寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
朗読会の翌朝、手帳を開いた。
満月の夜に「訂正。伏兵、一。所在、壇の上。」と書いてから、何も書いていない。書くことがなかったのではない。何を書いていいのかが、分からなかった。
昨日、広間でティモが「前衛詩だってさ」と叫んだとき、俺の体は先に動いた。前衛、と聞くと、まだ手が手帳に伸びる。
昨夜の朗読会も、書こうとはした。事実一。前髪が揺れた。事実二。八十万三千一篇目が詠まれた。そこで筆が止まった。二つ目を書けば、ティモの数を記録に残すことになる。斥候の手帳に、八十万三千は載せられない。
頁のあいだから、灰色の羽根が一枚、滑り落ちた。
事実一。エレナの帳面には、俺の解読が写してある。前に立つ者だけを動かせ。前髪の詩を、俺が陣の教えに読み違えたものだ。
事実二。三度目の満月の黄昏に境の石で拾った羽根が、まだ手帳に挟まっている。
事実三。どちらも、まだ返していない。
斥候の仕事は、見て、書いて、報告することだ。返すことは、仕事に入っていない。だから八年、一度もやったことがなかった。
◇
エレナは、夜明けの北の森の入口にいた。雪の上に、目を閉じて立っていた。
三十歩手前で足を止めると、目を閉じたまま言った。
「おはようございます、ルカさん」
五百歩先でも気づかれる。三十歩なら、なおさらだ。
「……君に、言うことがある」
報告なら、いくらでもしてきた。謝ったことは、たぶん、ない。
「君の帳面に、俺の解読が写してあるだろう。前に立つ者だけを動かせ。後ろには手を出すな。両脇に兵を伏せるな」
「はい。陣の教えです」
「あれは、俺の読み違いだった」声が、少し掠れた。「あの紙は、詩だった。後ろ髪は、後ろ髪だ。横の髪は、寝癖だ。前髪は、前髪だ。前に立つ者なんて、どこにも書いてなかった」
エレナは、目を開けた。
「存じています。短剣の一行は前髪の詩だと、満月の夜に、師匠から伺いました。ルカさんが読まれた紙も、同じ詩の頁だったのですね」
知っていたのか。
俺は、満月の夜のあとのことを、何も見ていない。斥候が、いちばん肝心なところを見落としていた。
「……それなら、なおさらだ。君は、あの読み違いのせいで境の石に立った。満月の夜も前に立って、倒れた」
「前に立ったのは、私です」
エレナは、まっすぐに言った。
「それに、ルカさんの読みのおかげで、前衛の皆が強くなりました」
前衛、と聞いて、手が手帳に伸びた。押さえた。
「後ろは動かさず、両脇に伏せず、前に立つ者だけで。あの教えがなければ、私たちは国境に立てませんでした。満月の夜も、後ろの皆は目を閉じたまま、動かずにいてくれました」エレナは、少しだけ笑った。「あれも、師匠のお導きです」
「師匠は、前髪の詩を書いただけだ」
「はい」エレナは頷いた。「前髪の詩でも、です。ルカさんの読み違いでも、です」
「……まだある」謝りに来たのだ。謝ることは、全部謝っておきたかった。「帳面を見せ合った夜、俺は一頁だけ伏せた。弟子エレナ、五百歩先の気配を察知。見張り役の可能性。……君を、疑っていた」
エレナは、少し考えてから言った。
「はい。見張っておりました」
「……何をだ」
「師匠が、森から無事にお戻りになるのを。十年」
読みは外れていた。言葉だけが、当たっていた。
礼を言われたのは、二度目だった。三度目の満月のあとにも、この子は「ルカさんの読みのおかげです」と言った。俺は、あの日から負い目を抱えてきた。謝りに来て、二度目の礼をもらって帰る斥候が、どこにいる。
事実一。俺の読みは、間違っていた。
事実二。間違った読みで、この子は本当に強くなった。
事実三――
三つ目が、出てこなかった。間違った前提から正しい結果が出たとき、斥候はそれを何と記録すればいいのか。八年、誰にも教わらなかった。
「帳面の、ルカさんの読みは」とエレナは言った。「消しません。師匠の言葉と同じように、下に本当の意味を、小さく書き足しておきます」
そう言って、エレナは目を閉じ直した。
「ルカさん。今日も、風に、気をつけてください」
「……気をつける」
そう答えるしかなかった。
◇
宿舎へ戻る途中で、ティモに捕まった。
「ルカさん! 王都の前衛詩、読みました? ルカさんの手帳にも、前衛のことなら山ほど書いてあるんですよね!」
手が、手帳に伸びた。押さえた。
「……書いてある」
嘘ではない。山ほど書いてある。前衛と書いた行は、全部、前髪のことだった。
灰色さんは、宿舎の裏の薪割り場にいた。
若手がそう呼ぶ。名前は知らない。俺はひと月半、廊下からこいつを見てきた。寝言も書き留めた。三たび、北の扉を。何の扉なのかは、まだ知らない。
俺に気づくと、灰色さんは斧を下ろし、顔色を変えた。
「……僕を、消しに来ましたか」
どこかで聞いた台詞だった。丘の上で、弓聖に背後から声をかけられたとき、俺が言った台詞だ。追われていると思っている者は、追っている者に、みな同じことを言うらしい。
「……いや」
俺がひと月半こいつを見ていたあいだ、こいつも俺を見ていたのだろう。廊下の角で、何度か目が合った。そのたびに、どちらも先に目を逸らした。
俺は、灰色の羽根を差し出した。
「三度目の満月の黄昏に、境の石で拾った。お前の襟の、三つ目だろう」
灰色さんの襟には、羽根が二枚と、空いた場所が一つあった。ひと月半、空いたままだった。
灰色さんは、羽根を受け取った。指が震えていた。それから、俺の顔を見た。
「……訊かないんですか。どうして、あの日、境の石にいたのか」
「訊いてほしいのか」
「……言いたくなるまで、言いません」
どこかで聞いた言い方だった。宿舎の裏口で、剣姫がこいつに言っていたのを、俺は廊下で聞いている。あの子から、こいつへ。こいつから、今は俺へ。
俺は、手帳を閉じた。
「……俺も、聞かないことにした」
灰色さんは、羽根を襟の三つ目に挿した。三枚そろった襟は、思っていたよりずっと、普通の外套に見えた。
分からないことを、書かずにおく。満月の夜に覚えたことだ。斥候としては、たぶん退化である。
◇
夜、宿舎の部屋で、手帳を一枚ずつめくり戻した。
炉の前で書いた頁がある。――前髪は、前髪。その下に、線が一本引いてある。何を区切る線なのか、引いたときは自分でも分からなかった。今は分かる。線の上が、読み違えてきた俺だ。線の下は、まだ白い。
そこから、さらにめくり戻した。
国境の大立ち回りの日の頁に、線で消した一行がある。
――伏兵は、いなかったのではないか。
あの日、俺は事実を四つ並べて、この一行を書いた。それから信条を思い出して、線を引いた。完璧に見える人間は、何かを隠している。隠しているのは百人の伏兵のほうだ、と書き直した。
あの男が隠していたのは、詩だった。
俺が隠していたのは、この一行だった。
線は、消せない。消せば、消したことまで消える。
線の横に、小さく書き足した。
――この一行は、生かす。