「先輩、俺に剣術を教えてくれませんか?」
最初にそう請われたのは、いつのことだったか。正確な時期はもう覚えていないが、そのとき自分がどう応じたかは明確に記憶している。そして、今もまたどう返事をするべきかは全く同じであるように、塚原貞俊には思われた。
「耕介。お前さんに剣術はきっと、無用の長物だよ」
「……」
昔から、そして今も可愛がっている後輩である槙原耕介の、明らかに失望を含んだ沈黙。それは想像できる反応だったしいささか申し訳なさも感じるのだが、多分、この返事は耕介にとっても最善のものであろう。少なくともこのときの貞俊はそう信じていた。
何故なら、彼は『剣術使い』という『生き方』を自らの意思で選び、その結果として実戦の場で剣を振るうことを求められる立場だったから。そして、今の世界にはそうした『命を懸けて戦うために』剣術を用いなければならない人々が少なからず存在することを、身をもって知っていたからだった。
自分の知る限り、平和な世界に生きているはずである耕介には、ことに自分の用いているような剣術は無用の長物と思っていた。だからこそ、続いてまるで聞こえなければそれでよいという感じで発せられた彼の呟きを耳にして、貞俊は少なからず驚きを禁じ得なかった。
「今は、そうじゃないんですけどね。先輩」
もちろん、驚きはあっても表には出さない。だが、今は女子寮の管理人として寮生たちから絶大な信頼を得ている耕介に、剣術が必要になる事態とはどういうことなのだろう。貞俊にはおよそ想像できなかったから、その内心では驚きと共に困惑すら生じていた。
耕介のほうは、その貞俊の胸中を察した様子を見せるでもなく、ここで話題を変えてきた。
「それはそうと先輩、この休み中に海鳴には来るんですよね?」
「ああ、そのつもりだよ」
このとき、現在は海外のある組織に所属している貞俊は、実家である神奈川県横須賀市に帰省していた。なかなか長期休暇が取得しにくい職業ではあるのだが、たまたまそうした機会を得て日本にいる以上、昔からの知り合いが多く住まう茨城県海鳴市へ足を運ぶことを考えるのは当然と言えた。
「なら、せっかくですからさざなみ寮に来ませんか? 愛さんも先輩に会いたがってますし、寮のみんなも紹介したいんです」
「うーん……」
ここで、貞俊は言葉を濁した。
「子供のころならいざ知らず、成人男子が女子寮の客になるのはどうかと思うが」
さざなみ女子寮。この寮の先代オーナーと貞俊の父は極めて近しい間柄であり、貞俊自身、その縁で子供のころは何度かさざなみ寮の客となったこともあるし、現在の寮のオーナーである槙原愛ともそれなりに親しい間柄であった。だが、それは子供だからこそ許されることであり、今年二十六歳になる我が身がのこのこと女子寮を訪れるということに、多少なりとも抵抗を感じるのは仕方のないこととも言えた。
「そんなこと言わないでくださいよ」
そのあたりの貞俊の心理は、耕介も理解しているようであった。
「先輩が帰省しているって話を愛さんにしたら、久しぶりに顔を見たいと言っていましたし。それに……」
「それに?」
「今、さざなみに住んでる人たちには、結構剣術とか、やってる人がいるんですよ」
「ほう……」
剣術使いとしては、その点には少なからず興味を惹かれるところではあった。恐らく、そう貞俊が思うことは耕介も承知しているのだろう。
「そうだな」
少し考えて、口を開く。
「わかった、私としては思うところもあるが、お前さんの言葉に甘えさせてもらうことにするよ」
「はい、ありがとうございます!」
その後、細かい予定の打ち合わせをしてから電話を切る。だが、自分がさざなみ寮を訪問することを決めたときの耕介が、貞俊からすると不思議と嬉しそうに感じられたことが、彼にとっては少々気になるところであった。
しかし、今の貞俊はまだ知る由もない。
この『後輩に頼み込まれたから半ば仕方なく決めた』さざなみ寮への訪問が、彼のみならずそれを取り巻く多くの人々の運命に大きな影響を与えることになる未来を、である。
数日後、横須賀から自動車を走らせて海鳴へと向かった貞俊であるが、途中で想定外の交通渋滞に巻き込まれてしまい、昼ぐらいにと予定していた海鳴市への到着は夕方になってしまっていた。
そんな偶然さえ、後になって見れば運命のいたずらと表現するしかない事態を招くことに繋がったのだが、もちろんそんなことは現状誰も知るところではない。
ともあれ、さざなみ寮に着いて車を駐車場に入れ、玄関へと歩いていく。すると、外で懐かしい顔が待っていた。
「先輩、お久しぶりです」
「貞俊さん、よく来てくれました。ちょっと懐かしいです」
耕介と愛だった。
「久しぶり、二人とも元気そうでよかったよ」
一礼してから、貞俊はそう言った。
「その、遅くなってしまって申し訳ない。みんなを待たせてしまったかな?」
「待ち焦がれてましたよ、俺たち。さあ入ってください、みんなに紹介しますから」
この時の耕介もまた、妙に嬉しそうな表情を見せたのだった。
リビングへと通され、そこで寮生たちを紹介される。耕介と愛を除いて全部で八人。貞俊はことさら女性に対して強い関心を示す性格ではなかったのだが、その彼から見ても美人さんであったり、あるいは可愛い娘だったりと色々である。ただそうした視点とは別に、何となくだが「みんないい眼をしている」という意味で彼女らにまず好感を持った貞俊であった。
ほどなくして夕食が始まる。最初は他愛もない話題から入った寮生たちとの会話は、流れからいつしか貞俊と耕介が知り合った頃の話になっていた。
「塚原さんとお兄ちゃんは、どんなふうに知り合ったんですか?」
仁村知佳という、耕介のことを『お兄ちゃん』と呼んでいるらしい少女からそう問われる。すると、貞俊は一度耕介のほうに視線をやってから口を開いた。
「そうだね。今はこうな耕介だけれど、子供のころは結構その、やんちゃだったというか」
「先輩、そんなあ」
「まあ、もう過ぎたことであるし……それに、お前さんの昔の話というのは、皆さんおよそご存じなのではないかな?」
「それはまあ、そうですけど」
そのあたりを秘密にしていないのなら、貞俊としても話すのをためらう理由はない。
「いつだったか正確には覚えていないけど、私が中学生だった頃かな。知り合ったばかりの耕介に突っかかれましてね」
「そうなんですかー」
