教室のざわめきの中、比企谷八幡は肘をつき、気だるげに窓の外を見ていた。
視線の先、あるいは意識の端で、どうしても捉えてしまう背中がある。斜め前の席に座る、碇シンジだ。
「……おい」
小さく呟きながら、八幡はため息を呑み込む。
何をするわけでもなく、ただ小さく丸まっているように見えるその背中は、見ているこちらが妙な居心地の悪さを覚えるほど脆かった。
八幡の視点:シンジという「面倒くささ」
八幡にとって、シンジは放っておけない存在だった。
別に聖人君子ぶるつもりはない。ただ、自意識過剰で、周囲の目を気に病み、勝手に傷ついて勝手に塞ぎ込むその生態が、過去の自分を見ているようで実に不快だったのだ。
無意識の観察眼: 授業中、シンジがペンを止める回数や、誰かに話しかけられてビクッと肩を揺らす瞬間を、なぜか八幡は正確に把握してしまっている。
距離感の模索: 下手に声をかけて「馴れ合い」になるのも面倒だが、完全無視して精神的に追い詰められた結果を見届けるのも後味が悪い。
日常のワンシーン
放課後。重たい空気が立ち込める教室で、帰る支度を遅々と進めるシンジのそばに、いつの間にか八幡が立っていた。
「……おい、碇」
「っ、比企谷くん……?」
「荷物まとめるの遅せーよ。購買のパン、売り切れるだろ」
「あ、えっと……ごめん、すぐ……」
オドオドと視線を泳がせるシンジに、八幡は内心「なんでそんなに謝るんだよ」とうんざりしつつも、自分のバッグを乱暴に肩に担ぎ直した。
さりげないフォロー: 「別に急かせたわけじゃない。……で、今日はどうすんだよ。また一人で寮(あるいは家)に直帰か?」
不器用な誘い: 「……暇なら、駅前の缶コーヒーでも付き合え。おごってやんねぇこともない」
シンジが驚いたように目を丸くし、それから少しだけ、ほっとしたような表情を浮かべる。その微小な変化を見逃さず、八幡は「やれやれ」と小さく首を横に振った。
――面倒くさい。本当に、めんどくさい奴だ。
だが、その孤独な世界に閉じこもりかけている同級生を、今日も八幡は放っておくことができないでいる。
窓枠に腕を預け、廊下側の席から職員室の方向を遠い目で見つめながら、八幡は心底うんざりしたように頭を抱えていた。
「……なんであんな言い方しかできねぇんだ、あの眼鏡クソ親父は」
さっき職員室の前を通りかかったとき、聞こえてきたのだ。碇ゲンドウの、氷のように冷たくて容赦のない叱責の声が。
「お前の代わりなどいくらでもいる」「来るなと言ったはずだ」――そんな言葉が、あのシンジの心をどれだけ抉るか、想像すりゃ分かりそうなもんだというのに。
八幡の葛藤:なぜ素直に言えないのか
「心配なんだと何故言えない」――もし目の前に今のシンジがいれば、間違いなくそう問い詰められただろう。だが、当の本人である八幡にできるのは、せいぜい帰り道に不機嫌そうな顔で自販機の缶コーヒーを押しつけることくらいだ。
プライドと自己防衛: 「お前が心配だから一緒にいてやる」なんてセリフ、気恥ずかしくて死んでも言えない。そんなことを口走ろうものなら、自分の内面がすべて剥き出しになるようで吐き気がする。
「ツンデレ」という名の逃げ: 周囲(あるいは読者)から「それってツンデレかよ」と突っ込まれたら、八幡は全力で否定するに違いない。「は? 勘違いするな、同情でも善意でもねぇよ、ただ単に視野に入ってきてウザいだけだ!」と、いつものひねくれた弁解をまくし立てるはずだ。
「……ツンデレじゃねぇよ。俺にあるのは『ひねくれ』と『無駄なお節介』だ。……まあ、結果的に似たようなもんなのかもしれねぇけどさ」
独り言を吐き捨て、八幡はポケットの中でぐっと拳を握り締めた。
帰り道のワンシーン:不器用な庇い立て
夕暮れの帰り道。ぽつりぽつりと並んで歩く二人。
シンジは相変わらずうつむき加減で、さっきの職員室での出来事を引きずっているのか、足取りが重い。
「……気にするなよ」
唐突に発せられた八幡の低音に、シンジがビクッと肩を揺らして顔を上げる。
「え……?」
「だから、親父の言うことだよ。あんなの真面目に受け止めてたら、こっちの脳ミソが腐る。……つーか、自分の息子に向かってあんなネチネチ説教垂れるとか、親の資格剥奪だろ普通に。人間性疑うわ」
吐き捨てるような、しかし妙に熱を持った八幡の言葉に、シンジは驚いたように目をパチクリとさせた。
八幡なりの精一杯: 自分を傷つけた親を真っ向から否定してくれたこと。それが、シンジの凍りかけた心をわずかにとかしていく。
照れ隠しの毒舌: 自分の言葉でシンジが少し救われた雰囲気を察知すると、八幡は慌ててごまかすように付け加える。「……ま、お前がいつまでもクヨクヨメソメソしてると、こっちまで巻き込まれて気分が悪くなるから言ってやっただけだ。勘違いすんなよ」
「……うん。ありがとう、比企谷くん」
シンジが、今日初めて見せたかすかな、しかし確かな笑顔を浮かべる。
それを見た八幡は、「うわ、まぶしっ……」と顔をそむげつつ、耳たぶを少しだけ赤く染めるのだった。
夕暮れ時の職員室前。
生徒指導室か、あるいは職員室の隅。噂の「碇ゲンドウ」が書類に目を落としているその真横に、比企谷八幡は臆面もなく、しかしこの上なく不機嫌そうな面持ちで突っ立っていた。
ノックもそこそこに踏み込んできた生徒に、ゲンドウはゆっくりと視線を上げる。その冷徹な眼鏡の奥の光に、周囲の教師たちが息を呑む中、八幡は一歩も引かずに毒づいた。
「――用件がないなら帰れ」
「用件ならあるね。むしろ、この学校の生徒の精神衛生に関わる重大な案件だ」
八幡は腕を組み、いつもの死んだ魚のような目で、しかしギラリと据わった視線をゲンドウに向ける。
八幡の直球:ひねくれ者の正論
「……なんだ、お前は」
「比企谷です。2年の。で、アンタの息子のクラスメイトで、被害者の会代表みたいなもんだ」
わざとらしくやれやれと肩をすくめてから、八幡は冷え切った声で核心を突いた。
回りくどい言い方はやめた。シンジが職員室から出てくるときのあの打ちのめされた顔を思い出すと、腹の底からじっとりとした怒りが湧いてくるからだ。
「聞いてるこっちが吐き気をもよおすような説教垂れてるらしいじゃねぇか、アンタ。……で、聞きてぇんだけどさ」
八幡は一歩踏み込み、ゲンドウの目をまっすぐに見据えた。
ぶつけられた問い: 「何故、自分の息子を愛していると言えないんだよ?」
不器用な庇い立ての果て: 自分の口からそんなセリフが出たことに、内心「うわ、何カッコつけてんだ俺、寒っ」と鳥肌が立ちつつも、引っ込められなかった。
ゲンドウの沈黙と、八幡の冷笑
職員室の空気が凍りつく。
周囲の教師が「おい、比企谷!」と慌てて止めに入ろうとしたが、ゲンドウはそれを片手で制し、じっと八幡を見据えた。その無機質な瞳には、動揺の色すらない。
「……それが、お前の言うことか」
「あぁ、そうだね。アンタがどんな大層な使命を背負ってようが、世界を救うために裏でドンパチやってようが知ったこっちゃねぇよ。だがな、『お前の代わりなどいくらでもいる』だの『来るな』だの、ガキの尊厳を削るような言葉をぶつけるのは、単なる親の怠慢だ」
八幡は冷ややかに鼻で笑った。
「照れ隠しか、それとも表現の仕方がわからない不器用な大人ぶってんのか知らねぇけどよ……そんなもん、ただの言わぬが花ならぬ『言わぬが罪』だ。思ってないならクズだし、思ってるのに隠してならタチの悪い臆病者だろ」
図星を刺されたか、あるいは全く相手にする価値もないと思われたか。ゲンドウはただ静かに目を細め、「……お前の知ったことではない」と低く呟いた。
「あいにく、こっちは毎日アンタの息子のメソメソした背中を見せられて、こっちまで精神的に削られてんだよ。迷惑被ってるこっちの身にもなってくれ」
捨て台詞を吐き捨てるように、八幡はそこで話を切り上げた。これ以上言っても、あの頑固な眼鏡親父に響くとは思えない。
帰り道:知られざる交錯
職員室を出た八幡の背中を、廊下の陰から見ていた影があった。
――碇シンジ。
「比企谷くん……、どうして……」
さっきのやり取りのいくつかが聞こえていたのか、シンジの瞳には驚愕と、言いようのない揺らぎが浮かんでいた。自分のために、あんなひねくれ者が、父親に直接盾突いてくれたなんて信じられなかった。
帰り道、いつも通りの無言の並び歩き。
耐えかねたようにシンジが口を開いた。
「……ねえ、比企谷くん。どうして、あんなこと……言ったの?」
赤くなった耳たぶを隠すように、八幡はポケットに両突っ込んだまま、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「……うるせぇ。お前がいつまでもジメジメしてると、こっちの風通しが悪くなるんだよ。……それだけだ。勘違いすんな」
また出た「勘違いすんな」。
だけど、その声の端にあった妙な優しさに、シンジは小さく息を呑み、そして――今日初めて、心からの温度を持った声で「……ありがとう」と呟いたのだった。
放課後の教室。またしても張り詰めた空気が室内の温度を下げていた。
「――ちょっと、バカシンジ! いつまでそんなメソメソしてのよ! いい加減にしなさいよ、見ているこっちまでイライラするんだけど!」
惣流・アスカ・ラングレーが、ガチャンと机を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、シンジの胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄っていた。
「う、うるさいなアスカ……だって僕は……」「言い訳しないでよ! 何が『だって』よ、本当に役立たずなんだから!」
アスカの鋭い叱責と、周りの生徒たちが気まずそうに目を逸らす気配。シンジは完全に萎縮し、両手で膝を抱え込むようにして、ただただ小さくなっていた。
その様子を斜め前の席から見ていた八幡は、限界まで達した「面倒くささ」と「胃もたれするような鬱陶しさ」に、深い深い溜息をついた。
(……はぁ。またかよ。もう見てらんねぇな、色んな意味で)
八幡の乱入と、沈黙の奇策
椅子をガタッと乱暴に鳴らし、八幡が立ち上がった。
「おい、赤毛の」
低く、気だるげだが妙に冷徹な声に、アスカは不機嫌そうに振り返る。
「はぁ? 何よ、アンタ。人の話に――」
最後まで言葉は続かなかった。
八幡はアスカの文句を遮るように数歩で歩み寄ると、彼女の腕を引いてその体をぐっと引き寄せ――そのまま、アスカの唇に自分の唇を重ねた。
「……っ!?」
教室の空気が、完全に凍りついた。
数秒間、時間が止まったかのような静寂。アスカは目を見開き、両手をワタワタと宙に泳がせた後、カッと顔をトマトのように真っ赤に染め上げた。
「なっ……! なななな、何よこれ――っ!!!」
文字通り飛び跳ねるように八幡から離れ、アスカは両手で自分の口元を隠し、全身から湯気を出しそうな勢いで震え上がった。
呆然とするシンジと、冷めた気だるさ
「……っ、比企谷くん……!?」
シンジもまた、何が起きたのか理解できず、目を皿のようにして二人の間を行ったり来たりしていた。
八幡はといえば、やった本人のくせに、自分の耳たぶがカッカと熱くなっているのを悟られないよう、できる限り何食わぬ顔でふっと鼻を鳴らした。
八幡の計算(あるいは暴挙): 言葉で説教しても、あの勝ち気なハーフの少女が引き下がるわけがない。だったら、思考を完全に停止させる物理的な荒技に出るのが、一番手っ取り早かった。――もちろん、自分の精神的HPもごっそり削られたが。
吐き捨てる台詞: 「……うるせぇんだよ、お前らのヒステリーは。こっちは静かに窓の外でも眺めてたいんだ。これ以上騒いだら、また職員室に特攻してあのクソ親父に説教垂れてやっからな」
「バ……! バカじゃないのアンタ! 正気!? なんでよ、なんでいきなりそんなこと……!」
アスカは恥ずかしさと怒りで涙目になりながら叫んだが、さっきまでの鋭いトゲは完全に消え去り、ただの年頃の少女のパニックになっていた。
「あいにく正気だよ。……ほら、碇」
八幡は混乱で固まっているシンジの肩を、ぽんと荒っぽく叩いた。
「いつまでそんな床ペロペロしてんだよ。帰るぞ。購買のパン、売り切れるだろ」
「え、あ……うん……」
シンジはまだ呆然としながらも、八幡に促されてよろよろと立ち上がった。
後ろで「ちょっと、待ちなさいよ! 逃げないでよね、変態メガネ!」とアスカの喚き声が響いていたが、八幡は振り返りもしない。ポケットに両手を突っ込み、真っ赤になった耳を隠すように、相変わらずの不機嫌そうな足取りで教室を後にするのだった。
教室の扉に手をかけた瞬間、後ろから猛烈な勢いで追いかけてきた足音が響いた。
「ちょっと待ちなさいよ、比企谷八幡!」
振り返った視界に飛び込んできたのは、顔を真っ赤に染め上げ、目に涙を浮かべながらも、怒りで全身を震わせるアスカだった。彼女の周りには、さっきまでの気まずい静寂とは打って変わって、クラスメイトたちの「えっ、マジで!?」というざわめきが広がっている。
アスカは悔しそうに唇を噛み締め、震える指を八幡につきつけた。
「あんた……! いきなりあんなことして……! い、いったいどういうつもりよ……!
もしかしてアンタ、私のこと……そ、その……好きなわけ!?」
ド直球すぎる問いかけに、周囲の空気が再びピリッと張り詰める。シンジも「えっ……」と息を呑んで八幡を見つめた。
だが、比企谷八幡は――微動だにせず、ただ相変わらずの死んだ魚のような目で、やれやれと盛大にため息をついた。
「はあ? なわけねぇだろ。馬鹿か、お前は。」
即答だった。あまりにも冷徹で、いつものひねくれたトーンそのままの否定に、アスカは「なっ……!」と絶句する。
「自意識過剰も大概にしろよ。お前みたいな攻撃性の塊みてぇな女、こっちから願い下げだ。さっきのはただの、お前らの不毛な内輪もめを強制終了させるためのコストの安い力技に決まってんだろ」
心にもない(あるいは少しだけあるかもしれないが絶対に認めたくない)悪態をペラペラと並べ立て、八幡は「じゃあな」と背中を向けた。
これで終わりだ。いつものように毒づいて、さっさとこの場から逃げ出せば、ひねくれ者の日常に戻れるはずだった。
――だが。
「……じゃあ、なんでよ」
背後から聞こえたアスカの声は、怒りではなく、どこか震えていて、妙にまっすぐだった。
「なんで……そんな顔して、私を庇うような真似すんのよ。バカみたいに真っ赤になって、私に殴られる覚悟で……あんなこと……!」
足を止めた八幡の背中に、シンジの心配そうな視線と、教室中の好奇の目が突き刺さる。
(ちっ……。本当に、面倒くさい奴らだ。なんでこう、俺の平穏な青春(?)を片っ端から粉々にしていきやがるんだよ)
八幡は振り返らない。
ただポケットに突っ込んだ両手の拳を強く握り締め、自分の鼓動のうるささをかき消すように、ぶっきらぼうに、しかしはっきりと呟いた。
「……お前のためなら死ねるくらいには、な」
「…………は?」
アスカの息が止まったのが分かった。シンジが目を見開くのも、背中越しに伝わってくる。
自分でも何言ってるんだと頭を抱えたくなるような、柄にもないセリフだった。気恥ずかしさで脳みそが沸騰しそうになりながら、八幡は一切の弁解も追加のセリフも残さず、片手をヒラヒラと振ってみせた。
「じゃ、本当に購買のパンが売り切れるんでね。お先に失礼させてもらうわ」
二度と振り返らず、夕暮れの廊下を歩いていく八幡の耳たぶは、これ以上ないほど真っ赤に染まっていた。
「……は?」
その一言が、惣流・アスカ・ラングレーの脳内システムを完全にクラッシュさせた。
「お前のためなら死ねるくらいには、な」
――脳のCPUがその言葉を処理しきれず、完全にブラックアウトしていく。
さっきまでの怒りも、プライドも、恥ずかしさも、すべてがそのたった一言の圧倒的な破壊力の前に吹き飛ばされていた。
アスカは口を半開きにしたまま、文字通り「思考停止」の形相でその場に固まった。
頭から湯気が出そうなほど真っ赤だった顔は、みるみるうちに血の気が引いていき、そしてまた一気に沸点に達する。
「な……なななな…………っ!!!」
言葉にならない奇声ともため息ともつかない音を漏らし、アスカは両手で顔をパァンと覆った。そのまま床にへたり込みそうになるのを必死に堪え、全身を小刻みに震わせる。
プライドと自己防衛の塊である彼女にとって、あんな直球すぎる(しかも本人は照れ隠しのつもりで捨て台詞のように吐き捨てただけの)言葉への耐性は、微塵も存在しなかったのだ。
教室のクラスメイトたちは、もはや何と言葉をかけていいか分からず、完全な静寂に包まれていた。
シンジの視界、そしてざわめく予感
隣でその一部始終を見ていた碇シンジもまた、言葉を失っていた。
(比企谷くんが……あんなことを……?)
