寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第37章 別の競技

 ひと月で、前髪の詩は八十万三千篇になった。

 言い出したのは、ティモである。満月の夜の明け方、通りで「前髪の詩だったんだ」と叫んだのが、一篇目だった。

 三日後には「前髪の詩は、十四冊あった」になった。詩帳が十四冊なのは正しい。

 七日後には「弓聖さまは二十二年、毎晩、森で前髪の詩を詠んでいた」になった。毎晩、森で詠んでいたのは正しい。前髪の詩は、九冊目の一篇だけである。残りは、主に宿命である。

 十日後に「一晩に百篇」が加わり、双子が同時に指を折って、同時に「八十万三千篇」と言った。計算は合っていた。前提が合っていなかった。

 

 八十万三千篇の詩を吸った前髪は、切っても伸びる。伸びて、もう一度風に揺れたとき、八十万三千一篇目が詠まれる。それが、半月後の町の結論だった。

 

 以来、町は私の額を見る。マルタが毎朝、酒場の前で私の額に指を当てて測り、ティモが通りで発表する。私の額では指一本分の前髪が、昼には眉に届き、夕方には目にかかっている。前髪の長さまで、話すたびに伸びるのである。

 訂正は、しなかった。前髪が詩を吸う、という説に、詩人として少し心が動いたからである。

 

 ウビルの手紙が届いたのは、初雪の朝だった。

 届けに来たのは、セリグマンの国境警備隊の兵である。満月の夜、合図の前に弩を逸らせた、いちばん若い兵だった。髭は、まだ生えそろっていない。兜は、かぶっていなかった。境の石のまわりに残された兜には、そのころ、雪が積もりはじめていた。九百と一つ、誰も拾わないまま、白くなっていく。

 

 兵は、ギルドの広間で私に手紙を渡し、それから、エレナの前で深く頭を下げた。

 

「隊長が、届けてこい、と。……それから、ここで頭を下げてこい、と」

 

 エレナは、胸当てを指先で軽く叩いた。グンターが打ち直した胸当てである。

 

「グンターさんが、打ってくださいました。前より、少しだけ厚いそうです」

 

 兵は、もう一度頭を下げて、帰っていった。長は、ひと月かけて、あの兵にかけてやる言葉を探したのだろう。見つからなかったので、行き先を告げたのだ。

 手紙は、型どおり、季節から始まっていた。

 

「冬近く、王都の広間に、雪はまだ降りません。ミリアン・ロス様。僕の観察によれば、王都の詩会は、三日間、黙りました」

 

「報告には、国境で聞いた詩を、四行目に嘘を書かずに書きました。ソフィエさんの二行も書きました。ソフィエさんは、これは詩じゃないわ、十五年前の暗号よ、とおっしゃいましたが、僕の観察によれば、詩です。そう書きました。作者の名前も、書き添えました。型なので」

 

「四行目がないので、四行目に嘘のつきようがない。詩会の若い席の方々はそう言って、ひと晩で写しました。今、王都では、物の名前を二行並べるのが流行っています。前衛、と呼ばれています。僕も一篇、書きました」

 

  手巾は十二 ベンノは一人

  袖は青く 涙は尽きず

 

「ミリアン様の詩も、書きました。古い席の方々が、懐かしい、とおっしゃいました。宿命と黄昏は、三十年前の王都で、たいへん流行ったそうです。修辞学的に申し上げれば、懐かしい、は褒め言葉の一種です」

 

「芋蔵の詩は、書きませんでした。あれは、詩会に預けるものではないと思ったので。ほかのことは、ソフィエさんにお便りしました。――ウビル・トゥエイン」

 

 懐かしい。

 十六の冬から二十二年、私は、新しいつもりで宿命と書いてきた。三十年前の王都では、もう流行り、もう廃れていたらしい。私が十六のとき、宿命は、すでに懐かしかったのである。