「それで、そのあとのことは耕介から話してもらったほうがいいかな?」
「……わかりました」
観念したように、耕介は口を開いた。
「俺、体格があったからというのもあるけど、みんなも知ってる通り子供のころは結構生意気で。先輩、初めて会ったとき何かとても強そうに感じたから、試してみたくなったんだよ」
「……」
貞俊は黙っていたが、彼としては当時もう剣術を始めていたこともあり、自分の技能については極力隠しているつもりだった。だから耕介から『強そうだ』と思われたこと自体が実は意外なことではあった。
「なので、先輩にちょっとちょっかいかけるつもりで腕をつかんで……ここから先は先輩にお任せします」
「あ、わかった」
耕介の振りを受け取って、貞俊が続ける。
「先輩としてお恥ずかしい話ながら、腕をつかまれて驚いて、私が耕介を投げ飛ばしてしまいました。もっとも、そんなことがあってから不思議と仲良くなれましてね」
「ですね、最初そんなことがあったのに、しばらくしたら自然と仲良くなれてましたよね」
「そうだな……」
いささか照れもあったが、穏やかに会話をする貞俊の表情は、とても自称剣術使いとは思えないほど物静かなものであった。
夕食が終わり、貞俊は今回の海鳴滞在時の宿とする予定の『井関』。これは海鳴市にある唯一の刀剣店の名であるが、そこへ移動することにした。ちなみに『井関』の店主と貞俊は昔からの馴染みで、貞俊にとっては刀の目利きその他の師匠と言える存在だったのだ。
ところが移動の準備を始めようと思い立ったところで、耕介が声をかけてきた。
「先輩。もう遅いですし、今日はここに泊っていってもらえませんか?」
貞俊からすれば、寝耳に水の提案だった。
「耕介、お前さんは女子寮の管理人だろう。愛さんはまだしも、他の皆さんが女子寮に若い男が宿泊するのを納得すると思っているのかい?」
常識的に考えればそう答えるしかないのだが、この時の耕介の表情は先ほどの少しはしゃいでいたのとは対照的な、極めて真剣なものだった。
「俺に剣術は無用の長物だって、先輩はそう言いましたよね」
「ああ、言ったよ」
「もし、今は違うと俺が言ったらどうしますか?」
「……」
今度はごまかす気がなさそうな耕介の言葉に、貞俊はその理由を問おうとして、しかし言葉が出てこなかった。もちろん女子寮の管理人に剣術、それも自分が修練してきたようなそれが有用だとは思えない。思いたくないと言ったほうが正しかったろう。それだけ貞俊にとって自分の剣術は重いものにならざるを得なかったし、親しい後輩という立場故に、耕介もその一端くらいは理解しているはずと考えてしかるべきだったのだ。
だが、それと承知で耕介は申し出ている。それも先輩としてしっかりと受け止めるべきことだったし、また、先ほど知己を得たさざなみ寮の寮生たちの所作からしても考えさせられることがある。貞俊からすれば信じ難いことだが、寮生たちの何人かは明らかに剣術の心得があり、しかも趣味で嗜むという領域を通り越した、それこそ今の自分のような実戦での経験があるのではないかと思われる娘までいたのだからなおさらだった。
(どうしたものか……)
ここで考え込まざるを得ない。何となく、本当に何となくで貞俊としてはそうした一種の『勘』に頼ることは好ましいと思っていないのだが、ここで耕介の申し出を受けたら、何故だろうか二度と引き返せない道へ踏み込むことになるような気がする。そんなある種の怖れが芽生えていたのだ。
「今ここで、お前さんに剣術が必要な理由を聞くことはできないか?」
「理由は……遅からず話すことになりますが今はできません。俺にとってはそれなりに覚悟のいることですから」
「……そうか」
まだ、自分の剣術を他人に……それも後輩である耕介に教えようという踏ん切りがついているとは言えない。だが、ここまで真剣な表情を見せられると何もしないでいるわけにもいかないだろう。そう考え始めたところ、後ろから別の声が聞こえてきた。
「耕介さん」
振り向いてみると、そこには先ほど、神咲薫と名乗ったポニーテールの少女が立っていた。
「先輩、ちょっと失礼しますね」
そして、耕介は薫へと歩み寄って何やら話し始める。人の話を盗み聞きする気はないにせよ、これも何となくだが、今の二人は自分に会話の内容を聞かれたくないのではないか。なぜかそう思えたので、貞俊は意図的に意識をそらすことにした。
二人の話が終わり、薫が頭を下げてきた。
「塚原さん、お話し中に失礼しました」
「いえ、お構いなく」
薫が去った後、こちらに向き直った耕介の表情は更に真剣さを増したように思えた。それを目にした時、自分の退路が断たれたような感覚を、貞俊は不思議と感じていたのだった。
「わかった」
「先輩?」
「お前さんがどうしてそう言うのか、それは見当もつかない。だからこそ、その答えを知りたいと思う。そのためには、今日こちらへお世話になることが必要なんだろう?」
「……」
「なら、それでいい。お前さんの言う通りにするよ」
「……ありがとうございます」
ここで少しだけ、ほっとしたような表情を見せる耕介だった。
「だけど、寮の皆さんにはちゃんと話を通してもらえるとありがたいな。もちろんやましい気持ちは持っていないつもりだが、疑われてしかるべき立場だとは理解しているつもりだから」
「それは大丈夫ですよ。実はもう、みんなには話を通してあるんです。俺の先輩だから、ということで信用されているのは先輩としては面白くないかもしれませんが……」
「別にそんなことは気にしないよ。話が通っているのなら私も安心してお世話になれるから」
そう答えたものの、渋滞で到着が遅れたことまで奇貨とするかのような、最初から自分をここに泊めることを目的にしている様子を見せる耕介に対して、ますます名状しがたい不安を感じてしまう貞俊であった。
『井関』に今晩はさざなみ寮に宿泊することを伝え、愛にも改めてそれを了承する旨の返事をもらう。それで一段落したところで、貞俊は耕介の部屋に布団を敷いて共に寝ることとなった。
(ともあれ、明日になればすべてわかる。そういうことなんだろう……)
それが、自分にとってそれこそ天を仰ぐことになるような事実でないことを祈りたい。そう思いつつ、就寝前の耕介との雑談を終えて床に就くのだった。
眠り始めてから、果たしてどれくらい時間が経過しただろうか。
(うん?)