いつもは冷めた目で世間を斜に構え、極力他人に関わらないように生きているはずの八幡。
その彼が、クラスの女王蜂であるアスカに向かって、あんな命を投げ出すような重すぎるセリフを吐いて去っていった。それがどれほど異常で、どれほど真摯な(本人にとっては不本意な)ものだったのか、シンジには痛いほど伝わってきてしまったのだ。
「……あ、れ……?」
シンジは胸の奥がざわめくのを感じた。
それは嫉妬とかそういう分かりやすいものじゃない。ただ、自分を救うために――そしてあの場を収めるために、八幡がどれだけの「恥ずかしさ」と「リスク」を背負ったのかを想像してしまい、なんだか妙に胸のあたりが熱くなるような、居心地の悪い感覚だった。
気になる、という名の呪い
放課後の騒動から、数日が過ぎた。
相変わらず八幡は、自分の席(窓際の特等席)で死んだ魚のような目をしながら、気だるげに教科書を眺めている。
だが、その平穏は少しだけ――いや、決定的に破られていた。
視線の交錯: 教室の反対側から、やけに刺さるような視線を感じる。そっと目を向ければ、そこにはアスカがいた。目が合うと、彼女は「ひっ」と小さな悲鳴を上げてすごい勢いで顔をそむけ、耳まで真っ赤にして自分のノートに八つ当たりするようにペンを走らせる。
ざわめく自意識: 「なんなのよあいつ……! なんだったのよあの言い方は……! 私をからかって面白がってるだけ? でも、あんな真面目くさった顔で……うぅ、思い出させるなバカヤロー!」――アスカの脳内は、四六時中あの日の八幡のセリフでリフレインしていた。
「……なんか、最近やけに視線が痛いんだけど」
八幡はシャーペンを回しながら、心底うんざりしたように小さく呟いた。
アスカのあの激しいリアクション以来、女子からの妙な探るような視線が増え、クラスの空気もどこか生暖かい。
(……やっちまったな。あれは完全に悪手だったわ。俺の穏やかなモブライフが、また一つ遠ざかりやがった……)
頭を抱えたくなる現実逃避をしながら、八幡はふと斜め前を向く。
そこには、相変わらずおどおどしながらも、どこか以前より少しだけ背筋を伸ばしているシンジの背中があった。
「……まあ、あいつがメソメソしなくなったなら、コストパフォーマンス的にはギリ許容範囲か?」
そう心の中で言い訳しながら、八幡は再びため息をつき、窓の外の青空へと視線を逃がすのだった。
――だが、一度狂い始めた歯車は、もう元の日常には戻してくれそうにない。
放課後の廊下。西日が傾き、赤みを帯びた光が窓ガラスから差し込んでいた。
人気のない渡り廊下を歩いていた比企谷八幡は、ふと前方に違和感を覚えた。
数歩先を歩いていた綾波レイの足元が、突然ふらりと大きく揺らいだのだ。
「……っ」
顔面蒼白で、そのまま床へと崩れ落ちそうになるレイの体に、八幡は反射的に駆け寄った。
間に合わせるように両手を伸ばし、倒れ込むレイの肩をしっかりと受け止める。
「おい、大丈夫かよ……」
間近で見たレイの顔は驚くほど血の気が引いており、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
エヴァンゲリオンのパイロットという過酷な任務のせいで、肉体的にも精神的にも限界を超えているのは、ひねくれ者の八幡の目から見ても明らかだった。
レイの戸惑いと、八幡の不器用な優しさ
「……比企谷、くん……?」
力なく見上げてくる赤い瞳に、八幡は心の中で盛大に悪態をついた。
(なんで俺の周りはこう、トラブルメーカーしかいねぇんだよ……。赤毛のヒステリーの次は、いつ消えるか分からないような無機質な少女かよ。神様仏様、俺になんの恨みがあるのさ)
愚痴りつつも、その腕をほどくわけにはいかない。八幡は近くのベンチまでレイを支えて歩き、そっと座らせた。
「立てるか? 無理すんなよ。……ほれ」
ポケットから取り出した、ぬるくなったペットボトルのミネラルウォーターを差し出す。レイは受け取ることもせず、ただ呆然としたように八幡を見つめていた。
いつも他人に無関心で、一歩引いた冷めた目で世界を見ているはずの少年が、なぜそこまで面倒臭そうに、しかし確実に自分を支えてくれているのか。綾波レイという少女にとって、それはあまりにも予想外の出来事だった。
「……どうして、助けたの?」
かすれた、しかし真っ直ぐな声でレイが問いかける。
八幡は面倒くさそうに頭を掻きむしり、視線をわざとあらぬ方向へ逸らした。
いつもの照れ隠し: 「どうしてって……ここでぶっ倒れられて死なれたら、後始末が面倒くさいだろ。それに、お前が消えそうな顔でウロウロしてると、こちらの精神衛生上非常に悪いんだよ」
不器用な切り捨て: 「……だから、深い意味はねぇよ。偶然通りかかったモブが勝手にやっただけだ。気にするな」
「……きにするな」
レイはその言葉を、ゆっくりと反芻した。
「気にするな」――それは今まで、他者から距離を取るための、あるいは自分を深入りさせないための、冷たい拒絶の言葉として聞くことが多かった。
だが、今の八幡の言い方は違った。
乱暴で、投げやりで、だけどその奥に確かな「これ以上自分を追い詰めるな」という温もり――いや、お節介が混じっているのを、レイの研ぎ澄まされた感性は感じ取っていた。
心の奥の、小さな熱
「…………」
レイは自分の胸元にそっと手を当てた。
冷え切っていたはずの心の奥底に、得体の知れない小さな熱が灯っている。それはチリチリと痛むようなものではなく、じんわりと、けれど確実に体の芯を温めていくような感覚だった。
――これが、「ポカポカ」する、ということなのだろうか。
碇司令に言われた言葉でも、シンジから向けられた優しさとも違う。ただ理不尽なまでの生存確認のように、自分のために不機嫌そうな顔で怒ってくれる人間の存在が、妙に心地よかった。
「……ありがと、う。比企谷くん」
ぽつりと、掠れた声で紡がれたその言葉に、八幡はぎょっとしたように肩をビクつかせた。
「……なっ、なんだよ急に。礼なんていいから、早く体調戻せ。これ以上変な噂が立ったら、俺の平穏なモブライフが完全に崩壊するんだからな」
真っ赤になった耳たぶを隠すように、八幡は背中を向け、ひらひらと手を振ってその場から歩き去っていく。
その後姿を見送りながら、レイは小さく息を吐いた。
冷たかったはずの世界に、少しだけ春の風が吹いたような気がして、レイは生まれて初めて、自分の内側から湧き出る微かな温度を、そっと噛り締めるのだった。
夕暮れ時のネルフ本部。無機質なコンクリートの回廊を歩いていた比企谷八幡は、自動販売機の前にたたずむ一人の女性を見かけ、思わず足を止めた。
葛城ミサト。普段はビールを片手に豪快に笑い、仕事が終われば自堕落な大人の顔を見せる、シンジたちの保護者であり上司。
だが、今の彼女は缶コーヒーを握りしめたまま、どこか遠い目をしていた。その横顔には、いつもの一枚上手な大人の余裕とは違う、底知れない孤独と痛みが張り付いている。
(……はぁ。またかよ。今日は一段と、面倒くさい日だな)
自分の平穏を愛するモブとしては、全力で無視して通り過ぎるのが正解だ。分かっているのに、なぜか足が勝手に動いていた。八幡はポケットに両手を突っ込んだまま、気だるげにミサトの隣へと歩み寄った。
八幡のぶっきらぼうな直言
「――酒の飲みすぎで胃でも壊したか? それとも、大人の事情で頭が痛いって顔かよ、大佐殿」
不意にかけられた気だるい声に、ミサトははっと我に返り、いつもの作り笑いを浮かべて振り返った。
「あら、比企谷くんじゃない。なによ、高校生が生徒に向かって大佐殿なんて皮肉るもんじゃないわよ」
「皮肉じゃねぇよ、事実だろ。……で、見てられねぇほど分かりやすい顔して、何考えてやがる」
ミサトは苦笑いを浮かべ、握っていた缶コーヒーを軽く振った。
「……ガキに心配される筋合いはないわよ。大人の恋ってやつはね、もっと複雑で、色々と面倒くさいのよ。割り切ってるつもりでも、いざとなると臆病風に吹かれたりしてさ」
その言葉の裏に隠された、かつての男の影や、拭えない過去の記憶。ミサトが何を恐れ、誰を想っているのかを、八幡は詳しく知りはしない。だが、その自虐的な笑みが、あまりにも寂しそうだった。
だからこそ、八幡はいつものひねくれたトーンのまま、吐き捨てるように核心を突いた。
ぶつけられた言葉: 「だったら、ウジウジ悩んでないでさっさと動けばいいだろ」
人生の短さと、ありふれた真理: 「……他人の恋愛事情になんか微塵も興味ねぇけどさ。一つ言えるのは、人生は短いってことだ。いつまでも過去の亡霊やプライドにしがみついてたら、気づいたときには後悔しか残らねぇよ。……好きな男がいるなら、自分からも行くのなんて全然ありだろ」
ミサトの動揺と、八幡の逃走
「――――っ」
ミサトの目が、驚愕に大きく見開かれた。
いつも斜に構え、冷めた目で世間を見ているはずの高校生が、なぜそんなまっすぐな、あまりにも泥臭い正論を吐くのか。彼女は言葉を失い、ただ目の前の少年を見つめた。
「……ま、他人の背中を押すとか、柄にもねぇこと言ったわ。忘れてくれ」
自分の口から出た言葉の恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、八幡は耳たぶを赤く染めながら、慌てて背中を向けた。
「じゃ、俺はこれで。これ以上ここにいたら、面倒な作戦に巻き込まれそうなんでな」
「ちょっと、比企谷くん……!」
ミサトが何か言いかけるのを無視して、八幡は足早にその場から立ち去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ミサトはしばらく固まった後、ふっと力を抜いて自嘲気味に笑った。
――まったく。あの高校生、時々ズルいことを言うんだから。
胸の奥で燻っていた澱(おり)ような迷いが、八幡の乱暴な一言によって少しだけ晴れていくのを感じながら、ミサトは缶コーヒーをしっかりと握りしめ、前を向くのだった。
ネルフ本部の巨大な発進ベイ。冷たい人工照明の下に、鮮やかな塗装をまとった「エヴァンゲリオン四号機」が、圧倒的な存在感を放って佇んでいた。
そのエントリープラグへと続くリフトの前で、比企谷八幡は支給されたプラグスーツに身を包み、いつもの気だるげなため息をついていた。
「……なんで俺が、あんな巨大な人型決戦兵器のコックピットに座らされてんだか。私の平穏なモブライフはどこに消えたのやら」
頭を抱えたくなる現実を前にぼやいていると、心配そうに駆け寄ってきた碇シンジが、目の前の機体番号を見上げてぽつりと呟いた。
「……四号機、だね。なんだか、『四』って……不吉で、縁起が悪い数字だって言われてるけど……」
シンジのその不安げな声に、八幡は面倒くさそうに片方の口角を上げ、やれやれといった風に肩をすくめてみせた。
八幡の台詞: 「は? 縁起が悪い? くだらねぇ迷信気にしてんじゃねぇよ。……そんなもん、俺が幸せの『4』に変えてやるよ」
背中の大きさ: その言葉の軽口とは裏腹に、リフトへと乗り込むために振り返った八幡の背中は、いつものひねくれた高校生のものとは思えないほど、妙に大きく、頼もしく見えた。
アスカの動揺
少し離れた場所でそのやり取りを見ていた惣流・アスカ・ラングレーは、心臓の音が一際大きく跳ねるのを感じていた。
(なんなのよ、あいつ……っ!)
普段は死んだ魚のような目をしているくせに、いざという時にはあんな風に、不器用すぎる真っ直ぐさで周囲の不安を全部持っていく。
「幸せの4に変えてやる」なんて、気恥ずかしくて聞いていられないようなセリフを、あんな涼しい顔で吐き捨てて。
アスカは無意識に自分の胸元をぎゅっと掴み、カッと赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。
高鳴る鼓動: さっきから胸の奥のドキドキが止まらない。バカみたいにカッコつけて、バカみたいに頼りなくて、それでいて――なぜか、心の底から無事に帰ってきてほしいと願ってしまう。
プライドと葛藤: 「……あ、あんなの、ただの勘違いよ! 調子に乗りやがって、生きて戻ってきたら絶対ボコボコにしてやるんだから……!」
そう心の中で毒づきながらも、アスカの瞳は、四号機のハッチへと消えていく八幡の背中から、どうしても離れられずにいた。
赤く染まる夕暮れの市街地。瓦礫の山と化したビル群の中で、第弐号機を駆るアスカが絶体絶命の危機に陥っていた。
強敵の放った致命的な一撃が、エネルギー切れを起こしかけた二号機のコックピットへと迫る。
「っ……ここまで、なの……!?」
目を閉じたアスカの耳に、轟音とともに突撃してくる重厚な足音が響いた。
ガキイイイッ!! と耳をつんざく金属音。
目を開けたアスカの視界に飛び込んできたのは、鮮やかな塗装をまとった「四号機」の巨大な背中だった。八幡の乗る四号機が、自らの機体を盾にするように身を挺してアスカを庇い、敵の猛撃をその身にすべて受け止めていたのだ。
反撃の好機: 「今だ……っ!」
シンジの初号機とレイの零号機が、その圧倒的な隙を見逃さず、一斉に突撃する。渾身の刃と一撃が、敵のコアを正確に貫き、巨大な使徒は光の粒子となって消え去った。
アスカの涙と、八幡の不器用な言葉
戦闘が終わった静寂の中、半壊した四号機のハッチがゆっくりと開く。
プラグスーツ姿の比企谷八幡が、だるそうに、しかしあきらかにボロボロになりながら這い出てきた。
「……はぁ。死ぬかと思ったわ。俺の平穏なモブライフが、マジで粉々なんですけど……」
「っ……!」
それを認めた瞬間、アスカは二号機から飛び降りるように駆け寄ってきた。
目の前に立った彼女の顔は、泥と埃、そしてあふれ出る涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「ば、バカ……! なにしてるのよアンタ、あんな無茶苦茶な真似して……っ!」
震える拳で八幡の胸を、ぽかすか、ぽかすかと力なく叩く。
「死ぬ気だったの!? 私を庇って、あんな攻撃まともに受けて……アンタ、バカなの!? 頭おかしいんじゃないの……っ!」
泣きじゃくりながら声を荒らげるアスカに、八幡は痛む脇腹を押さえながら、いつものやれやれとした顔で片方の口角を上げた。
「……何泣いてんだよ。みっともねぇ」
「泣いてないわよ! 目にゴミが入っただけよ!」
「強がりも大概にしとけ。……で、心配すんな」
八幡はふっと力を抜くと、微かに笑ってアスカの頭にポンと手を置いた。
八幡のセリフ: 「……言ったろ。お前のことくらい、守るって言っただろ」
アスカの反応: 「……っ、言ってないわよ……! そんなこと、いつ言ったっていうのよ、このバカ……!」
そう言いながらも、アスカは八幡の手を払いのけるどころか、その胸元に顔をうずめ、さらに大粒の涙をこぼした。
もう「お前なんて嫌いだ」という言葉は出てこない。ただ、胸を叩くその手の力が、震えるほどに愛おしさと安堵を物語っていた。
少し離れた場所からその様子を見ていたシンジとレイは、それぞれの思いを胸に、静かに夕日を見上げるのだった。
無機質な白壁に囲まれたネルフ本部の医務室。
窓の外から差し込む夕日が、静まり返った室内に長い影を落としていた。
ベッドの上では、全身に包帯を巻かれ、点滴のチューブにつながれた比企谷八幡が、規則正しい寝息を立てて眠っている。あの無茶な盾のせいで数日間は絶対安静と宣告されたが、命に別状はなかった。その事実だけで、部屋にいる全員の胸のつかえは下りていた。
ベッドのすぐ脇のパイプ椅子に座っていたのは、惣流・アスカ・ラングレーだった。
彼女はぐしゃぐしゃになった目をこすると、誰もいない(正確には後ろに誰かいるが、この瞬間は視界に入っていない)ことを確かめるように、周囲をそっと窺う。
「……本当、バカなんだから」
小声で悪態をつきながらも、その声は震えていて、愛おしさが隠しきれていない。
アスカはゆっくりと身を乗り出し、周囲の気配を伺うように一度息を呑むと――眠っている八幡の額に、そっと自分の唇を重ねた。
ほんの数秒の、触れるだけのキス。
だが、離れたアスカの顔は、耳の先までトマトのように真っ赤に染まっていた。
「……これで、助けてくれたお礼よ。勘違いしないでよね、バカ八幡」
そう早口で自分に言い聞かせるように呟き、アスカは恥ずかしさのあまり両手で自分の顔を覆い、真っ赤になったままイスに深く沈み込んだ。
見守る二人と、微かな「大人」の気配
少し離れた病室の隅。
その一連の一部始終を、碇シンジと綾波レイは静かに見守っていた。
シンジは、アスカが見せたあまりにも少女らしく、そして切実な行動に、心臓がバクバクと音を立てるのを感じていた。
(き、キス……!? アスカが、あんなふうに自分から……っ)
ただの「クラスメイト」や「仲間」の枠を超えた、隠しきれない好意と、どこか「大人」の領域に片足を踏み入れたような生々しい一コマ。恋愛経験なんてゼロに等しいシンジにとって、その光景は刺激が強すぎた。
顔を真っ赤にし、どう目を逸らしていいか分からず、シンジは両手で自分の頬をパタパタと仰ぎ、あたふたとうろたえ始める。
一方の綾波レイは、静かにまばたきを一つした。
アスカの胸の鼓動、そしてシンジの戸惑う気配をどこか遠く感じながら、レイはベッドで眠る八幡を見つめる。
(これが……「すき」という感情の、かたち……?)
レイにはまだ、その深い意味のすべては理解しきれない。けれど、誰かを大切に想い、その無事を祈り、触れ合いたいと願う温もりの正体が、少しだけ分かったような気がした。
ふと、ベッドの上で八幡がううんと苦しそうに眉をひそめ、寝返りを打とうとする。
「っ、ちょっと、動いちゃダメでしょ!」とアスカが慌てて八幡の肩を押さえて体制を整える姿を見て、シンジはますます居心地が悪くなり、そっとレイの袖を引っ張った。
「ね、レイ……そろそろ、僕たち病室を出たほうが……いいよね?」
「……そう、ね。邪魔をしては、いけない気がする」
シンジとレイは、これ以上ないほど気まずそうな、けれどどこか温かい足取りで、そっと音を立てないように病室から出ていくのだった。
残された部屋には、恥ずかしさで悶絶するアスカの小さな息づかいと、相変わらず無防備に眠る八幡の寝息だけが、静かに響いていた。
ネルフ本部の地下駐車場。静まり返ったコンクリートの空間に、一台の車が静かに停車していた。
少し離れた場所からその様子を見ていた比企谷八幡(まだ全身の包帯が完全に取れず、松葉杖をつきながらではあるが)は、やれやれと頭を抱えていた。
「……なんで俺が退院早々、こいつらの送迎に付き合わされてんだか。まったく、労災降ろしてほしいわ」
少し離れた車のドアを開けようとしていた綾波レイの足元で、突然、整備不良か何かで上階から重たい荷物が落下しかけていた。
「っ、綾波!」
その危険にいち早く気づいたのは、近くにいた碇シンジだった。
シンジは反射的に飛び出すと、レイの体を強く抱き寄せて、崩れ落ちてくる荷物から彼女を全力で庇い、そのまま車体に押し付けられるようにして地面に倒れ込んだ。
ガシャアアッ! と大きな音が響き渡り、二人のすぐ脇に破片が散らばる。
「……っ、痛たた……。大丈夫かい、レイ?」
「……シンジ、くん……?」
覆い被さるようにして自分を守ってくれたシンジの顔が、すぐ目の前にある。
レイは驚きに目を見開いたが、次の瞬間、彼女はゆっくりと上半身を起こし――予想もしない行動に出た。
レイはシンジの首にそっと手を回し、その唇に、自分の唇をそっと重ねた。
「……っ!? れ、レイ……っ!?」
顔を真っ赤にし、目玉が飛び出さんばかりの勢いで固まるシンジ。心臓が爆発しそうなほどの衝撃に、呼吸の仕方も忘れている。
レイはゆっくりと体を離すと、不思議そうに、けれど真剣な瞳でシンジを見つめた。
レイの言葉: 「……どうして、驚くの?」
レイの純粋な疑問: 「助けてくれたら、お礼はキスをするものでしょう? 比企谷くんの本を読んだとき、そう書いてあったから……」
(おい、待て。俺の愛読書(エッセイやラノベ)の変な知識をレイに植え付けたの誰だ――いや、俺か!?)
少し離れた場所でそれを聞いていた八幡は、冷や汗をダラダラと流しながら「やべぇ、教育に悪い影響を与ちまった……」と盛大に頭を抱えた。
シンジの覚悟と、目撃者
「……っ」
レイのまっすぐすぎる言葉と、ほんのりと熱を帯びたその表情を間近で見た瞬間、シンジの中で何かがプツリと音を立てて切れた。
いつもおどおどして、誰かの後ろを歩いていたはずの少年が、この瞬間だけは違った。
「……レイ」
シンジは震える手でレイの頬に触れると、今度は自分から彼女を引き寄せ、さっきよりも深く、そして圧倒的に熱を帯びた唇を重ね合わせた。
それは先ほどのレイの真似事なんかじゃない。戸惑いを乗り越えた、少年から大人への一歩を踏み出すような――紛れもない「大人のキス」だった。
「…………っん……」
レイの目が驚愕に見開かれ、そしてゆっくりと閉じられる。
静まり返った駐車場に、二人の重なる息づかいだけが響き渡る。
アスカの絶句
――だが、その決定的な瞬間を、別の人物が目撃してしまっていた。
「ちょっと、バカシンジ! 荷物まだ……って……え……?」
少し遅れて駐車場にやってきた惣流・アスカ・ラングレーは、目の前で繰り広げられている光景に、完全に足をとめ、思考を停止させた。
シンジが、あの綾波レイを抱き寄せ、あんな生々しいキスをしている。
しかも、ただの偶然やハプニングなんかじゃない。お互いに求め合うような、あまりにも密室的な空気がそこには満ちていた。
「な……ななななな…………っ!!!」
アスカの顔から血の気がサーッと引いたかと思うと、一気に沸点を超えて真っ赤に染め上がった。頭から湯気が出そうなほどの衝撃と、気まずさと、言葉にならない混乱が一気に押し寄せる。
「なにしてるのよアンタたちーーっ!!!」
アスカの絶叫が地下駐車場に轟き渡る。
その声に飛び上がったシンジとレイが「ひゃっ!」と離れ、離れた場所で松葉杖をついていた八幡が「あーあ、見つかったわ……」と天を仰ぐのだった。
アスカの絶叫が地下駐車場にこだました瞬間、気まずい沈黙が落ちるかと思いきや、場の空気は一変した。
慌てて飛び退いたシンジは、激しく息を乱しながらも、アスカの怒号に気圧されることなく――スッと顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、いつもの頼りない気弱さではない。レイを自分の腕で抱き寄せ、真っ直ぐに前を見据えるその姿は、もはや「子ども」のそれではなかった。
「……アスカ。うるさい、少し黙っててくれ」
「なっ……! なによその態度、バカシンジ! 人の目を盗んでいちゃついて――」
「勢いかもしれない。でも……僕は決めたんだ。レイは、僕が守るから」
その低く、しかし芯のある声音に、アスカは言葉を詰まらせた。
シンジの背中から感じる圧倒的な「覚悟」の重さに、その場にいた全員が息を呑む。
八幡の気づきと、レイの鼓動
少し離れた場所で松葉杖をついていた比企谷八幡は、そのシンジの目を見て、わずかに目を細めた。
(……チッ。なんだよ、あの目は。いつの間にか、ガキのくせに一人前気取りやがって……)
心の底で悪態をつきつつも、八幡の口元にはどこか呆れたような、しかし納得したような笑みが浮かんでいた。
自分が命を張ってアスカを庇ったように、シンジもまた、自分の意思で誰かを守るための牙を剥いたのだ。……まあ、青春真っ盛りな恋愛イベントと絡んでるのは、ひねくれ者の胃に悪すぎるが。
シンジに腕を引かれ、彼の胸元に身を寄せている綾波レイは、静かに目を見開いていた。
(……シンジくんの、心臓の音がする)
激しく、けれど力強く脈打つその音は、まるで自分を守ろうとする彼の決意そのもののようだった。
それに呼応するように、レイの胸の中でも、かつてないほど激しい音が鳴り響いていた。
(……うるさい。私の心臓が、すごく、うるさい……これが、「誰かと生きる」ということなの……?)
レイは熱を帯びた頬をシンジの胸に預け、その温もりをしっかりと噛み締めた。
アスカの動揺と、蘇る記憶
一方の惣流・アスカ・ラングレーは、シンジの頼もしい姿に圧倒されながらも、別の衝撃で頭がショートしかけていた。
(ちょっと待ってよ……。あいつ、なによあんなカッコいい顔して……!)
