寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
二日目の弁当は、二百個だった。
森の入口が空になったのを見て、町の女たちは、伏兵の食欲を讃えたのだという。讃えた結果が、倍である。伏兵は一人のまま、兵站だけが育っていく。
夜明け前に四往復して、丘の修道院の門の前に積んだ。院長は、昨日より少し濃い蝋燭の色になった。
客間では、ソフィエが窓辺に座っていた。指先は、もう震えていなかった。リリアは、黒パンを半分に割って私の前に置き、黙って出ていった。
訊かねばならないことが、一つあった。満月の夜、北の扉で、この人たちは何をするのか。詩の会の朗読ではないと知った以上、私には、それを訊く義務がある。
「……満月の、北の扉は」
ソフィエは、少しのあいだ私を見てから、言った。
「七つの塩は、塩じゃないわ。紙よ。七枚」
十五年前、トゥエイン卿の書斎で、学者たちが三日がかりで書いた下書きなのだという。王国じゅうの祈祷書の祈りを、片っ端から縦に読んだ跡。六枚は、外れ。七枚目に、谷の朝の祈りがある。頭の字が丸で囲まれ、その横に、別の手で「これでよい」と書いてある。
「意味は、見つけたんじゃない。探して、決めたのよ。その証拠。手に入れるのに、十五年かかったわ」
どうやって手に入れたのかは、言わなかった。
「満月の夜に北の扉を三たび叩くのは、塩が向こうへ渡ったという合図だった。向こうには、評定のやり直しを王に求めてくれる人がいる」
「……その紙は、今」
ソフィエは、言いにくそうにした。この人が言いにくそうにするのを、初めて見た。
「あなたの暗号帳の、見返しの下よ。七冊に、一枚ずつ」
客間が、静かになった。
「工房を発つ前の晩に、見返しを剥がして、貼り直したの。糸には触っていないわ。暗号の中に暗号を隠すのが、いちばん安全だもの。誰も、あなたの暗号帳の見返しまでは剥がさない」
暗号は、預かっていくわ。同志でも、鍵は別々に持つものよ。――あの夜明けの言葉の意味が、三日遅れで、ようやく届いた。
二十二年分の私の詩の、表紙の裏に、他人の家の十五年が貼り込まれていた。
その詩帳を、いま、トゥエインの誰かが抱いている。
取り返すものが、七つ増えた。
だが、私には、壇がどちらを向き、兵がどこに立ち、詩帳がどこに置かれるのかを見る目がない。私の目は、四十歩先の韻を見るためにある。
この町で、国境をいちばん見ている男を、一人知っている。このところ、私のことも、いちばん見ている男だ。
◇
ルカは、境の石から五百二十歩の丘にいた。茂みに伏せて、遠眼鏡を覗いていた。
背後から近づいた。足音は消さなかった。消せば、あの子の真似になる。
「……見えるか」
ルカは跳ね起きて、腰の短剣に手をかけた。それから、私の手に弓がないのを見て、手を離した。
「……弓聖。俺を、消しに来たか」
「……いや」
削るべきことは、いくらでもあった。だが、ここで削れば、この男はまた別の意味を組み立てる。この男の論理は緻密で、方向だけがいつも間違っている。私と同じである。
削らずに話せる場所は、この町に一つしかない。
「……来てくれ」
鍛冶屋の裏口を三度叩くと、扉は一度目で開いた。白湯が、三つあった。グンターは、ルカを見ても眉ひとつ動かさなかった。
「……鍛冶屋が、本部か」とルカが言った。
答えずに、炉の前に座った。炉の前でなら、削らなくていい。
「私は、詩を書いている」
ルカの手が、手帳の上で止まった。
「十六のときからだ。二十二年。十四冊。夜の森で一行ずつ詠んで、行末の韻の語で射る。黙って射ると、外れる。お前が森で聞いた声は、全部、詩だ。三度目の満月の夜も、風に選ばれし者も、ぬるいも。旅に出たのは、あの子に、私の詩を短剣に刻まれたからだ。国境の九十九本は、全部、私の矢だ。伏兵は、いない」
「国境の向こうでは、何をしていた」
「……詩の会に入ったつもりだった。違った。何だったのかは、言えない。人を、預かっている」
長かった。グンター以外の前でこれほど話したのは、生まれて初めてである。渋滞はしなかった。炉が、出口を広げてくれていた。
ルカは、しばらく黙っていた。それから、手帳を開いた。
「事実一」声が、少しだけ掠れていた。「お前は、宴の夜、何かを失くした男の顔をしていた」
「……詩帳の一頁を、落としていた。後で知った」
「事実二」ルカは、胸の内側から、折りたたんだ紙を一枚出した。「これを拾ったのは、俺だ」
九冊目の、一頁だった。
されど我が後ろ髪に、触れることは許さぬ。どこかで誰かが読んでいるかもしれない、と恐れていた一頁が、炉の明かりの中で、斥候の指に挟まれていた。ひと月以上、この男の胸の内側にあったのだ。
