寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
弓は、思っていたより軽かった。
グンターの弓である。十六の私が毎日見に行き、値を訊けなかった弓である。握りの革だけが新しく、私の腕の長さに、指一本の狂いもない。拾い上げるまでに、一呼吸もかからなかった。
私の内部で、会議は開かれなかった。
議員は、全員そろっていた。議長も、書記も、被告も、鹿の論法も、席についていた。誰も、発言を求めなかった。議題は、読み上げられなかった。全員が、同じほうを向いていた。国境の向こうの、前衛の列の真ん中を。
満場一致は、二十二年で初めてである。採決は、とらなかった。とる必要が、なかった。
第四の理由は、床下にもいなかった。前髪のことも、考えなかった。考えるほどの長さが、まだなかった。
国境の向こうで、あの子は、まだ動かなかった。壇の下の長の手は、上がったままだった。あの手が下りれば、六百の弩が、あの子の倒れている列と、その後ろの松明の海へ放たれる。残っている時間は、一行ぶんだった。
矢筒には、百本目が残っていた。乗せる行は、ずっとなかった。二十二年分の行は、どれも、私のことしか書いていない。さっき壇で詠んだ一篇だけが、あの子のことを書いた。韻のない一篇だった。韻のない行は、矢にならない。
芋蔵の詩の、最後の行が、まだ国境の夜に置かれたままだった。
出てきてくれて、ありがとう。
その行は、韻を踏む相手を持たないまま、ひとりで立っていた。十年かかって、ようやく言えた行である。相手がいなくて、当然だった。
相手になる一行を、私は一つしか知らなかった。推敲は、しなかった。推敲の要らない行が来たのは、二十二年で初めてだった。
ありがとう、と、帰ろう。最後の一音が、同じである。二十二年で、いちばん素朴な韻だった。
声は、詠む声を使う。囁けば、韻は立たない。八日前の一本目で、それを知った。立たせろ、とグンターは言った。
ただし、抑揚は捨てる。陶酔の分を、声から抜く。宿命も、黄昏も、乗せない。残るのは、声量だけでいい。
六百人の聴衆は、韻の位置を、体で覚えている。八日前の夜明けに、私が覚えさせた。今夜、若者が読んだ旧作でも、彼らは行末で一斉に首をすくめた。良い聴衆である。二十二年で私が手に入れた、ただ一つの聴衆である。
的は、選ぶまでもなかった。今夜、兜をかぶっているのは、壇の下の一人だけだった。澄んだ音のする兜は、一つしか残っていない。合図を出す手は、その兜の下にある。
人には、当てない。今夜もである。人に当たった矢は、鈍い音がする。鈍い音は、あの子のための行に、ふさわしくない。
一行は、あの子のために。声は、六百人のために。矢は、一つだけ残った兜のために。
百本目をつがえた。弦を引いた。壇の上には、まだ風がなかった。
目を開けてくれ 一緒に 帰ろう
二十二年でいちばん大きな声で、二十二年でいちばん平らに、私は詠んだ。
帰ろう、の最後の一音で、指を離した。
◇
壇の上の男が、黙っていた。
弓を拾ってから、ずっと黙っていた。今夜あれほど喋った男が、初めて黙った。
弓聖が黙ったら、次の矢で終わる。八日前、兵どもがそう言って震えていた。迷信だ。俺は、迷信を信じない。弓聖は黙る男だと聞く。あの男は、今夜、よく喋った。だから、弓聖ではない。
俺は、上げた手を振り下ろそうとした。
そのとき、壇の上から、声が降ってきた。
大きな声だった。八日前の夜明けに、森の縁から国境を越えてきた声と、同じ大きさだった。だが八日前の声は、歌っていた。今夜の声は、少しも歌っていなかった。石を一つずつ置くような声だった。
目を開けてくれ。一緒に、帰ろう。
行の終わりで、地が鳴った。
