やはり俺の中にバルディエルがいるのは間違っている。 作:tomozow
朝の冷たい空気と、窓の外に見える見慣れない巨大な装甲板やジオフロントの気配。そして、枕元に転がっているはずのないプラグスーツの端っこ。
比企ヶ谷八幡は、ぼんやりとした頭で天井を見つめながら、現実逃避の呪文を心の中で唱えた。
「……よし、夢だ。完全に見事なまでの二度寝日和だな。うん」
二度寝すれば元の世界――あの日常に戻れるはずだ。そう自分に言い聞かせ、無理やり目を閉じて布団を頭からかぶろうとしたその時、廊下からガチャリと扉が開く音がした。
「おい、いつまで寝てるのよ、シンジ! ……って、あんた誰よ!?」
聞こえてきたのは、耳に突き刺さるような鋭い、しかしどこか聞き覚えのある(そして非常に面倒くさそうな)金切り声。勢いよく剥ぎ取られた布団の向こう側に立っていたのは、見事なまでに赤いツインテールを揺らし、腕組みをして眉間にしわを寄せる少女――惣流・アスカ・ラングレーだった。
「……」
八幡は遠い目をしてアスカを見上げ、それから窓の外の禍々しい要塞都市へと視線を戻した。
「……やっぱり、夢の割には解像度が高すぎるな。あと、俺の名前はシンジじゃない。残念ながら、もっとひねくれた一般人だ」
「はぁ? 何言っての、このバカシンジ! 朝から寝ぼけてないでさっさと起きなさいよ!」
怒鳴り声を背中で聞きながら、八幡は心底うんざりしたようにため息をついた。
平和な青春ラブコメの片鱗すら微塵もないこの世界で、彼は早くも「こうなったら徹底的に省エネでやり過ごしてやる」と固く心に誓うのであった。
「俺は八幡だ。シンジはそこにいるだろう」
掛け布団を取り返そうともせず、八幡は気だるげに体を起こすと、頭を掻きながらぼやいた。
「ていうかあんた、今俺のこと思いっきり『シンジ』って呼んだよな? なんだその、小学校低学年が担任の女教師に向かってうっかり『お母さん』って呼んじゃう系のミスは。気まずいからやめろよ。呼ばれた俺も、呼び間違えたあんたも、お互いに致命的なダメージを負うだろ」
「~ッ!? な、何言ってるのよこのバカ!!」
案の定、真っ赤になって怒りを爆発させるアスカ。
だがその時、部屋のドアが再び開き、ぬーっと人影が覗き込んできた。
「……あの、アスカ。僕の着替え、どこにあるか知らない……?」
そこに立っていたのは、どこか自信なさげに目を泳がせる小柄な少年――本物の碇シンジだった。
「ほら見ろ、本物が来たぞ。ていうか、本当に並んで存在してるのかよ俺たち……」
八幡は心底嫌そうな顔で天を仰いだ。
自分一人でも十分面倒なのに、本物のシンジまでいるとなれば、この世界の「面倒くささ」は二倍どころではない。八幡の省エネセンサーが、過去最高レベルの警報を鳴らし始めていた。
「まあ俺がエヴァに乗るわけじゃないから平和そのものだな」
八幡は自分にそう言い聞かせ、壁に寄りかかりながら欠伸をひとつ漏らした。
そう、エヴァに乗るのはそっちの少年――碇シンジであり、自分はただの「巻き込まれた一般人(仮)」だ。巨大ロボットに乗って世界の命運を背負うなんて大層な役割、俺みたいなボッチで平和主義な人間に巡ってくるはずがない。乗れと言われても全力で拒否するし、そもそもシンクロ率とやらは間違いなくゼロに近いはずだ。
しかし、現実はそう甘くはなかった。
「……あら、見かけない顔ね。シンジくんのお友達?」
廊下からぬっと現れたのは、缶コーヒーを片手に持った葛城ミサトだった。
寝癖のついた髪にダボッとした服、部屋着姿の彼女は、八幡を一瞥すると怪しむ風でもなく、ひらひらと手を振ってみせる。
「まあいいわ。朝ごはん、ネルフの食堂で食べていいからね。あ、それから碇司令が『ちょっと会わせろ』って言ってたわよ」
「……はい?」
八幡の顔から血の気が引いた。
(待て待て待て。なんでいきなり組織のトップからお呼びがかかるんだ? 俺はただの背景だぞ? モブキャラだぞ? そもそも俺の個人情報はどうなってるんだ??)
「あの……俺、ただの通りすがりの高校生なんですけど。エヴァとか全人類の存亡とか、そういう重たいやつは一切関係ない方向で生きていきたいんですが」
「はいはい、そういうのは司令に直接言いなさいな」
冷たくも気さくなミサトの返事に、八幡は心の中で絶望の悲鳴をあげた。
隣ではシンジが「……ごめんね、巻き込んじゃって」と申し訳なさそうに俯き、アスカは「フン、どうせただの役立たずよ!」と鼻で笑っている。
「……帰りたい。今すぐ千葉に帰りたい……」
八幡の「平和な放置プレイ生活」の野望は、世界線を超えてもあっけなく打ち砕かれようとしていた。
「……待て」
ゲンドウのもとへ連行される道中、八幡はふと違和感を覚えて足を止めた。
(……トウジがいない)
思い返せば、この部屋にも、ネルフの廊下にも、あのジャージ姿で関西弁を喋る熱血漢――鈴原トウジの姿がどこにもなかった。シンジの数少ない友人であり、本来ならこのあたりの展開で重大な役割を果たすはずの男だ。
それが、いない。
つまり、それはどういうことだ?
