寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
砦での三日間は、退屈だった。
国境の向こうで隣国が兵を動かしているという噂があり、念のための見張りの応援だった。実際には何も起きなかった。私は見張り台の上で三日間、北の地平線を眺め、詩を二篇半書いた。残りの半分は、帰り道に馬上で完成させた。悪くない三日間だったとも言える。
町に戻ると、ギルドの門の前でバルドが待ち構えていた。
「聞いたか、ミリアン! お前の弟子がやったぞ!」
灰牙狼十二頭の群れ。闇の中で五頭。風の凪いだ一瞬に、群れの主を一太刀。
バルドは身振り手振りを交えて、まるで自分が見てきたかのように語った。実際に見てきたのはティモで、ティモの話は三日でギルド中に広まり、その間に狼の数は十二頭から十八頭に増えていた。
「さすがはお前の教えだ。弓聖の弟子は、剣でも剣聖だな!」
バルドが私の背中を叩いた。
私の内部で、会議が開かれた。議題は峠のときと同じである。結論も同じだった。エレナは天才である。私の功績ではない。
しかし、峠のときと違う点が一つあった。
「風の凪いだ一瞬」。
私の矢と同じだ。峠で、角笛を射落としたときの。
エレナはあのとき、私の隣にいた。私の射を見ていた。見て、盗んだのだ。目で見たものを、剣で再現した。やはり天才である。
そう結論しかけたとき、裏の稽古場のほうから声が聞こえてきた。
若い連中の声だ。何人かで声を揃え、木剣を振りながら、何かを唱えている。風に乗って、言葉の切れ端が届いた。
「――かぜよ――」
ばん、と木剣の当たる音。
「――まえがみ――」
ばん。
私は、その場で足を止めた。
かぜよ。まえがみ。
詩帳の第九冊、「風と前髪の契約」。その核心の一行に、この二語は両方含まれている。
背中に冷たいものが走った。
稽古場の角まで歩いた。若手が五、六人、輪になって木剣を振っていた。ティモがいる。双子のハンスとフリッツもいる。
私の姿を見た途端、全員がぴたりと動きを止め、背筋を伸ばした。
「お、お帰りなさいませ、弓聖さま!」
唱和は、そこで途切れた。
問いただすべきだった。「今、何と唱えていた」と。
だが問えば、理由を訊き返される。なぜ弓聖がそんなことを気にするのか、と。気にする理由を説明すれば、私は終わる。
私は黙って頷き、その場を離れた。
自室に戻り、寝台に腰を下ろして、緊急の会議を開いた。
仮説一。偶然である。「風」も「前髪」も、日常的な語だ。稽古場は風が強い。若者は前髪を気にする年頃である。風の強い稽古場で、若者が前髪について何か言っていても不思議はない。
仮説二。私の詩が、どこかから漏れている。
仮説二が正しかった場合、私は終わる。
私は論理的に結論した。耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。
仮説一を採用する。
――と結論してから、ふと気づいた。
この論法を使うのは、二度目である。一度目は、満月の夜の森の「鹿」だった。そして鹿は、ルカだった。
同じ論法を二度使うと、論理は疲弊する。
私は仮説一を採用したまま、その夜、なかなか寝つけなかった。
◇
翌日の夕刻、広間の隅の席に向かう途中で、私はエレナを見かけた。
窓際の卓で、一枚の紙を見つめていた。真剣な顔で。紙の上に、何か短い文字が書かれているようだった。
私が近づくと、エレナははっと顔を上げた。そして慌てて紙を折りたたみ、懐の奥にしまった。
「お、お帰りなさいませ、師匠」
頬が、わずかに赤かった。
エレナが、慌てた。
十年間、私はエレナが慌てるところをほとんど見たことがない。狼の群れの前でさえ、彼女は慌てなかったと聞く。その彼女が、一枚の紙を見られまいとして、慌てた。
紙。短い文字。真剣な顔。見られたくない。
私の内部で、会議が開かれた。だが今回の会議は、これまでとまったく様子が違った。議場に、春の陽が差していた。
仮説一、依頼の書類。却下。依頼の書類を隠す理由はない。
仮説二、誰かへの手紙。可能性はある。だが手紙なら、もっと長い。
仮説三。
――詩。
短い文字。何度も見返す。人に見られたくない。すべて、詩人の行動様式と一致する。
エレナが、詩を書いている。
胸の奥で、何かが鳴った。鐘のような音だった。
同好の士。この町に二十年以上住んで、一人も出会えなかった存在。それが、私のいちばん近くにいたのだ。十年間、気づかなかった。いや、気づかないのは当然である。詩人は、詩を隠すものだからだ。私がそうであるように。
そして今、彼女はかつての私と同じ場所に立っている。詩を書き始め、誰にも見せられず、一人で抱えている。
助言をしなければならない。先達として。
私は頭の中で、詩人の心得を整理した。
第一に、韻は辞書ではなく呼吸で探せ。
第二に、「宿命」という語は一篇につき一度まで。使いすぎると安くなる。なお、私自身はこれを守れていない。
第三に、詩は人に見せるな。見せた瞬間に、詩は乾く。人知れず温めるほど、詩は深く根を張る。
第四に、前髪は――いや、これは詩とは関係がない。
