青い海の見える坂道。風に揺れる赤い髪の端が、八幡の肩に優しく触れていた。
八幡の腕の中で、アスカの細い肩が小さく震えている。理由も分からないままこぼれ落ちた涙は、やがて安心の熱へと変わり、彼女の嗚咽は静かな呼吸へと落ち着いていった。
数分後。
ふぅ、と息を吐いて顔を上げたアスカは、まだ少し赤い目を擦りながら、八幡の胸板を軽くぽかんと叩いた。
「……もう。なんだってのよ、急にしみじみしちゃってさ」
強がる口調の裏側で、急速に霧が晴れていくような感覚が脳裏を駆け巡る。
忘れていたはずの記憶のパズルが、カチリ、カチリと音を立てて繋がっていく。
(――そうだわ)
あの真っ赤に燃えるジオフロントの最深部。
一人で全部を背負い込んで散ろうとしたバカな男がいて、それを全員でぶち壊して、光に包まれて――。
記憶のフラッシュバックはそこで止まらない。
目の前のこの男が、自分の名前を呼び、世界を敵に回してでも守り抜くと抱きしめてくれたこと。
そして、再構築されたこの場所で交わした、息が詰まるほど熱いキス。
さらにその前の、あの馬鹿げた定食屋の夜。
――『子どもでも作るかな、私』なんてリツコが言い出して、アスカ自身も心の中で叫んでいた記憶や、八幡が全部を守ると背中で語っていたあの夜の熱気まで。
脳裏の解像度が完全に100%に達した瞬間。
「……っ……は、は……!?」
アスカの思考が、パンッ、と音を立ててショートした。
記憶がなかった時とは訳が違う。恥ずかしさの次元が違う。
先ほどまで自分から「アンタがアタシのものよ」なんてドヤ顔で言い放ち、さらに心や記憶の奥底であんなことやこんなこと――「子ども」とかいう爆弾ワードまで自ら(あるいはその延長で)盛大に意識のプールに浮かべていた全容が、一気に自分に襲いかかってきた。
「ふ、ふえ……っ、な、なにこれ、アンタ……! キスして、その、なんなのよ、子どもとか――っ!?」
顔から、いや全身から湯気が出そうなほど、アスカの顔は一瞬で真っ赤っかに染まった。耳たぶも首筋も、トマトのように真っ赤だ。
彼女は耐え切れなくなって両手で顔を覆い、バタバタと足踏みしながら八幡の胸元をまたポカポカと叩いた。
「バカ! バカバカバカ! アンタのせいよ! なんて恥ずかしい思い出まで全部思い出しちゃったじゃないのよ、このひねくれクマノミ野郎――っ!!」
真っ赤な顔でジタバタと照れ隠しに暴れるアスカを、八幡は苦笑いしながら、しかし今度は少しだけ余裕のある顔でしっかりとその肩を受け止めていた。
「いや、俺は別に思い出せなんて強制してねぇし。勝手に号泣して勝手に食いついてきたのはそっちだろ、女王様」
「うるさいっ! 忘れてたアタシのバカ! でも思い出させたアンタもバカよ!……くぅーっ、恥ずかしすぎて死ぬ……!」
顔を隠したまま八幡の胸にぐっと額を押し付けるアスカの背中を、八幡は小さく笑いながら優しくポンと叩く。
照れくささと、消えない温もり。
世界のすべてを書き換えても、このやり場のない不器用な甘さは、何一つ変わっていなかった。
赤くなった顔を胸に埋めてジタバタするアスカの背中をポンと叩きながら、八幡はポケットから冷えたスチール缶をスッと取り出した。
「ほら。あんな派手に記憶のデータ復旧したら頭も沸騰するだろ。まあ、コーヒーでも飲んで落ち着こうぜ」
差し出されたのは、もちろん黄色と緑の鮮やかなアイツ――マックスコーヒーだ。
アスカは泣きはらし、トマトのように赤い顔のまま、おそるおそるその缶を受け取った。プルタブを引っ張り、疑わしげな視線のまま一口、口をつける。
