魔王城のいちばん近くで、間違えてマナ保全ギルドに入りました ~無能社畜、ここで初めて"チーム"を知る~ 作:太田 衡典
また、やってしまった。どうやら、毎度の如く気絶するように眠ってしまったらしい。ついさっき、妖怪が住まう店で買ったゲームカセットをゲーム機に挿入したはず。それが、ほんの数秒前のように感じる。いつもならば、微かに残っている夢の記憶やメンテナンスされた身体の微かな爽快感を味わうはずだが、身体はすこぶる重く気怠い。
そして、今日はやけに日光を強く感じる。清々しいほどに風が滑らかに肌を通り過ぎていく。夢。そうか僕は今夢を見ているのだ。
ゆっくりと瞼を開けると、鋭利な日光の針が目に飛び込んできた。すかさず目を閉じるが、目の奥に鈍く痛みが広がる。随分とリアルな夢である。手に絡む草の感触、柔らかく通り過ぎていく風の感覚。どれもが現実のそれであった。
目が日光に慣れてきた頃、僕は上体をゆっくりと起こした。風に煽られた草がサワサワと鳴いている。日々の喧騒が嘘のような、心地よい自然の合唱に包まれている。どうやらこの夢はどこまでもリアルで自由らしい。僕は立ち上がり夢の散歩を始めることにした。
少し散歩して分かったのだが、僕はどうやら森の中にいるらしい。マイナスイオンを感じるほどの緑からは人工的な硬度を感じられない。仕事で疲れ果てた僕の身体はついに夢の中にまで休息を作り出すほどに危険な状態なのだろうか。
包み込むように伸びている木々の葉は虫食いのように穴が開いていて、そこから入る日光が僕をチカチカと照らしている。なんて、気持ちの良い散歩なのだろう。もういっそ、この夢から醒めないでくれ。そう思った。
バキバキバキ、と木が倒れるような音が鼓膜を揺らした。波一つない穏やかな水面に大きく硬い物体を投げ入れられるような不快感が身体を駆け巡る。そんな静寂を掻き消す不快な音は次第に大きくなっていく。近づいている。そう思った時には、チカチカと僕を照らしていた日光が急激に陰り始めた。いや、光を通さぬほどの質量が遮ったのだ。
僕の顔の前に突きつけられた鋭利な牙。数多の風を受け癖づいたのだろう、顔から遠ざかるように伸びる毛。そして、血走っている眼が僕を睨んでいる。今、目の前にいるのは、超巨大なイノシシ。死ぬ。そう思った。
脚は震え、開いた口が閉まらない。耳元に心臓が移植されたかのように鼓動音だけが鼓膜を支配している。逃げないと。理性は何度も身体に警告するが身体は聞く耳を持たない。いや、聞こえてはいる。僕は、脚を引きずるようにゆっくりとゆっくりと、まるでアハ体験のように後退りを始めた。
これは夢なんだ。そうだ夢だ。そう思うと少し心臓のBPMが下がった気がした。動く、動ける。これは夢なんだ。ついに僕は駆け出した。両サイドの木々を後ろ後ろへと置いていき、チカチカと高速で日陰と陽向が切り替わる。
そして、僕はたった今重大な過ちを犯したことに気がついた。イノシシと出会ってしまった時には、背を向けてはならない。僕の育った街には、よくイノシシが出没していたため、幼少期に耳にタコができるほど聞いた掟だったはず。こういう状況で実践できないようじゃ、この耳にできたタコが虚しく不恰好に思えた。
10mほど走った頃、後ろからドスドスと大地を揺らしながら近づく音が聞こえた。どう考えてもあの巨大イノシシである。高速で僕に突進してきているのだろう。大型トラックより少し大きい身体に轢かれると流石に死ぬ。そんな恐怖が後方で近づく音に煽られ騒いでいる。これは夢なんだ。だけれども、とてつもなく現実に忠実な故に痛覚までリアルに再現してくれるだろう。それは嫌だ。死ぬ体験なんてものは、人生で一度だけあればいい。僕は無我夢中で走った。
この夢の中の僕は、なんの補正もかかっておらず、いつも通り50mほどで脚がどっと重たくなった。身体の酸素は出ていくばかりでなかなか入ってきてはくれない。後方で巨大イノシシの足音が聞こえる。四捨五入すればもはや踏まれている距離。
牙で刺されるのか、はたまた豚鼻に吸われながら轢かれるのかどっちになるのだろう。いや、どっちも嫌だ。死にたくない。そんな戯言が身体操作の邪魔をした時には、とうとう僕の脚はもつれ絡まってしまった。ゆっくりと地面が顔面まで迫ってくる。牙でもない豚鼻でもない。僕は踏み潰されるのだろう。どこまでもドジなのだと最後の最後まで自責の念を抱いてしまう自分は相当なマゾヒストである。
ありとあらゆる痛みを想像し、体験したことのない痛みの準備を済ませようとした時、僕の左手首にガシッと何かが纏わりつく。そして、僕は左腕に引っ張られるように前へ前へと身体が運ばれた。手首には、生暖かさを感じた。これは、人の温もり。
「君、大丈夫か?」
朱色に燃え上がるように揺らめきながら伸びる髪。身体は小柄で一見中学生に見える男が僕の左手首を握りしめ引っ張っていた。その男は通気性の良さそうなユニフォームを身に纏っている。サッカー選手なのだろうか、左肩にはキャプテンマークが引っ付いていた。
「近くに街があるから逃げよう!」
その男は、ただ真っ直ぐな目を僕に向けていた。
「あ、あなたは……」
僕が問いかける時には、男の真っ直ぐな眼差しは進行方向へと注がれていた。男は軽やかなステップで脚を回転させている。景色は目まぐるしく変わり、通り過ぎる風によって顔面を引っ張られる。高速道路を走行中に窓を開けて身を乗り出し全身全霊で風を受ける時のように、変顔不可避であった。
すぐ後ろに聞こえていた巨大なイノシシの足音は徐々に遠ざかっていく。このスピードならあの巨大イノシシを撒ける。そう思ったのも束の間、僕の脚は高速で動く地面に対応できず、僕は転んでしまった。それもそのはず、僕は運動が苦手なのである。
「ちょっと、スト……ストッ……」
言いたいのは、ストップ。それか、もう少し減速して欲しいのだが、僕の左腕は言う事を聞かない。地面は高速で回転するトレッドミルのようで、僕の顔面はそのトレッドミルによって削られていく。
「ちょ……待っ……」
身体がバウンドする隙間で、僕の左手首を拘束している男に言葉を投げかけるが単語として完成する前に再び顔面が削られる。マイナスイオン漂う自然豊かな森の地面は、滑らかに舗装されているはずはなく所々自己主張の激しい石が痛い。
この男は聴覚がないのか。そう思うほどにただ真っ直ぐ進行方向を向いていた。引きずられながら見える男の目は、キリッと見開いており真面目そのものであった。全く悪意が感じられないので、タチが悪い。あぁ、もういっそ楽に殺してくれ。