 芋蔵の詩のくだりで、手紙を持つ手が、少しだけ止まった。正しく読むのは、いつも、あの若者だ。

 

 王都の流行は、七日遅れで国境の町に下り、もう三日遅れて関所を越えた。紙屋の爺さんが、写しを店先に貼った。昼には、ティモが書き写したものが、ギルドの広間の壁にも貼られていた。

 

  鳩は三つ 塩は北に

  麦は眠り 扉は井戸に

 

 下に小さく、国境の青い指の詩人、とあった。王都の若い席が付けた呼び名らしい。

 

「青い指って、丘の修道院の、あの人だ!」ティモが叫んだ。「王都で、前衛詩だってさ!」

 

 前衛、と聞いて、ルカが少しだけ顔色を変えた。まだ、体が先に動くらしい。

 バルドが、卓に登った。

 

「闇の詩人と、青い指の詩人! どちらが上か、朗読会で決める! 冬に収穫祭をやって、何が悪い!」

 

 そして、転げ落ちた。知らせを聞いたマルタが、酒場の梁に吊るしていた収穫祭の麦の穂を下ろして、冠を編みはじめた。

 断る理由は、いくつもあった。受ける理由は、一つしかなかった。公式には認めていない、第四の理由である。

 秋の収穫祭では、遠慮しておく、と言った。今度は、遠慮しなかった。彼女の詩は二行で、私の詩は二十二年である。負ける理由が、見当たらなかった。

 

◇

 

 雪は、まっすぐ降っていた。風がない。

 広場の樽の上に、あの人が立っていた。秋の収穫祭と同じ樽だという。広場じゅうが、あの人の額を見ていた。前髪を見ているのだと、リリアが教えてくれた。揺れたら、八十万三千一篇目なのだそうだ。私には、意味が分からなかった。意味の分からないものを、町は信じていた。

 あの人は、詠む声で詠んだ。

 

  初雪よ 宿命のごとく降り積もれ

  黄昏の肩に 黄昏の路に

  我が額は いまだ風を待つ

  ――詩は、流行にあらず

 

 宿命、一。黄昏、二。数えるのは、もうやめたはずだった。指が、勝手に折れていた。

 広場は、黙っていた。前髪が、揺れていなかったからだ。

 

「……まだ、前座だ」と、誰かが小声で言った。ティモという若者の声だった。

 拍手が、ひとつだけした。私の隣で、リリアが手を叩いていた。二度、三度。一人きりで。耳が赤かった。

 あの人は、樽を降りた。私と目が合っても、何も言わなかった。

 

「青い指の詩人!」大柄な男が叫んだ。ギルドの長だという。

 王都で読まれているのは、十五年前の二行だ。工房を開いて、最初に書いた暗号だった。親方は、胸に来んな、と言った。来ないように書いたのよ、と私は答えた。王都へ発つ前のあの子に渡したときも、詩じゃないわ、と言った。あの子は、僕の観察によれば詩です、と言って泣いた。

 

 樽に上がった。前の列から後ろの闇まで、顔が並んでいた。

 

  鳩は三つ 塩は北に

  麦は眠り 扉は井戸に

 

 読み終えても、広場は黙っていた。意味が分からないのだ。当然だった。意味は、十五年前に使い終えている。

 女将が、最初に前掛けを目に当てた。

 

「麦が、眠るんだねえ……冬だもの」

 

 ギルドの長が、泣きだした。「鳩は……三つなんだな……」何が三つなのかは、言わなかった。

 双子が同時に「扉は、井戸に」とつぶやき、同時に首をかしげた。前の列の子どもが、母親の袖を引いた。「塩、うちも北の棚にあるよ」

 一人ずつ、違うものを持ち帰っていた。冬の麦を。三つの何かを。北の棚を。

 

 十五年前、あの家は、私の祈りに一つの意味を決めて、谷ごと取り上げた。今夜、この町は、私の暗号に百の意味を決めて、一つずつ、自分の家へ持ち帰っていく。

 胸に来ないように、書いた。胸は、聞く人が、自分のを持ってきた。

 