――直後。
「っ……あまっ、なにこれ!? 砂糖溶かしただけじゃないのよ! 歯が溶けるわ、バカなの!?」
甘さの暴力に脳を揺さぶられ、アスカは目を白黒させながら缶を離した。
だが、八幡はどこ吹く風で自分の分を開け、プシュッと音を立てて一口飲むと、肩をすくめてふっと笑った。
「失礼なこと言うなよ。最初は糖尿病の味しかしねぇが、慣れれば最高だぞ。このジャンクな甘さが今の疲れた脳みそには染みるんだ」
「慣れるわけないでしょ……!」
文句を言いながらも、アスカはなぜかもう一口、今度は恐る恐るその甘い液体を口に含んだ。確かに、脳の奥がビリビリするほどの糖分が、さっきまでの沸騰しそうな恥ずかしさと混乱を強制的にシャットダウンしていく。
ふぅ、と小さく息をつき、海からの心地よい風が二人の髪を揺らした。
静かになった坂道で、八幡は手に持っていたマックスコーヒーの缶を少しだけ傾け、それから不意に、まっすぐ前を――いや、隣にいる赤毛の少女を見据えた。
気だるげでひねくれた目は、今は嘘のように真っ直ぐで、迷いがない。
八幡の言葉: 「――なあ、アスカ」
本気の告白: 「俺はお前が好きだ。結婚しよう、アスカ。」
「…………は?」
缶を持ったまま、アスカの動きが完全にピタリと止まった。
脳が再起動したばかりだというのに、数秒前よりさらに強烈な爆弾が目の前で起爆した。
絶句し、心臓が跳ね上がるのを通り越して、パニックで白目をむきそうになりながら、アスカは両手で持っていた缶を落とさないよう必死にしながら、八幡の胸板をバン、バンと叩いた。
「なっ……! はぁっ!? バカなの!? アンタ頭のネジいかれてるのよ! 記憶戻って30分も経ってないのに、なんでいきなりプロポーズしてくるわけっ!? 正気なの!?」
「正気も何も、前の世界でもう決めたことだろ。忘れてたのはそっちの都合だしな」
「都合って言うな! もっとこう、夜景の見えるレストランで花束とか、せめて順序ってもんがあるでしょーがーっ!」
ジタバタと抗議しながらも、その拳に込める力はどんどん抜けていく。
八幡は逃げることなく、その不器用で、愛おしすぎるパンチを全部受け止めるように、アスカの肩をそっと抱き寄せ、自分の胸へと包み込んだ。
硬く、温かい、絶対に離さない場所。
暴れていたアスカの力がふっと抜け、彼女は八幡の胸に額を預けたまま、今度は違う理由で、ポロリと一筋の涙をこぼした。
悔しくて、恥ずかしくて、でも――どうしようもなく嬉しくて。
アスカは涙に濡れた声で、小さく、しかしはっきりと呟いた。
アスカの答え: 「……ほんと……バカなんだから、アンタは……。」
潮風の匂いと、甘すぎるマックスコーヒーの香りのなかで、泣き笑う彼女の背中に、八幡は優しく手のひらを重ねた。
世界のすべてを書き換えた果てにたどり着いた、不器用で最高に温かい、二人だけの日常の始まりだった。
胸に額を預けたまま、アスカはふぅっと熱い息をついた。そして、名残惜しそうに――でもどこかすっきりとした顔で、すっと八幡から身体を離す。
まだ少し赤味の残る頬のまま、彼女はマックスコーヒーの残りを一口クイッと飲み干し、それからまっすぐに八幡の目を捉えた。
アスカの提案: 「……まあ。とりあえず、デートしましょう。ちゃんと恋人から、ね。」
期限付きの約束: 「それで、1年経っても2年経っても、お互いの答えが変わらないなら……その時、結婚しましょう。」
不器用な照れ隠しと、プライド、そして最高に真っ直ぐな誠実さが混ざった提案。