シンジの成長に気圧され、ドギマギしているうちに、脳裏にふと別の記憶が鮮明に蘇ってきた。
――数日前、自分が病院のベッドで眠る「別の男(比企谷八幡)」の額に、こっそりキスをしたあの瞬間の記憶が。
「――っ!!!」
自分のなでした破廉恥な行動をまざまざと思い出し、アスカは顔から一気に火が出るような感覚に襲われた。
シンジたちのキス現場を目撃して騒いでいたはずが、自分も同じような――いや、それ以上に恥ずかしいことをやっていたという事実が、アスカの羞恥心を限界突破させる。
「う……うわぁぁぁぁぁ――っ!!!」
顔を両手で覆い、真っ赤に染まった耳たぶから湯気を出しながら、アスカはその場から逃げ出すようにバタバタと走り去っていった。
「あ、おい、赤毛……!」
八幡が呆れたように声をかけたが、アスカは振り返りもしない。
地下駐車場には、静かに寄り添うシンジとレイ、そしてそれをやれやれと見守る、相変わらずひねくれた高校生の一幕だけが残されるのだった。
ネルフ本部の自動販売機の裏手。
頭から湯気が出そうなほど真っ赤になり、壁に額を押し付けて「うわぁぁぁ!」と悶絶していたアスカの視界に、一本の缶コーヒーがふっと差し出された。
「……冷やせよ。頭の沸騰がこっちまで伝わってきそうだ」
聞き慣れた、気だるげでひねくれた低い声。
ビクッと肩を揺らしたアスカが顔を上げると、そこには松葉杖をついた比企谷八幡が、相変わらずの死んだ魚のような目をしながら立っていた。
「な、なんでよ……! アンタ、まだ松葉杖なんだから大人しくしてなさいよ!」
「うるせぇ。お前の奇声がここまで響いてきて、俺の平穏な療養生活が台無しなんだよ。ほら、受け取れ」
ぶっきらぼうに缶を押し付けられ、アスカは慌ててそれを両手で受け取った。冷たい金属の感触が、熱を持った頬に心地いい。
八幡の不器用な宣告と、アスカの問い
アスカは缶を握りしめたまま、恥ずかしさと動揺をごまかすように、ツンとそっぽを向いた。
「……べ、別に、私があのバカシンジたちのせいで動揺してたわけじゃないんだからね! なんていうか、あんな青春真っ盛りみたいな現場を見せつけられて、こっちが胃もたれしたっていうか……!」
弁解すればするほど怪しくなるその様子を、八幡はやれやれと見下ろした。
それから、ふっと視線を窓の外の夕暮れに逃がし、ぼそりと呟いた。
八幡の言葉: 「……まあ、他人がどうこうは知らねぇけどさ。……お前は、大丈夫だ」
決意の重さ: 「あんな無茶して泣きじゃくるような面倒くさい女、他に知らねぇからな。……お前は俺が守るよ」
「――――っ!?」
あまりにも自然に、あまりにもまっすぐに紡がれたその言葉に、アスカの息が完全に止まった。
心臓がバクバクと暴れ回り、さっきまで冷えかけていたはずの顔が、再び沸点を超えて真っ赤に染め上がる。
アスカは震える手で缶コーヒーを落としそうになりながら、半泣きになりつつ八幡を睨み上げた。
「な、なに急にカッコつけてるわけ……!? バカじゃないの!? そんなこと平然と言って、アンタ……アスカに向かって……っ!
……って、ちょ、ちょっと待ちなさいよ! アンタ、もしかして私のこと好きなわけ!?」
真っ赤な顔で、しかしどこか必死に真意を確かめようとするアスカ。
そのド直球すぎる問いかけに、八幡は耳たぶをほんのり赤く染めながらも、目を逸らさずに短く言い放った。
八幡の返答: 「……ああ。」
「は……?」
あまりにもあっさりと、迷いなく肯定された言葉に、アスカの思考は完全にショートした。
追加の言い訳も、いつものひねくれた毒舌もそこにはない。ただ事実だけをぶっきらぼうに置いた八幡は、気まずそうに頭を掻きむしると、くるっと背中を向けた。
「じゃ、俺はリハビリに戻るんで。……あんま変なとこで顔真っ赤にしてるとな、また俺が面倒見なきゃいけなくなるからさっさと冷やしとけ」
松葉杖をつきながら、普段通り(のつもりだが耳たぶは真っ赤なまま)スタスタと歩いていく八幡の背中。
その場に置き去りにされたアスカは、心臓の音をうるさいほど響かせながら、ポツリと呟いた。
「……なんなのよ、あいつ……反則でしょ、そんなの……」
夕暮れの廊下に、自分の胸を押さえて真っ赤になり続ける少女の姿だけが、ぽつんと取り残されていた。
夕暮れのネルフ本部、その女子寮の一室。
静まり返った部屋の中で、惣流・アスカ・ラングレーはベッドの上に胡坐をかき、真っ赤になった顔を両手で覆ったまま、盛大に悶絶していた。
「うわぁぁぁぁぁぁ――っ!!!」
「……うるさいわよ、アスカ」
ベッドの反対側で、綾波レイが静かに本をめくっていた。その瞳はいつも通り涼やかだったが、時折、手元のページをめくる指先がわずかに迷うような動きを見せる。
「うるさくもなるでしょ! だって、あいつ……比企谷の野郎があんなこと言うんだもん! 『お前は俺が守るよ』だの、『ああ』だの……! なんなのよ一体! 私、あんな奴のこと別に……!」
弁解すればするほど、脳裏にあの不器用で真っ直ぐな横顔と、耳たぶを赤く染めた八幡の姿がフラッシュバックする。
胸の奥が締め付けられるような、かと思えばカッと熱くなるような、今までに感じたことのない疼き。
アスカはベッドをバタバタと両手で叩き、頭を抱えた。
「これって……なに? 私、どうかしちゃったの……? 胸がバクバクして、変な感じがして……これが、世に言う『恋』とかいうやつなの……!?」
レイの静かな告白
そのアスカの絶叫を聞きながら、レイはふと本から視線を外し、窓の外の夜空を見上げた。
「……恋、というのかしら」
「は?」アスカがビクッと肩を揺らし、レイを睨みつけた。「なによ、綾波。アンタ、何か知ってるわけ?」
レイは静かに首を横に振ったが、その頬にはほんのりと、普段の彼女からは信じられないような微かな赤みが差していた。
「わからない。でも……シンジくんに庇われて、キスをされたとき……私の心臓も、すごくうるさかった」
レイの言葉に、アスカは「は、はぁぁぁ!?」と目を剥いた。
「な、何言ってるのよアンタ! シンジとキスって、いつの間にそんな……! っていうか、綾波もなの!?」
「……うん。シンジくんの心臓の音を聞いたら、胸の奥が温かくなって、離れたくなくなった。……それが、あのとき比企谷くんが言っていたことや、本に書いてあったことと、同じなのかもしれない」
レイの淡々とした、しかし隠しようのない熱を含んだ言葉に、アスカはガックリと床に崩れ落ちた。
動き出した、不器用な恋バナ
「うそ……嘘でしょ……? あのひねくれた無気力メガネと、あのウジウジバカシンジに、私たちが……」
頭を抱え込むアスカの隣に、レイは静かに歩み寄り、その隣に腰を下ろした。
「アスカは、比企谷くんのことが、好きなの?」
「っ……! な、なに急に聞いてくるわけ!? 別に好きとかそういうのじゃなくて、その、ペースを乱されるっていうか、調子狂うっていうか……!」
「……嘘をついているときの顔をしている」
「ついてないわよ!!」
真っ赤になって言い返すアスカを見て、レイは少しだけ、本当にほんの少しだけ、口元を柔らかくほころばせた。
「……不思議、ね。あんなに冷たかった世界が、今は少しだけ……ポカポカする」
レイのその言葉に、アスカは息を呑んだ。
否定しようとしたが、胸の奥底で疼く熱が、それを許さない。アスカは悔しそうに下唇を噛み締めると、ボソッと呟いた。
「……本当に、調子が狂うわよ。あんなバカ、二度と思い出してやるもん……」
そう言いながらも、アスカの赤くなった顔は、すでに隠しきれるものではなかった。
ネルフの少女たちの間で、今まで交わされることのなかった「恋バナ」という名の甘酸っぱくも激しい夜が、こうして静かに幕を開けてしまうのだった。
ネルフ本部の男子寮、そのシャワールーム。
水滴がタイルを叩く音だけが響く中、比企谷八幡は熱いシャワーを浴びていた。
まだ完治しきっていない体をほぐすように目を閉じていると、ふと、脱衣所のドアがガチャリと音を立てて開いた。
「――ちょっと、バカ八幡! 明日の作戦の資料、ここに置くからね!」
勢いよく入ってきた惣流・アスカ・ラングレーは、自分の部屋のノリで声を張り上げたが、すぐに足がピタリと止まった。
シャワールームのガラス戸はすりガラスだったが、水蒸気と湯気の中に浮かび上がっていたのは、まぎれもない八幡の「裸のシルエット」だった。
「っ……!?」
アスカは反射的に両手で目を覆おうとしたが、その隙間から、どうしても視線が逃げなくなってしまう。
(な、何やってるのよ私……! ここ、男子寮のシャワールームよ……!? 出なきゃ、今すぐ出なきゃ……っ!)
頭では分かっているのに、足がすくんで動かない。その上、湯気が晴れてすりガラス越しからクリアに見えるようになった八幡の背中を見て、アスカは息を呑んだ。
背中に刻まれた傷跡
「……あれは」
八幡の背中には、いくつもの生々しい傷跡が残っていた。
あのとき、暴走する使徒の攻撃から二号機を、そして自分を庇い、四号機のコックピットで全身に受けた致命的な一撃の痕。
あのとき、八幡が身を挺して守ってくれたからこそ、今の自分が生きている。
その現実が、冷徹なまでの証拠として、彼の無防備な背中に刻まれていた。
「……バカ……よ、本当に……」
アスカの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
ただの「口の上手いひねくれ者」だと思っていた。からかわれているだけだと思っていた。なのに、この男は自分の知らないところで、自分のために本気で傷を負っていたのだ。
足音が漏れないよう、アスカはそっとシャワールームのガラス戸に近づいた。
いつの間にかシャワーが止まり、八幡がタオルで髪を拭きながら低い声で呟くのが聞こえる。
「……って、なんだか気配がするな。気のせいか?」
ガラッと、水滴のついたガラス戸が少しだけ開く。
そこに立っていたアスカと、タオルを腰に巻いただけの、完全に無防備な状態の八幡の視線が、真正面からぶつかった。
「――――っ!」
お互いに言葉を失う。
八幡は「なんで赤毛がここに……?」と目を見張り、アスカはすっかり丸裸に近い八幡の体と、目の前の生々しい傷跡を至近距離で目撃してしまい、顔から一気に沸点を超える熱が噴き出した。
触れる指先と、アスカの覚悟
「な、なにやってんだよお前……ここは男子寮だろ、不法侵入で通報すんぞ……」
慌ててバスタオルを掴もうとした八幡の腕を、アスカは震える手でぐっと掴んだ。
その瞳には、いつもの勝ち気な光ではなく、熱い涙と、言いようのない切なさが浮かんでいた。
「……うるさいわね」
震える指先が、八幡の背中に残る傷跡へとそっと伸びる。
冷えた指がその生々しい痕跡に触れた瞬間、八幡はわずかに肩をビクつかせた。
「……触るなよ、見苦しいだろ」
「見苦しくなんかないわよ……!」
アスカの声が震えていた。
傷跡をなぞるアスカの指先が、わずかに熱を帯びている。八幡はそれ以上言葉を紡げず、ただ気まずそうに目を逸らそうとした。
だが、アスカは許さなかった。
彼女は背伸びをするように顔を寄せ、真っ赤に染まった顔のまま、八幡の唇に自分の唇をそっと重ね合わせた。
「アンタは私のものよ」
それは以前、病室でやったような隠れてのキスじゃない。
逃げ場のないシャワールームの熱気の中、お互いの鼓動が聞こえるほどの距離で交わされた、紛れもなく「本気」のキスだった。
「……っん……」
ほんの数秒の接触のあと、アスカは顔を真っ赤に染め上げたまま、しかしその瞳だけはまっすぐに八幡を見据えて、震える声で言い放った。
「……もう、二度にあんな無茶しないでよ」
そして、恥ずかしさを誤魔化すように、でも誰にも譲らないという強い独占欲を込めて、アスカは八幡の胸をぽんと強く叩いた。
「……アンタは、私のものよ。勝手に傷ついたり、いなくなったりしたら……絶対に許さないんだからね!」
その言葉を聞いた瞬間、八幡は呆れたような、しかしどこか観念したような、不器用な笑みを浮かべた。
耳たぶまで真っ赤に染めながら、八幡は乱暴にアスカの頭を軽くポンと叩く。
八幡の返答: 「……はいはい、分かりましたよ、女王様」
「っ、なによその言い方は……!」
顔を真っ赤にして怒るアスカだが、その目はもう涙を湛えながらも、確かな幸福感に満たされていた。
湯気と熱気に包まれた男子寮の片隅で、ひねくれたモブ男子と、プライドの高い少女の距離は、もう二度と元には戻れないほど縮まっていた。
シャワールームから続く湿った熱気、そしてアスカが放った「アンタは私のものよ」という強気な宣言。
その言葉に、比企谷八幡のなにかが、プツリと音を立てて切り替わった。
いつもは冷めた目で世間を斜に構え、他人に踏み込まれるのを嫌い、面倒事を極力避けて生きるはずのひねくれ者。だが、目の前で真っ赤になりながらも自分をまっすぐに見つめるこの勝気な少女の前では、もう「いつもの保身」なんて通用しないらしかった。
壁ドン、そして顎クイ
「……お前なぁ」
低く、普段よりもいくらか掠れた八幡の声に、アスカはビクッと肩を揺らした。
「な、なによ……今さら言い訳でもする気……?」
返事の代わりに、八幡の長い腕がパッと動いた。
ドスッ、と乾いた重い音が響く。アスカの頭のすぐ横の壁に、八幡が片手をついた。文字通りの「壁ドン」だった。
腰にタオルを巻いた裸の八幡が間近に迫ってきたことで、アスカの視界は彼の広い胸板と、わずかに水滴の光る引き締まった肩で完全に埋め尽くされる。
「なっ……なによ、急に……っ!」
動揺して一歩下がろうとしたアスカの顎に、八幡のもう片方の指先がそっと添えられた。
そのまま、逃げられないように、逃がさないように、ぐっと上を向かせる。――「顎クイ」だ。
「っ……ん……!」
強制的に顔を上げさせられたアスカは、息を呑み、心臓が爆発しそうなほどの音を立てて彼の目を凝視した。いつもは死んだ魚のような、やる気のないはずのその黒い瞳が、今は信じられないほど真剣に、そして圧倒的な熱を帯びて自分を捉えていた。
マジキスと、不器用な独占欲
「調子に乗ってると、たまにはこっちもやり返すからな」
言い終わるが早いか、八幡はそのままアスカの唇へと顔を寄せ、深く、そして逃げ場のない「マジキス」を叩き込んだ。
「……っ……んっ……ぷはっ……!」
先ほどアスカが仕掛けたような、勢いだけの浅いキスではない。お互いの息が混ざり合い、思考のすべてを奪い去っていくような、濃厚で圧倒的な口づけ。
拒絶する隙など最初から用意されておらず、アスカは彼の熱に圧倒され、頭が真っ白になっていくのを感じた。
唇が離れたあとも、八幡はアスカの顎を支えたまま、熱を帯びた低い声でハッキリと告げた。
八幡の言葉: 「……さっきのお返しだ。勘違いすんなよ」
決定的なセリフ: 「お前は俺のものだ。……だから、勝手にいなくなろうとすんじゃねぇよ。」
腰が抜けるアスカ
「――――っ……!!!」
その言葉の破壊力は、アスカの防衛本能を完全に粉砕するには十分すぎた。
さっきアスカ自身が言った「アンタは私のものよ」というセリフを、今度は彼自身の言葉で、より重く、よりまっすぐに、真正面から突き返されたのだ。
頭の中からすべての語彙が消え去り、耳の先から足のつま先まで、全身の血液が一気に沸騰したような感覚に襲われる。
「あ……、う……、な……っ……」
声にならない声を漏らしながら、アスカの膝がガクガクと盛大に震え始めた。
さっきまで強気で突っ張っていたプライドも、勝ち気なセリフも、もうどこにも残っていない。支えを失った人形のように、アスカの腰からスッと力が抜け落ちた。
「っと、おい……!」
崩れ落ちようとしたアスカの体を、八幡が慌てて両腕でしっかりと抱き止める。
「なによ、これ……ずるいじゃない……こんなの……反則よ、バカ八幡……」
八幡の胸元に顔をうずめ、恥ずかしさと胸いっぱいの幸福感に耐えきれなくなりながら、アスカはポロポロと涙を零した。
そんな彼女の頭を、八幡は不器用ながらも優しく、慈しむようにポンポンと撫でる。
耳たぶを真っ赤に染めながら、彼はどこか照れくさそうに、小さくフッと息を吐き出すのだった。
――もう、普通の「モブライフ」には絶対に戻れない。
だけど、この面倒くさくて愛おしい日常なら、案外悪くないかもしれない。そんなことを思いながら、八幡は真っ赤になって動けなくなった少女を、そっと抱きしめ続けた。
ネルフ本部の中庭。柔らかな日差しが差し込むベンチに、碇シンジと綾波レイは並んで腰掛けていた。
静まり返った空気の中、レイはわずかに緊張した面持ちで、一つのタッパーを膝の上に抱えている。その蓋をそっと開けると、中から現れたのは――世間の基準から言えば、お世辞にも「綺麗」とは言えないお弁当だった。
おにぎりは形がいびつで、卵焼きはあちこち焦げている。ブロッコリーは少し茹ですぎているように見える。
だが、シンジがハッと息を呑んだのは、そのお弁当の中身ではなく――レイの白い指に貼られた、いくつもの小さな「絆創膏」だった。
「……レイ、これ……」
シンジが驚きに目を見開くと、レイはわずかに目を伏せ、気まずそうに、けれど真剣な瞳で自分の指先を見つめた。
「……料理、を、したことがなかったから。本を読んできたけれど、上手にできなくて……何度も、包丁で……」
不器用ながらも自分のために、一生懸命お弁当を作ってくれた。その事実だけで、シンジの胸の奥は熱いものでいっぱいになる。
痛む指を隠すように小さく手を引っ込めたレイに対し、シンジは慌てて首を横に振った。
「ううん、違うんだ。その……すごく、嬉しいよ。ありがとう、レイ」
震える手でお箸を取り、シンジは真っ黒に焦げた卵焼きを一つまみ、口に運んだ。
――正直に言えば、塩加減は偏っているし、焦げの苦味もしっかりとする。だけど。
「……美味しいよ、レイ。すごく、美味しい」
満面の笑みでそう告げたシンジの顔は、嘘偽りのない温かな優しさに満ちていた。
その言葉を聞いた瞬間、レイの胸の奥で、かつて感じたことのないほどの強い衝撃が走った。
心臓の鼓動が早くなり、凍りついていたはずの世界が、鮮やかな色と確かな熱を持って広がっていく感覚。
(……美味しい、と言ってくれた。私のために、笑ってくれた……)
「……そぅ、よかった……」
レイの唇が、わずかに、本当に微かに弧を描いた。
生まれて初めて誰かのために何かを作り、それが受け入れられた喜び。胸の奥がジンジンと熱くなり、全身が心地よいぬくもりに包まれていく。
「……ねえ、シンジくん」
「ん?」
「……なんだか、胸のあたりが、すごく……ポカポカする」
レイが自分の胸元にそっと手を当ててそう呟くと、シンジもまた、自分の顔がみるみる赤くなっていくのを感じながら、嬉しそうに目尻を下げた。
「うん……僕もだよ、レイ。すごく、ポカポカする」
初夏のような温かな風が二人の間を吹き抜け、ぎこちなくも確かな絆を結んだ不器容な手作りの弁当を、静かに包み込んでいくのだった。
中庭の木陰、その少し離れた死角から、二人の若い姿をじっと見つめる人物がいた。
碇ゲンドウだ。
いつも冷徹で、感情を一切表に出さないはずの男の足元には、誰にも見せることのない静寂があった。
その眼鏡の奥の瞳が、いま、わずかに揺らいでいる。
(……昔の、私とユイのようだ……)
不器用で、うまく言葉にできなくて、それでも誰かを守りたいと願い、手探りで絆を結ぼうとするその姿。
遠い昔、研究室の片隅で、自分の不器用な好意をまっすぐに受け止めてくれた妻・ユイの面影が、目の前の息子と、隣に座る少女の姿に重なって見えた。
胸の奥深くに封じ込めていたはずの痛みが、そして温もりが、せり上がってくる。
ゲンドウはぐっと歯を食いしばり、震えそうな視線を抑え込もうとしたが――こらえきれず、一筋の涙がその無機質な頬を伝い、冷たいコンクリートの地面にポタリと落ちた。
冬月の眼差し
そのゲンドウの背中を、少し離れた場所から見守る男がいた。
冬月コウゾウだ。
長年、ゲンドウの傍らでその狂気と孤独のすべてを見てきた冬月は、静かに眼鏡の位置を直し、小さく息をついた。
普段は冷酷な司令官として振る舞う男が、息子たちの不器用な青春のワンシーンを見て流した涙。
(……まったく、似た者親子だな、ゲンドウ)
冬月の口元に、どこか哀愁を帯びた、けれど柔らかな笑みが浮かぶ。
かつて同じように世界と向き合い、そして大切なものを失った男が、今、不器用な息子たちの姿に「人間としての光」を見出している。
「……若さとは、時に厄介だが……美しいものだな」
冬月が呟いたその低い声は、そよ風に溶けるように消えていき、中庭にはただ、温かな時間がゆっくりと流れていくのだった。
夕暮れに染まるネルフ本部の最深部。
静まり返った司令室の窓辺で、碇ゲンドウは一人、夜の訪れを告げる空を見上げていた。
その背中に近づく足音が一つ。赤木リツコだ。
彼女はいつも通りの冷徹で有能な主席研究員としての顔を崩さず、手元のタブレットから視線を上げてゲンドウに声をかけた。
「司令、明日の第3新東京市の防衛体制についてですが――……」
言葉が途切れた。
振り返ったゲンドウの表情に、いつもの絶対的な威圧感はなく、ただ深く、静かな決意の色が浮かんでいたからだ。
「リツコ」
「……なんですか、突然」
怪訝そうに眉をひそめるリツコに対し、ゲンドウはゆっくりと歩み寄り、その真摯な瞳をまっすぐに見据えた。そして、誰が予想したこともない言葉を口にする。
「……結婚しないか。」
「……は?」
リツコの思考が、完全に停止した。
いつもなら即座に皮肉や業務の報告で切り返せるはずの脳が、その単語の重さと現実味のなさに追いつかない。
「事実婚になってしまうがな」
ゲンドウは少しだけ視線を逸らし、自嘲するように、しかし隠しようのない誠実さを込めて続けた。
ゲンドウの真意: 「ユイを忘れられない私に……その狂気と、果てしない執念のすべてに付き合ってくれた君に。……これ以上、一人で背負わせるわけにはいかない」
残された人生の誓い: 「形だけの契約かもしれないが、私の残りの人生を、君と共にするために使いたい。……返事を、聞かせてほしい」
リツコの動揺と、静かな決着
静寂が、司令室を支配した。
エヴァンゲリオンの呪縛、人類補完計画、そして亡きユイの影。そのすべてを最も近くで理解し、絶望も狂気も共有してきたのは、他の誰でもないリツコ自身だった。
彼女は、ゲンドウがどれほど冷酷で、同時にどれほど不器用な男であるかを誰よりも知っている。
そして、彼が「ユイ以外の誰か」に目を向けることなど、本来あり得ないはずだと信じていた。
――なのに。
今、この男は、自分のために「残りの人生を使いたい」と告げている。
「……っ」
リツコの胸の奥で、長年抑え込んできた感情が、熱い波のように押し寄せてきた。
彼の心にユイという絶対的な存在がいることなど、最初から分かっていた。自分もまた、その影を知りながら彼の傍を離れられずにいた共犯者なのだ。だからこそ、「事実婚」という歪で、しかし彼なりの精一杯の誠意が詰まった言葉が、胸に突き刺さるように痛かった。
リツコは震える息を小さく吐き出すと、ゆっくりと目を閉じ、そして――いつもの気丈な、しかしどこか優しさを帯びた笑みを浮かべた。
「……本当に、救いようのない人ですね、司令は」
「……」
「事実婚なんて、世間体もクソもありませよ。第一、私がそんな気休めの言葉に頷く女に見えますか?」
そう言いながらも、リツコの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
彼女は一歩前に進み、戸惑うように自分を見つめるゲンドウの胸元に、そっと手を添えた。
「……でも。あなたがそこまで言うなら、私の残りの人生も、少しだけ付き合ってあげてもいいわ」
それは、世界を揺るがす計画の裏で交わされた、誰よりも大人で、誰よりも不器用なプロポーズだった。
窓の外の夕日が完全に沈み、夜のとばりが静かに第3新東京市を包み込んでいく中、二人は並んでその夜の闇を見つめるのだった。
薄暗い司令室の重く閉ざされた自動ドアが、静かにロック音を立てた。
先ほどまでの冷徹な司令官と主席研究員という仮面は、もうどこにもない。ゲンドウはゆっくりとリツコに向き直ると、その強靭な腕で彼女の細い体を力強く引き寄せた。
「……っ、司令、ここをどこだと……っ!」
理性を保とうと抗うリツコの言葉は、ゲンドウの熱を帯びた唇によって遮られた。
それは業務の延長などではなく、長年封じ込めてきた感情のすべてをぶつけるような、あまりにも情熱的で、逃げ場のない口づけだった。
「……んっ……はぁ……」
唇が離れた瞬間、リツコは甘い吐息を漏らし、その場に崩れそうになる体をゲンドウの広い胸元に預けた。
いつもは冷ややかな知性をたたえていた彼女の瞳が、熱と戸惑いに濡れている。目の前にいるのは、研究室の狂気でも、冷酷な組織のリーダーでもない――一人の「男」だった。
エヴァの呪縛も、人類の行く末も、この瞬間の前ではすべてが色褪せる。
ゲンドウから放たれる圧倒的な熱量と、すべてを飲み込むような野生の「雄」としての気配に、リツコは心臓が早鐘を打つのを止めることができなかった。
「……本当に、ずるい人ですね……」
震える声でそう呟きながら、リツコは自らゲンドウの首に腕を回し、その背中にしっかりと縋りついた。
静まり返った夜のネルフ本部最深部で、不器用な男と女がようやく辿り着いた熱い夜が、音もなく幕を開けるのだった。
静まり返った司令室の片隅。重厚な扉の陰から、わずかに開いた隙間を伝って、冷や汗を流しながらその光景を目撃してしまった人物がいた。
伊吹マヤだ。
(なっ……嘘、でしょ……!? 司令と、リツコさんが……っ!?)