「代打、俺……!?」
八幡の口から、情けない変な声が漏れ出た。
通された指令室。
組んだ両手で口元を隠し、サングラスの奥から底知れぬ圧を放ってくる男――碇ゲンドウは、開口一番、冷酷なまでに短い言葉を言い渡した。
「比企谷八幡。お前にはエヴァンゲリオン3号機のパイロットを務めてもらう」
「いやいやいや! おかしいでしょ!? なんで俺!? 夢の世界ならせめてシンジポジションで、ハーレムとは言わんまでも静かに見守るモブポジションだろ!? なんでよりによって一番ヤバいピンチ打者みたいなポジションなんだよ!?」
心の中で猛烈にツッコミを入れながらも、八幡の背中には冷や汗が吹き出していた。
3号機。起動実験。侵蝕。バルディエル。
脳裏をよぎる不吉すぎるワードの数々。
「断る権限はない。拒否すれば……」
「わかってますよ、どうせ『乗らないなら帰れ』とか『お前に人権はない』とかそういう話ですよね知ってます。……はは、なるほどな。死亡フラグがビンビンに立ってるぜ。よし、これは高度な明晰夢だ。明晰夢に違いない。よし、起きろ俺! 目を覚ませ比企谷八幡! 千葉の我が家で小町が美味しいお味噌汁を作って待ってるはずだろ!?」
両頬をバチーンと叩いて現実逃避を試みる八幡だったが、痛みが虚しく頬に残るだけだった。
隣でミサトが痛々しいものを見る目で見つめ、シンジは「……比企谷くん、大丈夫……?」と心底心配そうな声をかけてくる。
「大丈夫に見えるかボケぇ……!」
八幡の切実な心の叫びは、ネルフの冷たいコンクリート壁に虚しく響き渡るのだった。
「3号機に使徒が乗り込んでる? アホくさ。誰が乗るかよ、命はひとつしかないんだぞ」
起動実験の直前、八幡は持ち前の「危険察知能力(逃走本能)」を発揮して一目散に脱走を試みた。しかし、ネルフの精鋭SPたちにガッチリと取り押さえられ、半ば力ずくでエントリープラグへ押し込まれてしまった。
そして案の定――粘着質な粘液のようなものがプラグ内に満ち、ドロリとした使徒の精神汚染が八幡を侵食し始める。
「最悪だ……! だから言ったろ、俺はただの一般人だって……ッ!」
苦痛と恐怖に目を瞑り、死を覚悟した八幡。
――しかし、次の瞬間。
「……あれ?」
想像していた激痛も肉体の崩壊も来なかった。
代わりに押し寄せてきたのは、どこか懐かしく、ぬくもりのある感覚。まるで真冬の寒空から一転、秘湯の露天風呂に肩までどっぷりと浸かったかのような心地よさだった。
(な、なんだこれ……めちゃくちゃ気持ちいいんだが……)
使徒の精神波が、八幡の脳内に直接流れ込んでくる。
言葉ではない。だが、伝わってくる。
――誰にも理解されない存在。
――生まれた瞬間から孤立し、世界全体から敵意を向けられる存在。
――ただ静かに存在していたいだけなのに、理由もなく拒絶され、排除されようとする絶望。
「……なんだ、お前もか」
八幡は、ぬるま湯のような精神世界の中で、ぽつりと呟いた。
「お前も……ずっと一人だったんだな。誰にも受け入れられず、グループにも入れず、ただ存在してるだけで『異物』扱いされて……。わかるよ。俺も学校じゃだいたいそんな感じだ」
使徒の波動が、一瞬驚いたように揺れた。
八幡の内に潜む「筋金入りのぼっちマインド」と、使徒の「圧倒的孤立」が、恐ろしいほどの高次元でシンクロしていく。拒絶ではなく、共感。侵食ではなく、奇跡的なまでの精神的ドッキング。
【……ボッチ……ナカマ……?】
そんな声が聞こえた気がした。
八幡の身体と3号機、そして使徒の細胞が、お互いを拒絶することなく滑らかに融合していく。ネルフのモニターには、見たこともない「完全調和」を示す謎のグラフが描き出されていた。
「……おいおい、マジかよ。原作無視もいいところだろ、これ……」
八幡は呆れ果てたようにつぶやきながら、3号機の巨体をぬらりと動かした。
もはや怪獣でも暴走機体でもない。ただの「超大型ぼっち」と化した3号機が、困惑する初号機(シンジ)とネルフ本部を見下ろしていた。
「……うーん」
エントリープラグの中で、八幡は己の内側――精神の奥底に確かな「気配」を感じていた。
バルディエル。第13の使徒。
本来なら乗った人間を肉体ごと破壊し、初号機に噛み砕かれるはずだった悲劇の使徒。だが今、そいつは八幡の精神の片隅で、丸くなった野良猫のように静かに丸まっている。
「13って数字、不吉の象徴とか言われてるけど……まあ、奇数だしぼっち的には収まりがいいか。割り切れない数字ってのは親近感が湧く」
人間でもない。かといって、世界を滅ぼすただの使徒でもない。
使徒の圧倒的なエネルギーと、八幡の「他者と関わりたくない」という強烈な自我が変に噛み合った結果、彼は両者の境界線上に存在する『第13のぼっち』とも言うべきナニカへと変貌を遂げていた。
「まあ、なんだ……精神世界でゴチャゴチャ悩むのも面倒だしな。どうにかなるだろ。乗るか」
八幡が腹をくくって3号機の操縦桿に手を伸ばすと、3号機の背中から生えかけていた禍々しい使徒の腕が、ぬるりと消えて綺麗な装甲へと収まった。
