寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
年に一度、町の広場が麦わらと林檎の匂いで埋まる日がある。
収穫祭だ。
屋台が並び、楽師が笛を吹き、子どもが林檎を齧りながら走り回る。イァーリの団員たちも、この日ばかりは剣を置いて、昼から麦酒を飲む。ギルド長のバルドなどは、朝のうちに三杯目に到達していた。
そして夕刻、広場の中央に、樽を積んだ壇が組まれる。
朗読会である。
この町には古い習わしがある。収穫祭の夕べには、誰でも壇に上がり、詩を一篇読んでよい。身分も腕前も問わない。いちばん大きな喝采を浴びた者には、麦の穂で編んだ冠が贈られる。
私は二十年以上、この朗読会を見てきた。
そして二十年以上、一度も壇に上がったことがない。
理由は言うまでもない。原則である。詩は、生きているうちに見つかったら終わりだ。壇に上がって詩を読むことは、自ら見つかりに行くことに等しい。
だが、私も人間である。
壇上で、町の誰かが詩を読む。拙い詩だ。韻も踏まず、比喩もなく、宿命も黄昏も出てこない。それでも広場は拍手する。読み終えた者は、照れくさそうに、しかし誇らしげに壇を下りる。
その光景を、私は毎年、広場の端の柱にもたれて見ている。
腕を組み、表情を動かさず。周囲からは「弓聖は祭りの喧噪にも心を動かさない」と見えているらしい。実際の私の内面は、毎年こうである。
読みたい。
読みたい。読みたい。私の詩を、この広場で。「黄昏の射手」を、第二連の転調で最大声量にして。
そして、喝采されたい。
この欲求は、詩を書く三つの理由のどれにも分類されない。強いて言えば、第四の理由である。私はこれを公式には認めていない。
今年の朗読会も、例年どおりに進んだ。パン屋の娘が恋の詩を読み、粉挽きの老人が麦の詩を読み、子どもが猫の詩を読んだ。私は柱にもたれ、一篇ごとに心の中で添削した。パン屋の娘の詩は、三行目の字数が二つ多い。老人の詩は、脚韻が「麦」と「麦」で同じ語の繰り返しになっている。猫の詩は、猫である。
そして壇上に、槍使いのヨルクが上がった。
広場がどよめいた。イァーリの古参が朗読会に出るのは珍しい。ヨルクは顔を真っ赤にして、くしゃくしゃの紙を広げた。手が震えていた。槍を持つときは決して震えない手が。
「……おふくろの、詩です」
ヨルクは咳払いをして、読んだ。
おふくろの かぶのスープは
しょっぱかった
しょっぱかったけど
また飲みてえなあ
それで終わりだった。
広場が、一瞬静まり返った。
それから、割れるような拍手が起きた。
粉挽きの老人が目元を拭っていた。パン屋の娘が泣いていた。屋台の親父たちが「分かる、分かるぞヨルク!」と叫んでいた。バルドに至っては、樽に突っ伏して号泣していた。
ヨルクの頭に、麦の冠が載せられた。
私は柱にもたれたまま、動けなかった。
分析を開始する。
第一に、字数。一行目が十三音、二行目が六音、三行目が八音、四行目が七音。揃っていない。
第二に、韻。皆無。
第三に、比喩。皆無。スープはスープであり、しょっぱいはしょっぱいである。
第四に、結び。「なあ」。詩の最終行が「なあ」で終わることを、私は認めない。
第五に、宿命、黄昏、選ばれし者。いずれも登場しない。
以上の分析から、この詩が喝采を浴びる理由は存在しない。
にもかかわらず、浴びている。
私の論理は、ここで行き止まった。
行き止まりの壁の向こうに、何か小さな答えが見えた気がした。たとえば、ヨルクはあの詩で、美しく見られようとしていない、ということ。母親のスープがしょっぱかった、それだけのことを、そのまま差し出している、ということ。
私はその答えから、速やかに目を逸らした。
これは嫉妬である。認めよう。三十八歳の弓聖が、槍使いの書いたかぶのスープに負けたのだ。
ヨルクが冠をかぶったまま壇を下りると、樽から顔を上げたバルドが、ふらふらと壇に上がった。
「よおし! 今年はイァーリから冠が出た! めでたい! ついでだ、もう一人!」
嫌な予感がした。
「ミリアン! 弓聖! お前も何か一言、詩でも何でもいい、読んでいけ!」
広場中の視線が、柱の私に集まった。
拍手が起きた。期待の拍手だった。若い団員たちが目を輝かせている。ティモが拳を握っている。エレナが、背筋を伸ばして私を見ている。
私の内部で、緊急の会議が開かれた。
選択肢は三つ。
第一に、「黄昏の射手」を読む。二十年来の夢が叶う。そして私は終わる。明日から町を歩けない。
第二に、無難な詩を即興で読む。だが私の語彙は、宿命と黄昏と選ばれし者で構成されている。無難な詩を書く能力が、私には欠けている。
第三に、断る。
第一案に、心が激しく傾いた。広場の灯り。期待の拍手。今なら、第二連の転調で、この町の夜空を震わせることができる。
私は、長いあいだ黙っていた。
広場が、しんと静まり返った。誰も、咳一つしなかった。
喉まで出かかった「黄昏の」を、私は飲み込んだ。
「……遠慮しておく」
それだけ言って、私は目を伏せた。
広場のあちこちで、小さなため息が漏れた。