普段は凛とした主席研究員として誰よりも尊敬し、憧れていたリツコが、あんなにも女性の顔をして男の胸に抱かれている。そして目の前で放たれている、常軌を逸した濃厚な大人の色気。
あまりの衝撃と刺激の強さに、マヤの脳内は完全にショートしかけていた。息を殺し、その場から逃げ出そうとした瞬間――。
「……そこにいるのは、伊吹か」
低い、だが背筋が凍るような色気を孕んだゲンドウの声が、暗闇に響いた。
マヤの体がビクッと硬直する。
リツコはわずかに息を乱しながらも、羞恥と焦りからサッと表情を引き締め、厳しい声で叱責を飛ばした。
「……マヤ! そこにいるのは分かっているわ、何をやっているの! すぐに出なさい!」
しかし、ゲンドウは落ち着き払った様子で、むしろ余裕すら感じさせる低い笑みを漏らした。
彼はリツコの腰に回していた腕を緩めず、ふっと片方の口角を上げながら、暗がりで震えるマヤへと視線を向けた。
ゲンドウの言葉: 「……隠れてコソコソ見ていないで、こっちに来たらどうだ」
挑発的な誘い: 「……ふっ。混ざりたいのかね?」
「なっ……! 司令、何を……っ!」
リツコが驚いて声を上げるが、ゲンドウの目はすでに獲物を捉えた肉食獣のように、マヤを真っ直ぐに見据えていた。
マヤの崩壊と、ゲンドウの「雄の色気」
「ひっ……! ち、違います、私、そんなつもりじゃ……っ!」
普段の伊吹マヤといえば、日頃から「ゲンドウ司令はちょっと……」「男の人なんて……」と、どこか男性に対して苦手意識や拒絶感を示していたはずだった。
だが、今のゲンドウから発せられている圧倒的な「雄」としてのエネルギー、そして男と女の濃厚な熱の気配は、マヤの理性を根本から揺さぶるには十分すぎた。
逃げ出そうとした足が、まるで金縛りにあったように動かない。
男嫌いだったはずの彼女の脳裏に、理性を焼き切るような熱が直接流れ込んでくる。
(……なんなの、この人……。どうして、こんなに……っ)
ただの冷徹な上司であるはずのゲンドウが、今のこの瞬間、あまりにも圧倒的な色気を纏った「雄」としてそこに存在している。
拒絶するべきなのに、逃げるべきなのに、マヤの下半身から力が抜け、身体の内側から熱いものがじわっと滲み出すのを、彼女自身はどうすることもできなかった。
「……っ……ぁ……」
あろうことか、マヤの身体は恐怖ではなく、未知の熱狂と興奮によって、完全に「濡れて」しまっていた。
その変化に気づいた瞬間、マヤは自分の恥ずかしさと背徳感に耐えきれなくなり、その場に崩れ落ちそうになる。
始まりの夜
「……素直じゃないな、伊吹は」
ゲンドウは低い声を漏らすと、その大きな手で、恐怖と快感の狭間で震えながら立ちすくむマヤの細い腕をしっかりと掴み、強引にその懐へと引き寄せた。
「っ……司令……! ま、待って、私、そんな……心の準備が……っ!」
「……いいから、ここに来い」
リツコは最初こそ呆れたような、しかしどこか拒絶しきれない潤んだ瞳でその様子を見つめていたが、やがて諦めたようにふっと艶やかに微笑んだ。
「……まったく、欲張りな人ですね、あなたは」
拒むことも、逃げることも許されない。
理性の壁が音を立てて崩れ去る中、司令室の奥深くで、三人を巻き込んだ濃密で狂おしい夜の宴――3Pの幕が、静かに、そして激しく開くのだった。
司令室の重く閉ざされた扉の隙間、そしてその喧騒と熱気が漏れ出す空間のすぐ近く。
その一部始終を――まさかの一人ではなく、さらにもう一人の目撃者が目撃していた。
葛城ミサトだ。
「……ちょっと、嘘でしょ……?」
ミサトは手元に持っていたビールのプルタブをうっかり落としそうになりながら、完全に思考を停止させていた。
部下のマヤまで巻き込んで、司令室の最深部であんなことになっている。真面目な職場環境の崩壊どころの騒ぎではない。倫理観もモラルも、ネルフの規律もすべてがドロドロの熱情の中に溶かされていくような光景。
「えー……嘘でしょ、ゲンドウ司令ってば、どんだけ欲張りなのよ……」
呆れ果て、ドン引きしているはずだった。
なのに。
耳を澄ませば聞こえてくる、男の低く艶やかな声、そしてリツコやマヤの漏らす甘い吐息。
その生々しいまでの「大人の夜の気配」が、廊下にまで濃厚に漂い、ミサトの五感を直接刺激していく。
「……っ」
さっきまで冷ややかな呆れに満ちていたミサトの身体が、妙に熱を帯びるのを、彼女自身が一番よく分かっていた。
かつての恋の記憶、日々の孤独、そしてあの比企谷八幡に突発的に言われた「人生は短い、好きな男がいるなら自分からもありだ」という言葉。そのすべての引き金が、目の前で行われている異常な光景によって一気に引かれてしまったのだ。
「うそ……なんで、私まで……っ」
恥ずかしさと、突然込み上げてきた言い知れない欲求に、ミサトの足元がぐにゃりと揺らいだ。
あんな狂おしい熱の中に、もし自分も――。
そんな不埒な想像が頭をかすめた瞬間、ミサトの下半身はすっかり熱く濡れ、自分の呼吸が荒くなっていることに気づいて顔を真っ赤に染めた。
「だ、ダメよ、私まで何考えてるのよ……っ!」
頭をブンブンと振って理性を保とうとしたが、この圧倒的な大人の色気の波には耐えられそうにない。
逃げ出そう。今すぐここから離れないと、自分まであの扉の向こうに引きずり込まれてしまう。
ミサトは慌ててポケットからスマートフォンを取り出すと、震える指でとある番号を早打ちし、通話ボタンを押した。
「っ……もしもし、加持くんっ……!?」
受話器の向こうで、突然の電話に怪訝そうな声を上げる加持リョウジの声が聞こえた瞬間、ミサトは色めき立った自分の心を誤魔化すように、半ば泣きそうな声で捲し立てたのだった。
静かな夕暮れ時。第3新東京市の古いアパートの一室。
綾波レイの部屋にうっかり置き忘れてしまった資料を届けるため、碇シンジは緊張の面持ちでインターホンを鳴らした。
「……あ、綾波? 比企谷くんの資料、忘れてたから届けに来たんだけど……」
返事はない。鍵は開いているらしく、ガチャリとドアノブを回すと、すんなりと扉が開き、室内へ招き入れるような隙間ができた。
「……失礼します」
そっと部屋に入ったシンジの耳に、浴室から聞こえる軽やかな水の音が飛び込んできた。
どうやらレイは、ちょうどシャワーを浴びているらしい。テーブルの上に資料を置こうとしたその時、風のイタズラか、あるいは建付けの悪さか、脱衣所へと続くすりガラスのドアが、ほんの数センチだけ自然にスライドして開いた。
「っ……!」
反射的に目をそらそうとしたシンジの視界に、湯気と水滴の向こう側――紛れもない、レイの「裸のシルエット」が飛び込んできた。
無機質で、どこか人形のようだった彼女の体には、しかし確かな体温と、生きた人間の柔らかな曲線があった。
心臓が激しく跳ね上がり、顔から一気に沸点を超える熱が噴き出す。
「ひっ……! ご、ごめんなさい……!」
逃げようと背筋を向け、慌ててドアノブに手をかけたシンジの背中に、浴室から静かで、しかし不思議なほどまっすぐな声が響いた。
「……シンジ、くん」
ガチャン、とガラス戸が完全に開く音がした。
振り返ったシンジの前に立っていたのは、バスタオルを一枚だけ体に纏い、濡れた髪からしずくを垂らしたレイだった。その白い頬は、シャワーの熱と恥ずかしさで、ほんのりと淡い桜色に染まっている。
「に、逃げないで」
「だ、だって……そんな格好じゃ……!」
「隠さないで。……シンジくんなら、見て、いいから」
レイは少しだけ目を伏せながらも、自分の意思で一歩、シンジへと近づいた。
拒絶でも怒りでもなく、ただ自分を受け入れてくれるその純粋すぎる眼差しに、シンジの足が完全に釘付けになる。
シンジの覚悟とプロポーズ
間近で見つめてくるレイの姿は、息をのむほど美しかった。
作り物なんかじゃない。傷つきながらも心を持ち、自分のために不器用なお弁当を作り、温もりを知った一人の少女の姿が、そこにあった。
シンジの中で、これまでの迷いや弱さが、音を立てて消えていく。
「……レイ」
震える手を伸ばし、シンジは濡れたレイの肩をそっと抱き寄せた。
隠そうともせず、ただまっすぐに自分を見上げる彼女の瞳に映る自分の顔を見つめながら、シンジは心の底から溢れ出た言葉を、はっきりと紡いだ。
シンジの言葉: 「……綺麗だよ、レイ」
決意のプロポーズ: 「僕、今まで自分のことで精一杯で……何にも守れなかった。でも、もう逃げない。……いつか、すべてが終わったら、僕たち、結婚しよう」
結ばれる温もり
その言葉を聞いた瞬間、レイの瞳から大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
悲しみでも恐怖でもない。初めて誰かに全肯定され、未来を約束された、あまりにも大きな幸福の涙だった。
「……うん。……結婚、する」
レイは震える腕を回し、シンジの首にしっかりとすがりついた。
濡れた肌と肌が重なり合い、お互いの激しい心臓の音が、まるで一つのリズムのように重なり合っていく。
外の世界では使徒の脅威が去り、大人たちがそれぞれの狂気や情熱の渦に呑まれている中、この小さなアパートの一室では、不器用な少年と少女が、未来に向かって確かな永遠を誓い合っていた。
お互いの唇が優しく重なり合うのを合図に、二人はもう二度と離れないように、強く、強く抱きしめ合うのだった。
夕暮れの光がすっかり消え去り、夜の帳が第3新東京市を青黒く染め上げる頃。
惣流・アスカ・ラングレーは、自室のベッドの上で、膝を抱えたままじっと自分の両手を見つめていた。
部屋の明かりはつけず、デスクの小さなランプだけが、彼女の赤い髪をぼんやりと照らし出している。
「……嘘、でしょ……」
呟いた声は、驚くほどかすれていた。
脳裏から離れないのは、シャワールームでの光景。壁ドンをされ、顎を捉えられ、逃げ場のない熱の中で交わした激しいキス。そして――「お前は俺のものだ」と、不器用なまでにまっすぐに自分を肯定してくれた、あのひねくれた男の低い声。
これまでアスカは、「選ばれたパイロット」として、誰よりも強く、誰よりも完璧であらなければならないと自分を縛り続けてきた。弱音を吐くことも、誰かに甘えることも、自分には許されていないと信じてきた。
なのに。
「……私、あんな奴のことが……好き、なんて……」
認めたくなかった。認めれば、自分のなにかが決壊してしまう気がした。
だけど、胸の奥で疼くこの熱は、もうどう取り繕ってもごまかしようがなかった。あの日、自分が病院のベッドで彼の額にそっとキスをしたときから、あるいは、あのボロボロの背中で自分を庇ってくれたときから、心の底ではずっと惹かれていたのだと、気付かされてしまう。
熱を帯びた思考の波に耐え切れず、アスカは震える片手をそっと自分の胸元から、下腹部へと這わせた。
彼の熱が、彼の言葉が、今もまだ自分の身体の奥で消えずに残っているような気がして――。
「っ……ぁ……」
誰に見せるわけでもなく、漏れた吐息は甘く、切なさに満ちていた。
自分で自分を慰めるように指を滑らせながら、アスカの瞳から、大粒の涙がポロリと零れ落ちた。
快感と、それ以上に押し寄せる激しい羞恥心に身体を震わせながら、アスカは自分の唇を噛み締める。
「……こんなの、おかしいわよ……」
涙で濡れた顔のまま、彼女は暗い天井を見上げた。
エヴァのパイロットとして戦うことしか自分の価値はないと思っていた。愛されることなんて、誰かに依存することなんて、自分には許されないと思っていた。
「……私に……こんなふうに誰かを好きになって、誰かに愛されて……そんな『自由』が、本当に許されているの……?」
答えのない問いを夜の闇に投げかけながら、アスカは彼にもらった熱の名残を身体に刻み込むように、再び自分の名前を呼ぶように、小さく震え声を漏らすのだった。
静まり返ったアスカの部屋のドアが、ノックもなしにカチャリと開いた。
「おい、赤毛。電気が消えてるからって、変なところで一人で湿っぽくなってんじゃねぇよ」
聞き慣れた、ぶっきらぼうで、けれど妙に落ち着く気だるげな声。
振り返ったアスカの視界に飛び込んできたのは、いつの間にか私服に着替えた比企谷八幡だった。
「な、なんでアンタが私の部屋にいるのよ……! 勝手に入ってこないでっていつも言ってるでしょ!」
涙で濡れた顔を慌てて袖で拭いながら、アスカはいつものように尖った声を張り上げようとした。だが、その声は震え、説得力のかけらもなかった。
八幡はため息をつくように小さく息を吐くと、アスカのベッドの縁にずいっと腰を下ろした。
そして、彼女がさっきまで抱えていた葛藤を、まるで全部見ていたかのように、真っ直ぐに彼女の目を見据えた。
八幡の言葉
「……自由がない、か」
アスカがぎゅっと膝を抱え直したのを見て、八幡は自嘲するように小さく笑った。
「エヴァのパイロットだの、ネルフの看板だの、組織のルールだの……確かに、俺たちは生まれたときからガチガチに縛られてる。自分の人生の選択権なんて、端から用意されてねぇように見えるよな」
「……分かってるなら、来ないでよ……。私には、そんなの……」
「だがな」
遮るように、八幡の低い声がアスカの耳朶を打った。
八幡の言葉: 「自由なんてものはな、誰かに与えられるもんじゃない。自分で掴むものでもねぇ。……ただ、そこにあるもんだ。組織がどんなに縛ろうとも、お前の心がどこを向いてるかなんて、誰にも強制できねぇよ。」
「……っ……」
「お前が誰かを好きになることも、誰かに恋焦がれて情けなく泣くことも、全部お前の自由だ。誰に遠慮がいる。……それに、」
八幡は少しだけ言葉を区切り、気まずそうに、けれど今までにないほど真摯な瞳でアスカの肩を引き寄せた。
不器用な救い: 「……一人で心細いなら、俺がいる。」
抱きしめられる温もり
拒絶する間もなかった。
八幡の大きな腕が、震えるアスカの体を包み込むようにしっかりと引き寄せ、自分の胸元へと押し込んだ。
ガリガリとした骨組みの、決して頼もしいだけの体じゃない。だけど、あのとき自分のためにボロボロになりながらも盾になってくれた、確かな体温。
彼の胸から伝わってくる心臓の鼓動が、アスカの荒立った呼吸をゆっくりと鎮めていく。
「……バカ……。ほんと、調子狂うんだから……」
アスカはもう、涙をこらえるのをやめた。
彼の背中に両手を回し、そのシャツをぎゅっと掴みしめながら、顔をその胸元に埋めて声を上げて泣いた。これまで自分のすべてを縛り付けていた鎖が、その不器用な温もりによって、音を立ててほどけていくのが分かった。
組織の命令も、運命の呪縛も、明日訪れるかもしれない戦いの恐怖も、この瞬間だけはすべてがどうでもよかった。
(……そうだわ)
八幡の腕の中で、アスカは胸の奥から湧き上がる熱い感情を噛み締めていた。
誰も自由を許してくれないなら、自分で勝手に選べばいい。目の前にいるこのひねくれた男を好きになり、彼の腕の中で愛されることを選ぶ――それこそが、今、自分が手に入れた一番の「自由」なのだから。
「……ねえ、バカ八幡」
「なんだよ」
「……私、今……世界で一番、自由で、幸せかもしれないわ」
驚いたようにわずかに体を離しかけた八幡だったが、すぐに観念したように柔らかく目を細め、アスカの赤い髪を優しくポンと撫でた。
「……ああ、知ってるよ」
夜の闇の静寂の中、二人の影はまるで最初から一つだったかのように、しっかりと重なり合っていた。
アスカの腕が、八幡のシャツをさらに強くぎゅっと握りしめた。
その小さな震えが収まった頃、彼女はゆっくりと顔を上げ、潤んだ瞳で八幡の目をまっすぐに見据えた。
少しだけ頬を朱に染めながらも、その表情には、もう迷いも恐れもない――覚悟を決めた少女の、圧倒的な強さと美しさがあった。
「……ねえ、バカ八幡」
「んだよ、急に真面目な顔して」
「今じゃないわよ。……さすがに私たち、まだやるべきことあるし、こんな状況でそんな話早いし……」
一呼吸置いて、アスカは恥ずかしさを隠すように少し早口になりながらも、その言葉をハッキリと紡いだ。
「――でも。アンタの子どもが、いつか欲しい。……いつか、産みたいわ」
その言葉の破壊力は、さっきまでのどんなセリフをも超えていた。
「……は……?」
比企谷八幡という男が、人生で初めて完全に思考を停止させた。
いつもなら皮肉を返し、ひねくれた理屈で煙に巻くはずの脳ミソが、そのあまりにも直球で、重みのある「未来の約束」の前に完全にフリーズしている。
目を見張り、ポカンと口を開けたまま固まる八幡の姿を見て、アスカはふっと勝ち誇ったような、それでいて愛おしさに満ちた笑みを浮かべた。
「なに人の顔見てマヌケな顔してさ。……聞こえなかったわけ?」
「いや、聞こえたけどさ……お前、な何言って……」
耳の付け根から首筋まで、さっきまで余裕ぶっていたはずの八幡が、一気に真っ赤に染め上がっていく。
他人をからかうことは得意でも、こんな風に真っ直ぐな「未来」を突きつけられるのは想定外すぎたらしい。そのタジタジになった姿を見て、アスカはくすくすと嬉しそうに声を漏らした。
「ふふっ……。なにそれ、いつもみたいに気の利いたセリフでも返したらどうなのよ」
しばらくの間、呆然と天井を見上げていた八幡だったが、やがて大きく深呼吸を一つした。
そして、赤くなった顔を無理やりいつもの気だるげな仮面の下に隠そうとしながらも、その黒い瞳だけは、逃げずにしっかりとアスカを捉え返した。
彼は、乱暴に自分の頭をガシガシと掻きむしると、照れくさそうに、けれど絶対に嘘偽りのない低い声で呟いた。
八幡の返答: 「……ああ。」
決意の言葉: 「……俺もだ。」
「――っ!」
その予想以上に真摯で、逃げのまったくない返答に、今度はアスカの息が止まった。
「ま、ちょ……! もうちょっとこう、なんか照れるような言い方とか……!」
「うるせぇ、これでも精一杯の直球だよ。……だから、その、なんだ……お前は生き残れ。いいな」
照れ隠しのようにぶっきらぼうに言いながらも、八幡は再びアスカを自分の胸元へと優しく引き寄せた。
世界の終わりのような使徒との戦いも、巨大な組織の陰謀も、大人のドロドロした情熱も、この部屋の外ではまだうず巻いている。
だけど、この小さなベッドの上で交わされた約束だけは、どんな運命の脚本すら書き換えるほどの、確かな未来の光として二人の胸に深く刻み込まれていた。
二人の間に流れていた甘く穏やかな空気が、ふと、別の熱を帯びて揺らいだ。
八幡の腕の中で身じろぎをしたアスカの身体から、甘い香りと共に、隠しきれない熱と湿気がほんのりと立ち込める。先ほどから自分の口にしていた言葉――「子どもが欲しい」「産みたい」というあまりにも生々しい未来の約束が、アスカ自身の理性を内側から溶かしていた。
「っ……ぁ……」
小さく零れた吐息と、かすかに震える足の動きに、八幡はすぐに気づいた。
彼はわずかに眉を寄せ、呆れたような、しかしどこか抗えない熱を宿した瞳でアスカを見下ろす。
「……お前、な……。さっきから、そんなこと言っといて……」
八幡の低い声が、アスカの耳朶を打つ。
自分の身体がどれほど敏感に反応しているかを見抜かれた恥ずかしさに、アスカは顔を真っ赤に染め、パッと布団に顔をうずめようとした。
「うる、さい……! だって、アンタが変なこと言うから……っ!」
「俺のせいにするなよ。……けど、」
八幡はそれ以上言葉を続けず、ゆっくりとアスカの身体をベッドの上へと押し倒した。
拒絶の隙など与えない、けれど乱暴ではない、確かな熱を持った手つき。
彼はアスカの膝の間にそっと体を滑り込ませると、躊躇することなく、彼女のショーツの端に指をかけた。
「ちょ、ちょっと、バカ……! ここ、私の部屋よ……!? 急になに……っ!」
「お前がそんな顔して俺を煽るからだろ。……責任取れよ」
低く掠れた声でそう呟くと、八幡はためらうことなく、アスカの熱に濡れ切った秘めやかな場所に顔を寄せた。
「ひゃっ……!? や、やっ……そこは……っ!」
羞恥と、あまりにも直接的な刺激に、アスカの背中が弓なりに跳ねる。
彼の鼻先が触れただけで、思考のすべてが白く塗りつぶされていくような感覚。
そして次の瞬間、八幡の温かな舌が、アスカの最も敏感な場所にゆっくりと這わせられた。
「あぁ……っ! んぁ……っ!!」
頭が真っ白になり、これまでに感じたことのないような快感の波が、全身の神経を駆け巡る。
自分の名前を叫ぶこともできず、アスカは八幡の髪を両手で必死に掴み、シーツを引っ掻きむしった。
組織のルールも、世界の運命も、明日どうなるかなんてことも、この瞬間にはすべてが吹き飛んでいた。
ただ八幡が与えてくれる圧倒的な熱と愛おしさに溺れながら、アスカは快感の涙を零し、彼の名前を呼ぶことしかできなくなるのだった。
頭を真っ白にするような快感の波が引き潮のように去っていくと、今度は別の熱がアスカの胸の内でむくむくと疼き始めた。
(……やられたままなんて、私のプライドが許さないわよ……!)