八幡は呆れたように片3度口元を緩めると、逃げ場のないその瞳を見つめ返したまま、迷いなく深く頷いた。
八幡の返答: 「――ああ、いいだろ。望むところだ。」
アスカはふんと胸を張り、片手でマックスコーヒーの空き缶を揺らしながら、どこか勝ち誇ったような、でも隠しきれない甘い笑みを浮かべて言い放つ。
アスカの一言: 「……まあ、アタシは最初からアンタ以外に興味ないけどさ。」
八幡の応え: 「――俺もだよ。」
茶化す余地も、ひねくれた言い訳も必要なかった。
波の音がざわめく坂道で、二人は顔を見合わせて、くすくすと、そしてどこまでも自然に笑いあった。
――そして。
「ちょっと、バカ八幡! なんでダンボール箱の置き方がそんな雑なのよ! 玄関が狭くなるでしょ!」
「いや、後からどうせ開けるんだから導線確保優先だろ。……あとそのジャージ、さっきから俺のじゃない?」
「気のせいよ! あ、マックスコーヒーのストック、冷蔵庫のここ空けといてよね!」
夕暮れの差し込む少し狭い部屋の中で、荷解きの音と小気気味いい言い争いが響く。
世界を救う必要も、神のシナリオにおびえる必要もない、不格好で最高に愛おしい同棲生活の幕開けだった。
ダンボールの隙間から夕暮れのオレンジ色の光が差し込む部屋で、アスカは少し緩んだ表情で窓の外の穏やかな町並みを見下ろしていた。
「ねぇ、ネルフやゼーレはどうなったのかしらね?」
ふと、アスカが不思議そうにつぶやく。
八幡は箱から出したばかりのジャージの袖を通しながら、肩をすくめて答えた。
「さあな。でも、あのまま進んでも、バッドエンドにはならないだろ。……もう誰もリセットボタンなんて持ってねぇよ」
「そうね……」アスカは小さくうなずき、それから不思議そうな顔で八幡を振り返る。「ねぇ、お前はこの世界でいつから暮らしてるんだか。……変な聞き方だけど、アタシ、ずっとここで生まれた時からに決まってるでしょ」
八幡は苦笑いしながら頭を掻く。
「いや、お前はそうだろうけどさ。俺はほんの3週間前だけどな、この記憶や身なりが馴染んだのは」
「3週間前って……なにそれ、また変なこと言って」
あきれたように言いながらも、アスカはくすっと笑う。二人の足元で、夕暮れの静かな空気が部屋の床を穏やかに染めていく。
「平和だな、と」八幡がぽつりと言えば、アスカは腕を組んで窓枠に寄りかかった。
「あの世界が異常なのよ。エヴァなんてオーバーテクノロジー、人の手には持て余すわ。当たり前でしょ、あんなもの」
「違いねぇ、と」八幡は声に出して笑い、散らかったダンボールの山を蹴飛ばさないように気をつけながら隣に並んだ。
聞こえてくるのは、遠くの夕暮れのチャイムと、普通の暮らしの音だけ。
作り物でも、神の台本でもない、ただの静かな夕方。
――平和である。
リノリウムの床に香る、サワークリームと肉の芳醇な匂い。
皿の上に盛られたビーフストロガノフは、艶やかなブラウンのソースに生クリームの輪郭が描き出され、湯気とともに食欲を容赦なく刺激してくる。隣には、コーンの甘みが凝縮された黄金色のポタージュ。
「……これ、ほんとに素人なの?」
スプーンですくったスープを口に含み、アスカは言葉を失った。美味しい。外食のそれと何ら遜色がないどころか、家庭的でありながらプロの影がちらつく仕上がりだ。
10歳からの自炊歴、中華・和食・洋食の全方位コンプリートという「素人詐欺」を目の当たりにし、マウント用具を綺麗にへし折られたアスカは、むすっと頬を膨らませつつも、ちゃっかりスプーンを動かす手が止まらない。
