マスター道場での二度目の修行が始まって、一週間。
俺は現在、とんでもない難題に直面していた。
それは何か。
何もしない修行、難しすぎ問題である。
いや、マジで。
修行ってもっとこう、走り込みとか、技の練習とか、実戦形式のバトルとか、そういうものじゃないの?
ところが、マスタード師匠から出された課題は違った。
『フェリヤちゃんに無理な指示を出さず、まずはよく知ることじゃよ』
以上。
もちろん、道場の日課やムーちゃんたちとの練習まで禁止されたわけではない。今回の修行で改めなければならないのは、俺のフェリヤへの接し方だ。
彼女に何かをさせようとするのではなく、まずは普段の行動をよく見て、何を好み、何を嫌がるのかを知る。
言葉にすると簡単そうなのだが、これがなかなか難しい。
前世世界一位の俺。
現在、ポケモン観察日記を執筆中。
努力値を振る対象が、自分のコミュニケーション能力になる日が来るとは思わなかった。
人生、何があるかわからないものである。
♦
「……よし」
朝食を終えた俺は、道場の縁側に腰を下ろし、小さなノートを開いた。
表紙には、大きくこう書いてある。
『フェリヤかんさつにっき』
うむ。なかなかいい出来である。
ちなみに、今日までの記録はこんな感じだ。
『一日目。フェリヤは、朝早くおきる』
『二日目。ごはんのおさらに、ほこりがあるといやがる』
『三日目。ルージュの花粉がにがて』
『四日目。知らないポケモンが来ると、はなれる』
『五日目。窓の近くがすき?』
こうして並べてみると、以前から知っていたことも多い。
フェローチェが潔癖なのは前世から知っていたし、ルージュの花粉が苦手なのも、これまでの生活で何度か目にしている。
ただ、実際にどんな状況で嫌がるのか、その細かいところまでは理解していなかった。
例えば、食事。
フェリヤは決して好き嫌いが多いわけではない。用意されたきのみは普通に食べるし、特定の種類だけを避けている様子もない。
ところが、食器に少しでも汚れが残っていると、途端に食べようとしなくなる。
最初はきのみが気に入らないのかと思っていたけれど、器を洗い直して出すと、何事もなかったように食べ始めることがあった。
つまり、問題は食べ物ではなく、器の方だったらしい。
食事より先に衛生監査が始まるのである。
しかも、この監査がなかなか厳しい。
とはいえ、フェリヤにとっては落ち着いて食事をするための大切な条件なのだろう。俺が面白がって、わざと汚れた器を出して確かめるようなことは、もちろんしない。
それから、もう一つ。
この一週間で気づいたことがある。
どうやらフェリヤは、誰かにじっと見られているのも苦手らしい。
最初は、彼女の近くに座って行動を記録しようとしていた。ところが、俺がノートを開くたびに、フェリヤがこちらを気にするようになったのだ。
そりゃそうだよな。
ただでさえ知らない場所で警戒しているのに、近くに座った人間が自分の行動をいちいち書き留めていたら、落ち着くものも落ち着かないだろう。
観察日記をつけるために、観察対象の生活を邪魔してどうする。
これでは本末転倒である。
というわけで、今は普段どおりに過ごしながら、気づいたことをあとで書くようにしている。
細かい行動をすべて記録することはできないけれど、フェリヤの邪魔をしないことの方が大切だ。
「リンちゃーん!」
「あ、師匠!」
庭の方から、マスタード師匠が顔を出した。
「今日も観察しとるんかのう?」
「うん! さっきまでのこと、かいてた!」
「ほっほっほ! 熱心じゃのう!」
師匠は俺の隣へ腰を下ろすと、開いていたノートを楽しそうに覗き込んだ。
「それで、フェリヤちゃんの気持ちはわかったかのう?」
「うーん……ぜんぜん」
「ほっほっほ!」
いや、笑い事じゃないんですが!?
こっちは一週間も頑張ってるんですよ、師匠!
