寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
十五年、名乗らなかった。
雅号も、持たなかった。鳩だの鴉だの鹿だのと呼び合う工房で、私だけが名で呼ばれた。名で呼ばれるのは、名乗るのとは違う。ソフィエ、と呼ばれるたびに、その後ろに続くはずの家の名が、喉の奥で一度だけ鳴って、消えた。名のほうが、私を捨てたのだから。
リリアは、人波の端に残った。あとで話す、と言ったことを、まだ話していない。
伏せた兵のあいだを、歩いた。誰も、顔を上げなかった。馬上の長だけが、こちらを見た。何も言わなかった。
壇の下に、あの子が立っていた。一冊目を胸に抱えていた。泣いてはいなかった。十五年前、窓のない部屋の外の廊下で、あの子は泣きながら手巾を差し出した。泣いていない顔を、私は、初めて見た。
あの子の前に立って、頭巾を下ろした。
「ソフィエ・ブーフホルツよ」
十五年ぶりに、最後まで言えた。
あの子は、私の指先を見た。それから、手首を見た。
「……あの部屋で」声は、ほとんど聞こえなかった。「お父上が、握っておられた、手首です」
「ええ」
「書いたのは、私です、と。お父上は、おっしゃいました」
「ええ。書いたのは、私よ。父ではなく」
あの子は、長いあいだ黙っていた。修辞学も、観察も、出てこなかった。
「……僕は、あの祈りを、二度、読み上げました」
「三度目は、横に読んだわね」と私は言った。「聞いていたわ」
あの子は、壇の階段を上った。私も、上った。
書見台に、十三冊が残っていた。綴じ糸がやわらかい。何度も開かれた本だ。あの子は一冊ずつ、見返しの角に指をかけた。私が貼った糊は、まだ新しかった。
今度は、あの子は、何も読み上げなかった。
七枚が、あの子の手にそろった。
「お渡しします」
「……いいの。あなたの家よ」
「父上は、これでよい、と書きました」あの子は、七枚目の細い字を見ないようにして言った。「僕は、これでよいとは、思いません」
十五年、この紙のために何をしてきたかは、ここには書かない。井戸の道の出口で取られた塩は、十四冊の詩帳と一緒に、この子の腕の中で七日を過ごし、今、この子の手から、私の手へ来た。
意味は、見つけたのではない。探して、決めたのだ。あの家は、そうした。この子は、探さなかった。ただ、読んだ。
七枚を、受け取った。向こうには、評定のやり直しを王に求めてくれる人がいる。紙は、そこへ渡す。それで父が塔から出られるのかどうかは、分からない。分からないことを、分からないまま運ぶのは、慣れている。
あの子の目から、ようやく涙が落ちた。書記が袖口を探して、首を振った。手巾は、尽きている。
私は懐から、インク拭きの布を出した。ブーフホルツの青が、染みついている。
「これしかないわ」
あの子は、それで顔を拭いた。頰に、青い筋がついた。
「あなたの手巾は、工房の引き出しにあるわ。十五年、インクを拭いて、今はこの色よ。紋は、もう見えない」
「返さなくていいです」あの子は、青い頰のまま言った。「僕は、あと……」
そこで、あの子は数えるのをやめた。
壇の階段を、背の高い男が上ってきた。半歩後ろに、前髪の揺れる娘がいた。
◇
壇の上に戻ると、若者の頰が青かった。
ソフィエの手に、薄い紙が七枚あった。若者の手から渡ったのだと、説明されなくても分かった。
若者は一冊目を書見台に戻し、羽ペンを拾った。見返しは、もう何も隠していなかった。
「評は、見返しに書き入れるのが、詩会の型です」
若者は、一行だけ書いた。
――四行目に、嘘がない。
「お返しします。型なので。……鞄も、天幕にあります。留め金が一つ、閉まりませんが」
それから若者は、羽ペンを持ったまま、私を見た。
「評には、詩人の名を書き添えるのが、型です。……お名前を、伺っても」