そんなアスカの様子を眺めながら、八幡はふっと軽口を叩いた。
八幡の二択(三択): 「さて、飯にするか、風呂か、それとも俺か?」
「なっ……なに言ってんのよ、バカ! いきなり何変な選択肢出してきてるのよ!」
顔をトマトのように真っ赤にし、アスカは持っていたスプーンをカチャンと皿の縁に落とした。心臓が跳ね上がり、体温が一気に急上昇する。
だが、八幡は焦る様子もなく、穏やかで意地悪のない、ただ真っ直ぐな笑みを浮かべて彼女を見つめる。
観念したように、アスカは顔を真っ赤に染めたまま、小声で、しかしはっきりと呟いた。
アスカの返答: 「……アンタ、で……。」
その素直すぎる降伏宣言を聞いた瞬間、八幡は立ち上がり、戸惑う隙すら与えないほど自然に、けれど壊れ物を扱うように優しく彼女を腕の中に包み込んだ。
甘い熱が重なり合うように、静かな唇がふれあう。世界がどう転ぼうと、この手の平の中にある体温だけは嘘偽りない真実だった。
ふぅ、と小さく離れた八幡は、何食わぬ顔で微笑む。
八幡の言葉: 「ま、飯を食おうぜ。冷めちまう。」
アスカの抗議: 「ええーっ!? 自分からそんなこと言っといてそれはないでしょ!」
文句を言いながらも、火照った身体のまま、アスカは急いでスプーンを手に取ってビーフストロガノフを掻き込む。だって美味しいし、目の前の男の顔を見るだけでまた熱がぶり返しそうになるからだ。
そんな慌ただしい彼女の頭を、八幡はくしゃりと撫でる。
八幡の締め: 「――飯も俺も逃げねぇよ。」
身体が熱く、胸が騒がしいまま。
(……くやしいけど、こういうとこだけは、ね)
名目上は18歳の歳上、しかし中身の図太さと距離の詰め方に翻弄されるアスカは、熱を持った頬を押さえながら、どこか誇らしく、そして甘い溜息をこぼすのだった。
(※「デッド」=ベッドの誤字・変換ミスとして、心地よいマットレスの感触のまま描写)
食後の心地よい満腹感と、まだ内側に残る甘い熱の余韻。
リノリウムの床から少し背伸びするように、二人は並んでベッドの端に腰を下ろしていた。シーツのざらりとした感触と、窓から吹き込む夜風が心地いい。
「そう言えば、こないだシンジに会ったぞ」
八幡がスプーンの残りの余韻を引きずるように、ぼそっと切り出す。
「……はぁ? シンジに?」
「ああ。大人に、良い男になってた。もう俺が世話をやく必要はないくらいにな」
そのどこか誇らしげで、でも少し寂しそうな――保護者みたいな視点を含んだ言葉に、アスカはくすりと鼻で笑いながら、でもどこか懐かしそうに目を細めた。
「そう……また会いたいわね、あいつも」
「そうだな。……連絡先交換しとけばよかったな。まあ、この狭い街だ、近所のはずだ。そのうちまた会えるだろ」
「レイとも、ね」
「ああ。もちろん」
八幡は迷いなくうなずく。あの赤く燃えたジオフロントの最深部で、背中を預けあった仲間たち。もう命懸けで命令を待つ必要も、暴走する機体に魂を削る必要もない。
夕食のビーフストロガノフの匂いがうっすらと残る部屋の中で、二人はしばらく他愛のない未来の予定――近所のスーパーの特売とか、どこのパン屋が美味いとか、そんなどうでもいい話をポツリポツリと交わす。
肩と肩が触れ合う距離感。
照れくささを隠すように悪態をついては、ふと目が合ってお互いに気まずそうに視線をそらす。
どこから見ても初々しく、世界のどこをひっくり返しても文句なしの――、
不器用で、甘くて、間違いなく最高に幸せな恋人同士の姿がそこにあった。