寡黙な弓聖と畏れられていますが、黙っているのは次のポエムの韻を探しているだけです〜自作の詩を弟子に短剣へ刻まれたので全力で夜逃げします〜 作:イマエサン
その日、ギルドの広間は朝から騒がしかった。
長卓が並べ替えられ、酒場のマルタが大鍋を三つ運び込み、若手たちが梁に麦わらの飾りを吊るしていた。
「今夜は宴だ」とバルドは言った。「エレナの狼退治の祝いだ。お前も必ず出ろ」
私は頷いた。異論はなかった。
むしろ私はこの数日、静かに浮かれていた。
理由は言うまでもない。エレナが詩を書いている。あの日、紙を慌てて隠した弟子に、私は詩人の心得を一言だけ授けた。隠すほど、育つ。彼女はそれを受け取った。あれから毎晩、彼女はどこかへ出かけている。人目を避けて、詩を温めているのだ。かつての私が、夜の森でそうしたように。
そして今夜は宴である。
宴の席で、弟子が初めての詩を披露する。その可能性は低くない。彼女は収穫祭の朗読会には出ていない。ならば、今夜が初舞台だ。
拍手の準備はできていた。一行目の終わりで軽く頷き、最終行の余韻を三呼吸ぶん待ってから、ゆっくりと手を打つ。先達として、それがもっとも品位ある反応である。批評はしない。詩人の処女作に必要なのは、批評ではなく沈黙の肯定だ。
夜になった。
広間は団員で埋まった。マルタの大鍋から湯気が立ち、麦酒の樽が二つ空いた。ティモが狼の話を始め、狼の数は二十頭になっていた。
頃合いを見て、バルドが卓の上に立った。
「静かに! 静かにしろ!」
広間が静まった。
「今夜はエレナの狼退治の祝いだ。だが、それだけじゃない」
バルドは私を見た。
「十年前の今日。この男が、一人の子どもを連れて、この門をくぐった」
広間がざわめいた。
私は、手の中の杯を見下ろした。
知っていた。
今日が何の日か、私は知っていた。十年間、一度も忘れたことはない。毎年この日、私は夜の森へ行き、詩帳を開き、何も書かずに閉じて帰ってくる。書けないものが一つくらいあるほうが、詩人は謙虚でいられるからだ。
今年もそうするつもりだった。誰にも言わずに。
「エレナから、師匠に渡したいものがあるそうだ」とバルドが言った。
エレナが立ち上がった。
両手に、布に包んだ細長いものを抱えていた。
私の胸が高鳴った。
布に包んだもの。細長いもの。
――巻物だ。
詩を、清書してきたのだ。十年目の日に合わせて。師に捧げる、処女作を。
私は杯を卓に置き、背筋を伸ばした。拍手の準備は、できていた。
◇
エレナが、私の前に立った。
広間中の目が、私たちに集まっていた。
「師匠」
エレナの声は、いつものように静かだった。けれど、わずかに震えていた。
「十年前、師匠は私に、あの暗い場所から出ていいと仰ってくださいました。それから十年、師匠の言葉が、私を生かしてくれました。言葉で感謝を伝えるのは、師匠のお好みではないと思います。だから、形にしました」
エレナは布をほどいた。
巻物ではなかった。
短剣だった。
七年前、初めて依頼に出る朝に、私が彼女に渡した短剣。何と言って渡せばいいか分からず、黙って手に握らせた短剣。
エレナは鞘から刃を抜き、柄を両手で捧げるようにして、私に差し出した。
「師匠の言葉を、刻みました。これからもこの言葉を胸に生きる、という誓いです」
私は、刃を受け取った。
燭台の光が、刃の根元を照らした。鍔のすぐ上に、細く、深く、文字が刻まれていた。
――風よ、我が前髪のみを揺らせ。
時間が、止まった。
次の瞬間、広間の後ろのほうで、ティモが拳を突き上げた。
「せーのっ!」
若手たちが、一斉に声を揃えた。
「――風よ! 我が前髪のみを揺らせ!」
ハンスが、フリッツが、ティモが、十人を超える若者たちが、拳を振り上げて、私の詩を叫んでいた。
バルドが卓の上で両腕を広げた。
「これが、イァーリの新しい合言葉だ! 弓聖の教えだ!」
広間が、割れんばかりの歓声に包まれた。
私の内部で、会議が開かれた。
いや、会議ではなかった。議場そのものが崩落していた。それでも私の論理は、瓦礫の中から這い出して、最後の仕事を始めた。
事実一。刻まれた一行は、詩帳第九冊「風と前髪の契約」の核心の一行と、一字一句同じである。