アンビリカルケーブルを自らブチッと引き抜き、内部バッテリーのみで動く3号機。ネルフ本部のモニターには【パターン青】と【パターン橙】が交互に点滅し、技術部のオペレーターたちがパニックに陥っている。
『ちょっと、シンジくん! 八幡くん!? 応答しなさい! 一体どうなってるの!?』
通信ウィンドウから叫ぶミサトの焦り顔を、八幡は冷めた目で見つめた。
「葛城さん、静かにしてください。せっかく使徒と折り合いがついたんですから。俺もこいつ(バルディエル)も、静かに放っておいてほしいだけなんです」
『はぁぁぁ!?? 折、折り合い……!? 使徒と!?』
『比企谷くん……? 君、本当に無事なの……?』
初号機のコックピットでナイフを構えたまま固まっているシンジに、八幡はため息混じりに告げた。
「シンジ、武器を引け。お前がトラウマを負う必要もなくなった。俺はこれから、この3号機(と居候の使徒)と一緒に、誰も来ない静かな場所で二度寝する」
ドスン、ドスンと重厚な足音を立てて、夕焼けに染まる松代の街を歩き出す3号機。
人間を超越した力と、徹底的な事触れ拒否の精神を手に入れた比企谷八幡の、新たな(そして非常にめんどくさがりな)戦い(?)が今始まろうとしていた。
発令所の司令席で、碇ゲンドウは組み上げた手の中で静かに呟いた。
「……そんなシナリオがあるか」
冷徹な計算と「死海文書」の記述にのみ従って行動してきた男の口から漏れたのは、純粋な困惑だった。使徒の侵食を受けながら暴走もせず、破壊活動も行わず、ただ「そっとしておいてくれ」と夕焼けに向かって歩き去る3号機。人類補完計画の歴史のどこを掘り返しても、こんなイレギュラーは存在しない。
その横で、冬月コウゾウが肩をすくめながら、諦めと呆れが混ざった溜め息をつく。
「フッ……だが、せっかくの3号機だ。使わざるを得ん。ゼーレの手前な」
「……ああ」
ゼーレからの追求をかわすためにも、莫大な予算を投じた3号機と、まさかの「使徒と完全調和を果たしたサードチルドレン(仮)」を野放しにしておくわけにはいかない。
一方その頃、ネルフの追撃を避けて山あいの日陰にどっかと腰を下ろしていた3号機の中で、八幡は心底嫌そうな顔をしていた。
「……なんか今、遠くの薄暗い部屋で、グラサンのおっさんと渋いじいさんが俺の扱いに困って嫌な大人の会話をしてる気がするな」
【……オッサン……ジャマ……】
脳内でバルディエルが同調するように同意を示してくる。
「だろ?ホント大人は勝手だよな。俺たちがここで静かに日陰ぼっこしたいだけなのに、ゼーレだのシナリオだのって政治的な事情を持ち込んできやがる。俺はただ、単位と平和なボッチ生活が欲しいだけなんだよ……」
巨体を揺らして体育座りを決め込む3号機。
使徒の力を宿した「史上最も省エネな兵器」となった八幡は、押し寄せるであろう大人たちの身勝手な都合に対し、全力の「スルー決め込み作戦」を準備し始めていた。
松代から連れ戻され(あるいは勝手に戻ってきて)、なぜか第3新東京市立第一中学校の教室の席にちゃっかり座っている八幡。
彼はポケットから取り出した、千葉県民のソウルフード――黄色と黒の眩しい缶――マックスコーヒーのプルタブをチッと開けた。一口飲めば、脳を直接殴りつけてくるような練乳の圧倒的な甘みが広がる。
「……ふぅ。やっぱりこれだな。地獄みたいな世界でも、この練乳爆弾さえあれば人間は正気を保てる」
その時、教室の扉がバシャーンと激しい音を立てて開いた。
仁王立ちで突っ込んできたのは、もちろんアスカだった。
「ちょっとバカ八幡!! あんた、使徒と融合したとか意味不明なことやってネルフを大混乱させておいて、なんで普通に教室で変な黄色いジュース飲んで寛いでるのよッ!?」
机をバンッと叩き、激怒するアスカ。
だが八幡は、手に持ったマックスコーヒーを愛おしそうに見つめながら、冷めた目で彼女をチラリと見上げた。
「……静かにしろよ、アスカ。これはジュースじゃない、マックスコーヒーだ。それに、俺はただの休止モードだ。使徒(バルディエル)も今、俺の胃袋のあたりで甘党に目覚めて大人しくしてる」
「甘党とかどうでもいいわよ! そもそも何なのよその激甘そうな飲み物は! ネルフの配給にもそんな謎の缶コーヒーないわよ!」
煽られた八幡は、ふっと不敵な笑みを浮かべると、缶をアスカの前に突き出して言い放った。
「……フッ、なんだアスカ。さては貴様、このマックスコーヒーにジェラシーを感じているな?」
「はぁぁぁ!? なんで私がそんな変な黄色い缶に嫉妬しなきゃいけないのよバカじゃないの!?」
「隠さなくてもいいんだぞ。俺は知ってるぞ。お前が現実世界でUCC缶コーヒーのパッケージになってコラボしまくってたことを」
「~ッッ!??!?」
アスカがぐうの音も出ない表情で固まる。