いくら恥ずかしくても、いくら頭がショートしそうでも、負けず嫌いな惣流・アスカ・ラングレーがそのまま引き下がるわけがない。
乱れた呼吸を整えながら、アスカは潤んだ瞳でふっと不敵な笑みを浮かべ、自分に覆いかぶさっている八幡の肩を両手でグッと押し返した。
「……ちょっと、代わりなさいよ、バカ八幡」
「は? おい、急に――っ」
戸惑う間もなく、アスカは素早く身を翻し、形勢を逆転させた。
ベッドの上に胡坐をかくように座った八幡の足の間に、自らスッと滑り込む。その行動の意味に気づいた瞬間、八幡の喉がゴクリと鳴った。
「さっきのお返しよ。……アンタばっかり、いい思いさせないんだから」
震える小さな唇を尖らせながらも、アスカの瞳には逃げ場のない熱が宿っていた。
目の前にいる男から放たれる、圧倒的な「雄」としてのオーラ――先ほどから自分を狂わせているその濃厚な色気にあてられ、アスカの理性はすでに完全に麻痺していた。
彼女は迷うことなく、八幡の腰に巻かれていた、あるいはすでにほどけかけていた布を外し、その熱を帯びた硬さにそっと手を伸ばした。
「っ……お前、な……」
普段のひねくれた余裕はどこへやら、八幡は思わずシーツを片手で強く握りしめ、低く掠れた声を漏らす。
アスカはそんな彼の反応を全身で感じ取りながら、意を決するようにぐっと顔を近づけた。
そして、熱を帯びたそれを、自分の温かな口腔へとゆっくりと迎え入れる。
「んっ……ふぅ……っ!」
「っ……あ……!」
あまりの刺激に、八幡の背中が大きく反り上がった。
口の中に広がる生々しい熱と、自分のためにすべてを委ねて必死に奉仕しようとする勝気な少女の姿。そのアンバランスさと圧倒的な愛おしさが、八幡の理性を内側から粉々に砕いていく。
負けず嫌いのプライドを燃え上がらせ、時にはむせるような息を吐きながらも、アスカは決して手を緩めなかった。
上下する頭の動き、濡れた唇が奏でる音、そして愛する男の熱をすべて受け止めようとするその姿は、かつての「強がりな少女」ではなく、一人の情熱的な女性そのものだった。
「っ……おい、赤毛……もう、限界だ……」
八幡の大きな手が、アスカの赤く染まった髪をわしゃわしゃと乱暴に、しかし慈しむようにしっかりと掴んだ。
お互いの息が激しく混ざり合い、部屋の空気がさらに熱く濃密に歪んでいく中、二人はもう誰にも止められない極限の頂点へと、まっしぐらに突き進んでいくのだった。
激しい熱気と息が詰まるような緊張感の果てに、部屋の空気が一瞬だけピタリと静まり返った。
アスカはわずかに身を起こし、口元を手の甲でそっと拭うと、苦そうな顔をしながらも、どこか誇らしげに、しかしひどく艶めいた瞳で八幡を見上げた。
「……っ……ふぅ……」
「お、おい……大丈夫か……?」
八幡は息を荒くしながら、自分の上に覆いかぶさっていた姿勢を崩し、ベッドに背中を預けて天井を見上げた。さっきまでの余裕はすっかり消え失せ、彼の額には汗が滲んでいる。
アスカは小さく喉を鳴らし、わざとらしくフンと鼻を鳴らしてみせた。
「っ……なによ、その心配そうな顔は。べ、別にどうってことないわよ……ちょっと、苦かったけどね!」
強がるようにそう言ったものの、その耳たぶから首筋にかけては、相変わらず真っ赤に染まったままだった。初めての経験に戸惑いながらも、負けず嫌いのプライドを総動員して平然を装う彼女の姿は、どう見ても隠しきれない可愛らしさを放っている。
そんなアスカの様子を見て、八幡は呆れたような、しかしどうしようもなく愛おしいものを見るような眼差しを向けた。
彼は乱れた前髪を雑に掻き上げると、片方の口角を持ち上げてふっと低く笑った。
「……はぁ。まったく、どこまで負けず嫌いなんだよお前は」
「なによ、文句あるわけ?」
「いや……」
八幡は起き上がると、真っ赤になりながらも強がるアスカの頬にそっと手を伸ばし、親指でその唇の端を優しく拭った。
「……ツンデレだな、お前は」
「っ……! な、なによそれ、変な言葉作らないでよ……っ!」
顔を真っ赤にしてバタバタと抗議するアスカだったが、八幡はその小さな手をしっかりと握り締め、そのまま自分の胸元へと引き寄せた。
「はいはい、女王様のお言葉はありがたく受け取っとくよ。……で、次はどうするんだよ」
その挑発的で、けれどどこまでも甘い響きに、アスカは息を呑んだ。
恥ずかしさと、それを上回る激しい熱に背中を押されながら、アスカは再び彼の胸元へと滑り込む。
世界のすべてが遠ざかっていくような静寂の中、二人の新しい夜は、まだ始まったばかりだった。
司令室の重苦しい、けれど甘い熱気が充満した空間の中で、伊吹マヤは自分の制服の裾を両手で強く握りしめたまま、うつむいていた。
顔から火が出るどころか、全身が溶けてしまいそうなほどの羞恥心が彼女を支配している。
さっきまで自分が何をしてしまったのか。あんなにも毛嫌いし、恐れていたはずのゲンドウの「雄としての色気」に当てられ、あろうことか自らその渦に飛び込んでしまった事実。
(ど、どうしよう……私、リツコさんと……司令と、あんな……っ!)
ちらりと視線を上げようとしたが、目の前にいる赤木リツコと碇ゲンドウの顔がどうしても直視できない。気まずさと、耐えがたい背徳感で、マヤの頭の中は真っ白になっていた。
そんなマヤの様子を見て、リツコは乱れた白衣の合わせ目を直しながら、どこか諦めたような、それでいて呆れを含んだ複雑なため息を漏らした。
「……まったく。あなたまで何をやっているのよ、マヤ」
叱責の言葉のつもりだったが、その声には先ほどまでの冷徹さは微塵もなく、むしろ同じ穴の狢(むじな)に対する奇妙な連帯感すら滲んでいた。
リツコは横に立つゲンドウを流し目で一瞥し、やれやれと頭を振る。
(……本当に、救いようのない男ね)
ユイという絶対に覆らない存在がありながら、その圧倒的な求心力と、隠しきれない野生の熱で、次々と女たちを引きずり込んでいく。気がつけば自分だけでなく、部下であるマヤまでをも「愛人」の枠組みへと取り込んでしまった。
普通なら呆れて愛想を尽かすべき状況なのだろうが、不思議と怒りは湧いてこなかった。
「……まあ、いいわ。これで、この男の周りにはまた一人、厄介な共犯者が増えたわけだけど」
リツコがふっと自嘲気味に艶やかな笑みを浮かべると、ゲンドウは少しも悪びれる様子を見せず、低い声でただ堂々と呟いた。
「……ふっ。増えたところで、大差はないさ」
その言葉に、マヤはビクッと肩を揺らす。
「あ、愛人って……私、そんなつもりじゃ……っ!」と赤面して抗議しようとするが、ゲンドウから放たれる圧倒的な存在感の前に、声はか細くかき消されていく。
(……なんで、こんな男に……。でも、もう逃げられない……)
司令室の片隅で、自分の運命が完全にこの狂った大人たちの輪に組み込まれてしまったことを悟りながら、マヤは真っ赤な顔のまま、小さく震え続けるしかなかったのだった。
司令室の重く閉ざされた空気の中、恥ずかしさで震えていた伊吹マヤの肩に、そっと温かな手が置かれた。
顔を上げると、そこにはいつもの冷徹な上司ではなく、すべてを受け入れるような妖艶な笑みを浮かべた赤木リツコが立っていた。
「……マヤ。いつまでもそこで固まっているつもり? せっかくの『特別講習』なんだから、逃げ出したりしないことよ」
「リツコ、さん……っ」
リツコに促されるようにして、マヤはそっとゲンドウの足元へと視線を落とした。
そこには、先ほどまでの激しい営みの名残を宿した、圧倒的な存在感を放つ熱があった。男嫌いだと自負し、男の体など直視したこともなかったはずの彼女の心臓が、恐怖ではなく、狂おしいほどの期待と熱望で激しく脈打つ。
「……伊吹。こっちに来い」
ゲンドウの低く響く声に導かれるように、マヤは震える手を伸ばした。
そして、隣に座るリツコと並ぶようにして、初めて見るその光景に向き合う。リツコが慣れた手つきでそれを優しく導き、マヤは促されるままに、そっと自分の唇を重ねた。
「っ……ん……っ!」
初めての経験に、マヤの喉が小さく鳴る。
熱く、硬質なそれに圧倒されながらも、リツコと呼吸を合わせるようにして、マヤは懸命に舌を這わせた。
自分が今、一人の「男」を快感の渦に突き落とし、その中心に存在しているという事実。それは、今までただの研究者として、誰かの背中を追うだけで生きてきたマヤに、強烈な「女としての自覚」を叩き込み、全身の理性を焼き尽くしていく。
「……はぁ……んっ……」
口元からこぼれた甘い吐息を拭う間もなく、ふと、隣から手が伸びてきた。
リツコが、真っ赤に染まった顔で荒い息をつくマヤの顎を優しく捉え、その唇をそっと塞いだ。
「っ……ん……リツコ、さん……?」
それは、師弟関係の枠を超えた、あまりにも濃厚で甘い口づけだった。
先ほどまでゲンドウを共有していた者同士の、秘密の共犯関係を確かめ合うようなキス。リツコの唇から伝わってきた熱と、大人の女性の香りに、マヤの頭は完全にトランス状態へと落ちていく。
そして、リツコから離れたマヤの顔を、今度はゲンドウの大きな手がしっかりと掴んだ。
「よくやった、伊吹」
褒めるような、あるいはさらに深く溺れさせようとするような低い声とともに、ゲンドウはマヤの唇を強く、深く奪い去った。
その圧倒的な「雄」としての熱量に飲み込まれながら、マヤはもう自分が誰で、どこにいるのかすら分からなくなっていた。
リツコと見つめ合い、ゲンドウの腕に抱かれ、女としての歓喜の淵で溺れていく。
ネルフ本部の最深部、狂気と愛欲が織りなすこの夜は、まだ始まったばかり――これから、さらに深く、暗い甘美の底へと沈んでいくのだった。
司令室の重く甘い熱気から少し離れた、静かな廊下。
モニターの明かりだけが薄暗く照らす管制ブロックの一角で、冬月コウゾウは手元の資料からふと顔を上げ、深い溜息をついた。
(……やれやれだ)
長年ゲンドウの傍らに仕えてきた彼には、奥の部屋から漏れ聞こえてくるかすかな気配や、組織のトップとしての異常なまでの密室の空気を察するに十分すぎる経験があった。
冷徹で非情なはずの碇ゲンドウが、いつの間にか複数の女性をその狂気と色気の渦に巻き込み、ドロドロとした愛欲の主となっている。
冬月は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、どこか呆れたような、それでいて苦笑を浮かべるしかなかった。
「……まったく、相変わらずモテる男だな、碇くんは」
呟いたその低い独り言に、背後から別の足音が重なった。
いつの間にか廊下に姿を現した赤木リツコ――先ほどまでの乱れた様子を完璧に整え、いつもの冷ややかな主席研究員の仮面を取り戻した彼女が、冷ややかに、しかしどこか含みのある笑みを浮かべて冬月の隣に並んだ。
「――何を他人事のように言っているんですか、冬月副司令」
リツコのその言葉に、冬月はわずかに眉をひそめて彼女に視線を向けた。
「ほう……私に何か言いたいかね、赤木くん」
「ふふ……。あなただって、若い頃は相当なものだったんじゃないですか?」
リツコは艶やかに微笑むと、少しだけ遠い目をしながら、かつての研究室の記憶をなぞるように続けた。
「……私の母から聞いたことがありますよ。『あの冬月という男は、一見すると堅物のようでいて、妙に女性の影を匂わせる危険な色気がある』ってね」
冬月の眉間にわずかに皺が寄る。
だが、リツコは構わず、さらにトドメとばかりに小さく笑ってこう告げた。
「それに――生前のユイさんも、あなたに対してこう言っていたわ。『冬月先生は、不器用だけど、どこか放っておけない包容力がある人だ』ってね。憧れていた……とまでは言わないまでも、彼女にとってあなたは、かけがえのない理解者で、特別な男の一人だったはずよ」
「……っ」
冬月の動きが、わずかに止まった。
亡きユイの名前。そして、遠い過去に封じ込めたはずの記憶の断片。
長年、ゲンドウの狂気の共犯者として、すべてを割り切って生きているつもりだった男の胸の奥で、かつての眩しい日々が音もなく揺らいだ。
彼は深く息を吐き出すと、苦笑を隠すように目を細め、静かに首を横に振った。
「……昔の話さ。それに、ユイくんにとって私は、あくまで教師であり、研究のパートナーに過ぎんよ」
「そうかしら?」
リツコはそれ以上詮索しようとはせず、ただ妖しく微笑んだまま、再び司令室の方へと視線を戻した。
「まあ、いいわ。……あの男の狂気に付き合わされているという点では、私たちがこうしてここにいることも、あなたがあの時あの男を見捨てなかったことも、同類だということよ」
冬月は何も答えず、ただ静かに窓の外の夜空を見上げた。
第3新東京市の暗闇の向こうで、それぞれの運命と欲望を抱えた者たちが、激しい熱のなかで息を潜めている。
過ぎ去った過去の影と、現在進行形の狂気が入り混じる夜の中で、二人の老いた共犯者は、ただ静かに時の流れを見守るのだった。
リツコから投げかけられた思わぬ過去の言葉に、冬月コウゾウの老いた胸の奥が、わずかに、しかし確かに波打った。
(……ユイくんが、私を……)
現役の教授だった頃、まばゆいほどの才能と輝きを持っていた碇ユイ。彼女に向ける自分の感情が、単なる研究者としての敬意や好奇心だけではなかったことなど、当時の冬月自身が一番よく分かっていたはずだ。
それでも踏み込まなかったのは、彼女が選んだ男がかつての教え子であったからか、あるいは自分のなかにあった理性の限界だったか。
(もしあの時――歳の差や立場なんてすべて放り出して、すべてを投げ打って彼女の手を取っていたら、今のこの世界は、少しは違った形になっていただろうか……)
ふと、そんな空想が脳裏をかすめる。
長年、死んだように冷え切っていたはずの胸の古傷が、奇妙な疼きとともに熱を帯びるのを感じ、冬月は思わず自嘲するように小さく息を吐き出した。老いぼれた学者にあるまじき、甘ったれた感傷だ。
彼はフッと乾いた笑いを漏らすと、隣に立つリツコには見えないように、そっと眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……若気の至りというやつさ。今さらそんな仮定に意味はない」
低く落ち着いたその声には、少しだけ自嘲の色が混じっている。
リツコはそんな冬月の横顔を横目で一瞥し、すべてを察したように意味深な笑みを浮かべただけで、それ以上詮索しようとはしなかった。
冬月はもう一度、窓の外に広がる漆黒の第3新東京市へと視線を戻す。
(――だが、まあ……)
手に入らなかったからこそ、あの眩しい笑顔も、遠い日の研究室の匂いも、色褪せることなく胸の奥に焼き付いている。
すべてを自分の所有物にしようとして狂気に堕ちたゲンドウとは対照的に、冬月は「届かないからこそ尊いものがある」という諦念と、どこか満たされたような苦笑を胸の内に沈めた。
「手に入らないからこそ、尊いのかもな……」
誰に聞かせるわけでもないその呟きは、夜の冷たい空気の中に溶けていくように、静かに消えていった。
第3新東京市の薄暗い一角、電話越しの喧騒から一転して、今度は静まり返ったアパートの一室。
先ほどまで司令室の狂熱に当てられ、心臓の鼓動が収まらないまま電話をかけた葛城ミサトの目の前には、いつの間にか駆けつけた加持リョウジが立っていた。
部屋のわずかな灯りの下、加持は怪訝そうに、けれどどこかからかうような笑みを浮かべてミサトを見つめている。
「で、なんだよミサト。そんな慌てた声で呼び出して……って、おい」
加持がポケットから慣れた手つきで取り出した小さな銀色の包み――それを、ミサトは無言ですっと奪い取り、カチリと音を立てて床の隅へと投げ捨てた。
「……っ! ミサト?」
さすがの加持も、これには目を丸くして動きを止めた。
いつもなら照れ隠しや冗談でごまかすはずのミサトの瞳に宿っているのは、異様なほど真剣で、揺るぎない覚悟の色だった。
彼女は一歩、加持へと詰め寄る。その細い身体から放たれる気迫は、いつもの酒好きでだらしない大人の女性のものではなく、運命に抗う一人の強い「女」のものだった。
「……使わせないわよ、そんなもの」
「おいおい、冗談だろ。それとも何か、急に魔が差したのか?」
加持が苦笑交じりに問い返すが、ミサトは一歩も引かなかった。彼女はグッと拳を握りしめ、まっすぐに加持の目を射抜くように言い放つ。
ミサトの言葉: 「冗談じゃないわ。……私は、覚悟がある。自分の人生も、選択も、すべて自分で引き受けるって決めたのよ」
圧倒的な迫力: 「……ねえ、加持くん。あなたはどうなの? 私を受け止める覚悟くらい、本当にあるの……?」
その男らしすぎるほどの真っ直ぐな問いかけと、胸を突き刺すような強い眼差しに、加持の表情から軽薄な笑みがすっと消え去った。
――いつも飄々と生き、組織の裏をかきながらどこか冷めた目で世界を見ていた男が、今、目の前にいる一人の女の気迫の前に、完全に圧倒されていた。
静寂の中、加持はゆっくりと息を吐き出すと、ふっと自嘲するように、しかし今まで見たこともないほど真摯で深い笑みを浮かべた。
彼はミサトの肩にそっと手を置き、その耳元へ引き寄せると、低く艶やかな声で囁いた。
加持の返答: 「……参ったな。いつだって、俺はその気さ、ミサト」
その言葉を合図にするように、加持の強い腕がミサトの背中を抱き締め、二人の唇が重なり合った。
組織の思惑も、過去の傷も、世界の運命もすべてを忘れさせ、互いの存在を確かめ合うように激しく求め合う夜が、この小さな部屋でもまた、静かに幕を開けるのだった。
重苦しい朝の空気が漂う第3新東京市立第一中学校の教室。
前夜の狂騒や大人たちのドロドロとした情熱とは裏腹に、教室の隅ではピリピリとした殺気を含んだ緊張感が充満していた。
「おい、碇……っ!」
ガタッ、と激しい音を立てて机を蹴り飛ばしたのは、鈴原トウジだった。
彼の妹が巻き込まれた過去の惨劇、そしてエヴァのパイロットとして相変わらず感情の読めない顔で窓の外を見つめている碇シンジの姿が、トウジの中で抑え込んでいた怒りのリミッターを外させた。
トウジは一気にシンジの胸倉を掴み、その拳を思い切り振り上げた。
「お前なぁ……! いつまでそんな涼しい顔してやがんだよ! 自分だけ守られて、周りがどうなってっか見えてねぇのかよ!」
「っ……鈴原くん……」
シンジは抵抗もせず、その拳が振り下ろされるのをただ真っ直ぐに見据えて固まっていた。
その瞬間。
教室の真ん中から、気だるげで、しかし妙に冷めた足音がカツリと響いた。
「おい、そこまでだ」
スッとトウジの背後に回り込んだ比企谷八幡は、迷うことなく、その鍛えられた――あるいは日々の不条理への苛立ちが乗った鋭い右ストレートを、トウジの頬に叩き込んだ。
「ぐっ……! な、なんだお……!」
不意打ちを食らったトウジがバランスを崩し、その場に大きくよろめく。
周囲の生徒たちが「キャー!」と悲鳴を上げて一斉に席を離れ、教室中が凍りついたように静まり返った。
トウジは口の端を拭い、殺気を帯びた目で振り返ったが、そこに立っていたのは、いつものように半目を細めた冷めた顔の八幡だった。
「八幡……テメェ、いきなりなにすんだよ!」
「うるせぇ。男が人前で情けねぇ声を張り上げてんじゃねぇよ」
八幡は面倒くさそうに自分の肩を回しながら、トウジを冷ややかに見据えた。
そして、戸惑うシンジを一瞥してから、真っ直ぐにトウジの目を射抜いて言い放つ。
八幡の言葉: 「――碇の文句は、俺に言え。」
