寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
暗いところに、いた。
芋蔵の暗がりに、少し似ていた。違うのは、怖くないことだった。
遠くで、声がした。大きな声だった。けれど、歌ってはいなかった。石を一つずつ置くような声だった。
目を開けてくれ。一緒に、帰ろう。
それから、名前を呼ばれた。
詠む声でも、削った声でもなかった。十年、一度も聞いたことのない声だった。それなのに、誰の声なのか、すぐに分かった。
目を開けた。
月があった。月の手前に、師匠の顔があった。
師匠は、地面に膝をついていた。そばの地面に、弓が置いてあった。十年前、芋蔵の床に置かれたのと、同じ置き方だった。
息を吸うと、胸が少し痛んだ。胸当てが、真ん中から割れていた。割れていたのは、胸当てだけだった。
師匠の顔は、見たことのない顔だった。泣いているのとも、怒っているのとも違った。十年前、芋蔵の戸を開けた人の顔に、少しだけ似ていた。
「……はい」
と、私は言った。
目を開けてくれ、と言われたので、開けた。一緒に帰ろう、と言われたので、はい、と言った。
「さっきも、申し上げました」声が、少しかすれた。「芋蔵の詩のあとで。……聞こえなかったと、思いますけれど」
師匠は、黙っていた。
「十年前、もう、出ていい、とおっしゃいました。私は、返事をしませんでした。できませんでした。声の出し方を、忘れていたので」
帳面の一頁目には、あの一行だけを書いてある。返事は、書いていない。十年、書けなかった。
「ですから、さっき、言いました。十年分、遅れて。……はい、と」
◇
生きていた。
胸の上で月の光を返していたのは、砕けた胸当てだった。あの子の頰に、色が戻っていくのが分かった。十年前の芋蔵で、黒パンを渡したあとにも、こうして色が戻った。
はい、とあの子は言った。十年前の返事だという。
私は、十年、それを待っていた覚えはない。待っていた覚えはないのに、受け取ったとたん、十年待っていたことが分かった。
言えなかった七つのうち、七つ目は、壇の上で言った。残りは、六つある。
削ることには、二十二年の修練がある。削らないことには、修練がなかった。八日前の再会では、言葉が出口で渋滞した。
今夜は、一篇ぶんの修練がある。
「……エレナ」
あの子が、少しだけ目を見開いた。
前衛の列が、目を閉じたまま、私たちの周りに立っていた。あの子は半身を起こして、列のほうへ言った。
「皆さん、もう少しだけ、目を閉じていてください。……耳も、できれば」
「耳は、閉じ方が分かりません!」とティモが言った。目は、閉じたままだった。
あの子が、困った顔で私を見た。
「……かまわない」
聞かれても、終わらない。今夜、私はそれを知った。
「黙って、出ていった。すまなかった」
「はい」
「行ってらっしゃいませ、と言われて、訂正しなかった。帰るつもりが、なかった。すまなかった」
「……はい」
「嵐の日、お前がつむじ風を鎮めるのを、鍛冶屋の薪小屋から見ていた。誇らしかった」
あの子の目が、また少し濡れた。「……似た気配が、すると思っていました」
「新月の森の十四人は、私の矢だ。国境の九十九本も」
「十四人が私の手柄でないことは、存じておりました」あの子は言った。「九十九本のほうは、拍子で」
渋滞は、しなかった。列は、思っていたより短かった。七つ目が抜けたぶん、出口が空いていたのだろう。
残りは、二つだった。
「……短剣の一行は」
「はい」
「前髪の、詩だ」
あの子は、黙って私を見ていた。
「詩帳の九冊目にある。二十代の終わりに書いた。風が吹くと、髪が乱れる。後ろの髪が逆立てば寝起きに見える。横の髪が潰れれば、帽子を脱いだあとに見える。前髪だけが揺れれば、物憂げに見える。……だから、前髪だけを揺らせ、と書いた。それだけの詩だ」
削らずに言うと、二十二年で最も恥ずかしい告白は、思っていたより長かった。
前衛の列のどこかで、双子が同時に息を呑んだ。
「お前は、それを短剣に刻んだ。だから、私は町を出た。詩帳を読まれたのだと、思った」