ふと目が覚めると、人の動く気配がする。誰か入ってきたのかと思ったものの、どうやらそういうことではなさそうだ。寝たふりをしたまま様子を窺うと、耕介が何やら支度をして部屋を出ていくところであるらしかった。
(何をするつもりだろうか)
動きがあるとすれば明日だろう、と思っていたところへこの状況である。ことさら貞俊に驚きはなかったが、さて自分はどうするべきかと考えると、思うところがあってまだ踏ん切りがつけられない。
これも漠然としたもので根拠は希薄だが、耕介のこの『あからさま』とも取れる動きに応じたら、本当に『今の自分には想像できない、極めて険しい道』へ踏み込むような気がしてならなかった。しかし、貞俊にとってそうということは、必然耕介にとってもそういう道である可能性が高い。それなら、先輩として自分はいったい何ができるのだろうか。
(何もできないかもしれない、それどころか足手まといになる可能性すらある)
今の自分の置かれた立場を考えれば、そう考えなくてはならないのも事実だ。しかし同時に、耕介が自分にとって可愛い後輩であることに変わりはない。その彼のためにやれることがあれば、例え自らの心情と反することになったとしても、彼の意思を尊重するべきではないのだろうか。
(……行こうか)
思い定めて、布団から起き上がり最低限の用意を整え、気配を殺しつつ部屋を出る貞俊であった。
耕介が、それも寮の誰かと一緒に外へ出たようだと見当をつけた貞俊は、それを追いかける形で自分も寮の外へと出た。
「さて、どこにいるのかな」
さざなみ寮の周囲は森になっているが、あちこちに木が途切れた、小さな空き地のようになっている箇所が存在する。かつては自分もそこで剣の稽古をしていたこともあったから、耕介が剣術に関連する何かをしているとしたら、そのどこかだろうと想像はついていた。
しかし、このときはそんな貞俊の想像がさして意味をなさない、明確な違和感を感じるところがあった。
「何だろうな、この気配は」
先ほどから、今まで自分が感じたことのない妙な気配を感じるのだ。まるで実戦の場にでもいるような鋭いものだが、厳密には自分も経験したことのあるその類のものとは少々異なるそれは、しかし日常において平和な生活を送る人間には縁遠いものであってしかるべきものと見て間違いなかった。
その方角へと、変わらず気配を殺しながら足を進める。すると、ちょうど昔の自分がその場所で剣術の稽古をしていたときのような、木と木がぶつかり合っている音が明確に聞こえてきた。それが木刀による打ち合いであると目星をつけて、茂みに隠れながら目の前の光景へと目をやる。
(ああ、そういうことか……)
思わず口から出しそうになったその言葉は、辛うじて飲み込むのだった。
目の前で、耕介と薫が木刀で実戦形式の稽古をしていたのである。夕方に対面した薫のことを「恐らくこの人は剣術使い。それもどういう形かは知らないが、実戦経験があるのだろう」と漠然とながら見ていた貞俊からしてみれば、どうも耕介が「今の自分に剣術が必要だ」と言った理由がこの人絡みであったというのは、何となく納得できた。
(今の耕介では、まだ荷が重い相手だろう。むしろ、耕介が剣術を始めてからさして経っていないと仮定するなら、よくやっていると言うべきだな)
二人の姿を見てそう感じ取り、ある程度の状況を理解したつもりでいた貞俊は、いったん寮へ戻ってまた床へ就くことにした。詳しい事情をここで詮索するよりも、明日改めて耕介から話を聞けばよいと思ったからである。しかしこのとき、あるいは少し目の前の状況に気を取られすぎていたかもしれなかった。
急に、ぽきりと木の折れる音が聞こえた。
(しまった!)
知らぬ間に落ちている枝を踏んでしまった。こうなれば、どういうことになるかもう想像がついてしまう。
「誰っ!?」
まず薫に気づかれたようだ。それでも姿を見せるのを一瞬、躊躇してしまう。すると、今度は耕介の妙に澄んだ声が聞こえてきた。
「先輩ですよね、わかってます。むしろ来てくれると思って、俺たち待ってたんです。だから顔を見せてもらえませんか」
呼びかけられて、もう逃げ道がないことを悟るしかない貞俊だった。
「神咲さん、耕介。その……のぞき見するような格好になってしまって申し訳ない」
「うちは、全然気にしとりません。むしろ、こげな形で打ち明けることになったのをお詫びしたかです」
「先輩、薫は悪くないですよ」
薫が申し訳なさそうに言うのを引き取って、耕介が口を開く。
「俺が薫に『こうしてほしい』と頼んだから。先輩に直接話すには、俺の勇気が足りなかったから。だから先輩なら俺の小細工にすぐ気づいてくれるだろうと、甘えさせてもらいました。すみませんでした」
「……」
もちろん、貞俊も耕介と薫のどちらも責める気はない。だが、状況が状況だけにすぐ言葉が出てこない。今、改めてそう感じたが薫の使う剣術は実戦を想定したものに間違いない。そんな剣を使う彼女と稽古しているということは、必然、耕介にもそうした実戦における剣術が求められていると想像するしかないのである。
「まず、最初に言っておきます。今、俺は……薫と付き合ってます」
そう口にした耕介は照れた様子で、薫のほうもそうらしく頬を少し赤くして貞俊に一礼する。それに思わず貞俊も返礼してしまったが、今の話だけではまだ耕介と薫の置かれた状況を完全に飲み込めたわけでもないように思われた。
「それと、これだけはまだ言えませんが、俺は事情があって薫から剣術を教わってます。そして、いつか彼女と同じくらい強くなりたいと思っています。それで……」
