寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
斥候の仕事の九割は、待つことと、書くことだ。
残りの一割で、見る。
峠から戻って七日。俺は、弓聖ミリアン・ロスの行動を記録し続けていた。
手帳の頁は、すでに三枚埋まっている。
――夜明け。稽古場の端の丸太に座る。弟子エレナの稽古を見ている。口は開かない。
――昼。ギルドの広間、いつもの隅の席。麦酒は一杯。誰とも話さない。ときどき唇が動く。
――夕刻。自室。扉は閉める。
――夜。週に四、五度、北門から外へ出る。行き先は例の森。戻りは真夜中過ぎ。
規則正しい。規則正しすぎる。人間の暮らしというのは、普通もっと乱れる。酒が過ぎる日もあれば、博打で負けて荒れる日もある。弓聖には、それが一日もない。
まるで、決められた手順を守っているようだ。
昼のうちに、森の空き地にも入ってみた。
切り株は十四本。どれにも、中心に矢の跡が密集している。外れた跡はほとんどない。一本の切り株の中心は、穴が重なりすぎて、拳が入るほどえぐれていた。
俺は切り株の位置を一本ずつ歩測し、手帳に図を描いた。どこかの地形の写しになっていないか。星の並びになっていないか。文字の形になっていないか。
何にもなっていなかった。ただ、ばらばらに散らばっているだけだ。
ならば、意味は位置ではなく、射る順番にある。あの夜、弓聖は決まった順番で切り株を射ていた。順番そのものが符号なのだ。
手帳に書く。
――切り株十四本。配置に意味なし。射る順に意味あり。要記録。
もう一つ、気になっていることがあった。
峠で見た、エレナの剣だ。
目を閉じたまま、砂の中を飛んでくる短剣を払った。俺は八年、イァーリで剣士を見てきた。あんな芸当ができる奴は一人もいなかった。十日前までは、エレナにもできなかったはずだ。
弟子が、十日で別人になった。
その日の夕方、町外れの丘に向かった。風の強い日には、エレナがそこへ通っていると、若い連中が噂していたからだ。
丘の上は、立っているのもやっとの風だった。
その真ん中に、エレナがいた。目を閉じ、剣を下げ、ただ立っている。外套の裾は激しくはためいているのに、身体の芯は少しも揺れていない。
風に乗って、枯れ葉が何枚も飛んできた。
エレナの剣が動いた。目を閉じたまま。
一枚、二枚、三枚。飛んできた枯れ葉が、空中で正確に二つに割れ、風に散った。
俺は丘の下の岩陰で、しばらく動けなかった。
弓聖は、弟子に何を教えている。
あれは、ただの剣術じゃない。誰も知らない、何か特別な技術だ。それをあの男は十年かけて弟子に仕込み、今になって急に開花させている。
なぜ、今なのか。
ふた月後の満月が、近づいているからではないのか。
エレナが目を開け、俺に気づいた。剣を収め、丘を下りてくる。
「ルカさん」
静かな声だった。
「ルカさんも、師匠の言葉を書き留めていらっしゃるのですね」
心臓が跳ねた。
峠の焚き火で、俺が手帳に書いているのを見られていたのだ。
「……まあな」
そう答えるのが精一杯だった。
エレナは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「いつか、互いの帳面を見せ合えたら嬉しいです。師匠の言葉は、一人では読み解けないことばかりですから」
そう言って一礼し、町のほうへ帰っていった。
俺はその背中を見送りながら考えた。
探りを入れられたのか。
それとも、誘われているのか。
あの弟子は、どこまで知っている。
◇
ルカの視線が、止まない。
峠以来、私はこの現象について「前髪の乱れを職業的に観察されている」という仮説を採用していた。対策として、毎朝前髪を水で湿らせ、指で三度整えてから部屋を出ることにした。完璧な状態を維持した。
それでも、ルカは私を見ている。
前髪仮説は棄却された。
では、何を見ているのか。代わりの仮説を立てようとしたが、うまくいかなかった。斥候という人種は、私とは別の論理で動いている。私の詩の論理で彼の行動を読もうとしても、韻が合わない。
答えは、思いがけない形でやってきた。
その日の昼、ギルドの広間で、ルカがいつもの席で手帳に何かを書いていた。そこへバルドが大声で彼を呼んだ。国境の砦から急ぎの使いが来たらしい。ルカは慌てて立ち上がり、手帳を麦酒の杯の横に開いたまま置いて、奥の部屋へ走っていった。
私は、その横を通りかかった。
通りかかっただけである。見るつもりはなかった。だが人の目は、文字があれば読むようにできている。これは私の意志ではなく、人体の構造の問題だ。
