では、引き続きよろしくお願いします
貞俊が、耕介に剣術を教えるためにさざなみ寮へ一週間ほど滞在したときから、一年あまりが経過した。
この年もまた、貞俊は海鳴へ行くことにしていた。今度は一ヶ月の間、仕事の事情などで休暇が中断しないように準備を整えてあったから、じっくりと耕介の修練に付き合うことができそうだった。
さざなみ寮へ着くと、耕介と薫が出迎えてくれた。そして耕介の顔を見たとき、貞俊は彼から発せられる雰囲気にそれまでにはないものを感じ取っていた。
(ああ、だいぶ変わってきたな)
精悍さを増した、剣術使いっぽい顔になってきたとでも言えばよいのだろうか。そういうことなら、着実に目標へと近づいているという意味において、耕介にとって喜ぶべき状況であったろう。
「先輩、どうしました?」
自分の顔をじっと見ている貞俊に、耕介が聞いた。
「うん、いや……昔と少し雰囲気が変わってきたかな、と思っただけだよ」
「そうですか、いいほうにですか?」
「多分、ね」
あえて断言しないのが、慎重な貞俊らしさかもしれなかった。
「貞俊さん、お久しぶりです」
薫に声をかけられて、そちらに振り向いた。こちらは今年、大学生になったばかりだそうだが、そういう視点で見るとほんの少しだけ大人びてきたようにも思える。
「薫さん、お久しぶり。元気そうでよかった」
「はい、耕介さんのおかげでとても……」
「えっ?」
「な、何でもなかです!」
明らかに薫は照れている。その表情を見て、これはどうやら聞かなかったことにしたほうがよさそうだと思う貞俊だった。
一息入れてから、早速貞俊は耕介と立ち合ってみることにした。
(おや)
先ほどは、耕介の雰囲気が変化したことに気づいた。そして今は、木刀を構える耕介の姿が、明らかに昨年とは違う……ある種の風格とでも言えばよいのだろうか。そうしたものを感じさせるのだ。
(やはり、徐々に剣術使いになりつつあるということかな。であれば)
去年より、少しだけ自分も本気の度合いを上げてみることにしたのだった。
昨年、貞俊が耕介のために稽古相手として選んだ人々には、ひとつの共通点があった。それは、いずれも基本的には手数で勝負する武術家ということだった。耕介にとっては師匠と言うべき薫が『一撃の重さ』を強みにしていることを踏まえると、その薫との違いが鮮明に出る相手と場数を踏むことが、耕介にとって大事な経験になると考えたのである。
であるから、少なくとも今日は自分も手数で勝負してみよう。立ち合いの前、貞俊はそう決めたのだった。
……さすがに貞俊を相手にするには、まだ耕介には荷が重く、立ち合いは比較的短い時間で終わった。しかし一度だけ、貞俊はこの立ち合いのさなかで驚きを感じていた。
貞俊が「かわせるかどうか、ぎりぎりだろう」と想定した横薙ぎを放つ。だが次の瞬間、耕介はそれをかわそうとせず、ごく自然な動きで木刀を振り上げ、貞俊の木刀をしっかりと受け止めたのだった。
(あっ)
思わず声を上げそうになり、しかし貞俊は辛うじて飲み込んだ。漫然と、あるいは偶然に受け止めただけならばこうはならなかったろう。彼を驚かせたのは、耕介が自分の木刀をただ偶然に受け止めたのではなく、こちらの動きを読み、それに適切に反応していたことだった。
(一年でこれほど……さすがと言うべきだが、びっくりしてしまったな)
そんなことを考えていると、耕介に声をかけられて現実へと引き戻された。
「参りました。やっぱり先輩には歯が立ちませんね、俺も成長がないなあ」
「いや、そんなことはないよ」
慰める気はなかった。自分の横薙ぎを受け止めた耕介の剣さばきは間違いなく見事だったから、それは評価したいと思うのだ。だが、それをどう言葉として耕介に伝えるか、それが貞俊にはすぐ思いつかなかったのだった。
いずれにせよ、自分が想定していたより耕介の剣術は成長している。今日の短い立ち合いでも、それが明らかになったのは間違いないと思われた。
