寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
風は、詩人の敵である。
正確に言えば、詩人の髪の敵である。
人は風に吹かれる男を、絵になると言う。外套の裾がはためき、髪がなびき、遠くを見つめる横顔。私もそれを否定しない。ただし、条件がある。なびいてよいのは前髪だけだ。
前髪が額の上で揺れている男は、物憂げに見える。後頭部の髪が逆立った男は、寝起きに見える。側頭部が潰れた男は、帽子を脱いだ直後に見える。風は、この三つを区別しない。
だから私は、風の強い日が嫌いだ。
その日の依頼は、毛織物商オットーの商隊の護衛だった。荷馬車三台で、ヴィンデル峠を越えて隣国の市へ向かう。峠は秋の終わりから冬にかけて、山から吹き下ろす風で知られている。地元の者は「髪を置いて行け」と言うそうだ。
私は、この依頼を断りたかった。
断れなかった。ギルド長のバルドが、依頼書を私の前に置いて、親指を立てたからだ。
「弓聖がいれば、峠の山賊も手を出さん。頼んだぞ」
私は依頼書を見つめ、頷いた。断るには、言葉が要る。
同行者は二人。
一人はエレナ。これは分かる。彼女は私の請ける依頼に、ほぼ必ずついてくる。
もう一人は、斥候のルカだった。
「ルカが護衛を志願するとは、珍しいな」とバルドが言った。
「峠の地形を確かめておきたいんで」とルカは答えた。答えながら、私を見ていた。
峠道を登るあいだも、休憩のあいだも、ルカはやたらと私を見ていた。
私は考えた。斥候が、護衛対象でもない人間を凝視する理由は何か。
第一の仮説。私の背後に危険がある。振り返ったが、岩しかなかった。
第二の仮説。私の顔に何かついている。手で確かめたが、何もなかった。
第三の仮説。私の前髪が、風で乱れている。
これだ、と思った。峠の風は、すでに私の髪を三方向から攻撃していた。斥候は観察の専門家である。彼は私の髪型の崩壊を、職業的な正確さで観察しているのだ。
私は外套の頭巾をかぶった。ルカの視線は、それでも外れなかった。頭巾の下まで見通しているのかもしれない。恐ろしい男である。
もう一つ、気がかりなことがあった。
エレナが、目隠しをしていた。
正確には、休憩のたびに腰の布を取り出して目を覆い、剣を構えて立つのである。十日ほど前から、朝の稽古場でも同じことをしていた。おそらく、あの朝の「……開けていると、逃げる」に端を発している。
彼女が私の言葉をどう解釈したのか、私は考えないことにしている。考えれば、訂正したくなる。訂正すれば、説明が要る。説明すれば、韻の話になる。
目隠しの稽古は、少なくとも害はない。
ないはずだ。
◇
山賊が現れたのは、峠のいちばん高い場所、両側を岩壁に挟まれた切り通しだった。
風がひときわ強くなった。前からではなく、右手の谷から、横殴りに。砂と枯れ葉が巻き上がり、視界が茶色く濁った。
その濁りの向こう、左手の岩棚の上に、人影が立っていた。角笛を持っている。
「上だ!」
ルカが叫んだのと、角笛が鳴ったのは、ほぼ同時だった。
切り通しの前後の岩陰から、男たちが飛び出してきた。七、八人。顔を布で覆っている。砂嵐に慣れた連中なのだ。風で視界を奪い、角笛の合図で一斉に襲う。それがこの峠の山賊のやり方らしい。
商人たちが悲鳴を上げ、荷馬車の陰に伏せた。
私は弓を取った。だが、砂で何も見えない。見えるのは、岩棚の上の、角笛を持った影だけだ。あれが頭目だろう。角笛で合図を送り続けている。あれを止めれば、砂の中の連中は統制を失う。
距離は、およそ八十歩。高低差がある。そして右からの横風。それも一定ではない。強まり、弱まり、渦を巻く。
難しい、と思った。
さらに悪いことに、風が私の頭巾を吹き飛ばし、前髪を目の前に叩きつけてきた。視界の半分が、自分の髪で埋まった。
そのとき、昔の詩の一節が頭に浮かんだ。
詩帳の第九冊、二十代の終わりに書いた一篇だ。峠の風に吹かれながら、自分の髪型の行く末を憂えた詩である。題は「風と前髪の契約」。私はこの詩の主張に、今も全面的に同意している。
――風よ。吹くなとは言わない。だが、揺らすなら前髪だけにしてくれ。それなら私は、物憂げに見えるから。
私はその詩の核心の一行を、ほとんど無意識に、息だけで呟いていた。
「……風よ、我が前髪のみを揺らせ」
その瞬間、呼吸が詩の拍子に揃った。
風の音が、韻律に聞こえた。強まり、弱まり、渦を巻く。その周期が、詩の行の長さと重なった。次に風が凪ぐのは、行の終わり。私の詩で言えば、「揺らせ」の「せ」の位置だ。
私は弦を引き、詩の拍子のまま、「せ」で放った。