これで、六つ目である。
あの子は、首を傾げた。
「詩帳は、一度も拝見したことがありません」
「……読んだのでは、ないのか」
「師匠が見せようとなさらないものは、見に行きません」あの子は、帳面の一頁目の話をするときと同じ声で言った。「あの一行は、峠の切り通しで、師匠がおっしゃいました。砂嵐の中で、息だけで。私は、左の半歩後ろにおりました」
峠の切り通し。砂嵐。角笛。
前髪が目にかかって、私は、息だけで――
言った。
確かに、言った。呼吸を拍子に揃えるために、口の中で転がして、「揺らせ」の「せ」で放った。
宴の夜、私は、峠説を却下したのである。息だけの声が聞こえるはずがない、と。あの子は、砂嵐の中で目を閉じたまま、投げ短剣を払う子だった。聞こえるはずがないものを、聞く子だった。
私がひと月半、国境の向こうまで夜逃げしたのは、私自身の独り言から逃げるためだった。逃げた先にも、独り言はついてきた。当然である。前髪の剣姫という名になって、私より先に国境を越えていたのだから。
あの子が、笑った。
声を出して、笑った。割れた胸当てを手で押さえて、痛い、と言いながら、笑った。あの子が声を出して笑うのを、私は聞いた覚えがない。
前衛の列で、ティモが目を閉じたまま、つられて笑った。双子が、同時に笑った。
「……すまない」と私は言った。七つには入っていなかった、八つ目の詫びだった。
「いいえ」あの子は、目元を拭った。「前髪の詩でも、風は、聞いてくださいました」
「……あれは、お前の力だ。私の詩は、前髪のことしか書いていない」
「師匠の教えです」
あの子は、いつもと同じように、そう言った。
エレナは天才である。私の功績ではない。何度も頭の中で出した結論である。口に出したことは、一度もなかった。
「……お前は、天才だ。私の功績ではない」
「師匠の教えです」あの子は、もう一度言った。「前髪の詩でも、です」
◇
帳面は、懐にあった。胸当ての下で、角が少し折れていただけだった。
私は、帳面を開いた。
師匠の言葉の下に、小さく、私の解釈が書き添えてある。三冊目。
「……開けていると、逃げる」と私は読んだ。
「……韻が、逃げる。目を開けていると」
解釈の下に、もう一行、小さく書き足した。――韻が、逃げる。
「遠慮しておく」
「……朗読会で、詩を読みたかった。我慢した」
書き足した。――読みたかった。
「隠すほど、育つ」
「……詩のことだ。お前が、詩を書き始めたのかと思った」
書き足した。笑いそうになって、字が少し曲がった。
「風に、気をつけろ」
師匠は、少し黙った。
「……あの一行を、もう人前で唱えないでくれ、と言いたかった。長かったので、削った」
毎朝の稽古で、私がそれを挨拶にしていることは、言わないでおいた。たぶん、師匠はもう知っている。
一頁目まで、戻った。
――もう、出ていい。
その下には、何も書き添えていない。十年、書き添えることがなかった。
「これは」
「……それは、そのままだ」
はい、と私は言った。書き足すことは、やはり、なかった。
代わりに、余白に二行、書いた。
――出てきてくれて、ありがとう。
――目を開けてくれ。一緒に、帰ろう。
そのとき、風が来た。
山のほうからの、吹き下ろしだった。満月の夜になってから、初めての風だった。
風は、私の前髪を揺らした。いつものように、前髪だけを。
それから、師匠の額のほうへ行った。師匠の前髪は、まだ短い。揺れたのかどうか、私には分からなかった。
「師匠。前髪が」
「……まだだ」と師匠は言った。
鍛冶屋のグンターさんと、同じ言い方だった。
国境の向こうでは、六百人の兵が、まだ伏せていた。壇の上の書見台には、師匠の詩帳が十三冊残っている。一冊目は、若い貴族の腕の中にある。
師匠は、弓を拾った。
「……取り返してくる」
「はい」
私は立ち上がって、師匠の半歩後ろに立った。今度は私の足音に合わせなくていいのだと、言おうとして、やめた。言わなくても、師匠はたぶん、合わせる。
人波の中を、指先の青い女の人が、壇のほうへ歩いていくのが見えた。