寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
夜明けの森の入口に、弁当が百個、並んでいた。
布の包みが、十個ずつ十列。結び目がそろっている。いちばん手前の包みには、小さな字で「伏兵さんへ」と縫い取りがあった。町の女たちは、仕事が丁寧である。
伏兵は、私一人である。
運び方は、昨夜のうちに決めておいた。背負子に四十、両腕に十ずつ。残りの四十は、二度目に背負う。町が起きる前に、二往復で終える。伏兵百人の兵站を、伏兵一人が担う。理屈の上では、何の問題もない。
背負子に十個目を結んだところで、頭の中に、行が来た。
朝靄に 百の包みは並びたり
伏したる兵は 我ひとりなり
――宿命よ、汝も一つ持て
宿命に荷を持たせた詩は、二十二年で初めてである。宿命は一篇に一度。今朝は、守れた。
十一個目に手を伸ばしたとき、森の奥で、枝が鳴った。
私は、弁当を一つ持ったまま振り返った。弓は、ギルドの自室にある。手にあるのは、弁当である。
木の間から出てきたのは、女が二人だった。外套は泥で重く、裾が裂けている。前を歩くほうは、髪に枯れ葉をつけていた。
「……鹿さん」
リリアだった。後ろで、ソフィエが木の幹に手をついていた。インクで青い指先が、樹皮の上で白くなっていた。
二人は私を見て、それから、私の足もとを見た。
「……何、これ」とソフィエが言った。
「……弁当だ」
「見れば分かるわ。百あるわね」
事実である。
リリアの腹が、小さく鳴った。リリアは、目を伏せた。
私は、手の中の一つを差し出した。リリアは受け取って結び目をほどき、中の黒パンを半分に割って、半分を私に返した。工房でも、修道院でも、毎日そうしていた手つきだった。ソフィエにも一つ渡すと、ソフィエは礼を言わずに、木の根に腰を下ろして食べた。
百個のうち二個が、これで片づいた。伏兵は、少なくとも二人、実在したことになる。
ソフィエは半分ほど食べてから、パンを膝に置いた。
「鞄を、取られたわ」
黒パンが、喉の途中で止まった。
「井戸の道の出口に、関所の兵がいたの。祈祷書よ、と言ったわ。兵が一冊目を開いているあいだに、リリアが私の腕を引いた。それから一晩、森を歩いて戻ってきたの」
詩帳が。詩の会の朗読へ運ばれていったはずの、二十二年分が。
「境の石の前を、通りました」とリリアが言った。「松明の下で、大工が壇を組んでいました。石の倍の高さです。石には、紙が一枚、貼ってありました」
「……紙」
「覚えてきました」リリアは、目を閉じた。「運ぶ者は、覚えるものですから」
そして、四行を口にした。
秋深く 境の石に 月満ちる
闇の詩人よ 来たれ この壇へ
我ら詩会は 昼の広間を出で
――王の御徳は、詩よりも高し
闇の詩人。
――真の詩は、闇にて詠まれる。国境で旧作を詠み上げたとき、確かに私は、そう叫んだ。
王都の詩会が、昼の広間を出て、国境まで来るという。闇の詩人を、壇へ招くという。四行目はいただけない。王の御徳と詩を比べる理由は、どこにもない。四行目だけが、少し、嘘をついている。だが、そんなことは、どうでもよかった。
第四の理由が、床下から、今度は梯子をかけて上がってきた。
「……招かれている」
「招かれてなんかいないわ」ソフィエが言った。「呼び出されているのよ」
青い指先が、膝の上で、もう一方の手を握った。
「あの国ではね、手で書かれた怪しい言葉は、みんな詩会の預かりになるの。詩会は、言葉の意味を決めるところよ。……紙の端に、封蝋があったわ。紋が押してあった」
ソフィエは、少しだけ黙った。
「トゥエインの紋よ」
知らない名だった。
「十五年前、私の家は、祈りを一つ読まれて、なくなった。頭の字だけを縦に読むと『王は去れ』になる、と言われた。そう読んだのが、あの紋の家。書いたのは私なのに、塔に入ったのは父だった」
話すあいだ、ソフィエの言葉から、いつもの「わ」と「ね」が消えていた。
リリアが、ソフィエの肩に手を置いた。ソフィエは、その手を払わなかった。
「だから私は、あの国の祈祷書に、本当に入れてやることにしたの。読まれたとおりのものを」
ソフィエは、まっすぐ私を見た。
「あなたと、同じように」
そして、いつもの声に戻った。
「満月の夜、あなたの暗号帳は、あの壇の上で、王国の兵の前で読み上げられるわ。鍵がなくても、意味は、あちらが決める。それに、十冊目に、私の紙片を挟んだままなの。青いインクで。……あの家の人間なら、あの青を覚えているかもしれない」
あなたと、同じように。
私の内部で、会議が開かれた。
議題は、過去ひと月分の議事録の、再審である。
「鹿は、使えるわ」。雅号の授与ではなかった。道具の検品だった。
工房の地下の、王国の地図と、無数の針と、赤い糸。私はあれを、何と解釈したのだったか。思い出せない。都合の良い推論は、採用した翌朝には忘れるようにできている。
「風を探しなさい」。作法を破った返歌の作者を探していたのでは、なかった。返歌がどう読まれたのかは、考えないことにした。