山が崩れたのだと、俺は思った。馬が前脚を上げた。俺は手綱を引いて、それから、見た。
六百人が、地面に伏せていた。
一人残らず、だった。弩を抱えたまま膝から崩れ、額を土につけていた。八日前の夜明け、兵どもは文句の終わりごとに伏せた。その体が、覚えていたのだ。六百の体が、一度に地面を打った。それが、地鳴りの正体だった。
「天災だ……」
伏せたまま、誰かが言った。
騎馬は、止まっていた。騎手どもは、馬の首にしがみついていた。馬のほうが地鳴りに怯えて、一歩も前へ出なかった。何本かの弩が、伏せた拍子に鳴って、月のほうへ飛んでいった。国境の手前の、誰もいない草地に落ちた。
その音を聞いたのは、あとだった。
先に、俺の頭の上で、澄んだ音がした。
兜が、なかった。
闇の向こうで、何かが一度だけ鳴って、転がっていった。俺の兜だった。頭には、かすり傷ひとつなかった。
俺は、前髪を押さえていた。押さえる理由は、なかった。今夜は、風がない。
伏せていないのは、俺と、壇の脇の若様と、書記だけだった。
「……皆さんが、頭を垂れました」
若様が言った。泣いてはいなかった。
今度は、聞こえた。聞かなかったことには、できなかった。
振り下ろすはずだった手は、上がったまま、どこにも下りなかった。合図を待つ兵は、一人もいなかった。全員が、伏せていた。
誰も、血を流していなかった。八日前と、同じだった。いちばん恐ろしいのは、そこだった。
弓は、板の上だ。拾っても、一人だ。そう言ったのは、俺だった。
一人で、足りたのだ。
一人分の足跡は、一人分の足跡だった。百人で踏んだのではない。最初から、一人しか、いなかったのだ。
◇
事実一。壇の上の男は、一行だけ詠んだ。
事実二。矢は、一本だった。
事実三。六百が、伏せた。伏せていないのは、王国の長と、若い貴族と、その書記だけ。
事実四。血は、一滴も流れていない。
遠眼鏡は、要らなかった。今夜の俺は、丘ではなく、人波の中にいる。
手帳を開いた。八日前に書いた行が、そこにあった。
――弓聖、帰還。伏兵、百。所在不明。
その下に、書いた。
――訂正。伏兵、一。所在、壇の上。
書くのは、初めてではない気がした。同じ頁の線の下に、まだ読める一行がある。伏兵は、いなかったのではないか。俺は、一度、書いていた。
暗がりで、腕を組んだ鍛冶屋が、ひとことだけ言った。
「……立った」
何が、とは訊かなかった。韻のことだろう。俺には、分からない。分からないことを分からないまま書かずにおけるようになったのは、この五日のことだ。
手帳を閉じた。
前衛の列の真ん中で、あの子は、まだ動かなかった。俺の解読を、教えとして帳面に書き写した子だ。
壇の階段を、一人、駆け降りてくる男がいた。
◇
壇の階段を、降りた。
何段あったのかは、数えなかった。上るときは、数えた気がする。
六百人が、伏せていた。その間を、歩いた。それから、走った。誰も顔を上げなかった。伏せた兵の背中を跨ぎ、弩を跨ぎ、長の馬の横を抜けた。長は、手を上げたまま私を見ていた。何も言わなかった。
境の石を、越えた。
前衛の列は、目を閉じたまま動かなかった。何人かは、泣いていた。ティモが、目を閉じたまま、剣姫さま、剣姫さま、と繰り返していた。列の真ん中が、一人分、空いていた。
十年前の帰り道、私は一度も振り返らなかった。後ろの足音が止まると、私も止まった。足音が動くと、また歩いた。
今夜は、合わせる足音がなかった。だから、走った。
あの子は、仰向けのまま、月を見上げるような顔をしていた。目は、閉じていた。胸の上で、砕けた何かが、月の光を返していた。
私は、そばに膝をついた。
弓を、地面に置いた。芋蔵の床に置いたのと、同じように。
黒パンは、持っていなかった。
あの子の名前を、呼んだ。詠む声でも、削った声でもなかった。