「それで、私から剣術を教わりたい。そういうことだったんだな」
「……はい」
そう言って頷く耕介は、昔から彼を見ている貞俊からしても、いかにも覚悟を固めたと言いたげな表情を見せていた。
(……あのときと、瞳とのときとは覚悟が違う。そういう心構えが必要な相手を選んだということなんだな)
長崎で一緒だった頃、耕介に瞳という名の彼女がいたことは知っていた。それは貞俊にとってもよく知る相手だったのだが、そのせいもあってか、耕介は今ほどの硬い表情でそのことを打ち明けたりはしなかった。だから、貞俊としてもこのように考えるしかないのだ。
しかし、仮にも耕介が選んだ相手である。そして、薫のためにこそ自分の剣術を磨きたい、そのために自分の力を借りたい。そう願われてしまっては、貞俊にとっては否やはない。かつて、耕介とは約束していたことがあったからだ。
「私は、いつだってお前さんの味方でいる。だから耕介、その分だけは安心していなさい」
長崎から再び横須賀へ引っ越すことになった際、耕介との別れ際にそう言葉をかけていたのである。その彼にとって必要とされることは、貞俊にとって色々気になることや言いたいことがあったとしても、実のところ喜ばしいことだったのである。
「神咲さん、いや……薫さん、とお呼びしてよいだろうか?」
「は、はいっ。うちは構いません」
「ありがとうございます……耕介」
「はい」
「今は詳しい事情を聞けないとしても、お前さんの剣術は薫さんのためにこそある。私はそう理解していいんだな?」
「間違いありません、俺の剣術……いや、俺の今後の人生は薫のためにあると先輩には思ってほしいです。俺は、それくらい薫のことが大好きですから」
「こ、耕介さんっ!」
薫が思わず声を上げてしまうようなこの言葉を、貞俊はしっかりと聞き届けたつもりだった。そして、後輩がそれほどまでに想える相手に巡り合えたことは、例えどんな事情があるにせよ喜ばしいことだと感じた。
だから、自分も耕介と同じように覚悟を固める必要があるのだろう。今まで悩んでいたのは事実だが、ここで貞俊のほうも心が決まった。
「……厳しいぞ」
「はい?」
「剣術使いになるということは、恐らく薫さんを見ていればお前さんもある程度理解しているのだろうが、厳しい道になるということだよ」
「わかってます。いや、わかっているつもりです。でも、それが俺の選んだ道ですから」
「そうか……」
ここでひとつ、貞俊は深呼吸を入れた。
「それなら、あるいは私でも少しは役に立てることがあるかもしれないな」
「先輩、じゃあ!」
「私は、人に剣術を教えるということをしたことはない。けれど、もし先達として伝えられることがあるなら、できる限りのことをしたい。むしろやらせてほしい。お願いできるだろうか」
「はいっ! よろしくお願いします」
喜んでそう口にした耕介だったが、ここで薫がおずおずと貞俊に声をかけてきた。
「塚原さん」
「はい」
「本当に失礼なことと、承知した上であえて申し上げたいことがあるとですが」
「何でしょうか?」
「耕介さんに剣術をご指導いただくその前に、一度……今ここで、うちと立ち合ってはいただけませんか?」
これには貞俊より、むしろ耕介のほうが驚いたようだった。
「薫、それは……」
「うちはその、塚原さんのことをよく存じ上げません。だから疑ってるわけではなかですが、まずその剣を見極めたかです。申し訳なかこととは思いますが……」
「いや、そうは思いませんよ。薫さん」
もし、薫にとって『よく知らない相手』である貞俊の、特にその剣術が邪であったり、軟弱であったりしたら耕介の今後のためにならない。だから人間として信用できるかどうかを云々するその前に、まず剣術使いとしての貞俊をよく知っておきたいのだろう。薫の心理をそう想像して、自分も同じ立場ならそのように考えるだろうなと貞俊は思うのだ。
「では、こんな格好で申し訳ないですが、一手お相手させていただきましょう。薫さん、よろしいですか?」
「はい、お受けいただき感謝します」
「それでは……耕介、お前さんの木刀を借りるよ」
「は、はいっ」
耕介から木刀を手渡され、一度だけ軽く振ってみる。稽古で使うものにしては少し重いと感じたが、もちろん貞俊からすればこの程度ならどうということはない。
「薫……」
貞俊が意識を木刀のほうに向けているのを見計らって、耕介が薫に声をかける。
「やっぱり、こうしないと気が済まないか?」
「はい。耕介さんまで疑うようなことをして、本当に申し訳なかです。ですが、うちは……」
「いや、薫の立場からすれば俺にも気持ちはわかるよ。ただ……」
「ただ?」
「俺は、もちろん先輩と剣術で立ち会ったことはまだない。だけど、一度だけ先輩が木刀を振るうのは見たことがある」
そのとき思ったことを、耕介は率直に述べた。
「先輩、本当に強いから。薫は強いけど、負けるかもしれない。だけど、負けても決して恥ずかしいことじゃない。俺の先輩がそれくらい凄い人だということは、頭に入れておいてほしいな」
「は、はい。わかりました」
二人の会話を、貞俊は耳にしていなかった。だが二人が何やら話している様子を見て、あるいはこの立ち合いが自分の道の分かれ目になるかもしれないと予感し、黙したまま気合を入れ直すのだった。
「では、俺が見届けさせてもらいます」
そう言った耕介の間に、貞俊と薫が木刀を正眼に構えて対峙する。しかし、薫はこの段階で既に驚きを禁じ得なかった。
(こ、こん人はいったい!)