「赤と白と黒のスタイリッシュな『UCC Milk Coffee』のエヴァ缶で一世を風靡したあんたからすれば、この千葉が生んだ黄色い練乳バズーカ『マックスコーヒー』の存在感(甘み)が許せないんだろ? 『缶コーヒーコラボの座は渡さないわ!』ってか? ん? ライバル視してんのか?」
「だ、誰がライバル視なんてするかぁぁぁッ! そもそもそれコーヒーじゃないでしょ! ただの練乳混ぜた砂糖水じゃない! 一生それ飲んで虫歯になって倒れてなさいよバカ八幡ぁぁッ!!」
真っ赤になって叫びながら、アスカは自分の席へとドカドカと走り去っていった。
そのやり取りを遠くから見ていたシンジが、恐る恐る八幡の席に近づいてくる。
「……あの、比企谷くん。アスカをあそこまで怒らせるなんてすごいね……。あと、そのマックスコーヒー……一口もらってもいい……?」
「おう、いいぞシンジ。ただし覚悟しろよ。これは……一度味わうと普通のUCCには戻れない『甘やかしの沼』だ」
八幡は満足げに鼻を鳴らすと、窓の外の要塞都市を眺めながら、二口目のマックスコーヒーを静かに飲み干すのだった。
「……それ、間接キス?」
唐突に、静寂を切り裂くような無機質な声が響いた。
振り返ると、いつの間に近づいていたのか、綾波レイが赤く澄んだ瞳で八幡とシンジをじっと見つめていた。その表情には一切の波風が立っていないが、言っている内容が重すぎる。
「ぶッッっ!!!???!?」
八幡から渡された缶に口をつけようとしていたシンジが、豪快にマックスコーヒーを噴射した。
ブシャーッ!という勢いよく散らばった黄色い液体(練乳たっぷり)は、逃げる間もなく真正面に立っていたレイの顔面と制服を直撃した。
「……ッ、げほっ! げほっ! あ、綾波ぃぃぃっ!??! ご、ごめんなさい、違うんだ、僕はただ……っ!?」
顔を真っ赤にしてパニックになり、盛大にむせるシンジ。
一方、顔面から制服の胸元にかけてべったりと甘いマックスコーヒーを浴びたレイは、拭き取ろうともせず、じとーっと濡れた目のままパチパチとまばたきをした。
「……甘い」
頬を伝う黄色い滴を指先ですくい、ぺろりと舐めて呟くレイ。
八幡は、頭を抱えて深々とため息をついた。
「おいシンジ、お前……よりによって一番怒らせちゃいけない(そして一番後ろにヤバい司令が控えてる)ヒロインに練乳爆弾をぶちまけるとは、いい度胸してんな。俺ですらそこまでの死体蹴りはしないぞ」
「違うんだよ比企谷くん! 綾波がいきなり変なこと言うから……っ! 綾波、本当にごめん! 今すぐ拭くものを……!」
「……平気。ただ、ベタベタする」
レイは淡々とそう言うと、制服の裾をギュッと絞った。ポタポタと落ちる黄色い液体。教室中に広がる甘ったるい練乳の香り。
その惨状を遠くから見ていたアスカが、呆れ果てた顔で叫んだ。
「ちょっとバカシンジ! あんた何ファーストに甘いジュースぶっかけてんのよ! ……っていうかバカ八幡! あんたがその変な毒々しいコーヒーなんか持ってくるからこんなことになるんでしょ!!」
「なんで俺のせいなんだよ。俺はただ後輩に千葉の銘菓を教えてやろうとした親切心だぞ。あとレイ、お前も『間接キス』とかいう思春期男子の自意識をダイレクトに破壊するワードを無表情でぶち込むな。シンジの純情な心臓が破裂するところだったろ」
【……ネバネバ……アマイ……】
八幡の脳内で、バルディエルまでがレイに付着したマックスコーヒーの甘い匂いに反応してソワソワし始めている。
「……使徒(お前)まで甘党になるな」
八幡は呆れながら、ポケットから予備のティッシュを取り出すと、コーヒーまみれで呆然と立っているレイに差し出した。
「ほら、拭け。……ったく、ネルフのトップシークレット兵器が練乳の匂いさせてたら、ゼーレのじいさんたちも困惑するぞ」
「……ありがとう、比企谷くん」
ティッシュを受け取り、ぬれた顔を丁寧に拭き始めるレイ。
その様子を横目で見ながら、八幡は「……やっぱりこの学校、千葉の総武高校より100倍疲れるな」と、心底うんざりしたように窓の外の青空を仰ぐのだった。
「なによその目は! 私にも飲ませなさいよ!」
ティッシュで顔を拭くレイと、アタリの鉢合わせを恐れて震えるシンジを交互に見下ろしていたアスカが、何を思ったか八幡の前に仁王立ちになり、強引にその手から缶をひったくった。
「ちょっと待てアスカ、それ俺が飲んだやつ――」
「うるさいわね! あんたらがそこまで大騒ぎする『練乳爆弾』だかなんだか、私が味見してあげるわよ!」
制止する間もなく、アスカは豪快にマックスコーヒーを口に含んだ。
次の瞬間、彼女の目が見開かれる。
「……ッ!? な、なにこれ、甘っっっ!? 砂糖と練乳の塊じゃない! コーヒーの欠片もないわよ!!」
そう叫びながらも、悔しいのかゴクゴクと二口目を飲んでいるアスカ。
それを見た八幡は、冷めた目でじとーっと彼女を見つめ、心の中で凄まじい勢いのツッコミを叩き込んだ。
(……なんだこの間接キスの連鎖は。中学生かよ)
……と、そこまで思って、八幡はピタリと思考を止めた。
(……待てよ?)