「でも、師匠。フェリヤがなにを考えてるのか、ほんとにわかんないんだ」
「ほう?」
「きれいな場所がすきなのはわかるし、いやがることも前より気づけるようになったと思う。でも、それがどうしてなのかまでは、わかんない」
師匠は俺の話を聞き終えると、満足そうに頷いた。
「それでよいんじゃよ」
「……いいの?」
「うむ。わからんことを、わからんと認める。それも大切な修行じゃ」
そう言って、庭の端にいるフェリヤへ視線を向ける。
「あの子の気持ちを、勝手に決めつけんことじゃのう。相手を理解するというのは、何を考えとるか全部当てることではないんじゃよ」
俺は、思わずフェリヤを見た。
彼女は、道場の庭に落ちてきた木の葉を静かに眺めている。
どうして葉っぱを見ているのかは、わからない。
形が気になるのかもしれないし、風で動く様子が面白いのかもしれない。
あるいは、たまたま視線を向けているだけかもしれない。
「……なるほど」
確かに、そういうことなのだろう。
俺は前世で、フェローチェというポケモンを何度も使ってきた。
素早さが高く、攻撃性能に優れていて、耐久力には不安がある。どんな相手に強く、どんな相手を苦手とするのかも、かなり詳しいつもりだ。
でも、それはフェローチェという種族の特徴だ。
目の前のフェリヤが何を望んでいるのかは、種族値を眺めたところでわからない。
そもそも、同じ種類のポケモンだからといって、全員が同じ性格をしているわけでもない。
ムーちゃんだってそうだ。
グソクムシャというポケモンについて前世で知っていたことと、俺が一緒に暮らして知ったムーちゃんの性格は、まったく同じものじゃない。
それなのに、フェリヤのことになると、いつの間にか知識だけでわかったつもりになっていた。
「……師匠」
「なんじゃ?」
「これ、思ってたよりむずかしいね」
「ほっほっほ! だからこそ修行なんじゃよ」
師匠は嬉しそうに笑った。
「急いで答えを出さんでもよい。まずは、あの子が安心して過ごせるようにしてあげるんじゃな」
「うん!」
俺は大きく頷き、ノートを閉じた。
正直、まだ何をすれば正解なのかはわからない。
けれど、わからないままでも、できることはある。
少なくとも、フェリヤが静かに過ごしているところへ、わざわざ話しかけに行く必要はないだろう。
今は、そういうところから始めてみよう。
♦
そんなある日の午後。
道場の庭で、ちょっとした騒動が起きていた。
「アブリッ!」
「フェロッ!?」
原因は、我がパーティーのいたずら担当。
ルージュである。
どうやら、フェリヤの近くで花粉を振りまいてしまったらしい。
「ルージュ! そこはだめ!」
「アブリ?」
俺が声をかけると、ルージュは不思議そうに首を傾げた。
悪気はないのだろう。
ただ、一緒に遊びたかっただけなのかもしれない。
しかし、フェリヤにとっては迷惑だったらしい。
花粉が舞った瞬間、彼女は素早く身を引き、そのまま壁際まで移動してしまった。
ルージュが追いかけようとしたので、俺は慌てて手を差し出した。
「ルージュ、こっち。フェリヤは花粉がにがてなんだよ」
「アブリ?」
「遊びたいなら、あとで俺と遊ぼう。ね?」
「アブリッ!」
ルージュは元気よく返事をすると、俺の肩へ飛んできた。
どうやら、すぐに機嫌を直してくれたらしい。
よかった。
この子まで拗ね始めたら、別の意味で大変なことになるところだった。
そんなルージュを肩に乗せたまま、俺はフェリヤの方を見た。
彼女は壁際へ移動したあと、すぐには休もうとしなかった。
まず周囲を見渡し、近くに誰もいないことを確かめている。
それから、ようやく身体の力を抜いた。
俺は、その行動を見てふと気づいた。
そういえば、前にも似たようなことがあった。
知らないポケモンが近づいたとき。
道場が大勢の門下生で賑わっていたとき。
突然、大きな物音がしたとき。
フェリヤは決まって周囲を確認し、人やポケモンが少ない場所へ移動することが多かった。