「耕介さん、強くなってますよ」
立ち合いを見ていた薫も、言う。
「うちも、最近は耕介さんに押されることが増えてきました。そう遠くないうちに、耕介さんには追い抜かれるような気がしてます」
「そうですか……」
本来なら、自分も喜んでしかるべきだろう。耕介が剣士として成長するのは、それだけ彼の目標へ近づくことなのだから。しかしそれでも、素直に喜べる方向へと気持ちを整理し切れない。それもまた、貞俊には歯がゆいことであった。
(それにしても、薫さんは耕介に追い抜かれそうだと言い、耕介のほうもそれを目指しているように見受けられる……)
薫が単に剣道を嗜む程度の技量ならともかく、彼女は貞俊からしても評価に値する、実戦経験を積んでいると思われる剣術使いなのだ。そして、耕介はその薫を追い越そうとしている。なぜそこまで剣術を磨かなければならないのか。
何より、二人はその剣術で何をしようとしているのか。それがわからなかったのだ。
(今年こそは、この二人が剣術を磨く理由を……聞いておきたいな)
それが許されるかは耕介と薫次第だが、そう願うしかないのだった。
数日後、貞俊はさざなみ寮で千堂瞳と顔を合わせた。
「先輩、今年も来たのね」
「……まあ、やることはきちんとやらないとね。それについてはお前さんにも骨を折ってもらって、ありがたいと思っているよ」
「そうね。もっとも私にとっても、耕ちゃんとの立ち合いで学ぶことは多かったわ」
薫に言わせると、武道家としての瞳は「自分ではとてもかなわない相手」なのだという。その彼女にすらそう口にさせるということは、やはり自分の耕介の成長に対する見立ては正しかったように思えた。
もちろん、そうした武術のことで気になることは多々あるし、今後の耕介との立ち合いについて瞳と相談したいとも思う。だがこのとき、貞俊はつい別のことを考えてしまった。
(去年の瞳、目が笑っていなかった……もしかすると)
あるいは、彼女の中に何かしらのわだかまりが残っているのだろうか。曲がりなりにも、瞳から『先輩』と呼ばれる身として、そしてかつての耕介と瞳の関係を知るものとして、気にならないはずもないのだ。
「……先輩?」
「うん? 何だい」
「いえ、私の目を見ているような気がしたから、ちょっとね。ひょっとして……」
「?」
「私もまだ、先輩に見捨てられてなかったのかしらね」
お前さんをいつ見捨てたか、と思わず聞き返しそうになった貞俊だったが、ここではたと気づく。冗談めいた口調の瞳だったが、その目は去年と違い……にこやかに笑っていた。
(さて、この一年であるいは何かあったのかな?)
昨年の瞳を思い出すと、雰囲気も何となく、そして若干ではあったが丸みを帯びたようにも感じる。それは彼女にとって、ひょっとすると大きな変化なのかもしれない。しかし、何しろ気が強く、ときに真っすぐ過ぎる面のある瞳のこの様子に、貞俊はいささかの戸惑いを禁じ得なかった。
「それはそうと」
瞳が話題を変えた。
「私、もうすぐ護身道の大会があるんだけど、先輩は見に来てくれる?」
貞俊が予定を確認すると、残念なことにその日は友人と会う予定があって、見に行くことはできそうもなかった。それを聞いて瞳は彼女らしく少しふくれっ面を見せたが、程なく気を取り直したのか、不敵な笑いを見せて言う。
「見てもらえないのは残念だけど……でも、もし私がその大会で優勝したら」
「したら?」
「先輩のおごりで、祝勝会でもしてもらおうかしらね」
幸い、今の貞俊はお金に困るような立場ではなかったから望むところである。そうして約束をし瞳が帰るのを見送ってから、貞俊は耕介に聞いてみた。
「瞳が、その……」
「どうしたんですか? 先輩」
「いや、去年と雰囲気が少し変わったように思ったから、気になった」
「……」
耕介は、貞俊から見ても『何とも言えない』としか表現できないような表情を見せた。
