寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
気がついたら、物置の床に寝かされていた。
最後に見たのは、広場を横切っていく背の高い男の背中だった。前髪のない額。でかい鞄。あの背中を、俺は知っている。国境の町の錆びた拍車亭で、麦酒を噴いて、俺を鹿の角に縫い止めた男だ。
あの無口な男が、弓聖だった。
隊長にそう言うと、隊長は、俺の知らない神にまた祈り始めた。たぶん、隊長も知らない神だ。
俺たち十四人は、ギルドの物置に入れられている。窓が一つ、稽古場に向いている。閂は外から掛かる。飯は一日に二度出る。それだけだ。
それだけなのに、この町は、毎朝俺たちを震え上がらせる。
夜が明けると、稽古場に若い連中が並ぶ。全員、目を閉じている。剣姫が「今日も、風に、気をつけなさい」と言うと、全員が「はい!」と答える。それから、声を揃えて唱える。
風よ。我が前髪のみを。揺らせ。
前に出た奴だけをやる、という意味だ。新月の森の入口で、俺たちはそれを身をもって知った。だから物置の中でも、誰も窓より前には出ない。十四人、壁に背中をつけて、朝の祈りが終わるのを待つ。
窓から見えるものは、日ごとにおかしくなった。
伏兵に志願する若い連中が、通りに列を作った。先頭の小僧は「伏兵は百人いた!」と叫び、昼には「三百人だ!」になっていた。
女たちが、籠いっぱいの弁当を北門から運び出した。百。
次の日は二百。
その次は四百。
夜明け前には、背の高い影が背負子を背負って、丘の上の修道院へ何度も登っていった。
丘の上が兵站だ、と隊長は言った。修道院の院長まで、一味なのだ。
酒場の女将は、店先で「闇の詩人」という旗を縫っていた。双子の弓兵が、同時に韻の練習をして、同時に踏み外していた。踏み外したほうが、号令なのかもしれなかった。
隊長が、窓から目を離さずに言った。
「……この町は、住民ごと、全員が『風』だ」
誰も、言い返さなかった。
◇
俺たちには、武器が一つだけあった。
新月の夜、森の声は十四の行を詠んだ。一行ごとに矢が一本来て、俺たちの誰かを切り株に縫い止めた。
詠まれた文句は、半分も分からなかった。だが、自分を縫い止めた一行だけは、全員が覚えていた。忘れようとしても、忘れられなかった。
隊長が、竈の消し炭で、物置の壁に一行ずつ書いていった。右隣だった奴が一行目を言い、左隣だった奴が二行目を言った。俺の番は、七本目だった。
新月の森に、我は還る
刃が風を、黙らせるなら
我が矢は、闇を詠わせん
闇こそ、我が友なりける
黄昏は、新月にも訪れる
我は、風に選ばれし者なり
前髪なき額に、星は宿る
鉄よ、汝は詩を知らぬ
宿命の弦は、闇にて鳴る
森よ、汝もまた聴衆なり
鳩よ、急ぎて扉を叩くな
星なき空に、我が矢は灯る
我が詩は、今宵、誰にも聞かれず
言の葉は、刃より遠く翔ける
十四行。燃やそうにも、紙ではない。俺たちの頭の中にある。
四日、壁を睨んだ。
十三行目は、隊長が解いた。誰にも聞かれず。聞いた者は生かして帰さない、という意味だ。俺たちは、まだ帰されていない。
七行目も、隊長が解いた。前髪なき額に、星は宿る。隊長の額には、前髪どころか、つむじまで何もない。そして十四本目の矢は、隊長の兜を、かん、と鳴らして飛ばした。
「予告だ」と隊長は言った。「七本目で告げて、十四本目で果たした」
七本目で縫い止められたのは、俺の外套の裾だった。俺はそのとき「ぎゃ」と言ったらしい。覚えていない。
残りの十二行は、一行も解けなかった。
◇
飯を運んでくるのは、灰色の外套の若いのだった。
見覚えがあった。三度目の満月の黄昏、境の石まで騎馬で追った、文使いだ。生け捕りにしろ、と隊長が俺たちに命じた相手である。捕まえに来た俺たちが捕まり、捕まえるはずだった奴が、俺たちに飯を運んでいる。