「……前髪の、詩だ」
「前衛の、指令だ」
「……前髪だ」
「『横の髪を、伏せることも許さぬ』は」
「……寝癖のことだ」
「『物憂げなる眼差しを、遠き地平へ』は」
「……そういう顔を、したかった」
ルカは、グンターを見た。
「鍛冶屋。あんたは、あのとき、何も言わなかった」
「矢のことしか、訊かれなかった」グンターは、白湯を置いた。「……十年前に、煙突で聞いた。前髪の一行」
ひと呼吸おいて、付け足した。
「下手だった」
ルカは、手帳を一枚めくり戻した。線で消した一行が、線の下で、まだ読めた。
――伏兵は、いなかったのではないか。
「……俺は、一度、書いていた」
肩が、一度だけ揺れた。笑ったのかもしれない。
「完璧に見える人間は、何かを隠している。八年、それだけを信じてきた」
「……隠していた」
「ああ。隠していたのは、詩だった」
ルカは、紙を見下ろしたまま言った。
「エレナの帳面に、俺の解読が写してある。前に立つ者だけを動かせ。……あいつは、それで国境に立った」
「知っている」炉の前なので、続けた。「読み違いでも、あの子は本当に立った。あの子の力は、本物だ。あの子は、私の詩を、私より遠くまで読んだ」
ルカは、手帳に何かを書いた。
――前髪は、前髪。
その下に、線を一本引いた。何を区切る線なのかは、訊かなかった。
「満月の夜は、どうする」
「……詩帳を、取り返す」
ルカは、炉の灰の上に、指で図を描きはじめた。斥候の顔に戻っていた。
「事実一。壇は石の倍の高さで、北を向いている。事実二。兵は増えている。三百の倍はいる。事実三。壇の脇に天幕が一つ。若い貴族が一人、昼も夜も、革表紙の帳面を抱えて泣いている。二日、見た。解読班の長だと思っていた」
「……読者だ」
読者が、泣いている。私の詩を、昼も夜も抱いて。第四の理由が、また梯子に足をかけた。今だけは、床下にいてほしい。
「事実四。帳面は、片時も、その男の腕から離れない」
つまり詩帳は、泣いている読者の腕の中にある。
ルカが、九冊目の一頁を差し出しかけて、引っ込めた。
「いや。これは、俺が持っておく。読み違えた者の、責任として」
前髪の詩は、斥候の胸の内側に戻った。この町でいちばん安全で、いちばん恥ずかしい保管場所である。
グンターが、白湯を注ぎ足した。三つとも。
満月まで、あと五日。
◇
この二日で、町はまた大騒ぎになった。
まず、弁当だ。森の入口に置いた百個が、一晩で、きれいに消えた。包みの布ひとつ残っていなかった。伏兵は、ちゃんといるのだ。マルタさんたちは前掛けで目元を押さえて、次の日は二百個置いた。それも、一晩で消えた。
夜明けの見回りのとき、俺は見た。弓聖さまが、森の入口で、背負子に弁当を積んでいた。そのまま、丘の修道院へ登っていった。
弓聖さまは、自分で伏兵に兵糧を運んでいるのだ。伏兵は、丘にもいるらしい。マルタさんたちは、今夜、四百個に挑むそうだ。
次に、境の石の紙だ。
前衛の見回りで、俺が見つけた。王国の側にでっかい壇が組まれていて、石に紙が一枚貼ってあった。字は難しかったけど、二行目は読めた。
――闇の詩人よ、来たれ、この壇へ。
闇の詩人。あの夜、森から号令をかけていた声のことだ。伏兵百人の長。つまり、弓聖さまだ。
王都の詩会が、弓聖さまに、詩の勝負を挑んできたのだ。
昼までに、詩会の歌い手は百人になった。夕方には三百人になった。言い出したのは、俺だ。
剣姫さまにも報告した。剣姫さまは、紙の文句を黙って聞いて、それから北の森のほうを見た。
「……師匠は、森で、詠む方ですから」
意味は分からなかった。でも、剣姫さまがそう言うなら、そうなのだ。
それから剣姫さまは、満月の夜の前衛を、また倍にすると言った。向こうの壇が石の倍なら、こっちは前衛が倍で、弁当も倍だ。
夜には、町じゅうが弓聖さまを「闇の詩人」と呼んでいた。マルタさんは、満月の夜に境の石へ持っていく旗を縫いはじめた。バルドさんは、王国の壇に登る気でいる。双子は、同時に、韻の練習を始めた。
ギルドの広間で誰かが「闇の詩人さま!」と叫んだとき、弓聖さまは入口で、しばらく動かなかった。それから、何も言わずに出ていった。
……黙ってる。本物だ。
その夜、北門の穴の見張りに立っていると、鍛冶屋の裏口から、ルカさんが出てきた。
手帳を、胸に抱いていた。歩きながら、何度も、自分の前髪をかき上げていた。あんな顔のルカさんは、初めて見た。
「ルカさん。何か、分かったんですか」
ルカさんは立ち止まって、長いこと黙ってから、言った。
「……前髪は、前髪だそうだ」
意味は、分からなかった。
でも、きっと、ものすごい暗号なのだと思う。