決定的な一言: 「……まあ、聞く気はねえけどな。」
その理不尽極まりない、けれど圧倒的な力強さと自己中心的な庇護の姿勢に、トウジは怒りを忘れてポカンと口を開けた。
シンジもまた、自分の前に立ちはだかる八幡の背中を見つめ、驚きと安堵が入り混じった複雑な表情で息を呑む。
「なんだよそれ……お前、なんなんだよ……っ!」
トウジは苦笑いを浮かべながらも、これ以上殴りかかる気力はすっかり削がれていた。
教室のざわめきをよそに、八幡はふっと小さく息を吐き、自分の席へと戻っていくのだった。
教室の静まり返った空気の中、八幡の吐き捨てた低い声が、妙にハッキリと響き渡った。
自分の席の椅子に乱暴に腰掛け、面倒くさそうに前髪を掻き上げながら、八幡はもう一度トウジを鋭く睨み据える。その冷ややかな瞳には、ただの喧嘩の仲裁ではない、もっと剥き出しの怒りと苛立ちが宿っていた。
「……文句があるなら俺に言えとは言ったがな」
八幡は鼻で笑うように息を吐き、目の前で呆然としているトウジ、そして周囲で息を呑んで見守るクラスメイトたちを順に見回した。
八幡の言葉: 「碇が命懸けでお前らを守ってんのが、わかんねえのか?」
逃げ場のない正論: 「こいつはまだ、ガキなんだぞ。背負わなくていいもんまで背負わされて、ボロボロになりながら戦ってんだよ。……お前に、同じことができるのか?」
その言葉は、トウジだけでなく、この教室にいる誰の胸にも重く突き刺さった。
エヴァンゲリオンという巨大な機械に乗せられ、いつ死ぬか分からない戦場へ放り出されているのは、自分たちと同い年の、まだ何の変哲もない少年少女なのだ。理不尽な運命に怯えながらも、歯を食いしばって命を削っているのは、他でもないその「目の前で怯えている少年」なのだから。
トウジは拳を握りしめたまま、ぐっと言葉に詰まった。
妹の件でやり場のない怒りを誰かにぶつけたかった。だけど、「お前に同じことができるのか」という問いの重さに、彼はそれ以上、シンジに詰め寄る声を出すことができなかった。
「……っ……」
トウジは悔しそうに顔を歪めると、そのまま自分の席へと乱暴に倒れ込み、窓の外へと顔を背けた。
教室の空気が、気まずい沈黙のあと、再びゆっくりと動き出す。
そんな中、シンジは自分の前に立ちはだかり、あんな風に泥を被ってくれた八幡の背中を、信じられないものを見るような、そしてどこか救われたような瞳で見つめていた。
「……おい、碇」
八幡は振り返りもせず、机に突っ伏したまま気だるげに声を投げる。
「いつまでそんな情けねぇ顔してんだ。……さっさと座れ、授業始まるぞ」
「……うん。……ありがとう、比企谷くん」
シンジは震える声を整えながら、小さく、しかしはっきりとそう答えて自分の席へと戻った。
世界がどれほど歪んでいようとも、大人たちがそれぞれの狂気と熱情に溺れていようとも、この教室の小さな片隅で、彼らは彼らなりのやり方で、互いを守り、未来へと足を踏み出し始めていた。
チャイムが鳴り響き、ざわめきを取り戻しつつある教室のなか、八幡は自分の机に突っ伏したまま、面倒くさそうに片手をヒラヒラと振ってみせた。
「……おい、シンジ」
その呼び方に、自分の席に座ったばかりのシンジは小さく肩を揺らし、ハッとして八幡の方を見た。
「さっきから『比企谷くん』なんて他人行儀な呼び方すんの、いい加減やめろよ」
八幡は気だるげに顔を上げると、相変わらずの半目を向けながら、フッと小さく鼻で笑った。
八幡の言葉: 「――八幡って呼べよ。ダチだろ?」
その言葉は、突き放すような普段の口調とは裏腹に、驚くほどまっすぐで、温かかった。
ボロボロになりながらも誰かのために戦うシンジを認め、同じ泥を被ると選んだ男からの、不器用すぎる「友人」の宣言。
シンジの胸の奥が、熱いもので一気に満たされていく。
これまで孤独の中で誰にも名前を呼ばれず、怯えるだけだった自分が、いま確かにこの世界に繋ぎ止められたような気がした。
「……うん、」
シンジは少しだけ涙を滲ませた瞳を隠すように、しかししっかりと前を向き、初めてその名前を呼んだ。
シンジの返答: 「――うん、八幡。」
その響きを聞いた八幡は、満足したのか再びフイッと顔をそむけ、窓の外へと視線を戻した。
不条理な運命や大人たちの狂騒の渦中で、傷だらけの少年たちは、確かな絆をその手に握りしめていた。
授業の合間、ざわつく教室の喧騒をよそに、八幡は気だるげに席から立ち上がると、そのままトウジの机へと歩いていった。
ドン、と無愛想にトウジの机を片手で叩く。
突然のことにトウジは顔をしかめ、不機嫌そうに視線を上げた。「なんだよ、まだ説教かよ……」と身構えるトウジに対し、八幡はいつも通りの半目を向けたまま、しかしどこか淡々とした声で言い放った。
「……さっきは、いきなり殴って悪かったな。手加減はしたつもりだけどよ」
謝っているのか煽っているのか分からないその言い方に、トウジはわずかに目を丸くした。
だが、八幡の言葉はそこで終わらなかった。彼は自分の頭を軽くポリポリと掻きながら、まっすぐにトウジを見据えて続ける。
八幡の言葉: 「……まあ、言い過ぎたのは謝るけどよ。だけど、シンジは俺のダチだからよ。あいつに何か言うなら、まずは俺を越えていけってことだ。」
「……っ……」
トウジは息を呑んだ。
さっきまで胸の内で煮えくり返っていた怒りは、八幡のその真っ直ぐで不器用すぎる理屈の前に、すっかり行き場を失っていた。
「……テメェな……」
トウジは大きく息を吐き出すと、ガリガリと自分の頭を乱暴に掻きむしった。そして、照れ隠しと気まずさをごちゃ混ぜにしたような苦笑いを浮かべ、ふっと息を漏らす。
「……ちっ。なんだよそれ。一方的に殴っといて、ダチ宣言とか狡いんだよ、比企谷……」
「名前で呼べよ。あと『比企谷』じゃなくて『八幡』だろ、そこは」
「はいはい、分かったよ……! 悪かったな、八幡!」
トウジが観念したようにそう吐き捨てると、教室の隅でそのやり取りを息を殺して見守っていたシンジの顔に、今日一番の、柔らかく暖かい笑みが広がった。
大人の世界がどれほど歪んだ愛欲と狂気に満ちていようとも、崩壊しかけた世界の中で生きる少年たちは、彼らなりの不器用な絆と熱量で、しっかりと未来への足場を固め始めていた。
放課後の穏やかな空気を切り裂くように、街の防災無線の不気味なサイレンと、けたたましい救急車の音が第3新東京市に鳴り響いた。
「……っ、鈴原の妹だ!」
教室のざわめきが一気に凍りつく。トウジの顔から血の気がサーッと引いた。妹の手術に向かう途中で事故に遭ったという連絡を受けたトウジは、青ざめた顔のまま、廊下を走ることも忘れたようにその場に崩れ落ちそうになった。
「おい、トウジ!」
誰よりも早く動き出したのは八幡だった。
いつもの気だるげな様子は完全に消え失せ、八幡は震えるトウジの襟首を強引に掴み上げて立たせた。
「いつまでも突っ立ってんじゃねぇ! 行くぞ!」
「……っ! 八幡……!」
二人が駆け込んだ第3新東京市立総合病院の処置室は、緊迫した空気に包まれていた。
事故による激しい出血。しかし、第3新東京市という特殊な要塞都市の構造上、そして突発的な被害が重なった影響で、病院の血液バンクにあるはずの特殊な血液――鈴原の妹の希少な血液型に適合するストックが、決定的に不足していた。
「このままでは出血性ショックで……! 適合する血液が足りない……っ!」
医師の切羽詰まった声が響く。
ベッドの上で意識を失い、蒼白な顔で横たわる幼い少女の姿を見て、トウジは自分の無力さに打ち震えながら、拳を床に叩きつけた。
「ちくしょう……! なんでだ……俺の妹なのに……!」
その時、腕まくりをしながらスッと処置室に入ってきた影があった。
比企谷八幡だった。
「……おい、俺の血を使え」
静かだが、一切の迷いのない声に、担当医もトウジも驚いて振り返った。
「き、君……! しかし、適合検査を……」
「いいから早くしろ。俺の型なら問題ねぇはずだ。……それに」
八幡はトウジを一瞥し、いつもの不敵でひねくれた、けれど揺るぎない笑みを少しだけ浮かべた。
「ダチの妹がピンチなんだ。これくらい、割に合わない労働の範疇だろ」
看護師が慌ただしく準備を進め、八幡はベッドの横に腰掛けた。
太い針が腕の血管に突き刺さり、鮮血がチューブを通って少女の体へと流れていく。自分の命を削るようなその痛みを、八幡は顔色一つ変えずにじっと受け止めていた。
「八幡……お前……っ!」
トウジは震える両手で顔を覆い、あふれ出る涙を堪えきれなかった。
冷酷な運命に翻弄されるこの世界で、損得勘定ばかりで生きているはずのひねくれた男が、自分のために、自分の大切なもののために、その血を分け与えている。
チューブの向こうで、少女の微弱だった心拍数が、ゆっくりと安定を取り戻していく。
蒼白だった頬に、わずかに温かな色が戻ってきたのを確認すると、八幡はふうっと大きく息を吐き出し、安心したように目を細めた。
「……ほら、泣くなよトウジ。見苦しいぞ」
「……誰が泣くかよ、バカヤロウ……!」
涙を拭いながら叫ぶトウジの肩に、八幡は荒荒しく、けれど温かい片手をドンと乗せた。
狂気と絶望に満ちた世界の中で、少年たちの絆は、誰にも引き裂けない確かな血の繋がりとなって、静かに深く結ばれていくのだった。
点滴のチューブが外され、処置室の静けさの中に、少女の規則正しい小さな寝息だけが聞こえていた。
薄暗い病室のベッドの上で、鈴原の妹――スズカは、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
ぼんやりとした視界の先、椅子に腰掛けて腕をさすっていた八幡の姿が飛び込んでくる。自分の命を救ってくれたのが目の前の少し気だるげな少年だと知ると、スズカはかすかに頬を赤らめ、潤んだ大きな瞳をまっすぐに八幡に向けた。
「……あの、お兄ちゃん……じゃなくて……」
掠れた、か細い声だったが、その響きには年頃の少女らしい真っ直ぐな熱が宿っていた。
スズカは布団の端をぎゅっと握りしめ、トウジの制止も聞かずに、トロンとした熱っぽい目で八幡を見上げる。
「お兄ちゃんから聞いたよ……。私のために、自分の血を分けてくれたって……。……かっこよかった、です。私、大きくなったら……この人のところに、お嫁に行く……っ!」
「ぶっ……!?」
病室の隅で冷や汗を流しながら立っていたトウジが、思わず自分の唾液で盛大にむせた。
「おい、スズカ! 何言ってんだお前、相手はこれでも一応高校生だぞ! まだガキだろ!」と慌てて妹の頭を抑えにかかるが、スズカはふんっと頬を膨らませて八幡から目を離そうとしない。
ベッドの横で、八幡はさすがに面食らったように目を丸くし、それから苦笑いを浮かべながらポリポリと頭を掻いた。
「……はぁ。なんだそりゃ。命の恩人に惚れるってのは、三面記事の読みすぎだな、お嬢ちゃん」
「子ども扱いしないで! 私、本気だもん……!」
必死に抗議する少女の、あまりにも真っ直ぐで汚れのない好意。
いつもならひねくれた皮肉で煙に巻くはずの八幡だったが、今回ばかりはどこか気恥ずかしそうに視線をそらし、ふっと小さく息を吐いた。
そして、彼女の頭にそっと大きな手を置き、低く落ち着いた声で、しかしどこか大人の余裕を感じさせる冗談めかして言った。
八幡の言葉: 「――まあ。10年後、気が変わってなかったらな。」
「……っ……! 約束、だからね!」
スズカは真っ赤になった顔を隠すように、パッと布団を頭まで被ってしまった。
その様子を見て、トウジは頭を抱えながらも、複雑な、しかしどこか救われたような笑みを浮かべる。
「おい八幡……お前、罪な男だな……」
「うるせぇよ、たまたま血の気が多かっただけだ。……ほら、安静にさせてやれ。俺は帰る」
八幡は面倒くさそうに手を振ると、そのまま病室の扉をあとにした。
廊下のひんやりとした空気を吸い込みながら、八幡は自分の腕の絆創膏をそっと指で押さえた。
大人の世界がどれだけドロドロとした愛欲や狂気に満ちていようとも、この街の片隅で、少年たちはそれぞれの仕方で誰かを救い、誰かに必要とされ、確実に未来の重みを受け止め始めているのだった。
ネルフ本部、最深部の重厚な扉を、比企谷八幡は遠慮のかけらもなくノックもせずに押し開いた。
「おい、碇司令。ちょっと面会いいか」
部屋の中にいたのは、ついさっきまでリツコやマヤをその狂気と色気の渦に巻き込んでいたはずの碇ゲンドウ。
いつもの冷徹で絶対的な権威をまとった男の前に、八幡は気だるげに片手をポケットにつっこんだまま、ズカズカと歩み寄った。
リツコは驚いたように目を丸くし、ゲンドウはわずかに眉をひそめてその不敵な少年を見上げる。だが、八幡は臆することなく、司令官のデスクにドンと両手を突いた。
八幡の説教: 「……で、なんだこれ。今更こっそり愛人作っていい歳こいて何やってんだよ、アンタは。職場環境の私物化も大概にしろっての。こっちは色々と巻き込まれて迷惑被ってんだよ。」
そのあまりにも直球で、組織の最高権力者に対するものとは思えない不遜な説教に、司令室の空気が一瞬で凍りついた。
リツコが息を呑み、ゲンドウは言葉を失う。――図星を突かれたのか、あるいはこの年下の少年の圧倒的な図太さに気圧されたのか、絶対の支配者であるはずのゲンドウは、わずかに目を伏せたまま、何も言い返すことができなかった。
一瞬の沈黙の後、八幡はふっと鼻で笑い、冷ややかに付け加えた。
脅迫の代償: 「……まあ、この話をネルフ中の連中にバラされたくなかったら、今夜の夕食に付き合えよ。もちろん、奢りでな。」
静かなる夜の会食
第3新東京市内の、どこか寂れた、しかし静かな定食屋。
そのテーブルの向かい側に座っていたのは、他でもない碇ゲンドウと――そして、隣に静かに腰掛ける碇シンジだった。
気まずい沈黙がテーブルを支配する中、湯気を立てる温かな食事が運ばれてくる。
だが、そこに座っているシンジは、かつてのように怯え、俯き、父親の顔色をうかがうだけの「子ども」ではなかった。
真っ直ぐにゲンドウを見据えるその瞳には、戦いを潜り抜け、自分の意志で誰かを守ると決めた者だけが持つ、鋭くも静かな「男の目」があった。
ゲンドウは、目の前に座る息子と、その場をセッティングしたであろうひねくれた少年の姿を交互に見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……これまでのことだ。シンジ、私からお前に言うべき言葉があるとすれば……すまなかった、ということだな」
世界の運命を優先し、息子を顧みず、道具としてしか扱ってこなかった男からの、初めての謝罪。
それは、かつてのシンジであれば泣き崩れるか、あるいは拒絶していたかもしれない。
だが、今のシンジは違った。
シンジは静かに立ち上がると、ゲンドウの目の前まで歩み寄り――迷うことなく、その固く握りしめた拳を父親の頬に叩き込んだ。
「ぐっ……!」
重い鈍い音が、静かな店内に響く。
ゲンドウは顔を大きく弾かれながらも、抵抗せず、ただその衝撃を受け止めた。
シンジは自分の赤くなった拳を見つめ、それから、かつては巨大に見えていたはずの父親の顔を、今はっきりと見下ろした。
シンジの決着: 「……これで、チャラにしてやるよ。」
大人の証明: 「もう同情も期待もしない。だけど、これからは俺の人生に勝手に干渉するな。……父さん。」
その圧倒的な成長と決意の籠もった言葉に、ゲンドウはあっけにとられたように目を見張り、暫くの間、言葉を失って固まっていた。
絶対の支配者として君臨してきた男が、自分の血を引く息子の成長の前に、初めて「親」として打ち負かされた瞬間だった。
「……はっ。なんだよ、すげぇいい顔じゃねぇか」
端の席で、茶碗に箸をつけながら、八幡は呆れたような、しかしどこか満足そうな笑みを浮かべてぼそっと呟いた。
「さっさと食えよ、冷めちまうだろ。奢りなんだから遠慮しなくていいんだよ、司令」
八幡のそのふざけた、けれど温かな一言をきっかけに、凍りついていた空気がふっと緩む。
シンジは小さく息を吐き出すと、自分の席に戻り、温かい白米に箸をつけた。
世界の狂気も、大人のドロドロとした欲望も、この瞬間だけは遠ざかり、歪んだ街の片隅で、少年たちは確かに自分たちの手で未来を切り開き始めていたのだった。
定食屋の薄汚れたガラス窓の外。
夜の冷たい外気に身を隠すようにして、その店内の光景をじっと見つめている一団がいた。綾波レイ、赤木リツコ、惣流・アスカ・ラングレー、伊吹マヤ、葛城ミサト、そして冬月コウゾウ。
まさかあの比企谷八幡が、ネルフの最高権力者である碇ゲンドウを脅して夕食の席に引っ張り出し、さらにその息子であるシンジが父親をぶん殴る――そんな前代未聞の修羅場を、彼らは外から目撃していた。
息を呑むような沈黙の後、マヤが信じられないものを見る目で小さく呟いた。
「い、今……シンジ君が、司令を……殴りましたよね……? あんなことして、あの人、大丈夫なんですか……!?」
リツコは呆れたような、しかしどこか愉快そうに唇の端を持ち上げ、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「やれやれ……あのガキ、本当にどこまで図太いのよ。ゲンドウを脅してラーメン屋の奢りにさせるなんて、世界でアイツくらいのものでしょうね」
隣でアスカは、腕を組んでふんと鼻を鳴らしたものの、その頬はなぜか誇らしげに少し赤かった。
「ま、当然よ! バカ八幡ならそのくらいやって当然だわ。……でも、アンタの息子も、意外とやるじゃないの、レイ」
アスカに話しかけられたレイは、窓の向こうで堂々と父親に向き合うシンジの姿をじっと見つめ、静かに、しかし確かな光を宿した瞳で小さくうなずいた。
「……うん。シンジ君は、もう逃げない」
ミサトはビールを飲みたい衝動をぐっと堪えながら、苦笑を浮かべて頭をポリポリと掻いた。
「はあ……。男のプライドとか権威とか、あのガキが一網打尽にしちゃったわね。なんだか、こっちの苦労がバカらしくなるじゃないの」
そんな女性たちの喧騒の少し後ろで、冬月コウゾウは両手をコートのポケットに突っ込み、眼鏡の奥の目を細めて店内の様子を観察していた。
教え子であるゲンドウが息子に殴られ、言葉を失っているという前代未聞の光景。普通なら組織の崩壊を危ぶむべき場面なのだろうが、冬月の胸の内には妙な爽快感すらあった。
ふと、リツコが斜め後ろの冬月に視線を向け、面白がるように問いかけた。
「ねえ、冬月副司令。あんなふうに若い奴らにかき乱されて……男って、あんな有様でいいのかしらね?」
リツコの意地悪な問いかけに、冬月は低く枯れた笑い声を漏らすと、夜空に向かって白く細い息を吐き出した。
冬月の答え: 「……まあ。」
深みのある言葉: 「男なんてのは、大切なものを守るためなら、時にはガキに殴られ、膝を屈するくらいがちょうどいいのさ。……昔の私たちには、あんな真似はできなかったがな。」
その言葉に、リツコは小さく息を呑み、それ以上何も言わずに再び店内の二人へと視線を戻した。
窓の向こうでは、殴られた痛みを噛み締めながらも、どこか吹っ切れたような顔で箸を進めるゲンドウと、その向かいで頼もしい男の顔を浮かべ、しっかりと飯を食らうシンジの姿があった。
狂った世界と歪んだ大人たちの思惑の隙間で、次世代の少年たちは、確実に自分たちの手で新しい明日を掴み取ろうとしていた。
