寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
鍛冶屋の炉に、火が入っていた。
国境の暗がりから、私たちより先に戻ったのだろう。裏口を三度叩くと、扉は一度目で開いていた。炉の前に、丸椅子が三つ。白湯が、三つ。
詩帳は、鞄に戻してあった。若者の天幕から引き取ってきた鞄である。真鍮の留め金は、四つのうち三つしか閉まらない。旅立ちの朝から、そのままである。炉の脇に下ろすと、床が鳴った。
あの子は、丸椅子に座る前に、グンターに頭を下げた。グンターは、あの子の胸の、割れた胸当てを見た。
「……置いてけ」
「はい」
「打つ」
あの子は、胸当ての留め紐をほどいた。グンターは、それを炉の脇の台に置いた。それで、話は終わった。
白湯を、一口飲んだ。
「……詠んだか」
「詠んだ」と私は言った。「韻のないのを、一篇。韻のあるのを、一行」
「聞こえた」
グンターは、炉の火を見ていた。二十二年、煙突越しに聞いた男である。今夜は、煙突より近くで聞いた。
「一篇のほうは」グンターは言った。「下手じゃ、なかった」
白湯を、もう一口飲んだ。飲まないと、何か別のものがこぼれそうだった。
二十二年、下手だった。今夜、下手じゃなかった。一行も、褒め言葉は付いていない。付いていないのが、いちばんの褒め言葉だということを、私は、この炉の前で覚えた。
「一行のほうは」
「……立った」
それきりだった。
あの子が、私とグンターを、交互に見ていた。
「グンターさんも、聞いていらしたのですね」
「……煙突だ」
「何年ですか」
「二十二年」
「私は、十年です」あの子は、白湯の器を両手で持って言った。「森の言葉は、聞かないことにしていましたけれど。拍子だけは」
グンターが、あの子を見た。それから、少しだけ頷いた。二十二年の聞き手と、十年の聞き手が、炉の前で、初めて聞き手同士として顔を合わせたのだった。私だけが、聞かれていたことを知らなかった。
二十二年、私は北門から森へ行き、森から北門へ帰った。その足音を、この男は煙突の下で数えていた。十年前からは、足音が二つになり、帰りが早くなったことまで、数えていた。
帰ってきた、と、この炉の前で言ったことは、一度もない。
「……ただいま」
グンターは、炉の火から目を離さなかった。
「……おかえり」
二十二年で、初めて聞いた言葉だった。
あの子が、白湯の器の陰で、少しだけ笑った。それから、小さな声で言った。「おかえりなさいませ、師匠」
返事が、二つ返ってきた。
グンターが、炉の灯りで私の額を照らした。
「……少し、伸びた」
まだだ、ではなかった。
「はい」とあの子が言った。「少しだけ」
あの子を、先に宿舎へ帰した。胸の打ち身は、マルタに見てもらうように言った。あの子は、半歩後ろではなく、一人で、前を向いて帰っていった。
白湯は、夜明けまでに二度、注ぎ足された。
グンターが、炉の脇の鞄を顎で示した。
「……燃やすか」
「……いや」
「そうか」
宴の翌朝、私は焼却を第二案に挙げ、二十二年を燃やせないという理由で却下した。今夜は、燃やさない理由を、考えなくてよかった。
夜明け前、頭の中の白い頁に、一篇だけ書いた。宿命は、一度にとどめた。
炉の前に 白湯は三つ
おかえりは 二つ
――宿命よ、汝の分は、ない
三行目は、少し意地が悪い。だが、削らない。
◇
ソフィエ様は、約束を守る方だ。
「あとで話す、と言ったわね」
丘の修道院の客間で、ソフィエ様はそう言った。夜はもう、ずいぶん更けていた。私は黒パンを半分に割って、片方をソフィエ様の前に置いた。
ソフィエ様は、懐から一枚の紙を出した。斥候の人から受け取っていた紙だった。
