寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第32章 これでよい

 預かった言葉は、壇の上で、声に出して確かめる。詩会の型である。

 見返しの下から出てきた紙が、預かった言葉のうちに入るのかどうか、僕には分からなかった。分からないときは、型に従う。詩会に席を得て二年、僕はずっとそうしてきた。今夜は、型にすがった、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 

「……見返しの下より、紙、一枚」

 

 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。

 

「祈りの頭の字が、縦に、何十列も並んでいます。そのうちの一列が、丸で囲まれています」

 

 僕の観察によれば、と言いかけて、やめた。観察するまでもなかった。

 

「お。う。は。さ。れ」

 

 この五つの字を、僕は前にも、声に出して読んだことがある。十五年前、窓のない部屋で。

 壇の下で、長が何か叫んだ。よく聞こえなかった。

 

「その横に、細い字で。――これでよい」

 

 父上の字だった。父上は、気に入った書面の終わりに、いつもこの一言を書き添える。僕の作文にも、一度だけ、書いてくださったことがある。十歳の誕生日の作文だった。その紙を、僕は今も持っている。

 

 十五年前の、父上の書斎を思い出した。学者の先生たちが三日がかりで、王国じゅうの祈祷書を縦に読んでいた。床じゅうに紙が散らばっていた。三日目の夜、父上がその中から一枚を拾い上げて、羽ペンで何か書き添えた。僕は戸口から、それを見ていた。

 翌日の評定で、僕は言った。見つかって、よかったですね、父上。

 誰も、聞かなかった。

 

「……見つかったのでは、ありませんでした」

 

 声に出ていた。

 

「探して、選んだのです。父上が。これでよい、と」

 

 壇の下で、長がまた叫んだ。「王は去れ、だと!?」六百の兵が、ざわめいた。僕の話を聞いた者は、いなかった。僕の話は、たいてい、そうなる。十五年前も、そうだった。

 ただ、今夜だけは、聞いてほしかった。

 この祈りを、僕は覚えている。十歳のときに読んで、泣いた。縦に読めば、罪になった。横に読めば、こうなる。

 

  おお主よ 今朝もまた 我らに麦を

  うつくしき水を 紙を漉く川に

  はたらく手に ひとしい休みを

  さいわいは 綴じ糸のように ほどけずに

  れいはいの鐘が 鳴りやむまで

 

 読み終えても、涙は出なかった。ベンノが、手巾を探す手つきをして、やめた。手巾は、もうなかった。僕も、泣いていなかった。

 

 隣に、闇の詩人が立っていた。止めなかった人の顔だった。この方は、見返しの下に何があるかを、知っていたのだと思う。知っていて、僕に開かせたのだと思う。

 人波の端で、頭巾の女の人が、両手で口を覆っていた。今夜は、僕も目を逸らさなかった。月の光で、その指先が青く見えた。

 窓のない部屋。指先の青い手が、誰かの手首を握っていた。いつもは、そこで涙が滲んで、先が見えなくなる。今夜は、涙が出なかった。握られていたのは、細い手首だった。若い娘の手首だった。

 その娘の顔を思い出す前に、ベンノが、僕の腕を引いた。壇の下で、森から戻った兵たちが、何か叫んでいた。

 

◇

 

 王は去れ。

 俺の耳には、それしか残らなかった。若様が読み上げた五つの字を並べれば、そうなる。作戦書のいちばん奥、表紙の裏に隠してあった一枚に、そう書いてあったのだ。これ以上の証拠はない。

 若様は、まだ何か言っていた。父上が、どうとか。聞かなかったことにした。トゥエイン家の次男の話は、聞かなかったことにするのが、いちばん安全だ。この七日で、それを学んだ。

 

 兜は、脱いでいない。

 さっきの韻のない詩のとき、兵の多くが兜を脱いだ。俺は脱がなかった。脱げば、何かに負ける気がした。何に負けるのかは、考えなかった。手が少し震えたのは、認める。夜が冷えたせいだ。風はなかったが、冷えた。

 そこへ、森へやった二十人が戻ってきた。息を切らし、髪に枯れ葉をつけていた。

 

「長!」先頭の兵が、膝に手をついた。「森の奥に、空き地がありました。切り株が、十四本」

 

「陣地か」

 

「陣地……に、見えました。どの切り株も、芯に矢の跡がびっしりで。一本は、拳が入るほどえぐれておりました」

 

「兵は」

 

「おりません」兵は、顔を上げた。「一兵も、おりません。伏兵など、どこにも!」

 あたりが、静まった。

 

「足跡は」

 

「踏み跡が、一本だけです。一人が、何年も何年も、同じ道を通ったような」

 

 俺は、頷いた。

 一人分の足跡を、百人で踏む。数を隠す、伏兵の古い手だ。百人は、いた。八日前に九十九本を射たのは、そいつらだ。そして今夜は、もういない。壇の上の男が詩とやらで時を稼ぐあいだに、退いたのだ。

 森には、誰もいない。国境の向こうにいるのは、目を閉じた小娘どもと、町の連中だけだ。

 

「……騙された」

 

 兜を脱いだ兵の一人が、言った。

 

「あの詩は、時間稼ぎか」

 

「兜を、脱がせるための」

 

