寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
第26章 果たし状
僕の名は、ウビル・トゥエイン。王都の詩会に席をいただいて、二年になる。
詩会のならわしで、面倒な調べものは、いちばん若い者に回ってくる。いちばん若い者は、いちばん心を動かされずに済むから、だそうだ。兄上は「お前は例外だ」と笑って、書記のベンノをお目付け役につけてくれた。ベンノは、僕の手巾を十二枚、鞄に詰めてくれた。
今度の調べものは、国境の町に広まっている、型に外れた文句だった。
――風よ、我が前歯のみを揺らせ。
子どもたちが、回りながら唱えて、目を回して倒れるのだという。詩会の長老たちは、眉をひそめた。前歯を揺らしてはいけない。僕も、そう思う。
王都を発って七日目の夕方、国境の町に着いた。町じゅうが、前歯どころではなくなっていた。
警備隊の詰所で、長という人に会った。前の晩、国境でひどい目に遭ったばかりだという。兜をかぶっていなかった。話しながら、何度も前髪を押さえていた。押さえる理由は、訊かなかった。
長の話は、短かった。夜のうちに、松明と弩の弦と兜の房と旗が、一本ずつ射落とされた。森に伏せた射手は、百人。一行の号令ごとに、一本。夜明けには、風が止んで、兵の前髪だけが揺れた。
「百人で、一行に一本ずつですか」僕は首をかしげた。「修辞学的には、おかしいです。百人いるなら、百行を一度に詠めばいい」
長は、聞かなかったことにした。僕の話は、たいてい、そうなる。
「それより、前髪です」と僕は言った。「前髪が、揺れたのですね。前歯ではなく」
「……前髪だ」
僕は、膝を打った。調べに来た文句は、前歯ではなかったのだ。前髪が本物で、前歯は、子どもたちの言い違いだったのだ。本物の文句が、本当に風を従えた。僕は、泣いた。まだ一枚目を読む前だった。
「号令の文句を、書き留めてあります」
長の副官が、紙の束を差し出した。森に伏せた百人の射手への号令だという。
一枚目を読んだ。
――黄昏の射手は、孤独を番える。
手巾を出したのは、ベンノのほうが早かった。
「孤独を……番える……」僕は、声に出して読んだ。「弓に、矢ではなく、孤独を……」
一枚目で、手巾が一枚、だめになった。
――喝采よ、汝は盲目なり。真の詩は、闇にて詠まれる。
二枚目で、もう一枚。詩会は、昼の広間で、喝采の大きさでその年の詩を選ぶ。闇で詠まれる詩のことなど、考えたこともなかった。
「僕の観察によれば」と、僕は言った。「これは、号令ではありません。詩です」
長が、口を開けたまま止まった。
「若様。三百の兵が、その号令で……」
「詩です。しかも、僕たちの詩会への、批判です」
図星だった。だから、泣いた。
三枚目に、いちばん大きな字で書き留められた一行があった。
――三度目の満月の夜、風は国境を越える。
僕は、手巾を握りしめた。
「分かりました。これは、果たし状です」
長も、副官も、ベンノも、一歩下がった。味方が引くのには、慣れている。
「修辞学的に申し上げれば、三度目というのは、決着の数です。闇の詩人は、満月の夜、国境を越えて、王都の詩会に挑んでくるのです」
「若様。それは、敵の侵攻の予告だと……」
「ええ。詩の侵攻です」
僕は、立ち上がった。
「満月の夜、境の石で、詩会を開きます。詩会の席にある者として、受けて立ちます」
長は何か言おうとして、やめた。トゥエイン家の次男に、警備隊の長は逆らえない。ベンノが、三枚目の手巾を、黙って差し出した。
その夜のうちに、返書を書いた。詩会の型どおりに。四行。一行目に季節、四行目に王の御徳。
秋深く 境の石に 月満ちる
闇の詩人よ 来たれ この壇へ
我ら詩会は 昼の広間を出で
――王の御徳は、詩よりも高し
四行目は、いつも少しだけ、嘘のような気がする。でも、型なので。
返書は、境の石に貼らせることにした。
◇
帰還の翌朝、稽古場で、あの子は若手たちに「今日も、風に、気をつけなさい」と言った。それから私のほうを見て、少しだけ頭を下げた。何も訊かなかった。
ギルドの広間には、伏兵志願の列が、扉の外まで続いていた。
「伏兵たちは、いつ町へ下りてくるんだ」とバルドに訊かれて、私は「……森にいる」と答えた。事実である。私は、森にいた。
それで、列が倍になった。
昼には、バルドが伏兵の歓迎の宴を開くと言い出した。「皿は、百人分か」と訊かれて、私は「……森で、食べる」と答えた。バルドは「さすが伏兵だ」と泣いた。卓には、まだ登っていなかった。午後には、町の女たちが、森の入口に弁当を置きはじめた。夕方には、それが百個になった。
森に伏兵はいない。弁当は、明日の朝、私が回収するしかない。百個。