貞俊の見立て通り、薫は確かにこれまで実戦の場において剣を振るう剣士であった。だが、そんな彼女でもこれまで、目の前の貞俊ほどに威圧感を感じた相手と対峙したことはなかったのである。
少なくとも初めて顔を合わせたときは、物静かで、どちらかと言えば少しぼんやりしている人に思えた。耕介から貞俊が自らを『剣術使い』と称していることを事前に聞いてはいたが、それが少し信じられないような思いすらあったのだ。
そんな相手が、木刀を握っただけでこの威圧感である。どうやら自分は侮ってはいけない相手を侮ってしまっていたらしい。そう思い至ったとき、薫はこれほどの剣士にしては信じられないことに、貞俊に対して打ちかかれなくなってしまっていた。
一方、貞俊はここで『剣術使いとしての神咲薫』を静かに観察していた。
(想像しにくいことだが、間違いなくこの人は実戦経験のある剣術使いだ。かなりの修練も積んでいるようであるし、勇気もありそうだ。そして……)
実戦を戦う剣術使いとして生き残るために必要な、ある種の『怖れ』。そちらもきちんと持ち合わせているように見受けられる。だからこそ、彼女のほうから打ちかかってこないのだろう。今の段階で、十分に評価すべき剣士を相手にしていると貞俊は実感していた。
正眼の構えのまま、貞俊が半歩だけ前へと進む。未だ打ちかかれない薫だったが、それでも退く姿勢は全く見せなかった。
ここで、薫は刀を高く構え直した。
「はあっ!」
薫が木刀を振り下ろす。その鋭い太刀筋を、しかし貞俊は半歩下がるだけでかわした。
(剣筋を読まれたっ!?)
純粋に薫は驚いた。彼女の剣術はこと一撃必殺をよしとする傾向があるから、今の一撃もそれを狙ったものだった。それを受け止められるならまだしも、半歩下がるだけでかわされるとは。
しかし、貞俊が直感的な反応ではなく、あらかじめ自分の太刀筋を読んで回避したのに気づいたのは、薫が優れた剣士であることの証左ではあった。
(いい太刀筋をしているし、恐らく性格からしてそうなのだろうな。真っすぐだ)
少し直線的な嫌いはあるかもしれないが、と付け加えて、ここで貞俊も構えを変える。八相。多くの場合『陰の構え』として守りの構えとされるのだが、貞俊はこれを攻めに用いることが多かった。
「えいっ!」
掛け声もろとも刀を振り下ろす。薫自身にはもちろんのこと、彼女の構えている木刀にも当てる気は最初からない。この一手で相手がどう出るか、それを探りながらのものだった。
だから、当然のこと貞俊の木刀は空を切る形となる。そして、薫のほうがそれを隙とするのもまた当然だ。
(ここでっ!)
薫が横薙ぎの一撃を入れ、貞俊も振り下ろした木刀を振り上げて受ける。しかし薫のほうは何かを吹っ切ったのだろうか、今度は攻め手を緩めず連撃へと切り替えてきた。そして、それを貞俊はぎりぎり避けながら、ときに木刀で受け止めつつ凌ぐ形となる。
(速さも十分だし、女性にしては一撃が重い。そういう流派なのだろうが、いずれにしてもこの若さでここまで剣を使うのは大したものだ)
そう賞賛したいところだが、ここで口にする意味はない。そして薫の太刀を受けながら、その実力のほどもおおよそ理解できたように思われた。
(では、そろそろ行こうか)
そう決めて、貞俊は薫の連撃を木刀で強引に止める。隙を見せまいと飛び退いた薫に対し、今度は貞俊のほうが素早く木刀を構え直して連撃を放ち始めた。
(これは、さばき切れないっ!)
薫は焦った。無理もない、貞俊の連撃は自分がこれまで立ち合ってきた相手のどれよりも鋭く、重かったのだ。まだ闘志を失ったつもりはないが、このままでは押し切られると、彼女の剣士としての本能がそう判断するしかなくなっていた。
それでも、薫とてこのまま黙っているつもりはない。貞俊の連撃を何とか避けたところで、再び一撃を加えるために木刀を高く構え直す。すると……。
「あっ……」
次の瞬間、薫は呆然とするしかなかった。
彼女が木刀を構え直したほんのわずかな一瞬、貞俊が連撃を止めてそこから何をどうしたのか、いつの間にか正眼に構えた木刀を真っ直ぐ薫の胸元へと突き付けていた。構えの切り替えがあまりに早すぎるし、そんなわけのわからない動作をしたにも関わらず、このときの貞俊は全く息を乱していなかった。
「塚原さん……いえ、貞俊さん。参りました」
少し呆けたまま、薫はそう口にする。それを聞いた貞俊はすっと木刀を降ろしたが、その表情は木刀を手にする前の、穏やかで物静かなそれに戻っていた。
(……はあ)
立ち合いが終わって薫と礼を交わした後、貞俊は二人に気づかれないようにそっとため息をついていた。
(私と耕介は、どうやら本当に戻れないところに来てしまっているようだ)
薫がどのような事情で剣術を修めているかは、見当もつかない。だが実際に彼女と立ち合ってみて、それがあまりに実戦的なものであると感じ取るしかなかったから、薫のためにこそ自分の剣術があるとした耕介もまた、実戦で剣を用いる可能性を考えなければなるまい。一度、立ち合っただけの今の段階でさえ、そう見るしかなかった。
そして、そんな耕介の剣術に自分も関わることを決めた。耕介と薫の関係が変化しない限り……そんな事態を貞俊は望むところではなかったが、自分もまたこの二人に対して一定の責任を負うことになる。それが漠然と『誰にとっても引き返せない道』であると感じるしかないだけに、自分の選択によって何がもたらされるのか、少なからず恐れがないと言えば嘘になるのだ。
耕介と薫が恋人同士であるのなら、こんな実戦的な剣術が必要になる状況……貞俊からすれば「それはきっと、命のやり取りだろう」と想像するしかない場面に身を置くようなことはしてほしくない。それが彼にとっての本音であった。