ただ清潔な場所を探しているだけだと思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。
俺は、彼女がいる壁際を改めて見た。
そこからは庭の様子がよく見える。
道場の出入口も確認できるし、反対側には別の通路がある。
誰かが近づいてきても、すぐに移動できそうな場所だった。
……なるほど。
あの子にとって大切なのは、清潔さだけじゃないのかもしれない。
誰にも邪魔されない場所。
自分の周りを確認できる場所。
何かあったとき、いつでも離れられる場所。
そういう環境だと、少しは安心できるのだろうか。
「……ムーちゃん」
「グソ?」
近くにいたムーちゃんが、俺の顔を覗き込んだ。
「フェリヤって、ひとりがすきなのかな?」
「……グソ?」
ムーちゃんも、よくわからないといった様子で首を傾げる。
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「ごめん。まだ、わかんないね」
一人が好きなのかもしれない。
誰かと一緒にいたいけれど、近づかれるのが怖いのかもしれない。
それとも、まったく別の理由があるのだろうか。
今の俺には判断できない。
だから、勝手に決めるのはやめておこう。
その日の夕方、道場の掃除を終えた俺は、ノートに新しい一行を書き加えた。
『フェリヤは、人がおおいところが、にがてかもしれない』
少し迷ってから、その下にも書き足す。
『まわりが見えて、すぐに動けるばしょだと、落ちつく?』
どちらも、まだ確かめられたわけじゃない。
けれど、それでいい。
今は結論を急ぐより、こうして気づいたことを一つずつ覚えておこう。
俺はノートを閉じ、そっと机の引き出しへしまった。
♦
その夜。
俺は、なかなか眠れずにいた。
道場の外からは、むしポケモンたちの鳴き声が聞こえてくる。
ムーちゃんとしずくは、すでに夢の中。ルージュも窓際に飾られた花のそばで、気持ちよさそうに丸くなっていた。
実に平和な光景である。
昼間は道場の修行で散々身体を動かしたというのに、どうにも寝つけない。
マスタード師匠に言われたことが、ずっと頭の中に残っていた。
――あの子は、リンちゃんに何をしてほしいんじゃろうな?
何をしてほしい、か。
考えてみれば、俺はこれまで、フェリヤに何をしてもらいたいかばかり考えていた。
一緒に遊びたい。
もっと仲良くなりたい。
いつか、一緒にバトルしたい。
どれも俺の願いだし、悪いことだとは思わない。
でも、フェリヤが同じことを望んでいるとは限らない。
そんな当たり前のことを、俺はいつの間にか忘れていた。
カンムリ雪原で保護したばかりの頃は、もっと慎重だったはずなのに。
少しずつ生活に慣れてくれたことが嬉しくて、次はこれもできるんじゃないか、あれもしてくれるんじゃないかと、勝手に期待してしまっていた。
その期待に応えてもらえないと、今度はどうしてなのかと悩む。
フェリヤからすれば、たまったものじゃないだろう。
「……何やってんだろ、俺」
小さく呟き、天井を見上げる。
前世の俺は、三十数年生きていた。
ポケモン対戦に人生を捧げ、世界一位にまでなった。
その経験は、今でも大切なものだ。
努力してきたことを後悔していないし、ポケモンが好きな気持ちも変わっていない。
けれど。
ポケモンバトルに詳しいことと、ポケモンの気持ちを理解できることは、別の話なんだよな。
対戦では、相手の行動を予測して勝ち筋を考えていた。
不利な状況になれば原因を分析し、次に同じ失敗をしないための対策を立てた。
それなのに、フェリヤとのことでは、自分の考えが正しいと思い込んでいた。
前世で積み重ねた経験があるから、きっと上手く接することができる。
そんな自信も、どこかにあったのかもしれない。
俺は、寝返りを打った。
それから、もう一つ気になっていることを考える。
最近、感情の動き方が前世とは少し違う気がするのだ。
