寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
私は書記である。書くことと、数えることが仕事だ。
王都を発つ朝、御嫡男の言いつけは二つあった。弟を見張れ。見たことを、毎晩、一枚に書け。
私は若様の鞄の隠しに、紋入りの手巾を十二枚詰めた。若様は、詩会に席を得てからの二年、平均して三日に一度泣かれる。国境までは七日。十二枚あれば、足りるはずだった。
◇
足りなかった。以下、帳簿から写す。
国境の町に着いた夕方、前歯が前髪の言い違いだったと分かって、一枚目。
闇の詩人の詩帳、一冊目の一頁目で、四枚目。
若様が、壇を石の倍の高さにすると仰ったとき、五枚目を私の額に当てた。これは、私の分である。
満月までの七日、若様は壇の脇の天幕で、詩帳を抱えて過ごされた。町の者は、若様を解読班の長と呼んでいたらしい。解読はしていない。読んでいただけである。
満月の日の朝、残りは二枚になった。国境の町の布屋で、紋のない手巾を十二枚買った。布屋の主人に「お使い物で」と訊かれ、「泣く方が、おりまして」と答えた。主人は、それ以上は訊かなかった。
ついでに記す。国境に着いてからの、若様の「僕の観察によれば」は八十七回、「修辞学的に申し上げれば」は三十一回。聞き流された回数は、数えていない。数えるまでもない。
満月の夜、紋のない十二枚も尽きた。
石の倍の高さの壇の上で、闇の詩人が、弟子を引き取った日の詩を詠んだ。芋の蔵で、膝を抱えていた子の詩だった。若様は泣いた。私は二十年、トゥエイン家で型どおりの詩を清書してきた。四行目に王の御徳のない詩を、最後まで聞いたのは初めてだった。私の最後の一枚は、若様に渡す前に、私が使った。書記が泣いたことは、帳簿には記していない。記すべき出来事ではない。
同じ夜、若様は、詩帳の見返しの下から紙を見つけた。読み上げた一枚目の、最後の一言を、私も聞いた。
これでよい。
字を見るより先に、分かった。私は二十年、トゥエイン卿の手紙を清書してきた。あの細い字を、見間違えることはない。読めてしまったものを、読まなかったことにはできない。書記とは、そういう仕事である。
伏せた兵、六百。伏せなかった者、三人。長と、若様と、私である。若様と私は、八日前にその場にいなかったので、体が覚えていなかった。長は、伏せない方である。
夜更けに、頭巾の女が名乗った。ブーフホルツ。十五年前に取り潰された家の名である。若様は、残りの六冊からも紙を取り出し、七枚をそろえて、娘に渡した。
「父上は、これでよい、と書きました。僕は、これでよいとは、思いません」
若様の目から、涙が落ちた。私は袖口を探して、首を振った。手巾は、尽きていた。娘が、インク拭きの布を差し出した。若様の頰に、青い筋がついた。
その夜も、天幕で一枚書いた。
一、頭巾の女、ソフィエ・ブーフホルツと名乗る。
一、見返しの下の紙、七枚。卿の手。若様より、右の娘へ渡る。
書き終えて、二つに折った。報告の束には、入れなかった。若様の鞄の、手巾を入れていた隠しが空いていた。そこに入れた。若様は、その隠しを自分で開けたことがない。手巾は、いつも私が出すからだ。
書いたものを束に入れなかったのは、書記になって初めてである。書かなかったのではない。書いて、渡さなかった。
◇
国境を発つ前の日、娘が宿に来た。若様が、詩会への報告のために、もう一人の詩人の一篇を求めていたのである。
「詩じゃないわ。十五年前の暗号よ」
娘は、紙を一枚置いていった。二行だけだった。鳩は三つ、塩は北に。麦は眠り、扉は井戸に。
「僕の観察によれば、詩です」と若様は言って、泣いた。手巾は、もうない。袖で拭かれた。
この紙は、報告の束に記した。詩会に上がる詩である。隠す理由がない。
帰りの馬車で、若様は詩会への報告を書いた。車輪が石を踏むたびに、字が跳ねた。泣くたびに、袖で拭かれた。若様の袖は、国境を発ってからずっと青い。頰の青が、袖に移ったのである。
「ベンノ」若様は、羽ペンを止めずに言った。「七枚のことは、書きません。これは、詩の報告なので」
「……さようで」
「四行目に、嘘は書きません。書かないことは、嘘ではありません」
若様は、私の顔を見なかった。私も、若様の顔を見なかった。鞄の隠しのことは、言わなかった。
◇
王都に戻った夜、御嫡男に報告の束を渡した。
王都を発った夜から戻った夜まで、二十五夜。二十五枚書いた。束は、二十四枚だった。
御嫡男は、一枚ずつめくった。速かった。
「弟は」と御嫡男は言った。「何枚泣いた」
「手巾にして、二十四枚にございます」
「……例外だな」
御嫡男は、若様に似ていない。泣かない方である。
報告の枚数は、お訊きにならなかった。手巾と、同じ数だった。
部屋を出て、帳簿の最後の頁に、旅の総計を記した。手巾、紋入り十二枚、紋なし十二枚、計二十四枚。うち一枚は私の額、一枚は私の目。「僕の観察によれば」、計九十三回。報告、計二十四枚。
最後の行を書くとき、筆が一度だけ止まった。
若様の報告が詩会に上がると、詩会は三日、黙った。四日目から、若い席が娘の二行を写しはじめた。四行目がないので、四行目に嘘のつきようがない、という。半月のうちに、王都の若い詩人たちが、物の名前を二行並べるようになった。前衛、と呼ばれている。
闇の詩人の詩は、古い席に「懐かしい」と言われた。若様は、それを闇の詩人への手紙に書くかどうかで、一晩迷われた。結局、書いた。四行目に嘘を書かない方である。
若様も、一篇書いた。二行を書くのに、紙を十四枚使われた。それから、私に見せた。
手巾は十二 ベンノは一人
袖は青く 涙は尽きず
「……若様」と私は言った。「手巾は、二十四枚でございました」
「十二のほうが、前衛なので」
前衛のことは、私にはよく分からない。
ただ、帳簿と照らすと、一行目の後ろ半分だけは合っていた。ベンノは、一人。
その晩、若様は国境へ手紙を二通書いた。一通は闇の詩人へ。修辞学的に申し上げれば、懐かしい、は褒め言葉の一種です、と書いておられた。褒め言葉ではない。私は書記なので、知っている。黙っていた。
芋蔵の詩は、詩会への報告にも、闇の詩人への手紙にも、なかった。詩会に預けるものではない、と若様は仰った。私の二十五枚目と、同じ扱いである。
もう一通は、ブーフホルツの娘へ。二通目は、厚かった。封をしたのは私だが、中身は記さない。記さないことにも、少し慣れてきた。
若様の鞄の隠しには、今も、二つに折った紙が一枚入っている。
いつか、誰かに渡す日が来るのかもしれない。渡す相手が御嫡男でないことだけは、もう決めてある。
手巾は、二十四枚だった。報告も、二十四枚だった。
帳簿は、合っている。