「先輩、詳しいことは瞳から直接、聞いてほしいですが……」
「?」
「あいつに、いいことがあったんです。そして、俺と薫はそれを喜んでいる。それだけは覚えておいてください」
「……」
どういうことかと質問したくなったが、耕介がこれ以上は明らかに何も言いたくなさそうな様子でいたから、話を打ち切る他になかった。
(いいことがあった、か。どんなことがあったのやら)
また、謎が増えてしまった貞俊であった。
貞俊は海鳴に滞在するとき、基本的には『井関』を宿としていたが、さざなみ寮に宿泊することも時にはあった。さすがに毎日となると無遠慮だろうと思うが、夕食の後で酒宴になることもあるし、遠慮するばかりでは貞俊と遊びたがる寮生たちも寂しがるのだった。
この日、貞俊は耕介の部屋で眠る用意をしていた。耕介は薫に用事があるらしく、このとき部屋にいなかった。
(さて、耕介もいい感じではあったな)
今日は耕介と楓との立ち合いを見学することになったのだが、楓が自在に操る小太刀の連撃を、耕介は押されながらも、ときに適切な木刀さばきでいなしていた。
楓のほうも、貞俊から見て去年より格段に成長しているように感じられた。それに合わせるように耕介が成長していくのは、自分の内心を別にすればやはり喜びもあるのだった。
(それに何より、だ)
自分がこれと見込んだ剣士たちが、互いに高めあっている。こういう姿を見るのは、剣術使いとして楽しいことではある。そう、率直に思う貞俊であった。
そんなことを考えて、そろそろ寝ようと思い立ったところで、ふと何気なしに窓のほうへ視線を向ける。しかし、そこで貞俊は視線を止めた。
(何だ、今の人は?)
一瞬のことだったが、今、金髪の人影が窓の外を通るのを目にしたのである。自分の知る限り、この寮に金髪の人はいないはずである。
(泥棒などの不審者……いや、可能性として考えられることではあるか。何にせよ、確認だけはしておこう)
そう思い、部屋が一階なのを幸いに貞俊は耕介の木刀を手にして窓から外に出る。しばらく人影を追って近づいてみると、その金髪の人影の姿がおぼろげに見えてきた。
(着物を着た女性、ということであるらしいな)
付け加えると、その女性の雰囲気からして泥棒という可能性は低いように見受けられる。この時点での断言は控えるべきだが、そう思えるのも事実だった。
しかし、直後に驚くべきことが起こった。その着物を着た女性が何かを確認するようにゆっくり顔をめぐらすと、貞俊が目を離したわけでもないのに、まるで「すうっと」と表現するしかないような自然さで、姿を消してしまったのである。
何が起こったのかと混乱し始めた貞俊だったが、後ろから声が聞こえてきた。
「先輩、何してるんです?」
耕介だった。
「いや、その……」
「?」
「耕介、この寮に金髪で、着物を着た人はいなかったよな」
「……」
耕介が、明らかに困ったような表情を見せた。
「先輩、その」
「うん?」
「あの人は、危害や迷惑を加えるような人ではありません。むしろ、とてもいい人です。でも、色々と事情があって……」
「……」
「ですので、今はその……いないということにしておいてもらえませんか」
言葉を濁す耕介に、貞俊はこれ以上何も聞けないだろうと思うしかなかった。それに耕介が「いい人」と保証してくれるのなら、寮生たちに害を及ぼす存在でないことも理解できる。
(気にならないと言えば嘘になるが……耕介は秘密にしたいようだし、あの人の人柄も保証してくれるのなら、無理に自分が詮索することではないな)
そう判断して、改めて口を開く。
「……わかった、それなら私も、今見たことは忘れるとするよ」
「先輩、ありがとうございます」
そう頭を下げる耕介とともに、部屋に戻って眠りにつく。しかし、ますます『わからないこと』が積み重なっていく現状に、貞俊もさすがに何とも言い難い気持ちになってしまうのだった。