嬉しいことがあれば、思った以上にはしゃいでしまう。
腹が立ったときには、頭で考えるより先に言葉が出てしまうこともある。
前世の記憶は残っているのに、感情の方が追いついてこない。
もしかすると、今の身体の年齢が関係しているのだろうか。
俺はまだ九歳だ。
生まれたときから前世の記憶はあったけれど、それで赤ん坊の身体まで大人になったわけじゃない。ママンに抱っこされるだけで妙に安心したり、子供らしいことで嬉しくなったりするのも、今では珍しくない。
記憶と知識は残っていても、心の動きまで昔とまったく同じとは限らない。
まあ、実際のところはわからないけどね。
そもそも、転生なんて経験自体が普通じゃないんだから、誰かに聞いて答えがわかる話でもない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
身体が子供だからって、誰かを傷つけていい理由にはならない。
この前のヤンチャムとの騒動だってそうだ。
あのとき俺は、フェリヤへ声を荒らげてしまった。
ヤンチャムが傷つき、ほかのポケモンたちにも危険が及びそうになっていた。だから、攻撃を止めなければならなかったこと自体は間違っていないと思う。
でも、そのあとが駄目だった。
フェリヤがどうして飛び出したのか、考える余裕がなかった。
俺が転びそうになったのを見て、ヤンチャムを危険な相手だと思ったのかもしれない。
俺を守ろうとしてくれた可能性だってある。
それなのに、俺はその理由を確かめようともせず、怖かった気持ちや焦りをそのままぶつけてしまった。
フェリヤがびくりと身体を震わせたことを、今でも覚えている。
あのとき、俺は何を見ていたんだろう。
以前にも謝った。
けれど、謝ったからといって、あの子の恐怖がなくなるわけじゃない。
大切なのは、同じことを繰り返さないことだ。
俺は、布団から身体を起こした。
「……水でも飲むか」
このまま考えていても、眠れそうにない。
ムーちゃんたちを起こさないように布団から抜け出し、そっと廊下へ出た。
昼間は門下生たちの声で賑やかな道場も、夜になると驚くほど静かだった。
窓から差し込む月明かりが、磨かれた床を淡く照らしている。
台所で水を飲み、部屋へ戻ろうとしたときだった。
縁側の向こうに、小さな影が見えた。
「……ん?」
月明かりに照らされた庭。
その一角に、フェリヤがいた。
長い触角を夜風に揺らしながら、静かに空を見上げている。
ときどき細い脚を折り曲げ、身体を休めるように座り直す。その姿には、昼間のような張り詰めた雰囲気がなかった。
俺は思わず足を止めた。
フェリヤがこんなに穏やかに過ごしているところを、今まで見たことがあっただろうか。
少なくとも、俺の前ではほとんどない。
誰かが近づけば距離を取り、物音がすればすぐに身構える。
そんな姿ばかりを見ていた。
でも、今は違う。
月明かりを受けた白い身体は、昼間とはまた違った美しさがあった。
……綺麗だな。
しばらく見つめていた俺は、ふと気づいた。
そうか。
今のフェリヤは、誰にも邪魔されていないんだ。
誰かに話しかけられることもないし、何かを求められることもない。
ただ、自分の好きな場所で、好きなように過ごしている。
もしかすると、あの子にとっては、こういう時間こそが一番落ち着くのかもしれない。
そう考えた途端、少しだけ胸が苦しくなった。
俺は、フェリヤと仲良くなりたかった。
だから何度も話しかけたし、遊びに誘った。
ムーちゃんたちの輪にも入ってほしかった。
でも、その一つひとつが、フェリヤにとっては負担だったのかもしれない。
前に、おばあちゃんから聞かれたことを思い出す。
もしフェリヤが元の世界へ帰りたいと言ったら、どうするのか。
あのときの俺は、帰してあげたいと答えた。
手放したくない気持ちはあったけれど、それでもフェリヤが帰りたいなら、その気持ちを尊重したかった。
今も、その考えは変わっていない。