事実二。若手たちは、それを合言葉として唱和している。稽古場で聞いた「かぜよ」「まえがみ」は、偶然ではなかった。
ここで私は、反射的に、あの論法を試みた。耐えられない結論を導く仮説は、採用しない。
だが、論理はもう立ち上がらなかった。三度目は、なかった。目の前の刃に、文字が刻まれている。鹿のふりをする余地は、どこにもない。
では、どこから漏れたのか。
仮説一、峠。私はあの一行を、峠で口にした。だがあれは、横殴りの風の中の、息だけの呟きだった。人間の耳に届く音量ではない。却下。
仮説二、詩帳。第九冊は屋根裏にある。エレナはこの二十日ほど、毎晩どこかへ出かけていた。人目を避けて。そして、紙を慌てて隠した。
あの紙は、詩ではなかった。
弟子が詩人になったのではない。
弟子は、私の詩を、写していたのだ。
すべてが繋がった。おぞましいほど、綺麗に。
結論。エレナは、詩帳を読んだ。少なくとも第九冊を。おそらく、すべてを。彼女はそれを「教え」として若手に広めた。若手はすでに唱和している。ティモの聞いた話は、三日で町中に広まる。
いずれ、全員に知られる。
私が夜な夜な、何を書いていたのかを。
外から見た私がどうだったのかは、分からない。ただ、私は長いあいだ黙っていたらしい。顔から血の気が引いていたらしい。刃を握る手が、白くなるほど力んでいたらしい。
後から聞いた話である。
◇
〈ギルド長バルド〉
俺はこのギルドを二十年仕切ってきた。あの男が黙るのは見慣れている。だが、あんな黙り方は初めて見た。
顔が真っ白だった。刃を握る手が震えていた。唇が、何かを言おうとして、何度も動いて、閉じた。
十年前、あいつが煤だらけの子どもを連れて門をくぐってきた日のことを、俺は思い出した。あの日も、あいつは同じ顔をしていた。何を言えばいいのか分からない、という顔を。
気づいたら、俺は卓の上で泣いていた。
〈酒場の女将マルタ〉
弓聖さまの過去に何があったのか、あたしは知らない。けれど、あの方があんなに長く黙り込んで、弟子の贈った刃をあんなに強く握りしめて。言葉にならないものが喉元までせり上がってきているのが、見ているこっちにまで伝わってきたのよ。
前掛けが、またびしょびしょになった。明日は町中に話してあげなくちゃ。
〈ティモ〉
弓聖さまが、泣きそうな顔をしていた。
俺は、唱和の声をもっと張り上げた。弓聖さまの教えは、ちゃんと俺たちに届いています、って伝えたくて。
〈斥候ルカ〉
合言葉。
俺は広間の柱の陰で、手帳を握りしめていた。
夜の森の文言は、もう弓聖一人のものではなくなった。弟子が受け取り、若手に広め、ギルド全体が声を揃えて唱えている。弟子は見張り役ではなかった。伝令役だったのだ。そして今夜、組織が出来上がった。
弓聖の顔色が悪いのは、計画が予定より早く表に出てしまったからか。
俺は手帳に書いた。――合言葉、ギルド全体に浸透。
〈鍛冶屋グンター〉
俺は、あの一行を刻む場所を貸した。
だから、たぶん、この広間で俺だけが分かる。あの一行の刻まれた刃を見たとき、あの男の顔から血の気が引いていった、その引き方が。
あれは、感極まった男の顔じゃない。
隠していたものを、白日の下に晒された男の顔だ。
……前髪、か。
俺は麦酒を一口飲んで、何も言わなかった。言うべきことは、何もない。
◇
歓声が、少しずつ引いていった。
広間中が、私の言葉を待っていた。エレナが、目を潤ませて私を見上げていた。
何かを言わなければならない。
私の内部で、最後の会議が開かれた。議題は一つだった。この町に、残るか。
残れば、遠からず詩帳のすべてが知られる。弓聖の名が高ければ高いほど、落差は大きい。私はこれまで、名が売れるたびに、嬉しい気持ちと困る気持ちを同じだけ積み上げてきた。今夜、困る気持ちの側の天秤が、ついに床まで落ちた。
結論は、出ていた。
私は刃を鞘に収め、両手でエレナに返した。
エレナが受け取った。その手はもう、十年前に芋蔵の暗がりで小刀を握りしめていた手と、同じ大きさではなかった。
私は口を開いた。
「……ありがとう」
広間が、どっと沸いた。バルドが卓から転げ落ちた。マルタが前掛けで顔を覆った。エレナが、深く、深く、頭を下げた。
誰も気づかなかった。
それが、私がこの町で口にする、別れの言葉だったことに。