「貞俊さん」
薫の声で、現実へと引き戻された。
「うちの失礼な申し出に全力でお応えいただき、ありがとうございました」
「いえ、自分もいい経験をさせていただきました」
謙遜ではない。立ち合いの形としては圧倒したかもしれないが、それは貞俊が相当なところまで『本気になったから』であり、それを引き出した薫の技量もまたかなりのものと評してよかったからである。彼女のほうがもっと経験を積めば、この差を縮めることもできるだろう。
「それで……」
貞俊のほうも、少し恐縮しつつ申し出る。
「あなたから見て、私の剣術は耕介の役に立てられるものでしょうか?」
「えっ、あ……は、はいっ」
年上の人間に丁寧に問われ、薫は少し慌ててしまったようだった。
「うちは、本当に失礼なことを申し上げたと後悔してます。貞俊さん、あなたの剣は耕介さんにとって、きっと大きな力になれると感じました」
「では」
「はい、どうか耕介さんと……うちのことも、よろしくお願いします」
そう言ってもらえて、まずはほっとした貞俊だった。
「先輩、ありがとうございました」
耕介も言う。
「俺は、まだ薫に全くかなわないんですけど……やっぱり先輩は強いですね」
「いや、薫さんは強いよ。私は年長だから経験があるというだけのことだと思う」
その経験は、決して人にさせるには望ましいと言えるようなものではなかった。
「それに……私はそれこそ『剣術しかなかった』という人生でもあったと言えるから。そう簡単には負けていられない」
「そうですね……」
「何より、さっきも言った通りいい経験をさせてもらった。こちらこそお礼が言いたい、ありがとう」
内心はさておき、薫のような剣術使いと知り合えたこと。それは素直に喜んでよいのだろうと貞俊は思う。そして、時折視線を交わす耕介と薫の様子を見ていると、何というか不思議な気分になるのである。
(ああ、この二人は……)
なぜそうなのかは、まだよくわからない。だが目の前の男女二人の醸し出している雰囲気が、傍から見ている貞俊からしても、何というか「ほっこり」したものを感じるのだ。とても剣術という、ある意味で物騒とも言える要素で繋がっている恋人同士のようには思えなかった。
(どうやら、私が思っている以上にお似合いであるらしい)
そんな耕介と薫の役に立てるのなら、自分の心のうちにあるわだかまりなど、あるいはどうでもよいのかもしれない。不安が消えたわけではないにせよ、まずはそういうことにしたいと思う貞俊だった。
そして翌朝。貞俊が目を覚ますと、ベッドに耕介の姿は見当たらなかった。
(管理人の仕事は朝が早いと言っていたな。昨日は遅かったのに、そのあたりきちんとしているのなら)
寮生たちの信頼を得てしかるべきなのだろうなと、納得するのだった。
(あるいは、昨夜のことが夢だったら……)
まだ心の整理が十分につけられていないからか、ついそんなことを考えてしまう。しかし、そんな貞俊の願望を無視するかのように、昨晩、薫との立ち合いに用いた木刀がベッドに立てかけてあった。
詮無いことを考えてしまった。と少し恥ずかしくなった貞俊だったが、ここでぼんやり考えにふけっていても意味がないので起き上がり、着替えをする。それから布団を畳んで部屋の外に出ると、廊下を歩いていた薫と鉢合わせた。
「貞俊さん、おはようございます」
「おはようございます、薫さん」
薫が自分のことを『貞俊』と呼び、自分もまた自然と彼女のことを『薫』と呼ぶ。これだけで、もう昨晩のことが現実なのは明白だった。
「……よく眠れましたか?」
わけのわからないことを、貞俊は口にした。薫を目の前にして、改めてどんな言葉をかければよいか見当もつかなかったのである。
「正直、あまり……」
「えっ?」
「あなたほどの剣士と立ち合うことができて……その、少し興奮しましたから」
「……」
お世辞や皮肉ではなく率直に語る薫へ、今度は返す言葉がなくなる。貞俊としては、正直なところ自分の力を誇示するような行為はあまりやりたくないという気持ちがあるものだから、薫との立ち合いでは少々やりすぎてしまったかなという考えが頭をよぎる。しかし、それは剣術使いとしての薫に対する非礼でしかないことにすぐ気づき、思わず軽く首を振っていた。
「どうかしました?」
「いえ、何でもありません。ただ……」
「?」
怪訝そうな薫の表情を見て、貞俊は疑問に思っていることを問おうとし、しかし口にすることができなかった。
(なぜ、あれほど実戦的な剣術を学ぶ必要があったのかなど……)
とても、このような場所で聞けるほど軽い話ではない。少なくとも貞俊にはそうとしか思えなかったから何も言えなかったのだが、薫のほうはその内心を察したのかどうか、ここで少し表情を曇らせた。
「……すみません」
「はい?」
「うちが……いえ、耕介さんがどうして剣術を始めたか、本当はうちからきちんとお話するべきとは思うのですが、それはまだ……」
「……」
もちろん、侮っているつもりは貞俊にはない。だが、見た目だけで判断するしかないが自分よりだいぶ年下であろう少女にこのような心配をかけてしまうなど、年長者として情けないことだと思うしかない。なので、気を取り直して改めて口を開く。
「今は、構いません」
「えっ?」
「薫さん、あなたには少なくとも私の剣術は信用してもらえたと思う。なので今は、私にとってはそれで十分です。これからは、私という人間が信用できるのか、剣術を通してでもよいので見極めて欲しい。そうすれば、あなたたち二人の事情を話すことができるか、おのずと決められるのではないでしょうか」
「……」
「それに、もしどうしても話したくないことであるなら、私はあなたや耕介に無理に聞くつもりはないです。ただ自分の剣術を伝えることによって、それであなたたちの役に立てるのなら、それでよいのですから」