若いのは、いつも俺たちと目を合わせなかった。俺たちも、合わせなかった。こいつは「風」の巣で寝起きしている。
五日目、隊長が、若いのの袖を掴んだ。若いのは、盆を落としかけた。
「お前、文使いだろう。暗号には慣れているはずだ」隊長は、壁を指した。「これを、読め」
若いのは、壁を見た。それから、俺たちを見た。
「……代わりに、訊いてもいいですか」声が、震えていた。「兄が、国境の警備隊に連れて行かれました。戻ってきません。僕に、似ています。笑うと、左の頬にだけ、えくぼが出ます」
物置が、静かになった。
俺は、思い出していた。北の砦へ回されていく荷車の上で、一人だけ、こんなときに笑った若いのがいた。左の頬に、えくぼがあった。
「……北の砦だ」と俺は言った。「去年の冬までは、生きてた。その先は、知らん」
若いのは、長いこと黙っていた。それから「ありがとうございます」と言って、壁の前に座った。
一行目から順に、唇だけで読んでいった。七行目で、止まった。
「前髪なき、額」
顔から、血の気が引いた。
「知ってるのか」隊長が身を乗り出した。「誰だ。誰の額だ」
「……言いたくなるまで、言いません」
十四人が、壁際まで下がった。文使いが名前を口にできないほどの相手だ。
十一行目で、若いのは、もう一度止まった。
鳩よ、急ぎて扉を叩くな。
「……それは、僕のことです」
「お前が、標的か」
若いのは答えず、壁の一行を、指でそっとなぞった。
「……急がなくて、いいんですね」
誰に言ったのかは、分からなかった。若いのは盆を持って出ていった。少しだけ、背中が軽そうだった。
隊長が、呻いた。
「……命令を、受け取ったぞ。あいつ」
◇
満月の夜、町が空になった。
夕方、町じゅうが、旗と松明を持って国境へ歩いていった。剣姫も、前衛も、双子も、小僧も、女将も。見張りの若いのまで、目を閉じたまま行列についていった。
物置の閂は、外れていた。
誰も、動かなかった。動いたら、次の一行が来る気がした。
夜更け、国境のほうから地鳴りがした。一度きりの、腹に響く地鳴りだった。隊長が、また知らない神に祈った。俺も祈った。知らない神は、二人分聞かされた。
夜明けに町の連中が戻ってきて、通りで小僧が叫んだ。
「前髪の詩だったんだ!」
「……暗号の名前が、分かった」と隊長が言った。「前髪の詩、だ」
◇
初雪の朝、国境の警備隊の若い兵が、手紙を一通届けに来た。その日のうちに、俺たちを返す話がまとまった。
境の石のまわりには、兜が転がっていた。何百もあった。どれにも、雪が積もっていた。
長が、兜をかぶらずに立っていた。前髪が、風に揺れていた。長は、それを押さえなかった。
俺は、ひと月半のあいだに窓から見たことを報告した。目を閉じて唱える若い連中。伏兵三百。弁当四百。闇の詩人の旗。十四行の暗号と、前髪の詩。
「長。あの町は、住民ごと、全員が『風』です」
長は、黙って聞いていた。それから、言った。
「満月の夜、地鳴りを聞いたか」
「……はい」
「あれは、六百の兵が、一斉に伏せた音だ。あの男の、一行でな。俺は、伏せなかったが」
意味が、分からなかった。
「伏兵は、一人だった」長は言った。「一人分の足跡は、一人分の足跡だった。名前は、ミリアン・ロス。町が、弓聖と呼んでいる男だ」
俺は、指を折った。
酒場で、俺を鹿の角に縫い止めた男。新月の森で、十四人を十四行で縫い止めた男。満月の夜、六百を一行で伏せさせた男。伏兵の百人も、三百人も、全部、一人だった。
膝が、震えた。雪のせいではなかった。
「酒場の……あの晩の……」
そこまで言ったところで、目の前が暗くなった。
新月の夜より、暗かった。