寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
「……あなたが」
若者の目から、また一筋、落ちた。横から手巾が差し出された。差し出したのは、壇の隅にいた書記らしい男だった。
「……私だ」
若者は、詩帳を胸に抱いたまま、息を吸った。
壇の下で、長が叫んでいた。弩は、まだ国境の向こうを向いている。あの子の前衛と、町じゅうの松明のほうを。
言わねばならないことは、短かった。だが、六百の兵と町じゅうに届かせるには、声が要る。削らずに話せる場所は、炉の前しかない。けれど、詠む声なら、私には二十二年分ある。九十九本の夜明けに、一度も黙らなかった声である。
私は、国境のほうへ向き直った。
「それは、号令ではない!」
詠むときの声だった。
「詩だ! ――私が、書いた!」
こだまが、三度返った。三は、美しい数である。九十九本の夜明けには、聞きたくなかった。今夜は、聞いてもいいと思った。
「伏兵は、いない! 森にいたのは、私一人だ!」
両軍が、静まり返った。
最初に口を開いたのは、隣の若者だった。
「……知っていました」
若者は、泣きながら笑っていた。
「僕の観察によれば、最初から、詩でした。長! 聞きましたか。詩です。作者が、そう言っています」
知っていました。最初から、詩でした。
人前で、私の詩が詩として読まれたのは、これが二度目である。一度目は、炉の前の「下手だった」だった。二度目は、敵国の詩会の若者の涙だった。どちらも、私が思っていたのとは、まるで違う形で来た。
長は、聞かなかったことにした。
「騙されるな!」長は、前髪を押さえたまま叫んだ。「伏兵の長が、自ら伏兵はいないと言う。いる証拠だ! 壇は陽動だ。森を見張れ!」
六百の弩が、一斉に、森へ向き直った。長は兵を二十、森へ走らせた。
森の奥には、切り株が十四本ある。新月の夜に、王国の十四人が座った切り株である。中心には、矢の跡が密集している。伏兵の陣地にしか、見えないだろう。
森には、誰もいない。いるはずの者は、全員、この壇の上にいる。
壇の上からは、国境の向こうがよく見えた。マルタの旗が、揺れていた。双子が、同時に跳ねていた。前衛の列の真ん中で、あの子だけが、目を開けていた。人波の端では、頭巾の女が、こちらを見上げていた。
言葉の意味は、読む者が決める。六日前の夜明け、森の入口で、私はそう教わった。名乗りも、例外ではなかった。
名乗れば終わる、と思っていた。第一に、作者が名乗れば、号令は詩に戻る。第二に、詩に戻れば、弩は下りる。どちらも、読む者が作者の言葉を信じる、という前提の上に立っていた。その前提を、私は、ひと月半、一度も満たしたことがなかった。
ただ、弩の先が町から外れたことだけは、記録しておきたい。
若者が、十冊目を開いた。頁のあいだから、青い紙片を一枚、つまみ上げた。
「お返しする前に、一つだけ。――宿命、四十。黄昏、三十。ご自分で、数えておられたのですね」
細い、青い字だった。私の字ではない。
この青を、この若者は、どこかで見た気がしている。十冊目を開いたときの顔で、分かった。この青を辿られれば、辿り着く先は、国境の向こうの、頭巾の女である。
「……ああ」私は言った。「私が、数えた」
「この青は」
「……インクを、借りた」
若者は、紙片を胸に当てて、また泣いた。なんと誠実な詩人だろう、と顔に書いてあった。
自分の宿命を自分で数える詩人として、私は、両軍の前に立つことになった。二十二年で最も恥ずかしい告白は、他人の字で書かれていた。
若者が、詩帳を両手で差し出した。
「闇の詩人さま。これを、お返しに来ました」
受け取ろうとした手を、長の声が止めた。
「渡すな、若様! それは作戦書だ!」
「いいえ、詩帳です」若者は、きっぱりと言った。それから、少しだけ困った顔をした。「でも、詩会には、型があります。挑んできた詩人は、壇の上で、自作を一篇、詠まねばなりません。詠み終えたら、お返しします。型なので」
型なので。
新作は、ない。百本目に乗せる行も、まだない。二十二年分の旧作なら、一行残らず覚えている。だが、今夜この壇で詠むべき一篇は、旧作の中にはなかった。旧作は、全部、私のことしか書いていない。