ゆっくりと自分の手を見つめる。
いつもより少し小さく、心なしか骨張っていない手首。着ている制服も、総武高校のブレザーではなく、第3新東京市立第一中学校の黒い詰襟(学ラン)だ。
(シンジが14歳。アスカも14歳。レイも14歳……。そして俺は今、この教室で学ランを着て、14歳(中学2年生)のガキどもと缶コーヒーを回し飲みしている……)
「……マジかよ」
八幡の顔から急速に血の気が引いていった。
「もしかして……俺も中学生なのか……? リアル中2になっちまった……」
「はぁ? 何今さら当たり前のこと呟いてんのよバカ八幡! あんたも14歳でしょ!」
アスカが呆れたように鼻で笑う。
高校生のひねくれぼっちとして熟成されていたはずの自分が、文字通り「リアル厨二病」の年齢に先祖返りしているという衝撃の事実。しかも周りは重度のトラウマとメンヘラを抱えた本物の14歳たちだ。
(17歳のひねくれ高校生だからこそ保てていた心の平衡が……! リアル中2の肉体でこの重たい人間関係と使徒(バルディエル)を抱え込むとか、精神的負荷が高すぎるだろ……!)
「……うう、頭が痛い。これが『若返りの代償』ってヤツか……。早く千葉に帰って高校生に戻りたい……」
八幡は頭を抱えて机に突っ伏した。
【……チュウニ……ナカマ……】
脳内でバルディエルが、どこか楽しそうに語りかけてくるのだった。
「――行かせるかよ、バカ」
N2爆弾を抱えて第14使徒ゼルエルのコアへと突撃しようとする零号機。その目前に、黒い巨体が割り込んだ。
ドガァァンッ!!
爆煙を切り裂いて現れたのは、使徒と八幡が融合した3号機だった。使徒化の腕を触手のように伸ばし、N2爆弾ごと零号機を強引に抱え込み、ゼルエルの光線(帯状の刃)を背中で強引に受け止める。
「ぐっ……!? 背中が激熱なんだが!? 痛い痛い痛い!」
『比企谷……くん……? なぜ……私は、私がいなくなっても代わりは……』
零号機のコックピットから聞こえる、レイのどこか諦めきった虚ろな声。
エントリープラグ内で八幡は、痛みに顔を歪めながら猛烈に言葉を叩きつけた。
「代わりとか知るかよ! お前が今ここで吹き飛んだらな、教室で濡れた制服拭いてたティッシュのゴミは誰が片付けるんだ!? それに……っ!」
八幡はコックピットの中で頭を掻きむしりながら、ぶつぶつと愚痴をこぼす。
「俺はどっちかというと……ツンツンしてて面倒くさいアスカ派な気がするんだよ。いや、赤髪ツインテールで毒舌とか属性過多だろ。……でもな、お前みたいな無口で放っておけない綾波派でもあるんだよ! どっちか一つに絞れるほど、男の欲望は単純にできてねぇんだよバカ野郎!!」
『……え?』
「だから死ぬな! 人のトラウマを増やすんじゃねえ!」
【……オトコ……ヤバい……】
脳内のバルディエルすらドン引きするほどの八幡の叫びと共に、3号機の全身から使徒特有の波状攻撃(粘着光束)が噴出。ゼルエルの帯状の腕を搦め捕り、強引にその間線から離脱する。
ドカーンッ!!
背後でN2爆弾の不発弾(あるいは不完全爆発)が虚しく爆発し、松代の山肌を吹き飛ばした。だが、八幡の無茶な強襲により、レイは間一髪で生還を果たしていた。
地面にドスンと倒れ込む3号機と零号機。
煙が立ち込める中、通信ウィンドウにミサトやシンジ、そしてアスカの叫び声が飛び込んでくる。
『ちょっとバカ八幡!! あんた今、戦闘中にどさくさに紛れて何恐ろしい告白(どっちも派)してんのよぉぉぉッ!?』
『比企谷くん……! 無事なんだね!? でも……アスカ派でレイ派って……』
『……比企谷くん』
零号機のプラグ内から、レイの静かな声が響く。
『アスカ派で……レイ派……?』
「……あ」
八幡は冷や汗をダラダラと流しながら、全通信がネルフ本部に丸聞こえだったことに気づいた。司令室のモニターの前で、ゲンドウがどのような顔でサングラスを光らせているか想像するだけで胃が痛い。
「……あー、聞こえますかネルフ本部。こちら3号機。使徒の侵食による一時的な精神錯乱です。俺の個人的な嗜好およびヒロインレースに関する発言はすべて記憶から抹消してください。繰り返す、すべて抹消してください……」
【……言い訳……苦しい……】
居候の使徒にまで呆れられながら、八幡は「やっぱりこの世界、死亡フラグより社会的な死のフラグの方がヤバいな」と絶望の溜め息をつくのだった。
ネルフ本部地下の集中治療室(病室)。
白い天井、無機質な医療機器の心電図が刻む規則的な電子音。
ゼルエル戦のダメージ(と精神的疲労)でベッドに転がされていた八幡の元に、静かな足音が近づいてきた。
点滴のポールを押しながら現れたのは、白い病衣を着た綾波レイだった。
「……体、大丈夫?」
「あ、ああ……まあな。全身打撲と、使徒との同調酔いみたいなもんだ。お前こそ、N2爆弾抱えて突っ込んだ割には無事そうで良かったよ」
八幡が少し照れくさそうに視線を外すと、レイは静かにベッドの脇へと近づき、赤く透き通った瞳で八幡をじっと見つめた。
「……助けてくれて、ありがとう。比企谷くん」
「……別に。俺はただ、後味の悪い結末が嫌だっただけだ。お前が吹き飛んだら、学校の空気が重くなって余計に居心地が悪くなるからな」
相変わらずのひねくれた八幡の返答。
しかし、レイは引くことなく、ぽつりと核に触れる問いを投げかけてきた。
「ねえ……比企谷くん」
「ん?」
「……アスカが、好きなの?」
「――ッ!?」
八幡は盛大に咽びそうになった。
(待て待て待て! 違う、そうじゃない! あの時俺が言ったのは、前世(?)のオタク的観点というか、『ツンデレ赤髪ツインテールという記号化されたキャラ属性としての好み』の話であって、リアルのアスカという個人の内面(めちゃくちゃ面倒くさいメンヘラ中学生)に恋してるわけじゃないんだよ!!)