「同志ね」。同好の士では、なかった。
「詠みなさい。国境で。いくらでも」。あれは壇ではなかった。三百の兵は、聴衆ではなかった。良い聴衆では、あったが。
「風の長」。昇進では、なかった。
「裏切り者、なんでしょうか」。比喩では、なかった。あの若者は本当に何かを裏切って、ひと月、宿舎の窓辺にいたのだ。私はそれに「鳩は、誰のものでもない」と答えた。答えとしては、間違っていなかったと思う。
「七つの塩」。七篇の朗読では、なかった。何なのかは分からない。分からないが、詩ではない。
「二十二年分、読ませてもらったわ」。暗号として、である。宿命が四十あれば、四十の何かを意味するのだろう。私はただ、宿命が好きなだけだった。
鹿の論法を、議場に呼んだ。耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。だが今朝は、どの仮説を採っても耐えられなかった。耐えられない仮説しか残っていないとき、鹿の論法は何も言わない。鹿は、黙って議場を出ていった。
残ったのは、事実だけだった。
セリグ憂国団は、詩の会ではない。あの国を、ひっくり返そうとしている人たちである。この人たちの言う「風」は王国に抗う何者かのことで、この人たちは、それを私だと思っている。そしてこの人は、私の二十二年を、ひと月かけて、暗号として読んだ。
ソフィエの指先を見た。青が、震えていた。
この人の祈りは、読み違えられて、罪になった。私の詩は、この人に読み違えられて、暗号になった。責める気には、なれなかった。私もひと月、この人の暗号を、前衛詩として読んでいた。私たちは、互いの言葉を、同じだけ読み違えていたのである。
満月の夜、私の詩帳は壇の上で読まれる。読むのは、意味を決める側だ。宿命が四十あれば、四十の罪になる。十冊目には、青い紙片が挟まっている。
私の詩が、この人を、もう一度、読まれる側に立たせる。
――あれは、詩だ。
言いかけて、やめた。第一に、この人は信じない。暗号を作る者は「これは暗号ではない」という言葉を、いちばん信じないものである。第二に、信じたとしても、詩帳があちらの手にあることは変わらない。あの国では、意味は力のある者が決める。今朝、それを教わった。第三に、この人の指先は、まだ震えている。ひと月分の読み違いを差し出すのは、震えが止まってからでいい。
削る必要は、なかった。言うべきことは、最初から短かった。
「……取り返す」
ソフィエが、顔を上げた。
「……あなたの紙片も」
「壇の周りには、兵が張りついていたわ。壇の上には、トゥエインの誰かが立つ。これは罠よ、風」
「……知っている」
削った言葉が、削ったとおりの意味で届くのは、珍しいことである。
壇は石の倍の高さだという。それを思い出したのは、取り返すと口にした、あとのことだ。順序が逆でなかったことだけは、記録しておきたい。
◇
鹿さんの沈黙を、私は何度も見てきた。
国境の町の酒場で、名を訊いたとき。前髪を切った夜。作業台に置いた黒パンの半分を、黙って受け取るとき。どの沈黙にも、深い悲しみがあった。私は、そう読んできた。
今朝の沈黙は、違った。
ソフィエ様の話を聞くあいだ、鹿さんは黒パンの半分を持ったまま、長いこと動かなかった。それから、耳が赤くなった。首まで赤くなった。
悲しい人の顔ではなかった。恥じている人の顔だった。
鹿さんは、恥じておられるのだ。ご自分の暗号帳のせいで、ソフィエ様を、もう一度、あの紋の前に立たせることを。
井戸の道の暗がりで、ソフィエ様が教えてくださった。風は鹿さんで、鹿さんは、前髪の剣姫の師、弓聖と呼ばれる人だと。私は、驚かなかった。驚かなかった自分に、少しだけ驚いた。鹿さんは紙を折る人だと、私はずっと、自分に言い聞かせていたのだ。
国境で三百の兵を縫い止めた人が、夜明けには、百人分の弁当を一人で運んでいる。風とは、そういう人なのだと思った。何のための弁当なのかは、訊かなかった。
鹿さんは「……取り返す」とだけ言って、それから、ソフィエ様の紙片のことを言った。ご自分の暗号帳のことは、それきり口にしなかった。
ソフィエ様の指先が、止まった。青い指先が震えるのも、それが止まるのも、私は初めて見た。
ソフィエ様は、それきり何も言わなかった。ただ、立ち上がるとき、誰にも聞かせない声で、ひとこと言った。
「……まさか、あの子じゃないでしょうね」
あの子が誰なのか、私は知らない。訊かなかった。運ぶ言葉は選べないが、運ばない言葉は選べる。
残りの九十八個は、三人で丘の修道院へ運んだ。施しに回すのだと、鹿さんは身ぶりで言った。院長様は、門の前に積まれた包みを見て、蝋燭の色になった。
別れぎわ、鹿さんは一度だけ、国境のほうを振り返った。
悲しそうでも、恥ずかしそうでもなかった。短い前髪の下の額に、朝の風が当たっていた。前髪は、まだ揺れるほどの長さがない。
ああいう顔を、なんと呼ぶのだろう。運ぶ言葉を、私はまだ持っていなかった。
満月まで、あと六日。