寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
睡眠時間は、二刻に満たなかった。
森から戻ったあと、私は寝台の上で「鹿」という結論を再検証し、三度再採用し、そのたびに目が冴えた。加えて、第二連の四行目「黄昏は、ただ我がためにある」の「ただ」は余計ではないか、という疑念が湧いた。それについても考えた。結論は出なかった。出ないまま、朝が来た。
イァーリの裏手には、踏み固められた土の稽古場がある。夜明けとともに、そこで剣を振る者が一人いる。
エレナだ。
彼女は今年で二十二になる。十年前、私が引き取った。以来、私の弟子ということになっている。もっとも、弓は彼女に合わず、剣は別の師範に任せたので、技の上では私の弟子とは言いがたい。にもかかわらず、彼女は私を「師匠」と呼び続けている。理由を尋ねたことはない。尋ねるには、言葉が要る。
朝の稽古場は静かだ。聞こえるのは、剣が空気を切る音と、エレナの短い呼吸だけ。一振りごとに足の位置を確かめ、半歩直し、また振る。その繰り返しを、彼女は十年間、ほとんど一日も欠かさずに続けている。
私が稽古場の端の丸太に腰を下ろすと、エレナは剣を止め、一礼した。
「おはようございます、師匠」
私は頷いた。頷きは、言葉の代替として極めて効率が良い。
エレナは再び剣を振り始めた。黙々と。彼女も、口数の多いほうではない。周囲はそれを私の影響だと言うが、私は懐疑的である。彼女の沈黙には、私の沈黙と違って、中身が詰まっている。
しばらくして、エレナが剣を下ろした。少し迷うような間があってから、こちらへ歩いてきた。
「師匠。一つ、お訊きしてもよろしいでしょうか」
私は頷いた。眠かった。
「昨日の岩背猪の討伐で、師匠は目を閉じたまま、猪を引きつけたと聞きました。ティモが、そう話していました」
ティモ。昨日の新入りだ。口が軽い。斥候には向かないが、噂を広める役としては極めて有能である。
「なぜ、目を閉じていらしたのですか」
私の脳は、睡眠不足のため、通常の三割程度の性能で稼働していた。
それでも、真実の答えはすぐに浮かんだ。
――目を開けていると、韻が逃げるからだ。
これをそのまま口にすれば、私は終わる。
「韻」の一語さえ削れば、残りは無害な言葉の並びになる。三割の脳は、そう判断した。正確に言えば、それ以上の判断をする余力が残っていなかった。
「……開けていると、逃げる」
エレナが、静かに息を呑んだ。
「逃げる……」
彼女は目を伏せ、しばらく考えていた。
「目に頼れば、相手の気配が逃げてしまう。だから目を閉じて、気配そのものを捉える……ということでしょうか」
まったく違う。
だが、訂正するには、何が逃げるのかを説明しなければならない。説明の費用は、明らかに便益を上回っていた。
「……そうか」
肯定でも否定でもない、私の常套句である。
エレナの目が、わずかに見開かれた。それから彼女は深く一礼し、腰の革袋から一冊の帳面を取り出した。
◇
師匠は、答えをくださらない。
いつも、そうだ。問いを投げると、短い言葉が一つだけ返ってくる。そして私がその意味に自分で辿り着くと、師匠は「……そうか」とだけ仰る。
それが正解の合図だと、私は知っている。
師匠は答えを与えるのではなく、私が答えに辿り着くのを待っていてくださるのだ。
私は帳面を開き、今日の日付の下に書きつけた。
――開けていると、逃げる。
その下に、小さく。
――目に頼れば、気配が逃げる。目を閉じ、気配そのものを捉えよ。
帳面の表紙には「師の言葉」とある。これで三冊目になる。十年分にしては少ないと、人は思うかもしれない。けれど師匠は、一日に一言も話さない日のほうが多い。だから一つ一つが、私にとっては宝物だった。
帳面の一頁目には、たった一行だけが書いてある。
――もう、出ていい。
十年前、師匠が私に最初にくださった言葉だ。
*
十二の秋だった。
私の村は、ハーゼルという山あいの小さな村だった。麦と林檎を育て、年に一度、町の市に売りに行く。それだけの村だった。
盗賊が来たのは、収穫祭の三日後の夜だった。
母は私を、台所の床下の芋蔵に押し込んだ。
「誰か来ても、出てきちゃだめ。盗賊じゃない人が来るまで、絶対に」
蓋が閉まり、真っ暗になった。頭の上で、たくさんの足音と、たくさんの怒鳴り声がした。それから、焦げる匂いがした。
私は父が使っていた小刀を握りしめて、暗闇の中でじっとしていた。
音がやんでも、出なかった。母が言ったから。盗賊じゃない人が来るまで、と。
でも、盗賊じゃない人と盗賊を、どうやって見分ければいいのか、私には分からなかった。
二日が過ぎた。