「俺、泣いちまった」

 

「言うな」

 

「芋の蔵が、どうとか――」

 

 言いかけた兵が、そこで黙った。続きは、誰も言わなかった。代わりに、別の兵が地面に唾を吐いた。

 

「ただの、変な男じゃねえか」

 

 それで、決まった。恥は、怒りに変わるのが早い。兵とは、そういうものだ。

 

「それ見たことか」と俺は言った。今夜、二度目だった。

 

 兜を拾え、とは言わなかった。拾う暇を与えれば、兵はまた考える。考えさせると、兵は兜を脱ぐ。今夜、それを学んだ。

 

「書記どの、若様を壇から降ろせ」

 

「壇の上の男は」と副官が訊いた。

 

「放っておけ。弓は、板の上だ。拾っても、一人だ」

 

 弓聖は黙る男だと聞く。あの男は、今夜、よく喋った。弓聖ではない。

 

「弩、全部、前へ向けろ。森は、もういい。騎馬、前へ」

 

 六百の弩が、森から向き直った。境の石の向こうで、前衛の列は、目を閉じたまま動かなかった。その真ん中に、剣姫がいる。八日前、俺の前髪を勝手に揺らした女だ。

 

「合図で、放つ。前の女ごと、踏み潰せ!」

 

 合図の前に、弦が一つ、鳴った。

 森から戻った二十人の、いちばん若い一人だった。まだ髭も生えそろっていない。弩を構えたまま、手がずっと震えていた。森の奥で、切り株の矢の跡を見すぎたのだろう。

 矢は国境を越えて、町の松明のほうへ飛んだ。女どもが掲げた、闇の詩人の旗のほうへ。

 剣姫が、動いた。

 

◇

 

 唇からこぼれた言葉は、まだ、師匠に届いていない。

 届けに行かなければ、と思っていた。顔を覆った手を、なかなか下ろせなかった。こんなに泣いたのは、初めてだった。芋蔵の暗がりでも、泣かなかった。泣く力が、残っていなかったのだと思う。十年たって、泣く力が、ちゃんとついていたのだと分かった。

 

 国境の向こうで、兵が叫んでいた。森には切り株しかない。伏兵など、一兵もいない。

 前衛の列の後ろで、ティモさんが言った。「さすが伏兵だ。敵にも見つからない」

 それから、向こうの声が変わった。騙された。時間稼ぎだ。ただの変な男じゃねえか。弩の向きが変わる音がした。六百。森から、こちらへ。蹄が、土を掻いた。

 私は、手を下ろした。目は、まだよく見えなかった。

 

「皆さん、目を閉じたまま。後ろは、動かないでください」

 

 前に立つ者だけを、動かす。前に立つのは、私だ。

 短剣を抜いた。三度目だった。刃の根元の一行が、かすかに光った。

 

「――風よ」

 

 光っただけだった。

 風が、なかった。師匠の詩のあいだから、今夜はずっと、風がなかった。風は、聞いてくださる。帳面に、そう書いた。けれど、聞いてくださる風が、どこにもいなかった。

 涙も、止まらなかった。

 風に心を乱されるな。芯は、決して揺らすな。十年、師匠の言葉をそう読んできた。今夜、芯が揺れていた。揺らしたのは、風ではなかった。だから、揺れていてもいい、と思った。そう思ったまま、立っていた。

 

 弦の音がした。

 合図の前の、一つだけの音だった。音で、行き先が分かった。私の右を抜けて、後ろへ。町の松明のほう。マルタさんの旗のほう。旗の下には、マルタさんと、子どもたちがいる。

 いつもなら、払える。目を閉じたままでも、峠で投げ短剣を払った。けれど今夜は、手が半拍遅れると分かった。涙のぶんだけ、遅れる。

 払えないなら、前に立てばいい。

 私は、一歩、右へ出た。

 胸で、何かが割れる音がした。澄んだ音だった。

 地面が、背中に来た。月が見えた。誰かが、剣姫さま、と叫んだ。ティモさんの声だった。マルタさんの声もした。

 師匠の声は、しなかった。

 黙っていらっしゃるのだ、と思った。それから、何も聞こえなくなった。

 

◇

 

 あの子が、倒れた。

 月の光の中で、何かが砕けて、光った。あの子は仰向けのまま、動かなかった。前衛の列も、目を閉じたまま動かなかった。後ろは、動かない。あの子が、そう教えたからである。

 十年前、芋蔵の暗がりで、あの子は動かなかった。戸を開けた私を、目だけで見ていた。

 今夜は、その目も、開いていなかった。

 

 若者は書記に腕を引かれて、壇の階段を降りていった。一冊目を、胸に抱えていた。書見台には、残りの十三冊があった。壇の上には、私と、板の上の弓だけが残った。

 壇の下で、長が手を上げた。六百の弩が、あの子の倒れている列と、その後ろの松明の海を向いていた。蹄が、動き出していた。

 私は、黙っていた。

 弓聖が黙ったら、次の矢で終わる。町の者は、そう言う。私が黙るのは、いつも、次の詩の韻を探しているからだった。二十二年、ずっとそうだった。

 今夜、私は、韻を探していなかった。

 

 壇の板の上の弓を、拾った。

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