なのに。
それを、フェリヤ本人へ伝えたことはなかった。
そもそも、帰りたいのかどうかさえ聞けていない。
俺が一緒にいたいからという理由で、いつまでもここにいてくれるものだと、どこかで考えていたんじゃないだろうか。
あの日、カンムリ雪原で出会ったフェリヤは、知らない世界へ突然やってきたポケモンだった。
あの子には、俺の知らない故郷がある。
大切な仲間だっているかもしれない。
それを置いて、突然知らない場所へ来ることになった。
もし、自分が同じ立場だったら。
そこまで考えて、俺は唇を噛んだ。
俺も、前世とは違う世界に生まれ変わった人間だ。
けれど、俺にはママンとパパンがいた。
赤ん坊の頃から大切に育ててもらい、この世界で暮らすための時間も十分にあった。
フェリヤとは、まったく事情が違う。
俺が今の生活を気に入っているからといって、フェリヤも同じだとは限らない。
そこを、ちゃんと考えるべきだった。
俺は縁側へ一歩踏み出しかけて、足を止めた。
今、フェリヤは静かに過ごしている。
俺が話しかければ、その時間を邪魔することになる。
だったら、今夜はこのまま部屋へ戻った方がいいのかもしれない。
でも。
謝りたいことがある。
それから、一つだけ、どうしても伝えておきたいことがあった。
俺は少し迷ったあと、縁側の手前で声をかけた。
「……フェリヤ」
「フェロ?」
長い触角がぴくりと動き、フェリヤがこちらを振り向いた。
その身体が、わずかに強張る。
俺は、それ以上近づかずに立ち止まった。
「ごめん。ちょっとだけ、話してもいい?」
フェリヤは、何も答えなかった。
しばらく俺を見つめたあと、庭の方へ視線を戻す。
近づいてきてくれたわけではないし、返事をしてくれたわけでもない。
それでも、今すぐ立ち去る様子はなかった。
俺は縁側の端に腰を下ろした。
彼女との間には、十分な距離がある。
夜風が庭の木々を揺らし、葉の擦れる音が聞こえてきた。
「この前は、怖がらせてごめん」
まず、それだけを伝えた。
フェリヤの触角が、かすかに揺れる。
「ヤンチャムのとき、俺、すごく焦ってた。あのままだと誰かが怪我すると思って、早く止めなきゃって」
俺は膝の上で手を組んだ。
「でも、止まってくれたあとまで、あんな言い方をする必要はなかったんだ」
フェリヤは、こちらを見ない。
俺は少しだけ言葉を探した。
「俺を守ろうとしてくれたのかもしれないのに、ちゃんと考えなかった。ごめんな」
返事はなかった。
けれど、それでいい。
謝ったからといって、すぐに許してもらおうとするのは違うだろう。
「それと、もう一つ」
俺は、庭にいるフェリヤへ目を向けた。
「フェリヤは、むりに俺たちと遊ばなくていいからね。バトルだって、したくないならしなくていい」
少しだけ間を置く。
「一緒にいたいときは一緒にいてくれたら嬉しいけど、ひとりでいたいときは、そうしてくれていいんだ」
フェリヤがゆっくりと顔を向けた。
その瞳を見ながら、俺は続けた。
「それから、元の世界に帰りたいなら、帰る方法もちゃんと探すよ」
「……フェロ?」
フェリヤの触角が、大きく動いた。
俺は、思わず背筋を伸ばした。
けれど、その反応が何を意味するのかはわからない。
驚いたのかもしれないし、単に話しかけられたことへ反応しただけかもしれない。
「今は、まだ方法がわからないんだけどね。前に調査員さんたちも調べてくれてたし、俺もこれからちゃんと聞いてみる」
ウルトラホールの存在は知っている。
フェローチェがウルトラビーストだということも、前世の知識としては理解している。
けれど、実際にどうやってウルトラホールを開くのか、目的の世界へ安全に帰れるのかは、まったくわからない。
簡単な約束ではない。
それでも、俺が一緒にいたいという理由だけで、フェリヤの帰る可能性までなくしたくはなかった。
「俺は、フェリヤと一緒にいられたら嬉しいよ」
それは本心だ。
