寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第36章 半分の黒パン

 鍛冶屋の炉に、火が入っていた。

 国境の暗がりから、私たちより先に戻ったのだろう。裏口を三度叩くと、扉は一度目で開いていた。炉の前に、丸椅子が三つ。白湯が、三つ。

 詩帳は、鞄に戻してあった。若者の天幕から引き取ってきた鞄である。真鍮の留め金は、四つのうち三つしか閉まらない。旅立ちの朝から、そのままである。炉の脇に下ろすと、床が鳴った。

 あの子は、丸椅子に座る前に、グンターに頭を下げた。グンターは、あの子の胸の、割れた胸当てを見た。

 

「……置いてけ」

 

「はい」

 

「打つ」

 

 あの子は、胸当ての留め紐をほどいた。グンターは、それを炉の脇の台に置いた。それで、話は終わった。

 白湯を、一口飲んだ。

 

「……詠んだか」

 

「詠んだ」と私は言った。「韻のないのを、一篇。韻のあるのを、一行」

 

「聞こえた」

 

 グンターは、炉の火を見ていた。二十二年、煙突越しに聞いた男である。今夜は、煙突より近くで聞いた。

 

「一篇のほうは」グンターは言った。「下手じゃ、なかった」

 

 白湯を、もう一口飲んだ。飲まないと、何か別のものがこぼれそうだった。

 二十二年、下手だった。今夜、下手じゃなかった。一行も、褒め言葉は付いていない。付いていないのが、いちばんの褒め言葉だということを、私は、この炉の前で覚えた。

 

「一行のほうは」

 

「……立った」

 

 それきりだった。

 あの子が、私とグンターを、交互に見ていた。

 

「グンターさんも、聞いていらしたのですね」

 

「……煙突だ」

 

「何年ですか」

 

「二十二年」

 

「私は、十年です」あの子は、白湯の器を両手で持って言った。「森の言葉は、聞かないことにしていましたけれど。拍子だけは」

 

 グンターが、あの子を見た。それから、少しだけ頷いた。二十二年の聞き手と、十年の聞き手が、炉の前で、初めて聞き手同士として顔を合わせたのだった。私だけが、聞かれていたことを知らなかった。

 

 二十二年、私は北門から森へ行き、森から北門へ帰った。その足音を、この男は煙突の下で数えていた。十年前からは、足音が二つになり、帰りが早くなったことまで、数えていた。

 帰ってきた、と、この炉の前で言ったことは、一度もない。

 

「……ただいま」

 

 グンターは、炉の火から目を離さなかった。

 

「……おかえり」

 

 二十二年で、初めて聞いた言葉だった。

 あの子が、白湯の器の陰で、少しだけ笑った。それから、小さな声で言った。「おかえりなさいませ、師匠」

 返事が、二つ返ってきた。

 グンターが、炉の灯りで私の額を照らした。

 

「……少し、伸びた」

 

 まだだ、ではなかった。

 

「はい」とあの子が言った。「少しだけ」

 

 あの子を、先に宿舎へ帰した。胸の打ち身は、マルタに見てもらうように言った。あの子は、半歩後ろではなく、一人で、前を向いて帰っていった。

 白湯は、夜明けまでに二度、注ぎ足された。

 グンターが、炉の脇の鞄を顎で示した。

 

「……燃やすか」

 

「……いや」

 

「そうか」

 

 宴の翌朝、私は焼却を第二案に挙げ、二十二年を燃やせないという理由で却下した。今夜は、燃やさない理由を、考えなくてよかった。

 夜明け前、頭の中の白い頁に、一篇だけ書いた。宿命は、一度にとどめた。

 

  炉の前に 白湯は三つ

  おかえりは 二つ

  ――宿命よ、汝の分は、ない

 

 三行目は、少し意地が悪い。だが、削らない。

 

◇

 

 ソフィエ様は、約束を守る方だ。

 

「あとで話す、と言ったわね」

 

 丘の修道院の客間で、ソフィエ様はそう言った。夜はもう、ずいぶん更けていた。私は黒パンを半分に割って、片方をソフィエ様の前に置いた。

 ソフィエ様は、懐から一枚の紙を出した。斥候の人から受け取っていた紙だった。

 