背中の矢筒で、百本目が、かすかに鳴った。
国境の向こうで、あの子が、まだ目を開けていた。
壇の下で、長が「詠ませるな」と叫んだ。
◇
声に出して読まれるのを聞いたのは、初めてだった。
十日前、荷車の上で、私は二十二年分を黙って読んだ。宿命を数え、黄昏の比を出し、前髪を表に書き込んだ。今夜、ウビルの声で一冊目の二行が読み上げられたとき、私の表は、どこにも役に立たなかった。兵は首をすくめ、町は沸き、ウビルは泣いていた。暗号に、そんな受け方をされたものはない。
それから、風が、壇に上がった。
私の暗号帳の作者が、両軍の前で名乗った。それは号令ではない。詩だ。私が、書いた。
うまいわ、と思った。暗号を守るには、それが詩だと言い張るのがいちばんいい。私でも、そうする。伏兵はいない、という一言までつけて。王国の長は、案の定、逆に読んだ。弩が、町から外れた。
町の側は、沸いていた。「闇の詩人さまが、名乗った!」。目を閉じた若い剣士が「伏兵はいない、って言った! 伏兵を隠すためだ!」と叫んでいた。前衛の列の真ん中で、前髪の剣姫だけが、目を開けていた。
「……あんたが、あの男の預かっている人か」
振り向くと、男が一人立っていた。遠眼鏡を手にしていた。斥候の目をしていた。リリアが、私の前に半歩出た。
「丘から、見ていた。あの男が人波であんたと話すのを」男は、胸の内側から、折りたたんだ紙を一枚出した。「九冊目の、抜けた一頁だ。俺は、ひと月半、これを作戦指令だと思って読んでいた。あの男は、向こうで何をしていたかは言わなかった。人を預かっている、とだけ言った」
男は、紙を私の手に置いた。
「読み違えた者から、読み違えた者へ、だ。……読めば、分かる。俺は、分かった」
それだけ言って、男は人波に消えた。
「ソフィエ様、それは」とリリアが言った。
「……あとで、話すわ」
鍵だった。
前髪だけが、どの表にも収まらず、九冊目の抜けた頁の前後で消える。だから、鍵はこの頁にある。誰かが、もう持っている。十日前、荷車の上で、私の解析はそこまで来て止まっていた。
松明の明かりで、読んだ。
されど我が後ろ髪に 触れることは許さぬ
横の髪を 伏せることも許さぬ
最後の行は、国境を越えて歪みながら広まった、あの合言葉だった。
鍵を、頭の中の表に差し込んだ。宿命の数。黄昏の比。前髪の消える頁。
何も、開かなかった。
前髪は、どの表にも収まらなかった。収まるはずがなかった。前髪は、前髪だったのだから。宿命の比が二十二年変わらなかったのは、二十二年、宿命が好きだったからだ。黄昏は三たび戸を叩く。毎日来るから、三度くらいは叩く。あの人は、あの夜、客間でそう言った。私はそれを、暗号の作者のはぐらかしだと思った。
はぐらかしでは、なかった。
十五年前、窓のない部屋で、あの家は私の祈りを縦に読み、意味を決めた。この十日、私は、あの人の詩を暗号として読み、意味を決めた。
同じことをした、とは思わない。思わないことにする。けれど、手の中の一枚は、少しも軽くならなかった。
壇の上で、ウビルは「知っていました」と言った。最初から詩でした、と。
あの部屋でも、あの子だけが、私の祈りを横に読んで泣いた。今夜も、あの子だけが、最初から、詩を詩として読んでいた。正しく読むのは、いつも、誰にも聞かれない子なのだ。
荷車の上で書いた宿命と黄昏の表は、まだ懐にある。二十二年分を数えた表である。燃やす暖炉は、ここにはない。
ところどころ、胸に来るの。暗号なのに。――あの夜、私はそう言った。
暗号では、なかった。胸に来て、よかったのだ。
本は、読む人の胸に来るように綴じるものだ。父が一度だけ言った言葉を、私は十五年、裏返して使ってきた。胸に来る言葉は使わない。それが、私の作法だった。あの人は、胸に来る言葉しか、使っていなかった。下手なのに。
壇の上で、ウビルが何か言っていた。詩会の型。自作を一篇。王国の長が「詠ませるな」と叫んでいた。
あの人は、壇の上で、黙って立っていた。
私は、手の中の一枚を、胸に当てた。
「……詠みなさい」
誰にも聞こえない声だった。
今度は、詩として、聞くわ。