寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜   作:イマエサン

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第8章 弟子の秘密

 砦での三日間は、退屈だった。

 国境の向こうで隣国が兵を動かしているという噂があり、念のための見張りの応援だった。実際には何も起きなかった。私は見張り台の上で三日間、北の地平線を眺め、詩を二篇半書いた。残りの半分は、帰り道に馬上で完成させた。悪くない三日間だったとも言える。

 町に戻ると、ギルドの門の前でバルドが待ち構えていた。

 

「聞いたか、ミリアン! お前の弟子がやったぞ!」

 

 灰牙狼十二頭の群れ。闇の中で五頭。風の凪いだ一瞬に、群れの主を一太刀。

 バルドは身振り手振りを交えて、まるで自分が見てきたかのように語った。実際に見てきたのはティモで、ティモの話は三日でギルド中に広まり、その間に狼の数は十二頭から十八頭に増えていた。

 

「さすがはお前の教えだ。弓聖の弟子は、剣でも剣聖だな!」

 

 バルドが私の背中を叩いた。

 私の内部で、会議が開かれた。議題は峠のときと同じである。結論も同じだった。エレナは天才である。私の功績ではない。

 しかし、峠のときと違う点が一つあった。

 

 「風の凪いだ一瞬」。

 

 私の矢と同じだ。峠で、角笛を射落としたときの。

 エレナはあのとき、私の隣にいた。私の射を見ていた。見て、盗んだのだ。目で見たものを、剣で再現した。やはり天才である。

 

 そう結論しかけたとき、裏の稽古場のほうから声が聞こえてきた。

 若い連中の声だ。何人かで声を揃え、木剣を振りながら、何かを唱えている。風に乗って、言葉の切れ端が届いた。

 

「――かぜよ――」

 

 ばん、と木剣の当たる音。

 

「――まえがみ――」

 

 ばん。

 私は、その場で足を止めた。

 かぜよ。まえがみ。

 詩帳の第九冊、「風と前髪の契約」。その核心の一行に、この二語は両方含まれている。

 

 背中に冷たいものが走った。

 稽古場の角まで歩いた。若手が五、六人、輪になって木剣を振っていた。ティモがいる。双子のハンスとフリッツもいる。

 私の姿を見た途端、全員がぴたりと動きを止め、背筋を伸ばした。

 

「お、お帰りなさいませ、弓聖さま!」

 

 唱和は、そこで途切れた。

 問いただすべきだった。「今、何と唱えていた」と。

 だが問えば、理由を訊き返される。なぜ弓聖がそんなことを気にするのか、と。気にする理由を説明すれば、私は終わる。

 私は黙って頷き、その場を離れた。

 

 自室に戻り、寝台に腰を下ろして、緊急の会議を開いた。

 

 仮説一。偶然である。「風」も「前髪」も、日常的な語だ。稽古場は風が強い。若者は前髪を気にする年頃である。風の強い稽古場で、若者が前髪について何か言っていても不思議はない。

 仮説二。私の詩が、どこかから漏れている。

 仮説二が正しかった場合、私は終わる。

 私は論理的に結論した。耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。

 仮説一を採用する。

 

 ――と結論してから、ふと気づいた。

 この論法を使うのは、二度目である。一度目は、満月の夜の森の「鹿」だった。そして鹿は、ルカだった。

 同じ論法を二度使うと、論理は疲弊する。

 私は仮説一を採用したまま、その夜、なかなか寝つけなかった。

 

◇

 

 翌日の夕刻、広間の隅の席に向かう途中で、私はエレナを見かけた。

 窓際の卓で、一枚の紙を見つめていた。真剣な顔で。紙の上に、何か短い文字が書かれているようだった。

 私が近づくと、エレナははっと顔を上げた。そして慌てて紙を折りたたみ、懐の奥にしまった。

 

「お、お帰りなさいませ、師匠」

 

 頬が、わずかに赤かった。

 エレナが、慌てた。

 十年間、私はエレナが慌てるところをほとんど見たことがない。狼の群れの前でさえ、彼女は慌てなかったと聞く。その彼女が、一枚の紙を見られまいとして、慌てた。

 紙。短い文字。真剣な顔。見られたくない。

 私の内部で、会議が開かれた。だが今回の会議は、これまでとまったく様子が違った。議場に、春の陽が差していた。

 

 仮説一、依頼の書類。却下。依頼の書類を隠す理由はない。

 仮説二、誰かへの手紙。可能性はある。だが手紙なら、もっと長い。

 仮説三。

 ――詩。

 短い文字。何度も見返す。人に見られたくない。すべて、詩人の行動様式と一致する。

 

 エレナが、詩を書いている。

 胸の奥で、何かが鳴った。鐘のような音だった。

 同好の士。この町に二十年以上住んで、一人も出会えなかった存在。それが、私のいちばん近くにいたのだ。十年間、気づかなかった。いや、気づかないのは当然である。詩人は、詩を隠すものだからだ。私がそうであるように。

 

 そして今、彼女はかつての私と同じ場所に立っている。詩を書き始め、誰にも見せられず、一人で抱えている。

 助言をしなければならない。先達として。

 私は頭の中で、詩人の心得を整理した。

 

 第一に、韻は辞書ではなく呼吸で探せ。

 第二に、「宿命」という語は一篇につき一度まで。使いすぎると安くなる。なお、私自身はこれを守れていない。

 第三に、詩は人に見せるな。見せた瞬間に、詩は乾く。人知れず温めるほど、詩は深く根を張る。

 第四に、前髪は――いや、これは詩とは関係がない。

 