心の中で高速で言い訳(言い逃れ)を構成し、「いや、あれはだな、メタ的な意味でのキャラ論争というか――」と口を開かけようとしたその時。
レイが、すっと顔を近づけてきた。
「……でも、私も好き、とも言った」
「え――」
言い終わる間すらなかった。
不意に重なった、柔らかくて冷たい唇の感触。
病室の静寂の中で、八幡の思考回路は完全にブツンと音を立ててショートした。
(……え? は? 今……何が起きた……? 唇……? え、綾波レイが……俺に……??)
思考がフリーズし、目の前が真っ白になる八幡。
ゆっくりと体を離したレイは、少しだけ頬を朱に染め、普段の無感情な面影からは想像もつかないほどハッキリとした強い意志を瞳に宿して、八幡を見つめていた。
「……アスカには、負けない」
「………………」
八幡は開いた口が塞がらないまま、金縛りに遭ったように固まっていた。
(嘘だろ……。原作の綾波レイって、こんな肉食系だっけ……!? シンジに対する『ポカポカする』どころの騒ぎじゃねえぞ!? これ絶対にゲンドウに見られたら即殺されるやつじゃねえか!!)
脳内では、居候の使徒(バルディエル)までが【……ヤバい……マジでヤバい……】と震え上がっている。
その時である。
病室の扉が、ガラガラッと静かに……しかし恐ろしい圧を孕んで開いた。
「へぇ……『アスカには負けない』、ねぇ……?」
ドアの隙間に立っていたのは、腕を組んで、般若のような笑顔(目は一切笑っていない)を浮かべたアスカだった。
八幡の「リアル中2生存戦略」は、使徒の襲来以上の壊滅的な破滅(修羅場)へと突入しようとしていた。
美しい鮮やかな赤髪をツインテールにし、眉間に凄まじい皺を寄せて仁王立ちしている。
(あ、ヤバい。マジで終わった……)
八幡の脳内で、警報音が大音量で鳴り響く。
「ちょっとバカ八幡!! あんたさっき戦闘中に『アスカ派だがレイ派でもある』とかいう都合のいい二股宣言しておいて、病室でファーストと何しちゃってんのよぉぉぉッ!?」
「待てアスカ! 落ち着け! これは不可抗力というか、俺も被害者なんだ! 事故だ事故! 交通事故みたいなもんだろ!!」
ベッドの上で必死に手と足をバタつかせながら弁明する八幡。
しかし、アスカはツカツカとベッドの脇まで歩み寄ると、八幡の胸倉をぐいっと掴み上げた。鮮やかな赤髪が、彼女の激しい怒りと共に揺れる。
「事故なわけないでしょバカ! あんたがフラフラ思わせぶりなこと言うからファーストが変なスイッチ入っちゃったんじゃないのよ! だいたいねぇ、ツンデレだの属性だの、あんたのその偏ったオタク知識で人を評価するんじゃないわよッ!」
「痛い痛い! 襟が締まる! 呼吸が止まる! 助けてバルディエル!」
【……ムリ……ジョセイルイ……コワイ……】
脳内の居候まで脱兎のごとく逃げ出し、完全に孤立無援となった八幡。
その横で、レイは乱れた制服の襟元をゆっくりと整えながら、赤く澄んだ瞳でアスカをじっと見つめ返し、静かに告げた。
「……アスカ。比企谷くんが苦しがってる」
「うるさいわねファースト! あんたはちょっとあっちで頭冷やしてなさい! ……とにかくバカ八幡! あんたが誰派なのか、今すぐここでハッキリさせなさいよッ!!」
「無茶言うな!? 俺は『静かに一人でマックスコーヒーを飲みたい派』だよ! 人類補完計画より先に俺の社会的人格が完結(補完)しちゃいそうだから放してくれぇぇっ!!」
夕暮れのネルフ病室に、八幡の悲痛な叫び声がどこまでも響き渡るのだった。
「おいシンジ! お前はどうなんだ!?」
絶体絶命の修羅場の中、八幡は病室のドアの陰で冷や汗を流しながらオロオロしていたシンジへ、全力でターゲットを擦り付けた。
「えっ!? ぼ、僕!?? なんで急に僕に振るの比企谷くん!?」
「いいから答えろ! お前だっていつも二人の間でウジウジ悩んでるだろ! 男ならここでハッキリ自分のスタンスを表明して、この場を収拾させろ!」
「そんなの急に言われたって……僕、どうしたらいいか分かんないよ……。綾波もアスカも、大切な仲間だから……」
案の定、いつも通り眉を八の字にして頭を抱え始めるシンジ。
その優柔不断すぎる態度に、八幡の胸倉を掴んでいたアスカのイライラが頂点に達した。
バシィッ!!