矢は横風に乗って大きく左へ流れ、流れ切ったところで風が凪ぎ、まっすぐ岩棚へ吸い込まれた。
角笛が、頭目の手から弾け飛んだ。
合図の途絶えた砂嵐の中で、山賊たちの動きが乱れた。
そして、その乱れの中心にいたのが、エレナだった。
砂の中から、二人の山賊が荷馬車に向かって突っ込んできた。その前に、エレナが立っていた。目を閉じていた。
一人目の山賊が、短剣を投げた。砂の中を飛んできたそれを、エレナは目を閉じたまま、剣の腹で払った。二人目が斬りかかる。エレナは半歩だけずれ、相手の手首を柄で打った。剣が砂の上に落ちた。
どちらも、一度も目を開けずに。
私は、弓を構えたまま固まっていた。
ルカも、岩陰で口を開けたまま固まっていた。
角笛を失い、手下が二人倒されたのを見て、山賊たちは散り散りに逃げていった。風が少しずつ弱まり、砂が落ち着いた。
私の内部で、会議が開かれた。
議題。エレナはなぜ、目を閉じたまま投げ短剣を払えたのか。
仮説一、私の教えの成果。却下。私は何も教えていない。「……開けていると、逃げる」は、韻の話である。
仮説二、彼女の才能と努力の成果。採用。十日間、彼女は目隠しをして稽古を続けた。その真面目さと、もともとの十年の鍛錬が、何かを開花させたのだ。
結論。エレナは天才である。私の功績ではない。
そう結論した直後、荷馬車の陰から這い出してきたオットーが、私の手を両手で握った。
「いやあ、さすがは弓聖どの! あの風の中で角笛を射落とすとは! それに、お弟子さんの、あの目を閉じたままの剣! さすがは弓聖どのの教えだ!」
私の功績ではない。
私は、そう言うべきだった。
だが「私の功績ではない」と言えば、「では誰の」と問われる。「エレナの才能だ」と答えれば、「ご謙遜を」と言われる。この種の会話は、どこまで行っても私が褒められて終わる。費用をかけて同じ結論に至るなら、最初から黙っていたほうが効率的だ。
私は黙って、頷いた。
内心では、少しだけ、まんざらでもなかった。
同時に、別の計算が頭をよぎった。弓聖の評判が上がった。そこに弟子の評判まで加わった。評判が上がるほど、詩帳が見つかったときの落差は大きくなる。
嬉しい気持ちと、困る気持ちが、また同じだけ増えた。
◇
師匠の声が、聞こえた。
砂嵐の中で、私は師匠の左側、半歩後ろに立っていた。弓を引くとき、師匠の脇は無防備になる。そこを守るのが私の役目だと、ずっと前に決めていた。
だから、聞こえたのだ。あの風の中で、師匠がほとんど息だけで呟いた言葉が。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
その直後に放たれた矢は、私が見たどんな矢とも違った。風に逆らわず、風に乗り、風が止んだ一瞬に、まっすぐ届いた。
私は、震えた。
風を拒むのではない。風に吹かれることを許す。ただし、揺らすのは前髪だけ。身体のほんの先端だけを風に預け、芯は決して乱さない。
風に心を乱されるな。
いや、それだけではない。師匠は、風に揺らされる前髪を「我が」前髪と言った。風を拒まず、風を己の一部として受け入れよ、ということなのだ。だからあの矢は、風と喧嘩をせず、風と一緒に飛んだ。
目を閉じて気配を捉える、の次に来る教えが、これなのだと思った。
十日前の私なら、あの投げ短剣は払えなかった。今日は目を閉じて、砂の音と、空気の揺れと、相手の息遣いだけを追った。そうしたら、短剣が来る場所が、なぜか分かった。
師匠の言葉は、正しかった。
だとしたら、今日の言葉も、きっと正しい。
峠を下りる途中、休憩の焚き火のそばで、私は帳面を開いた。
今日の日付の下に、いつもより大きな字で書いた。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
その下に、小さく。
――風に心を乱されるな。風を拒まず、己の一部とせよ。芯は決して揺らすな。
顔を上げると、焚き火の向こうで、ルカさんも帳面に何かを書きつけていた。ときどき、師匠のほうをちらりと見ながら。
ルカさんも、師匠の言葉を書き留めているのだ。
そう思うと、少し嬉しかった。師匠の言葉の重さに気づいている人が、私のほかにもいる。
師匠は焚き火から少し離れた岩に腰かけ、頭巾を深くかぶり直していた。風はまだ、ときおり峠を吹き抜けていく。外套も頭巾も微動だにしない。ただ、頭巾の端からのぞく前髪だけが、静かに揺れていた。
私は息を呑んだ。
師匠は、すでに体現しておられるのだ。
明日から、風の強い日には、稽古場ではなく町外れの丘に立とう。目を閉じ、風を受け、芯を揺らさない稽古をしよう。
帳面を閉じながら、私はそう決めた。