寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
私の指先は、いつも青い。
洗っても落ちない。落とすつもりも、もうない。ブーフホルツの青。十五年前まで、セリグマン王国の西の外れでは、その名で通じた色だった。
ブーフホルツは、私の家の名だ。下級貴族の、さらに末席。領地は、川沿いの細長い谷が一つきり。麦はろくに採れない。代わりに、水がきれいだった。
曾祖父が紙漉きの水車を据え、祖父が綴じ場を建て、父が青いインクを作った。谷じゅうの家が、紙を漉くか、糸を撚るか、本を綴じるかしていた。領地を、本で回していたのだ。王国の祈祷書の三冊に一冊は、うちの谷で綴じられていた。
うちの本には、印があった。どの祈りも、各行の頭の一字だけを青で刷るのだ。ブーフホルツの青で。頁を開くと、左の端に青い字が縦に並ぶ。それが、谷の自慢だった。
父は、貴族の手をしていなかった。指先が、いつも青かった。王都に上がるたびに、それを笑われて帰ってきた。父は、笑われても手を洗わなかった。
私は、綴じ場で育った。母は、私が物心つく前に死んだ。乳の代わりに膠の匂いを嗅いで育った、と親方はよく笑った。親方は髭の濃い製本師で、字がひどく下手だった。今は、鴉と呼ばれている。
父の口癖は、二つあった。
「本は、まず綴じを見ろ。中身は、綴じに出る」
「何度も開かれた本は、綴じ糸がやわらかい」
三つ目は、口癖ではない。一度だけ聞いた。
「本は、読む人の胸に来るように綴じるものだ」
◇
十八の春、私は祈祷書の祈りを一篇、書いた。
谷の礼拝堂で使う、新しい朝の祈りだ。父に頼まれたのではない。自分で書いて、自分で刷って、自分で綴じて、父の机に置いた。父は黙って読み、王国じゅうの教会に納める祈祷書に、それを入れた。
おお主よ 今朝もまた 我らに麦を
うつくしき水を 紙を漉く川に
はたらく手に ひとしい休みを
さいわいは 綴じ糸のように ほどけずに
れいはいの鐘が 鳴りやむまで
胸に来る祈りを書いたつもりだった。十八の娘にしては、悪くなかったと思う。今でも、そう思う。
その年の秋、寄親のオルデン伯爵家が、王都でトゥエイン家と争って負けた。
上級貴族どうしの争いの中身を、谷の娘が知るはずもない。分かったのは、結果だけだ。負けた側は、何かを差し出さなければならない。オルデン伯は、いちばん小さくて、いちばん遠い寄子を差し出した。
私たちを、切ったのだ。
オルデン伯からの手紙は、一行だった。――貴家の忠誠を、王国は忘れぬであろう。
忘れなかったのは、王国ではなく、トゥエイン家のほうだった。
◇
王都の評定の間には、窓が一つもなかった。
トゥエイン卿は、私の祈祷書を高く掲げた。
「この祈りの、各行の頭の一字を、縦に読んでいただきたい」
お。う。は。さ。れ。
王は、去れ。
五つの青い字が、左の端に縦に並んでいた。谷の自慢の、あの青で。
評定の間が、ざわめいた。私は、自分の書いた五行を、初めて縦に見た。そんなふうに読めるとは、一度も思わなかった。思うはずがない。祈りは、横に読むものだ。
父が、私の前に一歩出た。
「書いたのは、私です」
違う、と言おうとした。父の手が、後ろ手に私の手首を握った。強く。綴じ糸を締めるときの、あの強さで。
そのとき、トゥエイン卿の後ろから、小さな声がした。
「父上」
十歳くらいの男の子だった。上等な服を着て、背伸びをするように胸を張っていた。トゥエイン家の次男、ウビル。あとで知った名だ。隣に立つ兄のほうは、退屈そうに爪を眺めていた。
「僕の観察によれば」と、その子は言った。「これは、昨夜、父上の書斎で、学者の先生たちが三日がかりで探していたものですね」
評定の間が、静まり返った。
「見つかって、よかったですね、父上!」
その子は、心の底から嬉しそうだった。父親の役に立てたと信じている顔だった。
トゥエイン卿は、咳払いを一つした。それで終わった。誰も、聞かなかったことにした。本当のことは、十歳の子どもの口から一度だけ出て、そのまま窓のない部屋の床に落ちた。
その子のほうは、まだ終わらなかった。