「痛っ!?」
アスカの鋭いツッコミ(物理)がシンジの頭頂部を直撃する。
「悩むくらいならアタシってことにしなさいよ! 誰がアンタのそのウジウジした態度に付き合わなきゃいけないのよ! それに……レイのお下がりなんてごめんだわ!」
「お下がりってどういうことだよアスカぁぁっ!?」
「いいから来なさいバカシンジ! アンタはアタシが徹底的に叩き直してやるわッ!」
そう叫ぶや否や、アスカは首の後ろを掴んで抵抗するシンジをズリズリと廊下へ引きずっていく。
「助けて比企谷くーーーん!!」
「さらばシンジ。お前の尊い犠牲は忘れない……」
遠ざかっていくシンジの悲鳴。
バタン、と病室のドアが閉まり、激しい嵐が去ったかのような静寂が戻ってきた。
……が、致命的な問題がひとつ残っていた。
病室には、八幡と、そして病衣を着た綾波レイの二人だけが取り残されている。
「……ふぅ。命拾いした……」
胸を撫でおろす八幡。
しかし、ゆっくりと振り返ると、そこにはベッドのすぐ横でじっと自分を見つめているレイの姿があった。
「……キスする?」
「……」
一切の迷いがないストレートすぎる球に、八幡は心臓が口から飛び出そうになった。
「いやいやいや! おかしいだろ!? なんでさっきの修羅場を通過してその選択肢に戻ってくるんだよ! ていうか俺のメンタル(HP)はもうアスカの怒声とシンジの犠牲でゼロなんだよ! 勘弁してください綾波さん!」
冷や汗を流しながら必死に拒否姿勢をとる八幡。
するとレイは、首を少しだけかしげ、どこか愛おしそうな……けれど少し悪戯っぽい瞳で八幡を見つめ直した。
「……なら」
「え――」
すっと顔が近づき、再び重なる柔らかい感触。
抵抗する隙すら与えない、二度目の静かなキス。
時間をかけてゆっくりと唇が離れると、レイは微かに頬を桃色に染めながら、小さく囁いた。
「私の……HP(命)をあげる」
「………………っっっ!!!」
八幡の思考回路が完全に灰燼に帰した。
(なんだこの破壊力は……!? 『自分の代わりはいる』とか言ってた初期の綾波はどこ行った!? 使徒と融合した俺のせいで世界線のフラグが完結にバグを起こしてやがる……!!)
真っ赤になった顔を隠すように、八幡はガバッと掛け布団を頭からかぶった。
「……もう、どうにでもしてくれ……」
布団の中から漏れ出る情けない八幡の声。
脳内の居候(バルディエル)も、【……リアジュウ……バクハツシロ……】と嫉妬の念を呟いていた。
一方その頃、病室のすぐ外の廊下。
八幡の犠牲によって引きずり出されたシンジは、壁に追い詰められ、仁王立ちするアスカの迫力に小さくなっていた。
「ちょっとバカシンジ! アンタさっきから何日和ってんのよ! ファーストに鼻の下伸ばして、バカ八幡の二股発言にもヘラヘラ乗っかっちゃってさぁ!」
「ひ、日和ってなんてないよ! 僕はただ、みんなで仲良くできたらいいなって……」
「それが日和ってるっていうのよッ!」
アスカは激しく赤いツインテールを揺らし、フシューっと荒い息を吐きながらシンジに指を突きつけた。
「いい? アンタ、浮気したらぶっ殺すわよ!!」
「う、浮気も何も……恋人じゃないだろ、アスカは……っ!」
シンジが必死に振り絞ったその一言が、アスカの導火線に火をつけた。
「――っ!?」
アスカの顔が瞬時に真っ赤に染まる。
だが次の瞬間、アスカはシンジの襟首を強引に引っ張り寄せると、勢い任せにその唇を塞いだ。
「――っん!?」
ドカン、と背中が壁に当たる音。
ほんの数秒、けれど永遠のように感じられる時間。
不意打ちすぎる強烈なキスの後、アスカは勢いよく体を離した。
「……ッ!! アンタはアタシのものよ!! わかったわね!!?」
耳の先端まで熟したトマトのように真っ赤にしたアスカは、叫ぶようにそう言い放つと、バタバタバタッ!!と凄まじい足音を立てて廊下の奥へと走り去っていった。
「……………………」
壁に背中を預けたまま、へたり込むように滑り落ちるシンジ。
指先で自分の唇に触れながら、目の前が真っ白になっていた。
思考が完全に停止し、ただただ天井を見上げるしかない。
「……え……? あ、アスカ……? ぼ、僕のもの……? 浮気……?」
その頃、病室の中。
布団をかぶって真っ赤な顔を隠していた八幡は、廊下から聞こえてきた一連の凄まじいやり取り(と足音)を、使徒(バルディエル)並みの超感覚でバッチリ察知していた。
(……おいおいおい、マジかよあいつら。あっちもあっちで世紀末みたいな展開になってんじゃねえか……)
八幡は布団からゆっくりと顔を出すと、隣で静かにたたずむレイと目を合わせた。
「……シンジのやつ、完全に魂抜けたな」
「……そうみたい」
「……この学校、やっぱりおかしいよ。14歳のメンタルで処理していい情報量を超えてるぞ……」
八幡はガシガシと頭を掻きむしり、壁の向こうでフリーズしているシンジに心の中で深く同情するのだった。
ネルフ本部の屋上。