いくらでも出てきた。二十年分の心得が、堰を切ったように溢れた。一晩でも語り明かせると思った。
だが、ここで問題が生じた。
どの心得を口にしても、それは「私も詩を書いている」と告白するのに等しい。韻の探し方を知っている弓手など、この世にいない。
語りたい。語れない。
私は心得の山を前に、一つずつ削った。第一を削り、第二を削り、第四はもともと削るべきものだった。そして、第三だけが残った。詩人にしか通じず、詩人でない者が聞いても意味を取れない、もっとも本質的な一つ。
さらに、それを極限まで短くした。
「……隠すほど、育つ」
それだけ言って、私はエレナの前を通り過ぎた。
背後で、エレナが息を呑む気配がした。
伝わった、と思った。詩人にだけ通じる言葉で。
隅の席に座り、麦酒を一口飲んだ。今度は、味がした。昨夜から続いていた胸のざわめきが、嘘のように静まっていた。
弟子が、詩人になる日が来る。
その日を、私は待とう。
◇
見られた。
師匠に、あの紙を見られたかもしれない。
「風よ、我が前髪のみを揺らせ」。グンターの作業場で、刻む位置と文字の大きさを確かめるために書いた紙だ。慌ててしまったのは、それが十年目の日まで秘密にしておきたい贈り物の、設計図だったからだ。
けれど、師匠は何も問わなかった。
ただ一言だけ、通り過ぎざまに仰った。
――隠すほど、育つ。
私は、しばらくその場から動けなかった。
師匠は、すべてお見通しなのだ。私が何かを準備していることも、それを隠していることも。そのうえで、責めるのではなく、教えてくださった。
隠すほど、育つ。
力は、見せびらかすものではない。隠せば隠すほど、内側で研ぎ澄まされる。気配を消し、力を消し、存在そのものを消すほどに。
狼の夜から、私は「強い」と見られるようになった。ギルド中が私の話をしている。師匠はそれを戒めてくださったのだ。
私は帳面を開き、書いた。
――隠すほど、育つ。
――力は隠すほど研ぎ澄まされる。気配を消し、己を消せ。
その夜から、鍛冶屋への行き帰りが、私の修行になった。
足音を消す。呼吸を消す。影の濃いところを選び、風下を歩く。それだけではない。自分の気配そのものを、内側へ、内側へと畳み込んでいく。遠くの気配を読めるようになった今、自分の気配が外へどう漏れているかも、手に取るように分かった。漏れている分だけ、閉じればいい。
五日目の夜、鍛冶屋からの帰り道で、私は背後に気配を感じた。
五十歩後ろ。足音を殺している。上手な殺し方だ。けれど、呼吸の間合いに、ほんのわずかな癖がある。
ルカさんだった。
私を、尾けている。
理由は分からなかった。けれど、十年目の日まで、贈り物のことは誰にも知られたくなかった。ルカさんにも。
隠すほど、育つ。
私は角を曲がった瞬間に、気配を閉じた。
足を止め、壁際の影に身を沈め、呼吸を細くした。ルカさんの足音が近づいてくる。角を曲がり、私のいる影から、腕を伸ばせば届くほどの距離を通り過ぎた。
ルカさんは、通りの真ん中で立ち止まった。左右を見回し、首をかしげ、もう一度見回した。
それから小さく舌打ちをして、引き返し始めた。
私は、そのあとを尾けた。
尾けるつもりはなかった。ただ、帰る方向が同じだったのだ。ギルドの宿舎は一つしかない。
ルカさんは何度か振り返った。そのたびに、私は影に溶けた。ルカさんは振り返るたびに首をかしげ、足を速め、また振り返った。
宿舎の階段を上り、ルカさんが自室の扉の前に立った。鍵を探して、懐を探っている。
私はその背後、三歩のところに立っていた。
黙って通り過ぎるのは、失礼だと思った。同じ宿舎に住む仲間なのだから。
「おやすみなさい、ルカさん」
ルカさんは声にならない声を上げ、扉に背中を打ちつけた。
手から鍵が落ちて、床で鳴った。
私は一礼して、自分の部屋へ向かった。背中に、ルカさんの視線が刺さっているのを感じた。振り返らなくても、それくらいは分かる。
ルカさんは、ずいぶん驚いていた。
少し、申し訳なかったと思う。
◇
短剣が仕上がったのは、十年目の日の、前の晩だった。
刃の根元、鍔のすぐ上に、細く、深く、文字が刻まれている。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
最後に、私は刃に両手をかざし、付与の言葉を唱えた。刃をほんの少し鋭くし、身のこなしをほんの少し軽くする、いつもの微弱な付与。
そのはずだった。
唱え終えた瞬間、刻んだ文字が、内側から淡く光った。
炉の火とは違う、青白い光だった。光は文字の溝を端から端まで走り、刃全体に広がり、ゆっくりと消えていった。
作業場の奥で、鉄を打っていたグンターの槌が止まった。
振り返ったグンターの片方の眉が、高く上がっていた。
私は光の消えた刃を見つめた。
こんな光は、今まで一度も見たことがない。けれど、不思議とは思わなかった。師匠の言葉を刻んだのだから。師匠の言葉は、いつだって、私の思うより遠くまで届く。
私は短剣を鞘に収め、胸に抱いた。
明日、師匠にお見せしよう。
十年分の、ありがとうと一緒に。