日が沈むころ、宿舎の裏の薪割り場で、斧を振った。修道院で覚えた仕事である。手を動かしていると、韻が寄ってくる。百本目に乗せる行は、まだ来ない。
「……鹿さん」
斧が、薪の真ん中で止まった。
振り返ると、灰色の外套の若者が立っていた。襟に、鳩の羽根が二枚。足は、もう引きずっていなかった。
鹿。その名で私を呼ぶ者は、この町に一人もいないはずだった。
「窓の下で、見ました」と、鳩は言った。「ソフィエ様と、手を握るところを」
あの夜、扉の外にいたのはリリアだけだと思っていた。窓の下にも、いたのだ。人知れず書かれた詩も、思っているより多くの者の目に触れている。返歌の二行目に、そう書いた覚えがある。
「鹿さんが、弓聖で」鳩は、息を吸った。「……風の長だって、知っています」
風の長。
詩の会は、作法を破った返歌の作者を「風」と呼んで探していた。その「風」に、長がついた。入会ひと月で、長である。詩の会の昇進は、思っていたより早い。
「僕は」鳩の声が、少し震えた。「裏切り者、なんでしょうか」
詩の会の文使いが、何を裏切ったのかは分からない。だが、何を訊かれているのかは分かった。この若者は、どこにも属せずに、ひと月、宿舎の窓辺にいたのだ。
「……鳩は、誰のものでもない」
鳩は、目を見開いた。それから、ゆっくりと頷いた。ソフィエも、同じ顔をしていた。
「剣姫さんに」と鳩は言った。「言っても、いいですか。全部」
全部。
鹿のこと。詩の会のこと。地下の朗読と、雅号と、返歌のこと。あの子は詩帳を読んだ子だが、詩の会のことまでは知らない。師が異国の詩の会に入り、雅号をもらい、主宰の暗号詩に返歌を差し込んでいた。それを弟子に知られるのは、詩帳とはまた別の種類の、終わりである。
だめだ、と言いかけて、やめた。
「……言わなくていい」私は言った。「言いたくなったら、言えばいい」
鳩は、少しだけ笑った。
「剣姫さんと、同じことを言うんですね」
あの朝の、あの子の声を思い出した。誰かにも、同じことを言ったことのある声だった。この若者だったのだ。
「はい」鳩は言った。「言いたくなるまで、言いません」
立ち去りかけて、鳩は振り返った。
「ソフィエ様は、満月の夜に、北の扉を三たび叩く、と言っていました。麦の月です」
北の扉。丘の修道院の、あの扉だ。
麦の月の満ちる夜、詩の会は北の扉に集まる。七つの塩の朗読の、続きだろう。そこに、私の詩帳も運ばれてくるに違いない。
満月まで、あと七日。
割りかけの薪が、斧ごと、足もとに倒れた。
◇
夜更けに、関所の兵が、大きな鞄を担ぎ込んできた。
井戸の道の出口を張っていた者が、女二人連れの荷を検めたのだという。女は「祈祷書よ」と言った。中を検めているうちに、二人とも闇に消えた。手書きの怪しい言葉は、詩会の預かりになる。
真鍮の留め金が、四つ。そのうち一つは、閉まらなくなっていた。
革表紙の帳面が、十四冊。
一冊目の、一頁目を開いた。
我が名を まだ誰も知らぬ
知らぬがよい いずれ知るゆえ
ベンノが、四枚目の手巾を出した。
頁をめくった。どの頁にも、宿命と黄昏があった。どの頁も、少しずつ下手で、少しずつ本気だった。綴じ糸が、ずいぶんやわらかかった。何度も開かれた本なのだ、と思った。
十四冊目に、それはあった。
黄昏の射手は 孤独を番える
副官の紙と、同じ一行だった。
「長」僕は言った。声が裏返った。「この詩帳の主が、闇の詩人です」
「ならば、それは敵の作戦書だ。押収して、王都へ――」
「いいえ」僕は、十四冊目を胸に抱いた。「詩帳です。二十二年分の」
日付は、どこにも書いていなかった。でも、分かった。一冊目の字と十四冊目の字のあいだには、二十年より長い時間があった。
長は、満月の夜には兵を倍にする、と言い捨てて出ていった。僕は、境の石に組む壇を倍の高さにするよう、ベンノに頼んだ。ベンノは、五枚目の手巾を、自分の額に当てていた。
九冊目に、一頁、抜けたところがあった。綴じ糸が緩んで、そこだけ、空いていた。
いちばん大事な頁に、違いない。抜かれた頁ほど、大事なものはない。僕は、また泣いた。
抜けた頁の前後にだけ、前髪という言葉が、何度も出てきた。前歯の文句を調べに来て、前髪の詩人に出会った。偶然とは、思えなかった。修辞学的には、こういうのを、伏線という。何の伏線なのかは、まだ分からない。
十冊目のあいだに、紙片が一枚、挟まっていた。青いインクの、細い字だった。
――宿命、四十。黄昏、三十。
ご自分の宿命の数を、数えておられるのだ。なんと誠実な詩人だろう。
その青を、どこかで見た気がした。ずっと昔に。窓のない部屋で。
思い出す前に、また泣いてしまった。
満月まで、あと七日。
闇の詩人に、この詩帳を返しに行こう。境の石で。詩会の席で。
僕は、生まれて初めて、詩人に会いたいと思った。