定食屋のざわめきが少しずつ夜の静寂に溶けていく中、店主の目を盗むように、いつの間にかテーブルの上には一升瓶と無骨なグラスが並べられていた。
「……おいおい、未成年が酒ってのはどうなんだよ」
八幡は面倒くさそうにグラスを指先で転がしながら、目の前に座るゲンドウを斜に構えた目で睨んだ。
司令官という絶対的な権威はすでにその場になく、ただのくたびれた男の顔をしたゲンドウは、無言でグラスに透明な液体をなみなみと注ぐ。
「……明日には使徒が来るかもしれん。人類の補完計画がどうこう言ってる連中が、全てをひっくり返すかもしれん」
ゲンドウは低い声で呟くと、グラスを傾け、喉へと一気に流し込んだ。その乾いた笑みには、かつての冷徹さではなく、どこか自虐的な諦念と、隠しきれない男の業(ごう)が滲んでいた。
「明日死ぬかもしれん。……シンジが成人するまで、おとなしく待てるほど、この世界は優しくないということだ」
その言葉は、リツコやマヤをその渦に巻き込み、ユイの影を追い続ける自分自身の歪んだ生き様を、そのまま肯定するようなものだった。
だが、そのゲンドウの言葉に、隣に座っていたシンジは怯むことなく、むしろ冷めた、しかし揺るぎない覚悟を宿した目でグラスを見つめた。
シンジは震える手でそれを持ち上げると、逃げずに父親の目を見据えて一気に飲み干した。
「……ゲホッ……っ」
喉が焼け付くような痛みにわずかに顔をしかめながらも、シンジは顔を上げ、はっきりとと言い放った。
「……子供扱いしないでよ、父さん。待つなんて、もうごめんだ。明日どうなるかなんて分からないなら、今、俺が選ぶ」
そのシンジの頼もしい姿に、八幡はフッと呆れたような、しかしどこか満足そうな笑みを浮かべた。
「はっ、言うじゃねえか。……まあ、お前の言う通りだ。未来なんて不確定要素の塊を当てにするより、目の前の面倒臭い現実をどうにかする方が、よっぽど俺たちらしいぜ」
八幡も自分のグラスに酒を注ぎ、二人のグラスへと軽くだらしなくぶつけた。
冬月の乱入
その時、ガタッと戸が開き、白衣を脱ぎ捨てた冬月コウゾウが静かに店に入ってきた。
彼は遠慮もせず、ギシギシと音を立てるパイプ椅子を引き寄せると、ゲンドウたちの隣にドカッと腰を下ろした。
「……おいおい、若い者だけでいい酒を飲んでいるじゃないか。老いぼれを仲間外れにするなよ」
「……冬月先生?」
驚くシンジを横目に、冬月は手酌でグラスに酒を満たすと、かつての教え子であり、今は狂気と欲望の共犯者であるゲンドウを一瞥して低く笑った。
「まったく……碇くん。君が若い頃から身勝手な男だったのは知っていたが、息子に説教され、ガキどもに一杯食わされるとはな。だが――」
冬月はグラスを掲げ、夜の闇の向こうに広がる第3新東京市のシルエットへと視線を向けた。
冬月の言葉: 「……悪くない夜だ。失った過去の幻影ばかりを追っていた私には、こういう泥臭い現在(いま)が、ひどく眩しく見えるよ。」
「……先生、酔っているのか」
「さあな。だが、悪酔いはしないさ」
ゲンドウは小さく鼻で笑うと、再び酒を煽った。
定食屋の小さな明かりの下、世界を揺るがす陰謀の真ん中にいる男たちと、それをぶち壊そうとする次世代の少年が、酒を酌み交わす。
歪みきった世界の片隅で、彼らはそれぞれのやり方で明日への覚悟を飲み干し、静かに熱い夜を深めていくのだった。
居酒屋のテーブルを包んでいた重く熱い空気の中、ふと、戸の向こうから聞こえるはずのない女性の気配が混じった。
いつの間にか、定食屋の引き戸が静かに開き、そこに立っていたのは赤木リツコだった。
彼女は白衣の裾を揺らしながら、まるで当然のように店内に入ってくると、酔い潰れかけたゲンドウの隣にスッと腰を下ろした。冷徹な主席研究員の仮面はすでに脱ぎ捨てられ、その瞳には妖しくも据わったような、強烈な「女」の熱が宿っている。
リツコはグラスに残っていた酒を軽蔑するように一瞥し、フッと艶やかに笑った。
「――『明日死ぬかもしれない、か』。……いい言葉ね、碇司令」
その言葉に、ゲンドウがゆっくりと顔を上げる。リツコはゲンドウの肩に自然に手を回し、まるで世界を挑発するかのように、店内にいる全員に向けてはっきりと宣言した。
リツコの決意: 「明日世界が終わるかもしれないなら……遺伝子でも残しておくべきかしらね。子どもでも作るかな、私。」
そのあまりにも唐突で、しかし絶対的な現実味を帯びた言葉に、シンジは思わずむせ返り、八幡は「おいおい、研究室のノリを外に持ち出すなよ……」と頭を抱えて頭をポリポリと掻いた。
だが、そのリツコの言葉を皮切りに、さらなる嵐がこの小さな定食屋に吹き荒れる。
店の外の暗がり、窓ガラスの隙間からその光景を覗き見ていた葛城ミサトが、フッとあきれたような、しかしどこか吹っ切れたような美しい笑みを浮かべた。彼女はポケットに手を突っ込み、店内に向かって声を張り上げる。
「まったく……リツコのやつ、酔った勢いでまたとんでもないこと言い出して。……でもまあ、悪くないわね」
ミサトはクスクスと笑いながら、自分の胸元にそっと手を当てた。いつだって死と隣り合わせの人生を歩んできた彼女にとって、「未来を残す」という選択肢は、何よりも強烈な生への執着であり、覚悟の証明だった。
そのミサトの言葉に、店内の隅で静かに酒を飲んでいた惣流・アスカ・ラングレーの顔が、一気に真っ赤に染まった。
「なっ……! 何バカなこと言ってあんたたち……っ!」
アスカはガタッと椅子を激しく引いて立ち上がり、気まずさと恥ずかしさで耳たぶまで真っ赤にしながら腕を組んだ。
「子ども、だなんて……! まだ、そんなの……っ!」
しかし、アスカがどれだけ顔を真っ赤にして否定しようとも、彼女の視線は無意識に、隣に座る八幡の横顔へと釘付けになっていた。その心の奥底で、拒絶しきれない「未来」の予感に、心臓がうるさいほど激しく鳴り響いているのを、彼女自身隠すことができなかった。
そして――静まり返った店内のもう一つの隅。
綾波レイは、感情の読めない静かな瞳でリツコやミサトを見つめ、それから、自分の向かい側に座るシンジの顔をじっと見つめた。
レイは小さく息を吐くと、まるでそれが当たり前の義務であるかのように、迷いのない透き通った声でぽつりと呟いた。
レイの言葉: 「……私も。あなたとの、子どもを……作る。」
「ぶっ……!?」
さっきまで余裕ぶっていた八幡が、今度こそ盛大に酒を吹き出しそうになり、シンジは顔を真っ赤にして椅子からずり落ちそうになった。
「れ、レイちゃん……!? い、いきなり何言ってるの……っ!」
世界が崩壊しようとも、使徒の脅威が人類を叩き潰そうとも、そんなものは知ったことかとばかりに、最前線に立つ女たちが次々と「生」と「未来」の選択を突きつけてくる。
ゲンドウは深々と溜息をつき、冬月はそんな若者たちと女たちの暴走を眺めながら、「まったく、これではどちらが滅びの危機かわかったもんじゃないな」と声を出して笑った。
歪みきった世界の、終わらない夜の中で、次世代を繋ぐための熱は、もはや誰にも止められないうねりとなって、確実に動き始めていた。
定食屋の薄暗い灯りの下、次々と飛び出す女たちの過激な決意に気圧されていた店内だったが、その熱気は次第に、より深く、逃げ場のない「現実」と「覚悟」へと収束していった。
真っ赤になりながらも顔を上げ、シンジは自分の目の前に座る父親――ゲンドウをまっすぐに見据えた。
その瞳に、もう迷いや怯えの色はない。そこにあったのは、すべてを自分の意思で引き受ける男の決意だった。
「……父さん」
低い、けれどはっきりと通るシンジの声に、ゲンドウはグラスを置いた。
シンジの宣言: 「俺は……将来、レイと結婚する。」
その言葉の直後、隣に座っていたレイがわずかに目を丸くし、そしていつものどこか儚げな表情から、雪解け水のような静かで美しい笑みを浮かべた。彼女はそっとシンジの袖を小さく掴み、無言でその言葉を肯定する。
シンジのその真っ直ぐな宣言に、今度は斜め向かいに座っていた八幡が、面倒くさそうに、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべてグラスを傾けた。
八幡は隣で耳まで真っ赤にしてそっぽを向いているアスカを一瞥し、それからゲンドウとシンジを順に見据えて言い放つ。
八幡の宣言: 「……まあ、そういうことだ。俺もだ。俺はアスカと結婚する。文句ねぇよな、司令官。」
「なっ……! 何勝手に決めてるのよ、バカ八幡……っ!」
アスカは恥ずかしさのあまり叫び声を上げ、顔から湯気が出そうなほど赤くなりながら八幡の肩をバンバンと叩いたが、その瞳には嬉し涙がうっすらと滲んでいた。
ふたりの少年が放った、あまりにもまっすぐで、世界を背負う者たちとは思えないほど泥臭い、けれど圧倒的に尊い「未来の約束」。
ゲンドウは、目の前にいる息子と、その相棒であるひねくれた少年の顔をじっと見つめた。
かつて自分自身が選んだ「ユイとの未来」の幻影に囚われ、世界を滅ぼしかけていた男の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ、そして新しく満たされていくのを感じた。
ゲンドウは静かに目を閉じると、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
ゲンドウの言葉: 「……そうか。」
その一言には、かつての冷徹な司令官としての命令でも、冷たい拒絶でもなく、一人の父親として、そして同じ男として、次世代の意志を受け入れる重みが宿っていた。
ゲンドウはグラスに酒を再び満たし、力強く言い放つ。
ゲンドウの決着: 「ならば――勝たねばならんな。」
未来のための戦い: 「神だろうと、使徒だろうと、人類の補完計画だろうと関係ない。……お前たちの描いた未来を奪うものは、すべて叩き潰す。」
そのゲンドウの言葉に、隣に座っていた冬月コウゾウは、深く、そしてどこか満たされたような笑みを浮かべた。
冬月は自分のグラスを掲げ、ゲンドウのグラス、そしてシンジや八幡のグラスへと静かに合わせた。
「まったく……。大人の都合で歪めたこの世界を、子供たちにここまで背負わせるとはな。だが――」
冬月は穏やかな笑みを浮かべ、夜空の向こうの使徒の気配を睨みつけるように、力強く呟いた。
冬月の言葉: 「負けるわけにはいかんさ。若者たちの未来を邪魔する権利など、この世界のどこにもないのだからな。」
定食屋の小さな空間が、世界を敵に回してでも「明日」を掴み取るための、確かな要塞へと変わった瞬間だった。
歪みきった狂気と愛欲の夜の果てに、少年たちは自らの手で未来を勝ち取るための戦火へと、真っ直ぐに歩み出すのだった。
定食屋の薄暗い灯りの下、ゲンドウが放った「叩き潰す」という言葉に、八幡はフッと冷めたような、それでいてどこか深い洞察を湛えた笑みを浮かべた。
彼は手元のグラスを軽く傾け、中の氷がカランと音を立てるのを耳にしながら、まるで他人事のように、しかし残酷なほど核心を突いた調子で呟く。
「――『神をも殺す』、か」
八幡は視線を上げ、驚愕の色を隠せないでいるゲンドウと冬月の老練な顔を順に見据えた。
八幡の言葉: 「まあ、あながちただのハッタリでもないんだろ? アンタらがやろうとしてる人類補完計画だの、使徒の襲来だのってごたごたも、突き詰めれば『人間がどうにかできる範疇』のゴタゴタにすぎねぇよ。」
「……なんだと?」
ゲンドウがわずかに眉をひそめる。長年、人類の進化と神の領域に踏み込もうとしてきたNERVの総司令官にとって、目の前のひねくれた高校生が放つ言葉は、あまりにも軽妙でありながら、無視できない重みを持っていた。
八幡は面倒くさそうに頭を掻き、グラスをテーブルに置いた。
八幡の洞察: 「いや、別に俺が特別な予言者ってわけじゃない。ただ、なんとなく見えてきただけだ。……俺たちは今、こうして互いの欠けた部分を埋め合って、なんとか正気を保ちながら補完しあっている。」
その言葉に、シンジやレイ、アスカ、そして店の外にいる彼女たちの顔が脳裏をよぎる。歪みきった狂気と愛欲の中で、彼らは確かに、不完全な者同士で手を取り合い、一つの強い意志を形作り始めていた。
だが、八幡の口元に浮かんだ笑みは、どこか冷ややかだった。
八幡の冷徹な結論: 「……けど、それを『人類全体』のスケールでやろうとするから話がおかしくなる。個人のエゴと補完をごちゃ混ぜにした結果が、あのエヴァの群れと使徒のバーゲンセールだろ?」
八幡は肩をすくめ、かつての哲学者や神話の神々を嘲笑うかのように、静かに言い放った。
決定的な一言: 「――まあ、できるさ。神を作ったのは人間だ、って説もあるくらいだしな。人間が作り出した厄介な神様なら、人間が直接ぶん殴って引導を渡してやるのも、悪くねぇ落とし所だろ。」
その言葉を聞いた瞬間、ゲンドウは絶句した。
長年、自らの手で「神」を模し、世界を再構築しようとしていた男にとって、その神を「人間が作ったおもちゃ」のように切り捨てる八幡の視点は、あまりにも斜に構えていて、同時にあまりにも圧倒的だった。
隣に座っていた冬月コウゾウは、しばらく目を見張った後、やがてこらえきれなくなったように低く、しかし心底面白そうに笑い声を漏らした。
「はっ……ははは……!」
冬月は眼鏡を外し、乾いた布で目を押さえながら、かつて自分が教え子に抱いていた絶望と、今目の前にある希望のコントラストを噛み締めるように首を横に振った。
「――神を作ったのは人間、か。……まったく、君という高校生は、本当にどこからそんなひねくれた達観を仕入れてくるのやら。だが……」
冬月は笑みを収め、静かに、しかし力強くグラスを再び掲げた。
「その傲慢で不遜な若さこそが、今の泥沼の世界をひっくり返す唯一の特効薬かもしれないな」
ゲンドウもまた、深く息を吐き出すと、かすかに口元を緩め、自分のグラスを八幡のグラスへとぶつけた。
カツン、と乾いた高い音が、静まり返った定食屋に響く。
神の領域に挑む大人たちの狂気と、それを自分たちの小さな絆で塗りつぶそうとする少年たちの達観。
世界の運命を賭けた最終決戦の夜は、誰にも止められない狂騒と、確かな希望を乗せて、静かに夜明けへと向かって走り出していた。
定食屋の静まり返った空気の中、グラスの乾杯の余韻に浸る大人たちをよそに、比企谷八幡はふと視線を窓の外の夜空へと向けた。
第3新東京市の闇の向こうで、赤く不気味に明滅するジオフロントの気配や、いつ襲来するとも知れない使徒の影。そして、人間が勝手に作り上げ、勝手に神格化しようとしている巨大なエヴァンゲリオンと人類補完計画の仕組み。
そのすべての不条理と、どこか用意された台本のような世界のエンドロールを思い描きながら、八幡は小さく、しかしはっきりと呟いた。
「――デウス・エクス・マキナ、か」
その聞き慣れない、けれどひどく演劇的で不吉な響きに、グラスを置こうとしていた碇ゲンドウの手がピタリと止まった。
ゲンドウは鋭い目を細め、わずかに身を乗り出すようにして八幡を見据える。
ゲンドウの問い: 「……なんだと? 今、何と言った」
絶対的な支配者として、人類の筋書きのすべてを裏で操り、神の領域に手をかけようとしてきた男にとって、その言葉はあまりにも意味深で、そして忌忌しい引っかかりを持っていた。
物語の結末を強引に書き換える「機械仕掛けの神」。あらかじめ決められた救済か、あるいはすべてを台無しにする唐突な介入か。
ゲンドウの問いかけに対し、八幡は面倒くさそうに片方の眉をひそめ、いつもの気だるげな半目を向けてふっと鼻で笑った。
八幡の答え: 「――さあな。深い意味はねぇよ。」
はぐらかすようなその返答に、ゲンドウはそれ以上追及することができなかった。
だが、そのひねくれた少年の瞳の奥には、単なる皮肉や冗談ではない、すべてのシステムの核心を見透かしたような、冷徹で確かな光が宿っている。
隣でそのやり取りを聞いていた冬月コウゾウは、苦笑を浮かべながらグラスの酒を飲み干した。
「……機械仕掛けの神、か。私たちが何十年も追い求めてきた答えの正体が、まさかひねくれた高校生の口からこぼれるとはな」
冬月が呟くと、シンジやレイ、そしてアスカたちの顔を思い出したように、八幡はふうっと大きく息を吐き出した。
神だろうが、使徒だろうが、補完計画だろうが関係ない。自分たちが選んだ未来と、目の前の小さな日常を守るために、彼らはもう物語の「予定調和」に従うつもりなど毛頭なかった。
歪みきった世界の最深部で、神話を終わらせるための最後の歯車が、音を立てて回り始めているのだった。
定食屋の薄汚れた蛍光灯の下、八幡の呟いた皮肉を合図にするかのように、店内の空気が一気に引き締まった。
ガタッ、と音を立てて八幡が立ち上がる。気だるげな様子はそのままだったが、その背中には、もはや誰にも邪魔させないという絶対的な決意が纏われていた。
「……くだらないシステムは、いい加減に壊す限度だな」
八幡はポケットに手を入れたまま、淡々と言い放つ。
八幡の宣告: 「――世代交代だ。」
その言葉に、ゲンドウは驚くどころか、むしろ深い安堵のような光をその目に宿し、ゆっくりと深く頷いた。かつてユイの幻影と人類の補完という名の「過去」に囚われ続けていた絶対の支配者は、もうそこにはいなかった。
ゲンドウの言葉: 「……ああ。過去に縛られていては、人間は一歩も進めん。……お前たちの好きにするがいい」
その大人の「降伏」を受け入れ、シンジはゆっくりと立ち上がった。
彼はもう、父親の顔色をうかがう怯えた少年ではない。隣に座るレイの手をしっかりと握りしめ、まっすぐに前を見据える。
シンジの決意: 「……よくわからないけどさ。それでも、俺は戦うよ。レイのために。それだけだ。」
レイの応え: 「……私も。シンジ君のために。それだけ。」
その透き通った、けれど揺るぎない二人の声に続いて、窓の外の暗がりから、アスカがふっと息を漏らした。
彼女は自分の胸元に手を当て、誰にも聞こえないように、しかし誰よりも強く心の中で誓う。
(……バカ八幡。カッコいいこと言ってんじゃないわよ……)
(――私もよ。私は八幡だけ。それだけ。……それだけで、十分よ)
誰もがそれぞれの「たった一つの守るべきもの」を胸に刻み込む中、発言の真ん中にいるはずの比企谷八幡は、相変わらず面倒くさそうに頭をポリポリと掻くだけで、何も言わなかった。
綺麗事も、世界を救う大義名分もない。
ただ、目の前にいる泣きそうな少女たちも、不器用なダチも、歪みきったこの街のすべてを――。
(……やれやれ。誰も彼も、自分勝手なことばかり言いやがって)
言葉には出さない。けれど、その背中と半目の奥底に込められた決意は明白だった。
アスカも、レイも、シンジも、そしてこの狂った世界のすべてを――八幡は、最初から最後まで、自分の手の届く範囲のすべてを、守り抜くつもりなのだ。
言葉はなくとも、全員の心が一つの不可侵な絆で結ばれていた。
神のシナリオなど関係ない。壊れた世界で、自分たちの手で明日をこじ開けるための世代交代の夜が、静かに、そして熱く幕を開けていた。
ジオフロントの最深部、赤く染まったドーム状の空間に、けたたましい警報音が鳴り響いていた。
すべてのシステムが暴走し、世界を終わらせるための巨大なカウントダウンが始まっていた。人類補完計画の最終段階――そのすべてを物理的かつ根源的に断ち切るために、プラグスーツに身を包んだ比企谷八幡は、エヴァンゲリオン四号機のコックピットに一人、深く腰掛けていた。