開いた頁の大半は、麦酒の杯に隠れていた。見えたのは、いちばん下の一行だけだった。
――「風」とは、誰か。
その場で立ち止まりそうになるのを、全身の力で抑えた。
足は、何事もなかったように隅の席まで私を運んだ。座った。麦酒を一口飲んだ。味がしなかった。
私の内部で、緊急の会議が開かれた。今回は、議長も書記も被告も私である。
第一に、「風」。
私の詩において、風は重要な語である。だが、ルカの手帳の「風」が私の詩と関係があるとは限らない。天気の記録かもしれない。
第二に、「とは、誰か」。
天気は「誰」ではない。この「風」は、人物を指している。
第三に、私の詩の中で、風が人物と結びつく箇所はどこか。
一つある。「黄昏の射手」第一連、四行目。
――我は、風に選ばれし者。
そして、あの満月の夜、森で、私はこの詩を初めて通しで朗読した。最後に、小枝の折れる音がした。私はそれを鹿だと結論した。
鹿は、帳面を持たない。
あれは、ルカだった。
背中に、冷たい汗が流れた。
だが、待て。論理を最後まで辿れ。
ルカが朗読者の正体を知っているなら、「風とは誰か」とは書かない。「風とはミリアン・ロスである」と書くはずだ。つまり彼は、あの夜の森で詩を聞いた。だが暗がりで、朗読者の顔は見えなかった。
そして今、彼は詩の中の「風に選ばれし者」が誰なのか、すなわち森の詩人が誰なのかを、探している。
最近の視線も、それで説明がつく。彼は容疑者を一人ずつ観察しているのだ。私はその一人にすぎない。まだ、確証は握られていない。
安堵と恐怖が、同時に押し寄せた。
確証がない今のうちに、証拠を動かさなければならない。
斥候は部屋を調べる。床板の三枚目など、斥候にとっては玄関と同じだ。十三冊の詩帳を、もっと安全な場所へ移す必要がある。
候補を検討した。
森。湿気で紙が傷む。却下。
馬小屋。馬が食べる。却下。
煙突。燃える。論外。下書きの紙は毎晩そこで燃やしているが、燃やすべきものと守るべきものは、同じ場所に置いてはならない。
ギルドの屋根裏。物置の奥の梯子からしか上がれず、誰も使っていない。乾いている。馬もいない。採用。
その夜、皆が寝静まってから、私は床板の三枚目を外した。
十三冊を一度に運ぶことはできない。一冊ずつ外套の内側に入れ、物置まで忍び足で歩き、梯子を上り、屋根裏の奥の壊れた木箱に収め、また戻る。それを十三回繰り返した。
七往復目で、梯子の三段目が軋んだ。
十往復目で、屋根裏の埃を吸い込み、くしゃみをこらえて涙が出た。
十三往復目を終えたとき、私の外套は埃で灰色になり、髪には蜘蛛の巣がかかっていた。前髪にも、かかっていた。
だが、詩帳は守られた。
自室に戻り、空になった床下を見下ろした。十三冊が眠っていた場所に、今は何もない。
少しだけ、寂しかった。
◇
真夜中過ぎ、見張りの交代を終えてギルドに戻った俺は、物置の前で足を止めた。
中から、梯子の軋む音がした。
物陰に身を潜めた。しばらくして物置の扉が細く開き、背の高い影が出てきた。
弓聖だった。
外套は埃で灰色に染まり、髪には蜘蛛の巣がかかっていた。懐を押さえるようにして足音を殺し、自室のほうへ消えていった。
少しして、また戻ってきた。物置に入る。梯子の軋む音。しばらくして、また出てくる。
俺は数えた。俺が見ていた間だけで、六往復。
屋根裏に、何かを運び込んでいる。それも、一度には運べない量の何かを。
翌朝、俺は町の紙屋を訪ねた。
店主の爺さんは、帳簿をめくりながら言った。
「弓聖さまかい? ああ、よくお買いになるよ。紙の束を月に一つ、インクを一壺。それと、革表紙の帳面を一年半に一冊ほどかね。もう二十年近く、欠かさずだ。ありがたいお得意さまだよ」
店を出て、通りの角で立ち止まり、手帳を開いた。
弓手に紙は要らない。
報告書なら、ギルドの書記が書く。弓聖は一度も報告書を出したことがない。手紙なら、出す相手がいない。弟子のエレナはすぐそばにいる。ほかに家族も、故郷もない男だ。
紙束が月に一つ。二十年で、およそ二百四十。帳面が十数冊。
その紙は、どこへ消えている。
答えは、ゆうべ見た。屋根裏だ。
書類を溜め込んでいる。二十年分の、誰にも見せられない何かの記録を。
屋根裏を調べるのは、まだ早い。斥候は、獲物が巣を移した直後には近づかない。警戒がいちばん強いときだからだ。
俺は羽ペンを取り、ゆっくりと書いた。
――紙とインクの消費量が、弓手として明らかに多い。
――二十年分の記録。屋根裏。
それから少し迷って、もう一行。
――弟子エレナ、十日で別人。教えの中身、不明。
手帳を閉じて、空を見上げた。
次の満月まで、あと十日ほどだった。