「鹿の詩帳の、九冊目の一頁よ。……詩だったの。暗号じゃなかった」
ソフィエ様は、短く話した。風は、合図ではなかった。三度目の満月は、決行の日ではなかった。宿命が多いのは、宿命が好きだったから。前髪は、前髪だった。
「十日間、私はあの人の詩を、暗号として読んだわ。意味を、探して、決めた」ソフィエ様の声から、わ、が消えた。「十五年前に、あの家が私にしたのと、同じことを」
私は、黙っていた。運ぶ言葉は選べないが、運ばない言葉は選べる。慰めの言葉は、今夜は運ばないことにした。
代わりに、自分の読み違えを数えた。
国境の町の酒場で、私は、四人を縫い止めた連鎖を、計算された技だと思った。鹿さんの目が濡れていたのを、涙だと思った。麦酒を噴いた人の目は、濡れるものだ。今なら、分かる。名乗らないのを、名を捨てた人だと思った。鹿さんの沈黙に、いつも、深い悲しみを読んでいた。
嵐の日、前髪だけを揺らす剣姫を見て、私は、あの人が風だと言った。翌日、鹿さんの削った一言で、風は剣姫の師だと書き直した。書き直させたのは、鹿さん本人だった。背の高い、無口な人だと町で聞いて、鹿さんは紙を折る人です、と自分に言い聞かせたこともある。
「……鹿さんは、黙っているとき」
「韻を探していたのよ」とソフィエ様は言った。「たぶん、ずっと」
私は、笑ってしまった。声を出して笑ったのは、久しぶりだった。ソフィエ様も、少しだけ笑った。
「名前は、ミリアン・ロス。若様に、名乗っていたわ」
「……ミリアン、さん」
口の中で、一度だけ言ってみた。鹿さん、と呼ぶのとは、舌の置き場所が違った。
「七枚は、向こうへ運ぶわ」ソフィエ様は、懐の上から紙を押さえた。「いずれ、あなたに頼むことになる」
「はい。運ぶ者ですから」
ソフィエ様は、半分の黒パンを手に取って、それから、私を見た。
「あなた、あの人のこと」
最後まで、ソフィエ様は言わなかった。言わなくても、分かった。
「……運ばない言葉は、選べますから」と私は言った。
「運ばなくて、いいの」
「はい。……でも、一つだけ、運びたい言葉があります」
「何」
「詩が、好きです」
ソフィエ様は、少し驚いた顔をした。
「下手よ」
「はい。でも、好きです」私は言った。「芋蔵の詩は、下手ではありませんでした」
「……そうね」ソフィエ様は、九冊目の一頁を、胸に当てた。「あれは、下手じゃなかったわ」
◇
夜明けに、丘を降りた。
懐に、黒パンを半分。修道院の竈で焼いたものを、出がけに割ってきた。
北門は、まだ倒れたままだった。ただの穴をくぐって、町の通りを歩いた。通りの向こうで、ティモさんが誰かに、前髪の詩だったんだ、と叫んでいた。聞いている人の数は、もう増えていた。鍛冶屋の裏手で、背の高い人が、裏口から出てくるところだった。大きな鞄を背負っていた。前髪は、まだ短かった。
「……鹿さん」
その人が、こちらを向いた。
「いえ」私は、言い直した。「ミリアンさん」
その人は、少し驚いた顔をした。耳が、赤くなった。首も、赤くなった。森の入口で、百個の弁当を運んでいた朝と、同じ赤さだった。恥じらいなのだと、今は分かる。
私は、黒パンを差し出した。その人は、受け取った。
「詩が、好きです」と私は言った。「下手なところも」
その人は、長いあいだ黙っていた。
韻を探しているのだと、今は分かる。
「……そうか」
それだけ、言った。
その顔を、私はずっと、呼ぶ言葉を持っていなかった。悲しそうな顔でも、恥ずかしそうな顔でもなかった。
嬉しい人の顔だった。
それで、十分だった。運ばない言葉を、一つ、選んだ。残りの半分の黒パンと一緒に、丘へ持って帰った。