名乗っても、終わらない。今夜はもう、それを何度も知っている。
「……ミリアン・ロス」
若者は、評の下に、その名を書き添えた。町の者が呼ぶ二つ名も、たぶん知っているのだろう。書き添えはしなかった。型には、ないのだろう。
詩帳の一冊目の一頁目に、十六の私が書いた二行がある。我が名を、まだ誰も知らぬ。知らぬがよい、いずれ知るゆえ。二行目が成就するのに、二十二年かかった。成就の仕方は、思っていたのと違った。
十四冊が、私の腕に戻ってきた。重かった。比喩ではない。
半歩後ろで、あの子が目を逸らしていた。詩帳は、見ない。見せようとなさらないものは、見に行かない。見せようとしても、たぶん見ない。
詩は、生きているうちに見つかっても、終わらないことがある。八日前、私はそう訂正し、但し書きを付けた。詩帳が朗読会で読み上げられる場合については、引き続き検討を要する。
読み上げられた。終わらなかった。但し書きは、削除する。
ソフィエが、七枚を懐にしまった。
六日前、言いかけてやめた一行がある。震えが止まってから言うことにしていた。指先は、もう震えていなかった。
「……あれは、詩だ」
「知ってるわ」
ソフィエは、懐からもう一枚出した。九冊目の、一頁だった。
ルカが持っているはずの一頁である。いちばん安全で、いちばん恥ずかしい保管場所に、置いてきたはずの一頁である。
「斥候さんがくれたの。読み違えた者から、読み違えた者へ、ですって」
されど我が後ろ髪に、触れることは許さぬ。横の髪を、伏せることも許さぬ。全部、読まれている。
「この頁は、私が九冊目に綴じ直すわ。製本師だもの。糸には、触らないようにする」
「……頼む」
「胸に来たわ」ソフィエは言った。「下手なのに」
下手だと言われたのは、グンターに続いて二人目である。
「あなたの詩を、暗号として読んだわ。十日間」
「……私も、あなたの暗号を、前衛詩として読んでいた」
「どうだった」
「……胸には、来なかった」
ソフィエは、少しだけ笑った。指先の青い手で、口元を押さえた。
「そう。来ないように、書いたのよ」
◇
風が、出ていた。
山からの吹き下ろしだった。前髪が、揺れた。押さえるのは、やめた。兜は、もうない。
六百が、伏せたまま、俺の合図を待っていた。いや、待ってはいなかった。伏せていただけだ。
「……起きろ」
兵が、一人ずつ起き上がった。地面に置いた兜を、誰も拾わなかった。拾え、とは言わなかった。脱いだ兜を、もう一度かぶらせる理由が、今夜の俺には一つも思いつかなかった。
壇から、若様が降りてきた。頰に、青い筋がついていた。
「長」若様は言った。「詩会への報告は、僕が書きます」
今度も、聞いた。
「四行目には、嘘を書きません」
俺は、黙っていた。少しして、言った。
「……それで、いいでしょう」
これでよい、とは言わなかった。さっき若様が読み上げた紙の、最後の一言だった。
「引き揚げる」
六百が、国境に背を向けた。騎馬が先に、弩が後に。森へやった二十人は、列のいちばん後ろを歩いた。いちばん若い一人が、何度も国境のほうを振り返っていた。あいつには、あとで何か言ってやらねばならない。何と言えばいいのかは、分からない。
俺も、一度だけ振り返った。
国境の向こうを、背の高い男が歩いていた。腕に、帳面を何冊も抱えていた。半歩後ろを、剣姫が歩いていた。男は、後ろの足音が止まると止まり、足音が動くと、また歩いた。何をしているのかは、分からなかった。
ミリアン・ロス。壇の上で、若様に名乗るのが聞こえた。町の連中は、あの男を弓聖と呼ぶ。
弓聖は黙る男だと聞く。あの男は、今夜、よく喋った。黙ったのは、一度だけだった。
一度で、足りた。
境の石のまわりに、兜が残った。六百と、俺の一つ。八日前にも、三百、置いていった。
誰も、拾わなかった。