「鹿の詩帳の、九冊目の一頁よ。……詩だったの。暗号じゃなかった」

 

 ソフィエ様は、短く話した。風は、合図ではなかった。三度目の満月は、決行の日ではなかった。宿命が多いのは、宿命が好きだったから。前髪は、前髪だった。

 

「十日間、私はあの人の詩を、暗号として読んだわ。意味を、探して、決めた」ソフィエ様の声から、わ、が消えた。「十五年前に、あの家が私にしたのと、同じことを」

 

 私は、黙っていた。運ぶ言葉は選べないが、運ばない言葉は選べる。慰めの言葉は、今夜は運ばないことにした。

 代わりに、自分の読み違えを数えた。

 国境の町の酒場で、私は、四人を縫い止めた連鎖を、計算された技だと思った。鹿さんの目が濡れていたのを、涙だと思った。麦酒を噴いた人の目は、濡れるものだ。今なら、分かる。名乗らないのを、名を捨てた人だと思った。鹿さんの沈黙に、いつも、深い悲しみを読んでいた。

 

 嵐の日、前髪だけを揺らす剣姫を見て、私は、あの人が風だと言った。翌日、鹿さんの削った一言で、風は剣姫の師だと書き直した。書き直させたのは、鹿さん本人だった。背の高い、無口な人だと町で聞いて、鹿さんは紙を折る人です、と自分に言い聞かせたこともある。

 

「……鹿さんは、黙っているとき」

 

「韻を探していたのよ」とソフィエ様は言った。「たぶん、ずっと」

 

 私は、笑ってしまった。声を出して笑ったのは、久しぶりだった。ソフィエ様も、少しだけ笑った。

 

「名前は、ミリアン・ロス。若様に、名乗っていたわ」

 

「……ミリアン、さん」

 

 口の中で、一度だけ言ってみた。鹿さん、と呼ぶのとは、舌の置き場所が違った。

 

「七枚は、向こうへ運ぶわ」ソフィエ様は、懐の上から紙を押さえた。「いずれ、あなたに頼むことになる」

 

「はい。運ぶ者ですから」

 

 ソフィエ様は、半分の黒パンを手に取って、それから、私を見た。

 

「あなた、あの人のこと」

 

 最後まで、ソフィエ様は言わなかった。言わなくても、分かった。

 

「……運ばない言葉は、選べますから」と私は言った。

 

「運ばなくて、いいの」

 

「はい。……でも、一つだけ、運びたい言葉があります」

 

「何」

 

「詩が、好きです」

 

 ソフィエ様は、少し驚いた顔をした。

 

「下手よ」

 

「はい。でも、好きです」私は言った。「芋蔵の詩は、下手ではありませんでした」

 

「……そうね」ソフィエ様は、九冊目の一頁を、胸に当てた。「あれは、下手じゃなかったわ」

 

◇

 

 夜明けに、丘を降りた。

 懐に、黒パンを半分。修道院の竈で焼いたものを、出がけに割ってきた。

 北門は、まだ倒れたままだった。ただの穴をくぐって、町の通りを歩いた。通りの向こうで、ティモさんが誰かに、前髪の詩だったんだ、と叫んでいた。聞いている人の数は、もう増えていた。鍛冶屋の裏手で、背の高い人が、裏口から出てくるところだった。大きな鞄を背負っていた。前髪は、まだ短かった。

 

「……鹿さん」

 

 その人が、こちらを向いた。

 

「いえ」私は、言い直した。「ミリアンさん」

 

 その人は、少し驚いた顔をした。耳が、赤くなった。首も、赤くなった。森の入口で、百個の弁当を運んでいた朝と、同じ赤さだった。恥じらいなのだと、今は分かる。

 私は、黒パンを差し出した。その人は、受け取った。

 

「詩が、好きです」と私は言った。「下手なところも」

 

 その人は、長いあいだ黙っていた。

 韻を探しているのだと、今は分かる。

 

「……そうか」

 

 それだけ、言った。

 その顔を、私はずっと、呼ぶ言葉を持っていなかった。悲しそうな顔でも、恥ずかしそうな顔でもなかった。

 嬉しい人の顔だった。

 それで、十分だった。運ばない言葉を、一つ、選んだ。残りの半分の黒パンと一緒に、丘へ持って帰った。

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