「でも、フェリヤがどうしたいかは、フェリヤが決めていいんだ」
言い終えてから、俺は少しだけ息を吐いた。
ほかにも伝えたいことはあった。
初めて出会った日のこと。
一緒に暮らせるようになって嬉しかったこと。
いつか、もっと仲良くなれたらいいと思っていること。
けれど、ここで全部話すのはやめておこう。
フェリヤが聞きたいと思っているかどうかも、わからないのだから。
「……今日は、これだけ」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「話しかけてごめんな。おやすみ、フェリヤ」
フェリヤは、何も答えなかった。
俺を見つめていた瞳が、再び夜空へ向けられる。
それを見て、俺は静かに廊下へ戻ることにした。
すると。
「……フェロ」
背後から、小さな声が聞こえた。
思わず振り返る。
フェリヤが、こちらを見ていた。
目が合う。
ほんの数秒。
そのあと、彼女は何事もなかったように月へ視線を戻した。
俺はしばらくその場に立っていたが、もう一度話しかけることはしなかった。
何を伝えたかったのかは、わからない。
ただ、いつもなら俺が近づいただけで離れてしまうこともあるのに、今夜は最後までそこにいてくれた。
それだけだった。
別に、許してもらえたわけじゃない。
仲良くなれたわけでもない。
それでも、今はこれで十分だった。
「……ありがとな」
小さく呟き、今度こそ部屋へ戻った。
明日から、少しずつ変えていこう。
言葉で謝るだけじゃなく、フェリヤが安心して過ごせるように、できることを考えよう。
もちろん、何をすれば喜んでくれるのかは、まだわからない。
だったら、まずは嫌がることを減らしてみる。
そのくらいなら、今の俺にもできるはずだ。
♦
翌朝。
「ミツバさん!」
「あら、リン君。どうしたの?」
「ちょっと、おへやをかえてもいい?」
朝食の片づけをしていたミツバさんに声をかけると、不思議そうな顔をされた。
「どんなふうに?」
「フェリヤが、ひとりでやすめるばしょをつくりたい!」
そう。
昨夜から考えていたことである。
フェリヤが静かに休める場所。
人の出入りが少なく、誰にも邪魔されない場所。
それでいて、外の様子を確認できて、必要なときには自由に出てこられる場所。
そういう空間があれば、少しは安心して過ごせるのではないだろうか。
もちろん、気に入ってもらえるかどうかはわからない。
でも、試してみる価値はあると思ったのだ。
「ふふっ。いいわよ」
「ほんと!?」
「ええ。空いているお部屋なら使ってもらって構わないわ。でも、大きな家具は一人で動かさないことね」
「はい!」
よし。
許可取得。
作戦開始である。
♦
選んだのは、道場の客間の一角だった。
窓から柔らかい光が入り、庭の様子も見える。
しかも、普段は人の出入りが少ない。
縁側ほど開放的ではないけれど、静かに休むには悪くない場所だと思う。
何より、扉を閉めれば一人になれるし、開けておけば周囲の様子も確認できる。
……ここなら、よさそうだ。
「ムーちゃん! おそうじするよ!」
「グソッ!」
「しずくは、こっちでまっててね!」
「シズ!」
「ルージュは……花粉、まかないでね?」
「アブリッ!」
最後の返事だけ、信用していいのだろうか。
非常に不安である。
とにかく、掃除開始。
まずは床を丁寧に拭き、窓枠に溜まっていた埃を取り除く。
普段から掃除されている部屋なので、そこまで汚れているわけではない。それでもフェリヤにとっては、小さな汚れが気になるかもしれない。
というわけで、隅々まで徹底的に掃除することにした。
ムーちゃんには大きな家具を少しだけ動かしてもらい、俺はその下まで丁寧に拭いていく。
しずくは、近くに置いた水桶の中から応援担当。
そして、ルージュはというと。
「アブリッ!」
「ルージュ! おはなはもってこなくていいから!」
「アブリ?」
だから。
その花粉が問題なんだってば。
いや、気持ちは嬉しいんだけどね?