「僕が、正しく読み上げます」と言って、父親の手から祈祷書を取った。「僕は、修辞学を学んでおりますので。古い字も読めますので」
家庭教師らしい男が、袖を引こうとして、間に合わなかった。
古い字ではない。私が、先月書いた字だ。
その子は、横に読んだ。
「おお主よ、今朝もまた、我らに麦を……」
三行目あたりで、声が揺れはじめた。四行目で、止まった。
「……さいわいは、綴じ糸のように、ほどけずに」
その子は、泣いていた。
「とても……いい祈りです……」
トゥエイン家の側の大人たちが、一歩下がった。味方が引くのを、私は初めて見た。
「でも、縦に読むと、ひどいです……」その子は、しゃくりあげながら言った。「こんなにいい祈りなのに……縦に読むと……王は、去れ、です……」
証拠を、二度読み上げたことになる。泣きながら。
評定は、それで決まった。最初から決まっていたのだろう。父は、王都の塔へ。ブーフホルツの家は、取り潰し。谷の水車と綴じ場は、トゥエイン家に連なる商人の手に渡った。
衛兵に両腕を取られて、父は一度だけ振り返った。
「……いい祈りだった」
机に置いたあの日、父は黙って読んだだけだった。感想を聞いたのは、それが最初で、最後だった。
◇
評定の間を出た廊下で、後ろから走ってくる足音がした。
あの子だった。顔じゅうを涙で濡らして、手巾を差し出した。白い絹に、トゥエイン家の紋が刺繍してあった。
「僕は、悲しいです」とその子は言った。「あの祈りを書いた人が、悪い人だなんて」
書いたのは、私だ。
言えなかった。言えば、父が手首を握った意味がなくなる。
私は、手巾を受け取った。受け取るべきではなかった。受け取らなければ、あの子はいつまでもそこで泣いていただろう。
「返さなくていいです」とその子は言った。「僕は、あと十二枚持っていますので」
慰めのつもりだったのだと思う。あの子には、悪気というものが、たぶん最初から備わっていなかった。
憎むべき家の、憎むべき子だった。
憎めなかった。
それが、いちばん悔しかった。
◇
谷を出るとき、持ち出せたのは、綴じの道具ひと揃いと、青いインクの瓶が三つ。それに、親方だけだった。親方は、何も訊かずについてきた。
国境の町の路地の奥に、看板のない工房を借りた。昼は、人の帳簿や祈祷書を綴じた。夜は、考えた。
言葉の意味は、読む者が決める。
私の祈りは、胸に来るように書いた。それを、縦に読んだ者がいた。縦に読ませたい者がいたからだ。この国では、言葉の意味を決めるのは、書いた者ではない。力のある者だ。
この国の言葉は、腐っている。
ならば、本当に入れてやろう、と思った。祈祷書の見返しの下に。あの人たちが見つけたがったものを、本当に。
暗号を作るとき、決めたことがある。
胸に来る言葉は、使わない。鳩。塩。麦。井戸。扉。ただの物の名を、韻も意味も捨てて並べる。胸に来る言葉は、縦にも横にも、誰にでも読まれてしまう。胸に来ない言葉なら、決めた者にしか読めない。
それが、私の暗号だ。父の三つ目の言葉の、ちょうど裏返しだった。
最初の一枚を、親方に見せた。
鳩は三つ 塩は北に
麦は眠り 扉は井戸に
親方は、長いこと眺めてから言った。
「……胸に、来んな」
「来ないように書いたのよ」
「お嬢の祈りのほうが、よかった」
親方が私をお嬢と呼んだのは、それが最後だった。
仲間が、少しずつ増えた。痩せた娘が来て、黒いインクを使いたがった。言葉を運びたいという女が来て、黒パンを半分に割って置いていった。親方は、鴉と呼ばれるようになった。私は、誰にも雅号をつけてもらわなかった。名を捨てる必要が、私にはなかった。名のほうが、もう私を捨てていた。
二年前、国境の向こうの丘の修道院と、文を交わすようになった。合図は、北の扉を三たび叩くこと。
同じころ、王都から噂が流れてきた。トゥエイン家の次男が、王都の詩会に席を得たという。型に外れた詩を認めない、あの詩会だ。
あの子は、今も泣いているだろうか。たぶん、泣いているだろう。
トゥエイン家の紋の入った手巾は、今も工房の引き出しにある。青いインクを拭きつづけて、紋はもう見えない。
捨てられないのは、それが絹で、インクをよく吸うからだ。
理由は、それだけだ。