その言葉を聞いた薫は、少しだけ驚いたような表情を見せた。しかしそれは一瞬のことで、彼女は貞俊に深く頭を下げてから言った。
「ありがとうございます、貞俊さん。これから耕介さん共々、どうかよろしくお願いします」
「わかりました、全力を尽くします」
貞俊が返礼してそう答え、多少ばつが悪くなってリビングのほうへと足を向ける。薫はその彼の後姿を眺める格好になったが、その内心は不思議な晴れやかさがあった。
(耕介さんの、先輩を見る目は確かだったとですね……)
そう思いつつ、誰知らず微笑を見せる薫なのだった。
さて、この日から始まった貞俊の耕介への剣術の指導であったが、耕介には寮の管理人としての仕事もあるし、薫には学業がある。そう剣術だけに多くの時間を費やすわけにはいかなそうだった。
そして、初日の段階で貞俊には既に大きな気付きがあった。
(耕介は、剣術の基本はもうおおよそ学んでいるようだ。見る限り薫さんが師匠ということになるが、そこへ私が今から別流派の基本を教えたとしても……)
かえって耕介の剣術の中に混乱を招く可能性がある。それはまず避けなければならないと貞俊は認識するのだった。
そんな彼の剣術流派……というと非常に大げさだ、と本人は思っているのだが、厳密には『存在しない』と言って過言ではない。貞俊の剣術の師は彼の祖父だったのだが、その祖父が形式的に名付けた『太刀一刀剣術・塚原流』という名前こそあるとはいえ、他流派の技の平たく言って『いいとこ取り』したこの流派はどこまで学べば免許皆伝になるという概念があるわけでもなく、そもそもからして同門の弟子すら現在の貞俊には存在しない。つまるところ、彼の剣術とは全くの『我流』と言って差し支えないのである。
(では、そんな自分が他人に剣術を教えるとすればだが……)
どうやら、技術面について細かく教えるのはあまり意味がなさそうである。かといって精神論を強調して教え込むのは、貞俊自身からしても好ましいこととは思えなかったし、そうした心構えのほうも、剣術の『目的』を共有している薫から受け継ぐほうがよいだろう。そう考えると、貞俊からすればやれることが実のところ案外多くもないと想像された。
翌日のこと。そんな貞俊に薫の従妹で寮生の一人である神咲楓が声をかけてきた。小柄だが、それだけに敏捷さを感じさせる動きが印象的な少女だった。
「塚原さんは、薫と立ち合うたんですよね? よければうちとも一手、お願いしたいのですが」
まだ薫ほどの経験は積んでいないようだったが、楓の所作もまた、実戦経験のある剣術使いのそれであろうと貞俊は見当をつけていた。
そうして、小太刀を使う楓と一手立ち合ってみる。もちろん薫より経験で及ばないのだから貞俊からすれば負ける相手ということにはなりようもないのだが、その二人の立ち合いをしげしげと眺めている視線に気づいた。
「ほー、割かしやるじゃんか」
仁村真雪。知佳の姉だが、雰囲気はいかにも可愛らしげな妹とはだいぶ異なる。眼鏡をかけた、美人ではあるのだが一見、何を考えているのか読みづらい印象を受ける女性であった。
「だけど、あたしに勝てるかな? ちょっと相手してもらえますかね、塚原さん」
「構いませんが……」
まだ知り合って間がないが、あまり体を鍛えているような雰囲気がない相手なので、貞俊は少し躊躇してしまった。しかし実際に立ち合いが始まると、それが全くの誤りであったことにすぐ気付かされた。
(手数が多い。これを凌ぐとなると耕介は元より、薫さんでもまだ難しかろう)
重さはさほどではないが、真雪の剣はとにかく素早く、変幻自在と表現するしかないほど多彩でもあった。それだけになかなか苦労を強いられる立ち合いになったのだが、しばらくして真雪が抱えているようである弱点を貞俊は把握していた。
(あ、これは……体力が足りないのかな。だから短期に決着をつけないと厳しいのだろう。となると、だ)
そう判断した後は、真雪の剣筋を受け流す、回避するに終始する作戦へ切り替える。五分ほどして、体力が尽きた様子の真雪に木刀を突き付けて立ち合いの決着がついた。
「ぜー、ぜー……神咲いとこーズをあしらう程度には強いってわけですか。まいった」
「いや、それは……」
そう言いかけて貞俊が真雪に近づいたところ、彼女はいきなり手にした木刀を貞俊に向けて突き出してくる。何となくそんな気がしていた、という体で貞俊はそれを自分の木刀で受け止めていたが。
「かー、これも通じないか。全くあの神咲が剣術でべた褒めするくらいではあるね」
「……」
貞俊は何も言えなくなったが、今の楓、そして真雪との立ち合いで気づいたことがあった。それを耕介への指導に実践するため、この機に楓と真雪にも協力を取り付けておくのだった。
さらに翌日、貞俊は準備運動を終えた耕介にまず楓と立ち合うように言い、それから今日は何やら用事があるらしい真雪とも、折を見て立ち合い形式で稽古するようにも伝えた。
(耕介が積むべきは、恐らく場数。その意味では薫さんや楓さん、真雪さんのような使い手がいるこの寮の環境は恵まれているな)
実戦における剣術を志向するのなら、様々な相手との立ち合いを多く経験するのが一番よいだろう。何より、貞俊自身が自らを剣術使いとしてそう育ててきた、あるいは育てられてきたから、過去のことを踏まえてもそれが最善であるように思われたのだ。
「……」
その様子を、黙って見つめていた薫の心の中である決心がついていたことを、当然のこと貞俊は知る由もなかった。
さらに日が変わり、前日に薫から「紹介したい友人がいる」と伝えられていた貞俊は、耕介が出してくれたお茶を飲みつつ薫の帰宅を待っていた。
(……?)
