行は、奥義ではない。前髪の詩である。
六つ。詩帳のことは、もう知っているだろうが――
七つ。十年前のあの日のことを、私は、まだ一行も書けていない。
削らない。七つ、全部、言う。
口を開いた。
七つが、一度に出口へ押し寄せた。
「……行って、……すまない、……前髪は、……十四の、……誇らし、……詩帳、……前髪が」
前髪が、二度出た。前髪は、いつも列に割り込む。
言葉は、出口で詰まった。二十二年、削ることしかしてこなかった口は、削らない言葉の通し方を知らなかったのである。後ろの言葉が前の言葉を押し、前の言葉は振り返って詫びようとして、そこでまた詰まった。
私は、口を開けたまま、黙った。黙ったのではない。渋滞である。削ることには、二十二年の修練がある。削らないことには、修練がなかった。
前列の若手たちは、まだ目を閉じていた。陣の作法なのだろう。助かった。
あの子は、私の渋滞を、最後まで黙って聞いていた。それから、言った。
「森の言葉は、聞かないことにしていました」
心臓が、一度止まった。
「でも、一行だけ、聞こえてしまいました。最後の一打が、来なかったので」
あの子は、少しだけ息を吸った。
「――黄昏は、ただ我が……」
聞かれていた。
二十二年分の行のうち、よりによって、あの一行を。私のことしか書いていない、韻の落ちる前に放り出した、未完成の一行を。
「師匠は、森で、詠んでいらしたのですね」あの子は言った。「十年、ずっと」
膝が、笑った。
この子は、とうに知っている。屋根裏の詩帳を読み、あの一行を選んで、短剣に刻んだ子である。知っている子が、知っていると言っただけだ。それだけのことで、膝が笑った。列の中で、五つ目と六つ目が青ざめていた。
「……あれは」
言いかけた私を、あの子は、静かに止めた。
「言わなくていいです。言いたくなったら、言ってください」
誰かにも、同じことを言ったことのある声だった。
列が、静かになった。七つの言葉は、順番に、その場に腰を下ろした。言いたくなったら、と言われた。言いたくなるまで、待っていてくれるらしい。
あの子は、短剣を鞘に収めた。
「おかえりなさいませ、師匠」
声が、少しだけ揺れていた。
北門で、あの子は「行ってらっしゃいませ」と言った。私は、訂正しなかった。行ってらっしゃいませ、と言われた者は、帰ってこなければならない。
腰を下ろした列のいちばん後ろに、いちばん短い言葉が一つ、立っていた。削ったのではない。最初から、それしかなかったのだ。
「……ただいま」
山の風が、もう一度だけ戻ってきた。私の額を素通りして、あの子の前髪だけを、そっと揺らした。
◇
「皆さん、目を開けていいです」と剣姫さまが言ったので、開けた。
弓聖さまがいた。
前髪が、なかった。
俺は叫んだ。何を叫んだかは覚えてない。ハンスとフリッツが同時に「弓聖さまだ」と言って、同時に尻もちをついた。
夜のあいだ、国境の向こうで、敵の誰かが「伏兵だ、百人はいるぞ」と叫んでたのを、俺は聞いてる。森の中に、弓聖さまの射手が百人、伏せてたんだ。ひと月どこに行ってたのかと思ったら、国境の向こうで百人の射手を育ててたんだ。それで、今夜、連れて帰ってきた。
なのに、森から出てきたのは、弓聖さま一人だった。百人は、森に残したまま。自分は弓も下ろして、剣姫さまの前に、ただ立った。
三百人を追い返したのは、剣姫さまの前髪と、弓聖さまの伏兵百人だ。弓聖さま本人は、一本も射ってない。ただ、立ってただけだ。
それが、いちばん、かっこよかった。
町へ戻る道で鍛冶屋の前を通ったとき、炉の奥で、小槌が一度だけ鳴った。弓聖さまは、少しだけ歩くのが遅くなった。
剣姫さまは、弓聖さまの半歩後ろを歩いていた。弓聖さまのほうが、剣姫さまの足音に合わせて、止まったり、また歩いたりしていた。なんでそんな歩き方をするのかは、分からない。
町は、ひっくり返った。
ギルド長は卓を探して見つからず、倒れたままの北門の門扉に登った。門扉は倒れているので、登っても、高さはほとんど変わらなかった。それでも泣きながら演説して、最後は門扉から転げ落ちた。「弓聖は帰った! 前髪を置いて、帰ってきたぞ!」というのが、演説のぜんぶだった。マルタさんは前掛けで目を押さえたまま、弓聖さまの額を見て、もっと泣いた。