 ――本は、読む人の胸に来るように綴じるものだ。

 

 父の三つ目の言葉を、十五年ぶりに、裏返さずに思い出した。

 拍手は、長く止まなかった。女将が、麦の穂の冠を私の頭に載せた。乾いた麦は、少しくすぐったかった。

 王都の報告には、私の名が添えてあるという。あの子は、四行目に嘘を書かない。ブーフホルツの名が、詩人の名として、王都で読まれている。それが何を連れてくるかは、まだ分からない。

 樽の下で、あの人が、ひどく真剣な顔をしていた。韻を探す顔では、なかった。

 

◇

 

 私の内部で、会議が開かれた。

 今回の会議は、開会の前に結論が出ていた。私は、負けていない。審議されるのは、その理由だけである。

 

 理由一。彼女の詩は意味が分からないから喝采されたのであって、意味の分かる私の詩とは、そもそも競技が異なる。――否決。意味の分からない二行に、意味の分かる二十二年が負けたのなら、なお悪い、という意見が出た。

 

 理由二。雪の夜で風がなく、前髪が揺れなかった。――否決。詩は前髪で詠むものではない、と議員の一人が言った。二十二年、前髪理論を唱えてきた議員だった。

 

 理由三。聴衆は、私の詩を前座だと思っていた。――否決。ティモのせいにするのは、品がない。

 

 理由はすべて否決され、結論だけが全会一致で可決された。

 樽を降りてきた彼女の頭に、麦の冠が載っていた。

 

「……おめでとう」

 

「ありがとう」彼女は言った。「あなたの詩、宿命が一つ、黄昏が二つだったわ」

 

「……数えるな」

 

「癖よ」彼女は、冠に少し触れた。「胸に来たそうよ。来ないように、書いたのに」

 

 わ、も、よ、も、ちゃんと付いていた。

 そのとき、山から風が降りてきた。まっすぐ降っていた雪が、斜めになった。

 

「師匠」エレナが、私の額を見上げた。「前髪が」

 

「……揺れた」

 

 まだだ、ではなかった。前髪を切った夜から、ふた月近くが過ぎていた。

 

「揺れた!」ティモが叫んだ。「八十万三千一篇目だ!」

 

 広場が、黙った。

 町じゅうの顔が、私の額を見上げていた。今夜は、町のほうが黙っていた。韻を探しているのではない。待っているのである。

 ティモと双子に、樽の上へ押し上げられた。頭の中の白い頁を探した。何も書いていなかった。あるのは、さっきの会議の結論だけである。

 私は、それを詠んだ。

 

  鳩は三つ 塩は北に 意味は誰も知らぬ

  知らぬがゆえに 喝采は降る

  我が詩は 皆が知る ゆえに

  ――宿命よ、我らは別の競技にて勝てり

 

 一拍、雪だけが降った。

 それから、広場が割れた。マルタが前掛けで顔を覆い、バルドは隣の樽によじ登って泣き、転げ落ちた。双子は同時に「別の競技……」とつぶやき、同時に涙ぐんだ。ティモは「深い……」と言ったきり、口を開けていた。喝采は、さっきの拍手より大きかった。

 

 冠をかぶったまま、彼女が声を出して笑っていた。リリアも笑っていた。エレナは、口もとを押さえて、肩を震わせていた。真相を知る者が笑い、伝説を信じる者が泣いていた。

 広場の端で、腕を組んだグンターが、一言だけ言った。

 

「……下手だ」

 

 ひと月前、この男は、下手じゃなかった、と言った。元に戻ったのである。悪くない。

 喝采は、冠のあとに来た。順番が、違う。

 だが、私の詩と彼女の詩とは、そもそも競技が異なるのである。会議では否決されたが、議長の権限で採用する。

 

 私が言うのだから、間違いない。

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