モニターの向こうでは、かつてないほどの高エネルギー反応が渦巻いている。
このまま全炉心を臨界させ、自爆のエネルギーをもって、世界を縛るすべての「神のシナリオ」ごと消し飛ばす。それこそが、八幡が導き出した最後の一手だった。
「……やれやれ。本当、割に合わないどころの騒ぎじゃねぇな」
八幡は自嘲気味に呟きながら、起動スイッチに手をかけた。一人で全部を背負い、誰も傷つけずに終わらせる――それが彼の選んだ、一番ひねくれていて、一番身勝手な結末のはずだった。
だが。
『――ふざけんな、八幡ッ!』
通信回線を叩き割るように、耳障りなほどの怒鳴り声が響いた。
ガタッ、と激しい音を立てて、八幡の四号機の隣――いや、崩壊しかけた発進ベイに、シンジの初号機、そしてレイの零号機、アスカの二号機が、次々とその巨体を滑り込ませてきた。
「シンジ……? お前ら、なんで……っ!」
『一人で全部背負い込んで、カッコつけてんじゃねぇよ!』
シンジの声は震えていたが、その瞳には絶対的な意志の光が宿っていた。
『八幡だけに背負わせるものかよ! 俺だって、自分の未来くらい、自分の手で掴むんだ……!』
『……私も。あなたを一人にはさせない。』
レイの零号機が、静かに、しかし拒絶できないほどの強い光を放ちながら四号機の隣に並び立つ。
そして、アスカの二号機がガキィンとアンビリカルケーブルを引き抜き、通信越しにふんと鼻を鳴らした。
『まったく……! 本当に手のかかるバカね。いい気になってんじゃないわよ、八幡! アンタ一人でいい顔させるわけないでしょ!』
全員が、同じ覚悟を抱いていた。
誰かを犠牲にして成り立つ平和などいらない。たとえ明日がどうなろうとも、自分たちの大切なものと共に生きるために、彼らは同じ地平に立っていた。
「お前らな……本当に、聞いてねぇ連中だ……」
八幡は苦笑いを浮かべ、そして、諦めたように大きく息を吐き出した。
一人で背負う必要など、最初からなかったのだ。
「――よし。なら、派手に散ってやろうぜ。神様がお膳立てした台本なんて、ここで灰にしてやる」
四号機の全炉心が、限界を超えた光を放ち始める。
初号機、零号機、二号機――4体のエヴァが放つ強烈な光の粒子が共鳴し、ジオフロントの暗闇を内側から完全に引き裂いていく。
「行くぞ……!」
四機のエヴァが同時に起動レバーを押し込んだ瞬間、世界はまばゆい、どこまでも温かな純白の光に包み込まれた。
大人たちの思惑も、神のシステムも、絶望の未来も、すべてを消し飛ばし、そして新しく紡ぎ出すための光の中で、少年たちの絆は永遠の形となって溶け合っていくのだった。
まばゆい光の奔流がすべてを呑み込み、世界は一度、完全に無へと帰した。
そして――新しい朝が訪れた。
かつての第3新東京市の面影はなく、青空がどこまでも広がる穏やかな海辺の街。
世界の再構築によって、神のシナリオも、エヴァの呪縛も、すべては遠い過去の幻のように消え去っていた。かつての仲間たちはそれぞれの道を歩み、それぞれの場所で新しい日常を生きている。みんな、バラバラだった。
――だが。
どこまでも続く青い海を望む坂道の途中。
そこに、見慣れた赤い髪を風になびかせる少女が一人、立ち尽くしていた。惣流・アスカ・ラングレー。
彼女の表情はどこかぼんやりとしていて、かつての戦いの記憶も、あの歪んだ世界の熱気も、すべてがまるで夢の泡のように霧散していた。自分がなぜここにいるのか、何を探しているのかさえ、うまく思い出せない。
ふと、足音が聞こえて振り返る。
そこに立っていたのは、相変わらずの気だるげな半目を向けた、比企谷八幡だった。
アスカは眉をひそめ、どこか警戒するように彼を見上げる。
「……何よ、人の顔ジロジロ見つめて。……アンタ、誰よ?」
その言葉に、八幡は驚くことも怒ることもなく、ただフッと、小さく優しく笑った。
記憶がなくなっていようが、名前を忘れられていようが、どうでもよかった。目の前にこうして生きている彼女がいる。それだけで、すべては十分だった。
「――さあな。通りすがりの、ただの面倒くさい男ってところだ」
その声を聞いた瞬間、アスカの胸の奥で、理由も分からないまま、激しい何かが突き上げた。
忘れてしまっているはずなのに、頭の奥底ではなく、心臓の鼓動が、魂の深層が、目の前の男の名を叫んでいる。
ポロリ、と、アスカの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
止めどなくあふれ出る涙を拭おうともせず、彼女は震える声で呟く。
「……なんなのよ……どうして……涙が止まんないじゃない……っ!」
泣きじゃくるアスカの姿を見て、八幡は静かに歩み寄り、その両手で迷いなく彼女を強く抱きしめた。
腕の中に伝わる温もり。
世界のすべてを敵に回してでも守り抜くと誓った、たった一人の大切な存在。
「……忘れてたっていいさ。またイチから思い出しゃあいいんだからよ」
八幡はアスカの背中にそっと手を回し、低く、けれど誰よりも力強い声で耳元に囁いた。
八幡の言葉: 「――お前は俺のものだ。」
その独占欲と深い愛情に満ちた言葉に、アスカはさらに涙を溢れさせながらも、八幡の背中にしがみつくように両手を回した。
もう離さない。二度と見失わない。
アスカは涙に濡れた顔をぐっと上げ、強がりでも何でもない、心の底からの笑みを浮かべて言い返す。
アスカの返答: 「……当たり前よ! アンタがアタシのものよ、バカ八幡……っ!」
重なり合う鼓動と、熱を帯びた吐息。
再構築された新しい世界の真ん中で、二人はすべての運命を塗り替えるように、深く、優しくキスを交わした。
壊れた世界を終わらせて手に入れた、眩しすぎるほどの未来が、そこにあった。
新しく生まれ変わった街の並木道。
どこか懐かしい木漏れ日が差し込む歩道を、シンジは一人、ゆっくりと歩いていた。あの世界のすべてが夢幻のように消え去り、平穏な日常が戻ったこの場所で、彼の足取りは以前よりもずっと軽やかだった。
ふと、前方から白を基調とした爽やかな服に身を包んだ一人の少女が歩いてくる。
綾波レイ。
すれ違う瞬間、シンジの胸の奥で、かつての激しい戦いや、あの定食屋で交わした熱い約束の記憶が、心地よい波のようにふわりと揺らいだ。名前を呼ぶより早く、彼の体が勝手に反応する。
「……レイ」
その声に、レイは足を止め、透き通るような赤い瞳をゆっくりとシンジに向けた。
記憶の大部分は新しい世界の優しさの中に溶けて消えていたはずなのに、彼女の心の奥底でも、名前を呼ばれた瞬間、何かが深く共鳴していた。
見つめ合う二人の間に、ほんの少しの沈黙が流れる。
少し気まずくなったのか、レイはわずかに首をかしげ、どこか探るような、しかし真面目な声でぽつりと尋ねた。
レイの言葉: 「……それって、ナンパ?」
突然の直球な言葉に、シンジは盛大に顔を赤らめ、慌てて両手をブンブンと横に振った。
「ち、違うよ! そんなんじゃないって!」
焦れば焦るほど赤くなっていくシンジの様子を見て、レイは少しだけ目を丸くした。
だが、シンジは深呼吸を一つすると、逃げ出したい衝動をぐっと抑え込み、かつてのように俯くことなく、まっすぐにレイの瞳を見据えて叫んだ。
シンジの宣言: 「――ナンパなんかじゃない! 本気だ、レイ!」
その、不器用ながらも迷いのない真っ直ぐな言葉に、レイはあっけにとられたように少しの間、まばたきを忘れていた。
心臓のあたりが、今まで感じたことのない温かさで満たされていくのを感じる。
驚きがゆっくりとほどけ、レイの硬かった唇の端が、雪解け水のようにふっと美しい笑みに変わった。
レイの笑み: 「……そっ。なら、良いか。」
その静かで優しい肯定の返事に、シンジは照れくさそうに、しかし今日一番の嬉しそうな笑みを浮かべた。
世界のどこでバラバラになっても、引き寄せられるように出会い直した少年と少女は、新しい青空の下、並んで歩き出すのだった。
大学の研究室に午後の柔らかな光が差し込む中、赤木リツコは資料の束を抱えたまま、廊下で足をとめた。
窓際の特等席。そこに腰掛けていたのは、かつての冷徹な司令官の面影を完全に脱ぎ捨てた――まだ無精髭すらない、あどけなさと鋭い知性を同時に宿した大学生の姿をした、碇ゲンドウだった。
ふと、ゲンドウが顔を上げ、二人の視線が真っ直ぐに交差する。
その漆黒の瞳には、世界を滅ぼすような狂気も、冷酷な支配欲もない。ただ純粋な知的好奇心と、どこか不器用なまでの真面目さが湛えられていた。
だが、その「若いゲンドウ」の真っ直ぐな瞳に見つめられた瞬間、リツコは心臓を鷲掴みにされたような強い衝撃を受けた。
(……っ、嘘でしょ……)
10歳という年齢差。彼女は教えを乞う立場ではなく、導く側の「助教授」なのだ。それなのに、あの瞳で見つめられただけで、理性のタガが音を立てて外れそうになる。火照った身体の熱が、白いブラウスの襟元からじわりと耳たぶまで駆け上がっていくのが自分でも分かった。
動揺を悟られまいと、リツコは急いで冷ややかな研究者の仮面をかぶり、ワザとらしく資料をパサリとめくった。
「……どうかしたの、碇くん。そんなにじっと見つめて。私に何か、論文の不備でも見つかったかしら?」
あえて皮肉めいたトーンを作ったつもりだったが、自分の声がわずかに震えているのをリツコは内心で呪った。
一方、当のゲンドウはリツコの微かな動揺に気づく様子もなく、真剣そのものの表情で立ち上がり、ガタッと椅子を鳴らした。彼は眉間に深いシワを寄せ、喉元まで出かかっていた疑問を必死にぶつけてくる。
「い、いや、そうじゃない……! 先日の量子力学の仮説についてだ。君の示した数式の一部分……あの変数の導き出し方が、どうしても腑に落ちない。あれでは論理の飛躍があるはずだ。教えてくれ、赤木助教授……っ!」
academicな議論に必死に食らいつこうと、真剣な顔でまくし立てるゲンドウ。
そのあまりにも無防備で熱心な姿に、リツコは胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘くて切ない疼きを覚えた。
(……本当に、敵わないわね)
リツコはフッと艶やかな笑みを零すと、火照った頬を隠すように腕を組み、わざと意地悪な視線を彼に向けた。
「そんなに知りたいなら、放課後の研究室で、私にマンツーマンで論破されてみる? ――それとも、別の意味で教えてほしいのかしら、碇くん」
大学の研究室に午後の穏やかな光が差し込む中、助教授の赤木リツコと学生のゲンドウが議論を交わしている少し離れた場所で、もう一つの時間が静かに流れていた。
窓際のデスクに腰掛け、分厚い資料の束に目を落としていたのは、40代前半という円熟味と、どこか気だるげな知性をまとった冬月コウゾウ副教授だった。
ふと、研究室の扉が軽くノックされ、そこに現れたのは――ユイだった。
白いブラウスに落ち着いたスカート姿の彼女は、まだ30歳という若さでありながら、周囲を圧倒するような透明感と、すべてを見通すような深い知性をその瞳に宿している。ユイは静かな足取りで冬月の机の横まで歩み寄ると、困ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべて首をかしげた。
「冬月先生。さっきから、ペンを動かす音がずっと止まっていますよ」
「……っ」
その声にハッとして顔を上げた冬月の心臓が、まるで若い学生のように、激しく、うるさいほどドクンと大きく跳ねた。
年齢を重ね、数々の修羅場や冷徹な現実をくぐり抜けてきたはずの自分が、たった一人の女性の視線ひとつでこれほど動揺させられる。隠しきれないその動揺を隠すように、冬月はあわてて眼鏡の位置を直した。
「……いや、論文の構成を考えていただけさ。君の言う『自然との調和』の仮説は、どうにも私の古い頭には刺激が強くてね」
冬月がそう言い訳をすると、ユイはクスクスと上品な笑声を漏らした。彼女はそれ以上追及する代わりに、ふとポケットから小さなメモを取り出し、冬月の机の端にそっと置いた。
ユイの誘い: 「今日の夜、空いていますか? 新しい仮説の検証も含めて……学食じゃなくて、街のレストランでディナーに付き合ってほしいんです。」
その真っ直ぐで、どこか逃げ場を与えない魅惑的な誘い文句に、冬月は再び胸の奥が熱くなるのを覚えた。
若いゲンドウが隣の席で相変わらず無骨に研究に没頭している一方で、この聡明で圧倒的な女性は、いつだって自分の心をこうして軽々と揺さぶっていく。
冬月は小さく深い溜息を吐き出すと、負けたと言わばかりに首を横に振り、苦笑を浮かべた。
冬月の言葉: 「……まったく。君には、いつまで経っても敵わないな、ユイくん。」
「じゃあ、決まりですね」
ユイは嬉しそうに目を細めると、まるで春の風のように軽やかな足取りで研究室を出ていった。
残された冬月は、うるさく鳴り続ける自分の心臓を宥めるように、そっと胸元に手を当てながら、静かに窓の外の青空を見上げるのだった。
街の喧騒から少し離れた、静かな通りの角。
どこか穏やかな時間が流れる新しい世界で、二人の少年が偶然すれ違った。
一人は、相変わらず気だるげな足取りでポケットに手を突っ込んで歩く比企谷八幡。
もう一人は、しっかりと前を向き、自分の足で確かな一歩を踏みしめて歩く碇シンジ。
すれ違いざま、二人は同時に足を止めた。
記憶の底にあるはずの、あの泥臭い定食屋の湯気や、赤く染まったジオフロントの激闘が、フィルムのように脳裏をかすめる。
八幡はわずかに目を丸くし、信じられないものを見るような目でシンジの顔を見つめた。
シンジもまた、かつて自分を導いてくれた――いや、一緒にバカな未来をこじ開けた相棒の姿を認め、ふっと優しい笑みを浮かべる。
「……まさか、な」
八幡が呆れたような、しかしどこか嬉しそうな呟きを漏らすと、シンジは静かに笑って彼の名を呼んだ。
「――八幡」
その落ち着いた、芯のある響きに、八幡は思わず息を呑んだ。
かつては怯え、俯き、誰かの顔色をうかがっていたはずの少年は、もうそこにはいない。レイと手を取り合い、自分の人生の舵を自分で握ると決めた、一人の人間がそこに立っていた。
八幡は少しだけ目を細め、どこか照れくさそうに、しかし真摯な瞳でシンジに問いかけた。
「……おい。お前は今、幸せか」
迷いのない、その直球な問いかけに、シンジは一切躊躇することなく、力強くうなずいた。
シンジの答え: 「――ああ。」
その一言に込められた重みと、曇りのない清々しい笑顔を見た瞬間、八幡はふっと脱力するように息を吐き、それから今日一番の、隠しきれない誇らしい笑みを浮かべた。
「……そうかよ」
八幡はシンジの肩を軽く、ポンと叩いた。
八幡の言葉: 「……大人に、いや、男になったな、シンジ。」
その言葉は、誰かから教え込まれたものでも、台本に書かれたセリフでもない。同じ修羅場をくぐり抜け、泥臭く未来を掴み取った男同士の、心からの賛辞だった。
二人はそれ以上多くを語らず、それぞれの愛する人が待つ未来へと、再び歩き出す。
世界は変わり、過去は遠ざかっていったが、彼らが勝ち取ったその「現在(いま)」だけは、何よりも鮮やかに輝いていた。
すれ違いざまに肩を叩き合い、それぞれの未来へと歩き出そうとしたシンジが、ふと足を止めて振り返った。
穏やかな風が吹く並木道のなかで、シンジは真っ直ぐな瞳で八幡の背中に声をかける。
「――なあ、八幡」
「ん?」
八幡が面倒くさそうに振り返ると、シンジはどこか照れくさそうに、しかしはっきりと微笑んでこう言った。
シンジの言葉: 「あの時……世界を守ってくれて、ありがとう。」
その言葉に、八幡はフッと自嘲気味に鼻で笑い、いつもの気だるげな調子で首を横に振った。
八幡の答え: 「……やめろよ。俺一人じゃなくて、俺たちが、だろ。」
その言葉を聞いた瞬間、シンジは深く、心から納得したように優しく頷いた。
そうだ。一人で背負い込んでいた過去の自分たちはもういない。不器用で、ひねくれていて、それでも互いの手を離さずに全員で泥臭く勝ち取った現在なのだから。
ふと視線を少し遠くに向ければ、並木道の向こう側から、それぞれの足取りで歩いてくる二人の少女の姿があった。
透き通るような青空の下、レイは隣を歩く誰かの温もりを確かめるように、どこか穏やかな笑みを浮かべて前を見据えている。
そして少し離れた場所では、赤い髪を揺らしながら歩くアスカが、ふと立ち止まってこちらを振り返り、不意に照れくさそうに、しかし眩しいほどの誇らしい笑みを浮かべて見せた。
過去の絶望も、神のシナリオも、すべては過去の彼方へ消え去った。
彼女たちもまた、後ろを振り返ることなく、それぞれの選んだ未来をしっかりと見据えて歩いている。
歪みきった世界をぶち壊し、自分たちの手でこじ開けた新しい明日。
それぞれの場所で、それぞれの愛する人と共に――少年と少女たちは、無限に広がる未来へと、確かに歩み出していくのだった。
終わり。
からの。アフター。
街の喧騒から少し離れた、緑豊かな大学のキャンパス通り。
ポカポカとした春の陽気が心地よい歩道を、葛城ミサトは大きな荷物を抱えながら少し退屈そうに歩いていた。
ふと、前方からフラフラと軽快な足取りで歩いてきた一人の少年――いや、青年が、ミサトの進路を遮るようにひょいと立ち塞がった。
「ねえ、そこのお姉さん。こんな良い天気なのに、そんな難しい顔して一人でどこ行くの? よかったら、俺と一緒にサボって美味しいコーヒーでも飲みに行かない?」
チャラい笑みを浮かべながらそう声をかけてきたのは、加持リョウジだった。
かつてNERVの裏側で泥臭く生き、大人の色気と秘密を纏っていたあの男――の姿をした、まだあどけなさが残る「17歳の加持リョウジ」だ。
ミサトは突然のナンパに目を丸くし、それから目の前にいる生意気なガキを上から下までジロジロと観察した。
「……はあ? ナンパねえ。……ちょっとキミ、いくつよ? こっちは大学四年で、就活のストレスで今それどころじゃないんだけど」
ミサトが呆れたようにため息をつくと、加持はまったく臆する様子もなく、むしろニヤリと不敵な笑みを深めた。
「高校三年生だけど、何か? 年上だからってそんな冷たい目するなよ。中身はこれでも大人びてるつもりだしさ、お姉さんの相手くらい余裕で務まるって」
17歳という年齢差。普通なら「ガキの相手をしてる暇はない」と一蹴するところだ。
しかし、ミサトの胸の奥で、かつての記憶の断片――あの歪んだ世界で共に生き、傷つき、支え合った男の面影が、妙に熱い波となってフラッシュバックした。
(……まったく。相変わらず、調子のいい男ね……)
ミサトは呆れたように肩をすくめ、やれやれといった表情でフッと艶やかに笑ってみせた。
ミサトの答え: 「……まあ、いっか。」
「え?」と加持が少し拍子抜けしたような顔をした瞬間、ミサトは彼の胸板を軽く小突いて、挑発的な笑みを向けた。
「おごりなら付き合ってあげる。ただし、高いコーヒーショップに限るからね、リョウジ君?」
その予想外の返答に、加持は一瞬目を丸くした後、どこか嬉しそうに、そして少し大人びた笑みを浮かべて頷いた。
「了解、お姉様。任せてよ」
過去の重い十字架も、世界の終わりの恐怖もすべて消え去った新しい世界で。
生意気な17歳と、少しお姉さんな大学四年生の、新しい恋と日常の物語が、軽やかな足取りと共に動き出していくのだった。
終わり。