三日目の朝、足音がした。
一人分の、ゆっくりした足音。それが台所を歩き回り、止まり、また歩き、私の頭の上で止まった。
蓋が持ち上がった。光が目に刺さった。
私は目を細めて、小刀を前に突き出した。
逆光の中に、背の高い男の人がいた。弓を背負っていた。今よりずっと若く、髪もまだ黒かった。
その人は、何も言わなかった。
小刀を向ける私を、長いあいだ、黙って見ていた。怒っているようにも、怖がっているようにも見えなかった。ただ、見ていた。
それから、ゆっくりと膝をついた。背中の弓を外して、床に置いた。私の手は届かない、でも私から見える場所に。
懐から硬そうな黒パンを取り出し、半分に割って、片方を自分でかじった。噛んで、飲み込んだ。それから、残りの半分を私のほうへ差し出した。
毒なんか入っていない、と言葉で言われるより、ずっとよく分かった。
私は小刀を下ろせなかった。左手だけを伸ばして、パンを受け取った。
その人はそれを見届けてから、ようやく口を開いた。
「……もう、出ていい」
低い、かすれた声だった。
母が言っていた「盗賊じゃない人」は、この人なのだと思った。
私はパンを握ったまま、声を上げて泣いた。その人は、私が泣きやむまで、ずっとそこに膝をついていた。何も言わずに。肩に手を置くこともせずに。ただ、そこにいてくれた。
町までの道のりを、私はほとんど覚えていない。
覚えているのは、その人の外套が大きすぎて、裾を引きずって歩いたことと、その人が一度も振り返らなかったことだ。
でも、私が足を止めると、その人も止まった。私が歩き出すと、その人も歩き出した。振り返らないまま、ずっと私の足音を聞いていたのだと、ずいぶん後になって気づいた。
ギルドに着くと、今よりずっと髪の多かったギルド長が、困った顔で言った。
「その子をどうする。町の孤児院か、都の修道院か……」
その人は少し黙ってから、短く言った。
「……私が、預かる」
ギルド長は目を丸くした。周りにいた団員たちも、ざわついた。あとで聞いた話では、あの人がギルドで自分から何かを言い出したのは、それが初めてだったそうだ。
*
あれから十年が経った。
弓は、私には合わなかった。三月ほど続けた頃、師匠は黙って町じゅうを歩き回り、剣の師範を探してきてくださった。剣が私に合うと、どうして分かったのかは、今でも教えてくださらない。
分からないことばかりだ。師匠が何を考え、何を背負っているのか、私にはいつも半分も分からない。
だから私は、師匠の言葉を書き留める。一つも取りこぼさないように。いつか全部を繋げたとき、師匠という人の形が見えるのではないかと思っている。
私は帳面を閉じ、もう一度、師匠に深く頭を下げた。
◇
エレナが帳面に何かを書きつけ、閉じて、もう一度私に頭を下げた。
そのとき、表紙の文字が朝日の角度で読めた。
――師の言葉 三。
眠気が、一瞬で消えた。
師の言葉。つまり、私の言葉である。それが、三冊。
私の内部で、緊急の会議が開かれた。本日二度目である。
第一に、私は十年間、エレナの前で詩を口にしたことがあるか。
ない、と断言したい。だが私には、思いついた詩句を無意識に呟く癖がある。昨日の街道でも唇が動いていたことは、ティモの証言から推測できる。十年分の無意識を、私は監査できない。
第二に、もし詩の断片が書き留められていた場合、それは私の詩帳の外に、私の管理の及ばない形で存在していることになる。
第三に、三冊。十年で三冊は少ない。私は同じ十年で六冊を書いている。勝った。
いや、今それは関係ない。
私は、エレナの横顔を見た。
稽古に戻った彼女は、また黙々と剣を振っている。一振りごとに足の位置を確かめ、半歩直し、また振る。
十年前、芋蔵の暗がりで小刀を握りしめていた子どもが、今はこうして、朝の光の中に立っている。
あの日のことを、私は一度も詩にしたことがない。
何度か試みた。だが、どれも一行目で筆が止まった。宿命も、黄昏も、選ばれし者も、あの日の前では一つとして使いものにならなかった。
私の詩は、私が美しくあるための詩だ。あの日、芋蔵の蓋を開けた男は、少しも美しくなかった。汗と煤にまみれ、何を言えばいいのか分からず、黙ってパンを割ることしかできなかった。
それでいいのだと思う。書けないものが一つくらいあるほうが、詩人は謙虚でいられる。
――それはそれとして。
あの帳面は、危険である。
自分の言葉を誰かが書き留めている。その事実だけで、私の背筋には冷たいものが走った。帳面というものが持つ力を、私ほどよく知る者はいない。帳面は記録し、保存し、いつか必ず誰かに読まれる。
帳面を持つ者は、危険だ。
私が言うのだから、間違いない。