寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
満月の夜が来た。
僕の名は、ウビル・トゥエイン。王都の詩会に席を持つ者として、今夜、境の石で、詩会を開く。
壇は、石の倍の高さに組み上がった。大工たちは、なぜ倍なのかと訊かなかった。トゥエイン家の次男に、大工は理由を訊かない。上に立つと、国境の向こうまでよく見えた。
手巾は、昼のうちに残り二枚になっていた。この七日、詩帳を読み返すたびに泣いたからだ。ベンノは国境の町の布屋で、十二枚買い足してくれた。紋は入っていない。紋のない手巾で泣くのは、生まれて初めてだった。ベンノは今、壇の隅で、それを構えている。
詩帳十四冊は、書見台に積んである。この七日、片時も腕から離さなかった。何度も開くうちに、気づいたことがある。十四冊のうち七冊だけ、表紙の裏が、ほんの少し硬い。何度も開かれた本とは、そういうものなのだろう。修辞学的には、どうでもいいことだ。
十冊目の青い紙片の青は、まだ思い出せていない。窓のない部屋。誰かの指先の青い手が、誰かの手首を握っていた。そこまで来ると、いつも泣いてしまう。泣くと、その先が滲む。
壇の下には、警備隊の長の兵が並んでいた。六百。兜はかぶっていたが、房はひとつもなかった。長は壇のいちばん近くで、何度も前髪を押さえていた。今夜、闇の詩人の「侵攻」が来ると、長は信じている。
「若様。今夜、敵は国境を越えてきます。壇から、お降りいただきたい」
「詩人が来るのです」と僕は言った。「詩会の者が、壇を降りるわけにはいきません」
長は、聞かなかったことにした。僕の話は、たいてい、そうなる。
国境の向こうにも、人が集まっていた。
松明が、百、二百。いや、もっとある。町じゅうの人が来たのではないかと思った。真ん中に、大きな旗が一本立っていた。字が読めた。
――闇の詩人。
僕は、一枚目の手巾を使った。闇の詩人には、聴衆がいるのだ。昼の広間ではなく、国境の向こうの、松明の下に。
旗の手前、境の石の線の上には、若い剣士たちが横一列に並んでいた。全員、目を閉じていた。真ん中に、前髪だけを風に揺らしている娘がいた。あれが、前髪の剣姫に違いない。
人の波の端に、頭巾をかぶった女の人が二人いた。そのうち一人が、ずっと、こちらを見ていた。なぜだか、その人のほうは、まっすぐ見られなかった。
月が、山の端を離れた。
僕は書見台の前に立ち、返書の四行を読み上げた。型どおりに。四行目は、やはり少しだけ、嘘のような気がした。
闇の詩人は、現れなかった。
長が「来ないではないか」と言った。来ないなら、呼べばいい、と僕は思った。詩人を呼ぶには、詩がいちばんいい。
僕は、一冊目を開いた。
我が名を まだ誰も知らぬ
知らぬがよい いずれ知るゆえ
読み終えると、国境の向こうから、どよめきが返ってきた。「闇の詩人さまの詩だ!」と誰かが叫んだ。壇の下では、六百の兵が、行の終わりで一斉に首をすくめた。
頭を垂れたのだ、と僕は思った。王国の兵にも、詩の分かる者がいる。二枚目の手巾。
三冊目を開いた。
雨の日に 我は傘を持たず
濡れてこそ 詩人の肩
――風邪は、宿命にあらず
「風邪を、宿命と認めない……」声が裏返った。「なんという、気高さでしょう」
兵が、また首をすくめた。長が、また前髪を押さえた。
五冊目を開いた。
黄昏よ、我が背に乗れ
「黄昏を、背に乗せる」僕は言った。「乗るがよい、ではいけません。それでは、黄昏が遠慮してしまいます」
なぜ、そう思ったのかは分からない。でも、そう思った。
僕は、十四冊目に手を伸ばした。今夜いちばん大きな声で読むべき一行は、決まっていた。
――三度目の満月の夜、風は国境を越える。
読み上げた瞬間、長が叫んだ。
「来るぞ! 前列、構え!」
弩が、一斉に、国境の向こうへ向いた。
僕の話は、たいてい、聞かれない。そのとき長の話を聞いていなかったのは、僕のほうだった。泣いていたからだ。
三枚目の手巾で目を拭いて、顔を上げると、国境の向こうの松明の海が、ひとところだけ割れていた。
背の高い男が一人、こちらへ歩いてくる。
◇
月が山の端を離れる前から、私は、人波のいちばん後ろにいた。
弁当は、四百個で止まった。町の女たちの腕のほうが、先に尽きたのである。伏兵の食欲は、町の伝説になった。