今日はどうしたものか、耕介が落ち着かない様子を見せている。昔はそういう彼をよく見たような気がするが、特に剣術を教え始めてからはずいぶんと落ち着いたなと思わせていただけに、貞俊は少し不思議に感じていた。
ほどなくして、薫が友人であるらしい女の子を連れて帰ってきた。
「お久しぶり、塚原先輩」
そう声をかけられ、改めてその少女の顔を見たとき、貞俊は心底驚いた。彼にしては珍しく慌てて耕介の姿を目で追いそうになってしまったが、耕介はいつの間にその場からいなくなっていた。
「どうしたの? まさか……私のこと忘れちゃったんじゃないでしょうね?」
悪戯っぽく笑いながら言う女の子のことを、貞俊は忘れているはずもなかった。
「瞳……千堂瞳なんだな、君は」
「……やっと思い出したのね。全く、鈍いのは相変わらずなんだから」
そう手厳しく言われて、一言もない貞俊であった。
千堂瞳。耕介のかつての『彼女』だったこの少女とは、当然のこと貞俊も面識があった。瞳と貞俊は八歳の年齢差があったが、子供のころから少し大人びていた面のあった瞳は、その姉と共に耕介や貞俊ともよく遊んでいたのである。
耕介が瞳と『恋人として』交際を始めたのは、貞俊が長崎から引っ越した後だった。そのためそこに至る経緯や、また別れた理由までは知るところではなかったが、まさかこの海鳴で再会することになるとは。しかも瞳は今の耕介の彼女である薫の親友なのだという。全く何という皮肉じみた運命だと、貞俊は思うしかなかった。
観念して戻ってきた耕介も交えて、リビングで歓談を始める四人だった。
「それにしても、耕ちゃんの剣術の先生に先輩がなるなんてね。昔はあんなに耕ちゃんに剣術を教えるのを嫌がってたのに」
今でも、少なくとも嬉しいことではない。もちろんそう口にはせず、貞俊は別のことを言った。
「色々あってね……それはそうだけど、その」
現在、耕介と薫が付き合っていることを瞳は知っているのだろうか。知った上で二人との付き合いを続けているのか。貞俊としては気にせざるを得ないのだが、瞳のほうは今の貞俊の表情を見てそれをすぐ察したらしく、更に悪戯っぽさを深めた表情を見せて言った。
「二人のこと、知らないわけないでしょう? むしろ私が認めたカップルなんだから。私、こんなこと言うとおかしいと思うかもしれないけど、二人が幸せになるのを誰よりも強く願っているつもりよ」
「……」
返す言葉がない。悪戯っぽい表情に反して、瞳の目は決して笑っていなかった。
「そういえば……」
貞俊は話題を変えた。
「お前さんも、まだ武道を続けてるのかい?」
「ええ、今は護身道ね」
ここで、耕介も口をはさむ。
「先輩、瞳は本当に強いですよ。高校の護身道部で部長やってますし、相手をあっという間に倒すもんだから『秒殺の女王』なんて言われてます」
「そうか、瞳は昔から負けん気が強かったからな。それは今も健在というわけか」
「むー……」
瞳が、露骨なふくれっ面を見せた。
「そういうことはね、女の子に対して言うことじゃないわよ。変わってないのは先輩のほうよ、女の子の気持ちをちっともわかってない」
「いや、そんなつもりは」
「言い訳しない! 長崎にいたころだって色々あったんだから……」
まくし立てるように、瞳は貞俊の長崎時代の失態を並べ立ててきた。耕介はもちろん知っているから頭を抱えるしかないし、自分を圧倒する剣術使いである貞俊の違った一面を聞いた薫のほうは、何というかいくらかの呆れを禁じ得ない様子を見せていたのだった。
瞳が帰るというので、寮生たちの夕食と作らなければならない耕介に代わって、貞俊が彼女を家まで送ることになった。
「先輩、ありがとうございます」
こういうときは、礼儀正しい瞳であった。
さざなみ寮を出発してすぐ、二人は何も言葉を交わさなかった。特に貞俊は、今の瞳に対してどんな言葉をかければよいかわからなかったのである。
「先輩」
先に瞳が口を開いた。
「何で耕ちゃんが剣術を始めたか、まだ知らないわよね?」
「ああ、まだ聞いていない」
「そう……」
瞳は黙ったが、貞俊としては耕介や薫から聞くならともかく、瞳から事情を聞こうという気にはなれなかった。それは、瞳もそうあるべきだと思っているのだろう。
「……先輩、これだけは言っておくわね」
しばらくして再び口を開いた瞳の声は、真剣さを更に増しているようだった。
「耕ちゃんは、物凄く覚悟して剣術に取り組んでる。それが薫のためになるからって。先輩ももうわかってるでしょうけど、それくらい必死だということは知っていてほしい」
「……ああ、それは私なりにではあるけど、感じ取ったつもりだよ」
「そう、それならいいけど……」
そう言った瞳だったが、そのあと小さく呟いた。
「……先輩にとっては、もしかしたらとてもつらいことになるかもしれないわね」
「うん? 何か言ったかい」
「いえ、何でもない」
それから、耕介の稽古相手として瞳の力を借りたいと貞俊は提案する。それを快諾した瞳と別れて、寮へと戻った貞俊は耕介に瞳とも折を見て立ち合ってみるといい、とした上で、こう付け加えるのだった。
「できれば、これからもずっと……瞳とは仲良くしてやってほしいな」
薫という想い人がいたとしても、そこだけは変わらないでほしいと願う貞俊であった。
結局、依頼された『耕介に剣術を教える』という貞俊の役目は、この時は一週間ほどで終わりを迎えることになる。仕事の都合で休暇の終わりが繰り上がってしまったからだった。
(本当はもっと見届けたい、と思うが)
それが許されない立場だということは、自分が一番承知している。だからこそ、自分のそれも剣術については、耕介を巻き込みたくなかったのである。
耕介や薫はもちろん、愛ら寮生たちも貞俊との別れを惜しんでくれた。耕介への指導を精一杯やってきたことにより、自然と他の寮生たちから信頼を得ることにも成功したようだった。最初から彼女らに好意的な見方をしていた貞俊からしても、こういう状況になってくれたのは素直にありがたいことであった。
(それにしても)
横須賀へ帰途の車中、運転しながら考える。
(耕介は、薫さんはどこへ向かおうとしているのだろう。その道に、私は何を手助けできるのだろうか)
耕介のことは、昔から大事な後輩である。その想い人である薫のことも、貞俊はこの一週間でとても好ましく思えるようになれた。しかし、この二人が修練している剣術は、自分の立場から見てもあまりに実戦的だ。しかも、二人ともそれを苦にしているでもなく、むしろ前向きに取り組もうとしているのが伺えるのだ。
(あの二人には、どんな形であれ穏やかに、幸せであってほしいけれど……)
それが、何故かわからないが全くの戯言になってしまっている。自分の言葉ながら、そう思えてしまうのだ。
「いや、やめよう」
ここで、貞俊は声を出した。
「二人を信じられなくて、どうする。あれだけ真剣になって物事に取り組んでる、お互いのことを大事にしている二人を信じなくてどうするんだ。しっかりしろ」
自分にそう言い聞かせ、貞俊はいったんこのことを心のうちに納めて、これから果たすべき自分の責任について想いを馳せることにする。命がけの役目を果たすべき自分に、感傷に浸っている余裕などないのである。
「でも、さざなみ寮のみんな……そして、あの二人にはまた会いたいな」
それだけでも、これから降りかかるであろう危険を排して生き抜く理由が出来た。それをまずよしとして、改めて心を引き締める貞俊であった。