寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
帳面の一頁目を開くたびに、日付を数える癖がついている。
――もう、出ていい。
その一行の横に、小さく書き添えた日付。十年前の、秋の終わりの日。
今朝、指を折って数えてみた。あと二十日で、ちょうど十年になる。
十年。
私は帳面を閉じ、しばらく窓の外を見ていた。十年分のありがとうを、私はまだ一度も形にしたことがない。言葉にしたこともない。師匠は言葉を好まない方だから、言葉で伝えるのは違う気がした。
では、何で伝えればいいのだろう。
考えがまとまらないまま広間に下りると、ギルド長に呼び止められた。
「エレナ、ちょうどいい。頼みたい仕事がある」
東の丘陵にある村から、狼の群れが羊を襲っているという訴えが来ていた。灰牙狼。普通の狼より二回り大きく、群れで動き、夜にしか現れない。もう十頭以上の羊がやられ、昨夜はとうとう羊飼いの少年が噛まれかけたという。
「本来なら弓聖に頼むところなんだが、あいつは国境の砦の応援に出ていて、三日は戻らん」ギルド長は太い腕を組んだ。「若いのを三人つける。お前が率いてくれ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
率いる。私が。
「……私で、よろしいのですか」
「峠の話は聞いた。目を閉じたまま、投げ短剣を払ったそうじゃないか」ギルド長はにやりと笑った。「弓聖の弟子なら、任せられる」
弓聖の弟子なら。
その言葉が、胸のどこかに静かに落ちた。
「お受けします」
私は深く頭を下げた。
◇
エレナさんが班長だと聞いたとき、俺は正直、ちょっとほっとした。
弓聖さまと組むのは光栄だけど、胃が痛い。その点エレナさんなら、少なくとも返事はしてくれる。
班は四人。エレナさんと、俺と、同じ年に入った双子のハンスとフリッツ。三人とも、魔獣討伐は二度目か三度目だ。
村に着いたのは夕方だった。羊小屋は村の外れにあって、その向こうに丘陵がなだらかに続いている。
エレナさんは村に着くなり、しばらく黙って丘を見ていた。目を閉じて。
それから、羊小屋の周りを一周した。地面に膝をつき、狼の足跡を指でなぞった。羊飼いの少年に、昨夜狼がどっちから来たかを訊いた。少年は丘のほうを指さした。
「いいえ」とエレナさんは静かに言った。「今夜は、反対側から来ます」
俺たちは顔を見合わせた。
「風です」エレナさんは丘を振り返った。「昨夜は南風でした。今夜は、丘から吹き下ろす北風。狼は、自分の匂いを獲物に運ばせません。風下から回り込んできます。つまり、村の南、あの麦畑の側から」
ハンスが感心したように口笛を吹いた。フリッツは半信半疑の顔だった。俺は、とりあえず頷いた。
エレナさんは、俺たちを配置した。ハンスとフリッツは羊小屋の屋根の上、弓を持って。俺は小屋の入口で松明係。エレナさん自身は、麦畑と羊小屋のあいだの、何もない空き地の真ん中に一人で立つという。
「一人で、ですか」俺は思わず言った。
「群れには、必ず主がいます」エレナさんは剣の柄に手を置いた。「主は、いちばん危ないところに出てきます。私が引き受けます」
夜になった。
月は雲に隠れていた。北風が強くなり、松明の炎が横倒しになるように揺れた。麦畑が、ざわざわと鳴っていた。
どれくらい待っただろう。
空き地の真ん中で、エレナさんが、すっと目を閉じた。
「来ます」
俺には何も聞こえなかった。何も見えなかった。麦畑は、相変わらず風に鳴っているだけだった。
「十二頭。麦畑の向こう、三百歩。左右に分かれて回り込んできます」エレナさんの声は、いつもと同じくらい静かだった。「屋根の二人は、左右の端の一頭ずつを狙ってください。合図は私がします」
息を詰めて待った。
やがて、麦の穂のあいだに、いくつもの光が灯った。緑色の、低い光。狼の目だ。本当に、麦畑の側から来た。本当に、左右に分かれて。
「今」
ハンスとフリッツの矢が飛んだ。左右の端の二頭が、悲鳴を上げて倒れた。
群れが、一斉に走り出した。
灰色の影が麦畑から溢れ出し、空き地を駆けてくる。大きい。本当に、普通の狼の二回りはある。牙が、松明の光で白く光った。
そのとき、北風がひときわ強く吹いた。
俺の松明が、ふっと消えた。屋根の上の松明も消えた。あたりが真っ暗になった。
狼の唸り声だけが、闇の中で近づいてくる。
俺は、足がすくんで動けなかった。
闇の中で、剣が鳴った。
一度。二度。三度。肉を断つ鈍い音と、狼の短い悲鳴が、続けざまに響いた。何も見えないのに、音だけで分かった。エレナさんが、闇の中で戦っている。一歩も退かずに。
俺は震える手で火打石を打った。三度目で、ようやく松明に火が戻った。
照らし出された空き地に、狼が五頭、倒れていた。
その真ん中に、エレナさんが立っていた。目を閉じたまま。剣を下段に構えて。息ひとつ乱れていなかった。
残りの狼たちは、少し離れたところで低く唸っていた。間合いを取って、攻めあぐねている。
その群れが、さっと左右に割れた。
奥から、一頭の狼が歩み出てきた。
でかい。他の灰牙狼よりも、さらに頭ひとつ大きい。顔に古い傷が斜めに走り、片耳が欠けている。群れの主だ。