 いくらでも出てきた。二十年分の心得が、堰を切ったように溢れた。一晩でも語り明かせると思った。

 だが、ここで問題が生じた。

 どの心得を口にしても、それは「私も詩を書いている」と告白するのに等しい。韻の探し方を知っている弓手など、この世にいない。

 

 語りたい。語れない。

 私は心得の山を前に、一つずつ削った。第一を削り、第二を削り、第四はもともと削るべきものだった。そして、第三だけが残った。詩人にしか通じず、詩人でない者が聞いても意味を取れない、もっとも本質的な一つ。

 さらに、それを極限まで短くした。

 

「……隠すほど、育つ」

 

 それだけ言って、私はエレナの前を通り過ぎた。

 背後で、エレナが息を呑む気配がした。

 伝わった、と思った。詩人にだけ通じる言葉で。

 

 隅の席に座り、麦酒を一口飲んだ。今度は、味がした。昨夜から続いていた胸のざわめきが、嘘のように静まっていた。

 弟子が、詩人になる日が来る。

 その日を、私は待とう。

 

◇

 

 見られた。

 師匠に、あの紙を見られたかもしれない。

 「風よ、我が前髪のみを揺らせ」。グンターの作業場で、刻む位置と文字の大きさを確かめるために書いた紙だ。慌ててしまったのは、それが十年目の日まで秘密にしておきたい贈り物の、設計図だったからだ。

 けれど、師匠は何も問わなかった。

 ただ一言だけ、通り過ぎざまに仰った。

 

 ――隠すほど、育つ。

 

 私は、しばらくその場から動けなかった。

 師匠は、すべてお見通しなのだ。私が何かを準備していることも、それを隠していることも。そのうえで、責めるのではなく、教えてくださった。

 

 隠すほど、育つ。

 力は、見せびらかすものではない。隠せば隠すほど、内側で研ぎ澄まされる。気配を消し、力を消し、存在そのものを消すほどに。

 狼の夜から、私は「強い」と見られるようになった。ギルド中が私の話をしている。師匠はそれを戒めてくださったのだ。

 私は帳面を開き、書いた。

 

 ――隠すほど、育つ。

 ――力は隠すほど研ぎ澄まされる。気配を消し、己を消せ。

 

 その夜から、鍛冶屋への行き帰りが、私の修行になった。

 足音を消す。呼吸を消す。影の濃いところを選び、風下を歩く。それだけではない。自分の気配そのものを、内側へ、内側へと畳み込んでいく。遠くの気配を読めるようになった今、自分の気配が外へどう漏れているかも、手に取るように分かった。漏れている分だけ、閉じればいい。

 

 五日目の夜、鍛冶屋からの帰り道で、私は背後に気配を感じた。

 五十歩後ろ。足音を殺している。上手な殺し方だ。けれど、呼吸の間合いに、ほんのわずかな癖がある。

 

 ルカさんだった。

 私を、尾けている。

 理由は分からなかった。けれど、十年目の日まで、贈り物のことは誰にも知られたくなかった。ルカさんにも。

 

 隠すほど、育つ。

 私は角を曲がった瞬間に、気配を閉じた。

 足を止め、壁際の影に身を沈め、呼吸を細くした。ルカさんの足音が近づいてくる。角を曲がり、私のいる影から、腕を伸ばせば届くほどの距離を通り過ぎた。

 ルカさんは、通りの真ん中で立ち止まった。左右を見回し、首をかしげ、もう一度見回した。

 それから小さく舌打ちをして、引き返し始めた。

 

 私は、そのあとを尾けた。

 尾けるつもりはなかった。ただ、帰る方向が同じだったのだ。ギルドの宿舎は一つしかない。

 ルカさんは何度か振り返った。そのたびに、私は影に溶けた。ルカさんは振り返るたびに首をかしげ、足を速め、また振り返った。

 宿舎の階段を上り、ルカさんが自室の扉の前に立った。鍵を探して、懐を探っている。

 

 私はその背後、三歩のところに立っていた。

 黙って通り過ぎるのは、失礼だと思った。同じ宿舎に住む仲間なのだから。

 

「おやすみなさい、ルカさん」

 

 ルカさんは声にならない声を上げ、扉に背中を打ちつけた。

 手から鍵が落ちて、床で鳴った。

 私は一礼して、自分の部屋へ向かった。背中に、ルカさんの視線が刺さっているのを感じた。振り返らなくても、それくらいは分かる。

 ルカさんは、ずいぶん驚いていた。

 少し、申し訳なかったと思う。

 

◇

 

 短剣が仕上がったのは、十年目の日の、前の晩だった。

 刃の根元、鍔のすぐ上に、細く、深く、文字が刻まれている。

 

 ――風よ、我が前髪のみを揺らせ。

 

 最後に、私は刃に両手をかざし、付与の言葉を唱えた。刃をほんの少し鋭くし、身のこなしをほんの少し軽くする、いつもの微弱な付与。

 

 そのはずだった。

 唱え終えた瞬間、刻んだ文字が、内側から淡く光った。

 炉の火とは違う、青白い光だった。光は文字の溝を端から端まで走り、刃全体に広がり、ゆっくりと消えていった。

 

 作業場の奥で、鉄を打っていたグンターの槌が止まった。

 振り返ったグンターの片方の眉が、高く上がっていた。

 私は光の消えた刃を見つめた。

 こんな光は、今まで一度も見たことがない。けれど、不思議とは思わなかった。師匠の言葉を刻んだのだから。師匠の言葉は、いつだって、私の思うより遠くまで届く。

 私は短剣を鞘に収め、胸に抱いた。

 明日、師匠にお見せしよう。

 十年分の、ありがとうと一緒に。

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