「……やっぱり、言葉にできないものを背負ってるんだな」
「弓聖さまの過去は、詩なんかじゃ語り尽くせないのよ」
酒場の女将マルタが、前掛けで目元を押さえていた。バルドが壇の上で深く頷き、「無理を言った、すまん」と頭を下げた。
違う。語り尽くせないのではない。読みたくて仕方がないのだ。
視界の端で、エレナが帳面を取り出し、何かを書きつけているのが見えた。
何を書いた。
私は「遠慮しておく」と言っただけだ。そこから何を書き留めることがある。
考えないことにした。今夜の私には、考える余力が残っていなかった。
◇
祭りの灯りが消えた頃、私は森へ向かった。
弓を手に、空き地の中央に立つ。詩帳は開かなかった。今夜の詩は、まだどこにも書かれていない。
胸の内で、かぶのスープが煮えていた。
即興で詠む。韻も、字数も、比喩も揃えた、正しい詩を。槍使いには決して書けない詩を。
息を吸った。
「喝采よ――汝は盲目なり」
トン。
「真の詩は――闇にて詠まれる」
トン。
「かぶの汁など――宿命の前には」
トン。
最後の一行で、一瞬迷った。それから、腹の底から吐き出した。
「――ぬるい!」
矢が、もっとも遠い切り株の中心に深々と刺さった。
森が静まり返った。
私は弓を下ろし、しばらく夜空を見上げていた。
即興としては、悪くない。四行目の「ぬるい」は、いささか私怨が出すぎたかもしれない。韻も踏めていない。だが、勢いがあった。かぶに対する、正当な反論であった。
なお、しょっぱいスープに「ぬるい」で反論することの論理的整合性については、明日以降に検討する。
◇
祭りの夜は、見張りが手薄になる。俺はそれを狙って、北門を出た。
弓聖は、朗読会で「遠慮しておく」と言った。あれだけ広場中に求められて、一言も詩を読まなかった。読めなかったのではない。読まなかったのだ。人前で言葉を使うことを、極端に避けている。
それでいて、夜の森では唱える。
人前では使えない言葉。それが暗号でなくて、何だというのか。
森の入口に着いたとき、木々の奥から、かすかに矢の音が聞こえてきた。トン、トン、トン。今夜も始まっている。
俺は足音を殺し、一歩、森の中へ踏み込んだ。
「ルカさん」
すぐ横の暗がりから、声がした。
俺は飛び退き、短剣の柄に手をかけた。
エレナだった。木の根元に、目を閉じたまま座っていた。
「……いつから、そこに」
「日が落ちてからです」エレナは目を閉じたまま答えた。「ルカさんが牧草地の端の道を通ったときから、気づいていました」
俺は、言葉を失った。
牧草地の端の道は、ここから五百歩は離れている。夜の闇の中で。斥候として八年、足音を殺す訓練を積んできた俺の気配を、目を閉じたまま、五百歩先から。
「……何をしている」
「修行です」エレナは静かに言った。「今日、師匠は『遠慮しておく』と仰いました」
「ああ。朗読を断っただけだろう」
「遠きを、慮れ」
エレナは目を開け、まっすぐに俺を見た。
「間合いの外にあるものまで、先に読め。師匠はあの広場で、そう教えてくださったのだと思います。だから私は今夜ここで、遠くの気配を読む稽古をしていました」
「……考えすぎじゃないのか。あれは、ただ断っただけで」
「師匠が、ただ断るためだけの言葉を口になさるでしょうか」
俺は、黙った。
確かに、そうだ。あの男は無駄な言葉を一つも使わない。ならば「遠慮しておく」にも、意味がある。
弟子は、それを「教え」と読んだ。
俺には、別の意味が見えた。遠きを慮れ。遠くを警戒しろ。あの広場の群衆の中の誰かに向けた、合図の言葉だ。
森の奥から、ひときわ大きな声が響いた。何を言ったのかは、ここまでは届かなかった。ただ最後の一語だけが、夜気を裂いて聞こえた。
――ぬるい。
ぬるい。何がぬるい。国境の守りか。砦の警備か。
隣で、エレナが小さく息を呑んだ。
「……ぬるい。師匠は、ご自分の修行をまだぬるいと……」
それきり、彼女は唇を引き結んで黙り込んだ。弓聖でさえ己をぬるいと言うなら、自分などは、とでも考えているのだろう。
「……君は、師匠が森で何をしているか、知っているのか」
「いいえ」エレナは首を振った。「師匠が見せようとなさらないものを、見に行くつもりはありません。私はここで、遠くを読む稽古をするだけです」
嘘か、本当か。俺には読めなかった。
弟子は見張り役なのか。それとも、何も知らない忠実な弟子なのか。どちらにしても、この娘は、俺が近づくのを五百歩先で察知する。もう、うかつには森に入れない。
ふいに、エレナが顔を上げた。
「師匠が、戻られます」
俺の耳には、まだ何も聞こえていなかった。
「ルカさんも、早くお帰りになったほうがいいと思います。師匠はきっと、お一人で歩きたいはずですから」
俺は黙って頷き、森を離れた。
門へ戻る道すがら、手帳に書いた。
――収穫祭。人前での発言を拒否。「遠慮しておく」。合図か。
――森にて「ぬるい」。対象不明。
――弟子エレナ、森の入口にて待機。五百歩先の気配を察知。見張り役の可能性。
最後の行を書いて、羽ペンが止まった。
五百歩。
あの娘がその気になれば、俺はもう、弓聖の半径五百歩には近づけない。