今夜は、町じゅうが境の石に来ていた。マルタは自分で縫った旗を掲げていた。布に縫い取られた私の新しい二つ名は、思っていたより大きかった。バルドは壇に登ろうとするたびに、マルタに前掛けで引き戻されていた。双子は同時に韻を踏み、同時に踏み外していた。
境の石の線の上には、あの子の前衛が、倍の数で並んでいた。全員、目を閉じていた。
丘の上で、硝子が一度、光った。少し離れた暗がりには、グンターが腕を組んで立っていた。鍛冶屋が炉を離れて国境まで来るのを、私は二十二年で初めて見た。
人波の端から、頭巾の女が一人、私のほうへ来た。指先が、松明の明かりで青かった。少し後ろに、リリアがいた。
「壇の上の人」ソフィエは、壇を見たまま言った。「泣き方が、変わっていないわ」
「……知っているのか」
「ウビル・トゥエイン。トゥエイン家の次男よ。十五年前、評定で、私の祈りを二度、読み上げた子」
ソフィエは、少しだけ黙った。
「あの子が、あれを抱いているのね。何も知らずに」
それきり、何も言わなかった。指先は、震えていなかった。震えないように、握っていた。
十五年前にこの人の祈りを読み上げた子が、今夜、私の詩を読み上げようとしている。その腕の中の七冊の見返しの下には、あの若者の父の書斎が、一枚ずつ貼り込まれている。
弓は背にあった。矢は、百本目が一本だけである。乗せる行は、まだない。
ルカの報告どおり、詩帳は壇の上の若者の腕の中にあった。取り返す手を、私は七通り考えて、七通りとも捨てていた。どの手も、泣いている読者の腕から、本を引き剥がす手だったからである。
そして、朗読が始まった。
一冊目の、一頁目。十六の私が、三晩かけて書いた二行だった。
詩は、生きているうちに見つかっても、終わらないことがある。帰還の夜、私は原則をそう訂正した。ただし、詩帳が朗読会で読み上げられる場合については、引き続き検討を要する、と書き添えた。
検討の時間は、なかった。
国境の向こうで、六百の兵が、行の終わりで首をすくめた。九十九本の夜明けに、韻の位置を体で覚えた聴衆である。良い聴衆は、八日経っても、良い聴衆だった。
町の側からは、喝采が来た。「闇の詩人さま!」。十六の私の二行は、両軍に、それぞれのやり方で受けていた。
三冊目の、雨の詩が来た。十九の秋、傘を忘れて四日寝込んだ。宿命ではないと言い張ったのは、熱のせいである。
五冊目が来た。――黄昏よ、我が背に乗れ。直す前の版だった。暗がりで、グンターが一度だけ頷いた。あの若者は、黄昏が遠慮しないように、と言った。二十二年かけて、私とグンターがようやく辿り着いた評を、あの若者は七日で言い当てていた。
膝が、笑った。
逃げる道は、いくらでもあった。森は、背中にある。夜明けまで、空き地の切り株と並んで座っていればいい。
十四冊目が、開かれた。
――三度目の満月の夜、風は国境を越える。
若者の声に乗って、私の一行が、国境を越えてきた。
壇の下で、長が何か叫んだ。弩が、一斉に上がった。こちらへ。目を閉じて並ぶ前衛と、その後ろの、旗と、マルタと、双子と、バルドと、町じゅうの松明へ。
私の詩が、今度こそ本当に、号令になろうとしていた。
詩で始まったことは、詩でしか終わらない。そして、あの詩帳の作者は、この国境に一人しかいない。
人波が、割れた。私が歩き出したからである。
「闇の詩人さまが、行く!」と、前衛の列からティモが叫んだ。目は閉じたままだった。マルタの旗が、私の背中を追ってきた。バルドは、今度は誰にも引き戻されずに、その場で泣いていた。
前衛の列の真ん中を、通った。あの子の横を。
あの子は、目を開けなかった。ただ、私の足音が横を過ぎるとき、ほんの少し、顔をこちらへ向けた。
「……行ってらっしゃいませ、師匠」
ひと月半前の夜明け、北門で、この子はこの言葉で私を送り出した。あのとき私は、行ってくる、とは言わなかった。帰ってくるつもりが、なかったからである。
「……行ってくる」
ひと月半遅れの、返事だった。
線を越えた。弩の列の前を通った。誰も射なかった。「あの男だ」「前髪が、ない……」と、兵が囁いた。長は前髪を押さえたまま、私を通した。
壇の階段は、石の倍の高さのぶん、続いていた。
上るあいだ、第四の理由は、珍しく黙っていた。上りたかった壇は、こういう上り方をする壇ではなかったのだろう。
上り切ると、泣いている若者が、詩帳を胸に抱いて、私を見上げた。
「……あなたが」
壇の上は、思っていたより、風が強かった。
前髪は、まだ、揺れるほどの長さがなかった。