主は、エレナさんを真正面から見据え、ゆっくりと身を低くした。
エレナさんは、目を閉じたまま動かなかった。
北風が吹いていた。強まり、弱まり、また強まる。麦畑が、波のように鳴った。
主が、地面を蹴った。
速い。俺の目では追えなかった。灰色の巨体が、一直線にエレナさんの喉元へ跳んだ。
その瞬間、風が止んだ。
ほんの一呼吸の、凪だった。麦畑の音が消え、松明の炎がまっすぐに立った。
その凪の中で、エレナさんの剣が、一筋の光になった。
主の巨体はエレナさんの肩をかすめて地面に落ち、二度転がって、動かなくなった。
また、風が吹き始めた。
エレナさんの前髪が、風に揺れていた。前髪だけが。外套も、構えも、少しも乱れていなかった。
主を失った狼たちは、一斉に麦畑の向こうへ逃げていった。
俺は松明を握ったまま、ぽかんと口を開けていた。屋根の上で、ハンスとフリッツも同じ顔をしていた。
エレナさんが、ようやく目を開けた。剣を拭い、鞘に収め、こちらを振り返った。
「怪我はありませんか」
それだけだった。
弓聖さまと、同じだ。
黙ったら、次の一太刀で終わる。
その夜、村長の家の暖炉の前で、ハンスがたまらず訊いた。
「エレナさん、あれ、どうやったんですか。真っ暗だったのに。最後の、風が止んだ瞬間のやつも」
エレナさんは、少し考えるように目を伏せた。それから、静かに答えた。
「師匠の教えです」
腰の革袋から、古びた帳面を取り出した。そして、大切そうに頁をめくりながら、一つずつ読み上げてくれた。
「開けていると、逃げる。目に頼らず、気配そのものを捉えよ」
「遠慮しておく。遠きを慮れ。間合いの外のものまで、先に読め」
「そして――風よ、我が前髪のみを揺らせ」
エレナさんは、その最後の言葉を、いちばんゆっくりと読んだ。
「風を拒まず、己の一部とせよ。芯は決して揺らすな。風は、いつか必ず止む。その一瞬を待て」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
俺たち三人は、しばらく誰も口をきけなかった。
それから、フリッツが小声で繰り返した。
「……風よ、我が前髪のみを揺らせ」
ハンスも繰り返した。俺も繰り返した。
なんだか、すごく強くなれる気がする言葉だった。
◇
町に戻ったのは、二日後の昼だった。
師匠はまだ、砦から戻っていなかった。
私は報告を済ませると、その足で鍛冶屋に向かった。帰り道、ずっと考えていたことがあった。
あの夜、闇の中で狼を斬れたのは、師匠の言葉があったからだ。最後の凪を待てたのも、師匠の言葉があったからだ。ハンスもフリッツもティモも、あの言葉を繰り返して、強くなれる気がすると言った。
師匠の言葉は、私を強くする。私だけでなく、人を強くする。
十年分のありがとうを、言葉ではなく、形で。
私の腰には、一本の短剣がある。十五の春、初めて依頼に出る朝に、師匠が黙って手渡してくださったものだ。何も言わずに、ただ私の手に握らせて、背を向けた。私はこの七年、一日もこれを身から離したことがない。
この短剣に、師匠の言葉を刻もう。
そして、私の付与の術で、言葉に力を込めよう。私に使えるのは、刃をほんの少し鋭くし、身のこなしをほんの少し軽くする、微弱な付与だけだ。けれど、師匠の言葉と一緒なら、きっと何かが違う。
十年目の日に、それを師匠にお見せしよう。これからもこの言葉を胸に生きます、という誓いとして。
鍛冶屋の親方グンターは、炉の前で鉄を打っていた。大きな背中に、汗が光っていた。
「親方。お願いがあります」
グンターは槌を止め、振り返った。口数の少ない人だ。師匠ほどではないけれど。
私は事情を話した。十年目の日のこと。短剣に言葉を刻み、付与を施したいこと。夜のあいだだけ、作業場の隅を貸してほしいこと。師匠には、当日まで秘密にしてほしいこと。
グンターは黙って聞いていた。それから、短く訊いた。
「何と刻む」
私は帳面を開いた。三冊分の師匠の言葉を、この二日、何度も読み返した。「もう、出ていい」も考えた。けれど、あの言葉は私だけのものだ。刃に刻んで、人の目に触れさせたくはなかった。
選んだのは、あの夜、私を勝たせてくれた言葉だった。師匠が峠で口にし、焚き火の向こうで体現しておられた、あの言葉。
私は紙に書いて、グンターに差し出した。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
グンターは紙を受け取り、じっと見た。
長いあいだ、見ていた。
それから、太い首を、ほんの少しだけ傾けた。
「……前髪?」
「師匠の教えです」
私は、まっすぐにグンターの目を見た。
グンターは、私の顔を見た。紙を見た。もう一度、私の顔を見た。
何か言いかけるように、口が少しだけ開いた。
そして、閉じた。
グンターは黙って紙を返し、作業場の奥の棚から、彫金用の細い鏨と小槌を取り出して、私の前の台に置いた。
「……夜は、好きに使え」
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
顔を上げたとき、グンターはもう炉のほうを向いて、鉄を打ち始めていた。その大きな背中が、なぜか少しだけ、何かをこらえるように震えていた。