「前髪を……前髪を、剣姫さまに譲ったんだよ……!」
それで、みんな泣いた。前髪の剣姫の師匠が、前髪を捨てて帰ってきた。そういう話になった。俺も泣いた。
広場の隅では、捕虜になってる国境警備隊の髭の濃い男が、弓聖さまの背中を見るなり「酒場の……あの晩の……」と言いかけて、気を失った。何があったのかは知らない。
昼までに、伏兵は三百人になった。敵は千人になった。言い出したのが俺だということは、黙っておく。若手が、弓聖さまの伏兵に入れてくれと列を作った。いちばん前は俺だ。弓聖さまと剣姫さまのどっちが上かという話は、昼過ぎに「師弟で上」ということで落ち着いた。
弓聖さまは、何も言わなかった。……黙ってる。本物だ。
広場の端で、ルカさんが手帳を開いていた。羽ペンが、ひどくゆっくり動いていた。宿舎の窓には灰色さんがいて、両手で口を押さえたまま、弓聖さまの顔ばかり見ていた。
◇
宴は、三度目の乾杯で、ギルド長が卓から落ちて終わった。
宴のあと、鍛冶屋の裏口を三度叩いた。扉は、一度目で開いていた。炉の前に、白湯が二つ置いてあった。
「……詠んだか」
「詠んだ。旧作まで、全部」
「聞こえた」グンターは、北を向いた煙突を見上げた。「……下手だった」
知っている。
「だが、二十二年で、いちばん、よく聞こえた」
グンターは、それから私の額を見た。
「……まだだ」
前髪のことである。
ひと月ぶりの自室は、何も変わっていなかった。寝台も、机も、窓の外の森も。変わったのは、天井の上である。屋根裏には、もう何もない。
矢筒を、壁に立てかけた。矢は一本だけ入っている。百本目である。
百本目には、乗せる行がなかった。あの子のことを書いた行が、一行もなかったからである。いつか、乗せる行ができたら、射ることにする。どこへ射るのかは、まだ決めていない。
町の話では、私は国境の向こうで百人の射手を育てて森に伏せ、自分は一本も射ずに弟子の前に立った男、ということになった。
伏兵は、私一人である。九十九本は、全部、私の矢である。
……言えないが。
言えないことが、また一つ増えた。だが、あの子は、言いたくなったら言えばいい、と言った。言いたくなるまで、待つと言った。待たれている、というのは、思っていたより悪くない。
机に向かい、紙を出しかけて、やめた。紙に書かれた言葉は、独り歩きする。頭の中の白い頁に書いた。
門なき門を 我はくぐる
前髪なき額に 宿命の風
――「ただいま」は、四文字にして、我が最高傑作なり
三行目が長い。だが、削らない。
二十二年、信じてきた原則がある。詩は、生きているうちに見つかったら、終わりだ。
今夜、訂正する。
詩は、生きているうちに見つかっても、終わらないことがある。下手だと言われても、胸に来ると言われても、聞こえてしまったと言われても、私はまだ、ここにいる。
ただし、詩帳が朗読会で読み上げられる場合については、引き続き検討を要する。
次の満月まで、あと八日。私の詩帳は、どこかの井戸の道の先で、七篇の朗読を待っている。九冊目の一頁は、どこにあるのか、まだ分からない。
窓の外で、北風が鳴った。鍛冶屋の煙突だろう。今夜は、もう十分に聞かせた。
◇
遠眼鏡で、全部見た。
事実一。夜のうちに、国境の向こうの松明が六十、弩の弦が数え切れず、兜の房と旗が残らず落ちた。血は一滴も流れていない。
事実二。号令の声は、森の縁の一か所からしか聞こえなかった。
事実三。夜明けに森から出てきた男は、一人だった。出てきたのも、その一か所だった。
事実四。遠眼鏡の中で、男の頭巾が風に外れた。前髪のない顔だった。宴の夜に一瞬だけ見た、何かを失くした男の顔ではなかった。何かを取り戻した男の顔だった。
手帳に、一行書きかけた。――伏兵は、いなかったのではないか。
消した。一人で三百を止める人間など、存在しない。完璧な人間など、存在しない。完璧に見えるなら、何かを隠している。隠しているのは、百人の伏兵のほうだ。
――弓聖、帰還。伏兵、百。所在不明。
もう一行、書き足した。
――三度目の満月の夜、風は国境を越える。
旅立ちの前、あの森で初めて聞いた一行だ。夜明け前、本人が国境で、同じ一行を叫んだ。指令は、まだ終わっていない。
――次の満月。国境。
手帳を閉じた。報告は、まだしない。