青く澄み渡る秋空の下、風が二人の少年の髪を静かに揺らしていた。
八幡の手には、ネルフの自動販売機で買った無糖のブラックコーヒー。
そして隣に座るシンジの手にも、同じ黒い缶が握られている。
「……女って、怖いな」
八幡が缶のフチに唇をつけ、苦い液体を喉に流し込みながら、ポツリと呟いた。
「……うん」
シンジは深々と頷き、同じようにブラックコーヒーを口に含んだ。
ゴクリと飲み干すと、二人は示し合わせたかのように、はぁーっと重たい溜め息を空に向かって吐き出した。
ほんの数時間前までの自分たちとは、明らかに何かが違っていた。
ただ流されるままにエヴァに乗り、他人の顔色ばかり気にしていた14歳の少年。
そして、「ぼっち」という鎧を着込み、あらゆる面倒事から逃げ回ろうとしていた元・高校生の男。
けれど今、八幡の唇にはレイのあの冷たくて温かい感触が、シンジの唇にはアスカの熱烈で強引な誓いが、消えない刻印のように残っている。
(……参ったな。もう『無関係の一般人』じゃ通らねえじゃねえか)
使徒(バルディエル)と融合して化け物じみた力を手に入れた八幡だが、本当に重いのはその腕力ではなく、守るべき相手ができてしまったという現実だった。
(あいつを二度とN2爆弾と一緒に吹き飛ばさせないためなら……この3号機(使徒)、いくらでも使ってやるよ)
隣を見る。
そこにいるシンジの目からも、かつてのウジウジとした迷いは消えていた。
アスカという苛烈で繊細な少女の居場所を、自分が守り抜くのだという覚悟。背負うものを決めた男の顔がそこにあった。
「……比企谷くん」
「ん?」
「これ……めちゃくちゃ苦いね」
「当たり前だろ、ブラックだからな。……だが」
八幡は缶を握り直し、苦笑いを浮かべた。
「今の俺たちの状況が甘すぎるからな。このくらい苦いもん飲んで脳みそを冷やさねえと、照れ臭くて正気じゃいられねえよ」
「……ふふ、そうだね。あんなこと言われたら、頭がおかしくなりそうだった」
シンジが少し大人びた笑みを浮かべ、再び缶に口をつける。
あんなに大好きだった甘ったるいマックスコーヒーですら、今の八幡には甘すぎるように思えた。世界の命運だの、ゼーレの思惑だのはどうでもいい。ただ、自分を「必要だ」と言ってくれたあの無口な少女と、この情けない相棒の未来を守るため。
二人の少年は、夕日に染まり始める要塞都市を見下ろしながら、苦いコーヒーで静かに覚悟を飲み干すのだった。
「――という話なのだが! ぬははは! 掴みとしては完璧であろう! どうだ八幡、我が渾身のクロスオーバー・シナリオは!?」
総武高校の部室。
原稿を高々と掲げ、満足げにドヤ顔を決めている材木座義輝。
八幡が呆れた目で周囲を見回すと、そこにいたのは総武高校のブレザー制服を着たメンバーだった。
赤髪をたなびかせ、総武高校の女子制服を完璧に着こなして腕組みをするアスカ。
同じくブレザー制服のスカートをふわりと揺らし、パイプ椅子に静かに座って本をめくっているレイ。
そして八幡の隣で、総武高校の男子制服の襟元を気にしながら「材木座くんの創作意欲、すごいね……」と苦笑いしているシンジだった。
「バッカじゃないの。そんなロボット?は荒唐無稽すぎるでしょ? やっぱ中2ねアンタ」
アスカがフンと鼻で笑い、呆れ果てたように吐き捨てる。
「行くわよシンジ!」
顔を真っ赤にしたアスカは、シンジのブレザーの袖をぐいっと引っ張ると、照れくさそうにぷいっと横を向いて部室を出ていこうとする。
「えっ、あ、待ってよアスカ!」
オロオロしながらアスカに引きずられていくシンジ。
一方、静かに本を閉じたレイは、立ち上がりながら八幡の方を振り返って淡々と言い放った。
「……エヴァはともかく。ラブコメとしては、なかなか」
「いや『なかなか』じゃねえよ綾波。あと材木座、お前……エヴァはともかくとしてだな、使徒と人間がマックスコーヒーのノリで融合できるわけねぇだろ。どんな生体科学だよ」
八幡は盛大に後頭部を掻きむしりながら、材木座の妄想原稿に容赦ないツッコミを入れた。
「まあ、サイゼでも寄るか?」
八幡が何気なく声をかけると、レイは小さく頷いた。
「……ええ」
取り残された材木座が「みんなエヴァンゲリヲン知らないのか? そんなバカな……! 待ってくれ八幡! 我もサイゼのミラノ風ドリアを食べたいぞーーーッ!」と首をかしげながら叫び、追いかけてくる。
夕日に染まる総武高校の廊下を歩きながら、八幡はふと自分の内側に意識を向けた。
(……リアジュウ……バクハツシロ……)
八幡の脳内に、確かにそんな「居候の使徒(バルディエル)」の嫉妬に満ちた声が聞こえた気がした。
「……気のせいだな。よし、ドリア食って帰ろ」
総武高校のいつもの放課後。エヴァに乗るのも、使徒と融合するのも、そしてこの謎に豪華なクラスメイトたちと過ごす時間も。相変わらず面倒くさいことばかりだが、まあ……悪くないか、と八幡は小さく息を吐くのだった。