花を飾れば部屋が華やかになると思ったのだろう。実際、綺麗な花ではある。
ただ、今回はフェリヤが落ち着ける場所を作るのが目的だ。
俺が気に入った部屋を作るわけではない。
「ルージュ、ありがと。でも、おはなは別のところにかざろうね」
「アブリッ!」
どうにか納得してくれたらしい。
ルージュは花を抱えたまま、元気よく飛んでいった。
そのあと、ミツバさんから借りた清潔な敷物を用意し、窓際に小さな器を置いた。
人目が気になるときのために、低い衝立も置いてみる。
ただし、出入口は塞がない。
フェリヤが自分で出入りできるようにしておくことも、大切だと思ったからだ。
「……よし!」
俺は完成した空間を眺めた。
うむ。なかなかいい。
床は綺麗だし、窓からは庭も見える。
静かに過ごせそうな場所になったと思う。
これなら、フェリヤも少しは気に入ってくれるのでは?
……いや。
期待しすぎるのはやめよう。
使ってくれなかったとしても、それはあの子の自由だ。
俺は、近くにいたムーちゃんたちへ声をかけた。
「ここは、フェリヤがつかっていいおへやだからね!」
「グソッ!」
「シズ!」
「アブリ!」
「だから、フェリヤがいるときは、かってにはいらないこと。わかった?」
三匹が、それぞれ返事をしてくれる。
うん。大丈夫そうだ。
「ルージュ、とくにおねがいね?」
「アブリ?」
なぜ首を傾げる。
心当たりがありすぎるだろ。
まあ、悪気がないのはわかっているんだけどね。
俺は最後に部屋を見渡し、道具を片づけた。
あとは、フェリヤに見てもらうだけだ。
♦
その日の夕方。
俺は、フェリヤへ部屋を見せることにした。
「フェリヤ」
「……フェロ?」
廊下の先にいたフェリヤが、こちらを向く。
「ちょっとだけ、みてほしいものがあるんだ」
そう伝えてから、俺は客間の扉を開いた。
フェリヤが中を確認できるようにし、そのまま少し離れた場所へ下がる。
「ここ、つかっていいよ」
フェリヤは、部屋の入り口から中を見つめた。
床、窓、敷物、衝立。
それから、俺。
……ふむ。
何を考えているんだろう。
さっぱりわからん。
「ひとりで、ゆっくりできるようにしたんだ」
俺は、それだけ伝えた。
「つかいたくなったら、いつでもつかってね」
フェリヤは、しばらく部屋を眺めていた。
しかし、中へ入ろうとはしない。
やがて、俺を一度だけ見て、静かに歩き去っていった。
……駄目だったか。
正直、少しだけ残念だった。
朝から頑張って掃除したし、フェリヤが使ってくれたら嬉しいと思っていたのも本当だ。
でも、気に入らなかったのかもしれない。
まだ警戒しているのかもしれないし、単に今は使いたくないだけなのかもしれない。
それなら、それでいい。
俺が時間をかけて用意したからといって、使わなければならない理由にはならないのだから。
「……ま、いっか」
俺は小さく笑い、扉を開けたままにしておいた。
明日も使わなければ、そのままにしておこう。
別の場所で休みたそうなら、そちらを考えてみればいい。
今は、選べる場所を一つ増やせただけでも十分だと思うことにした。
♦
その夜。
掃除疲れで、俺は縁側に座ったままうとうとしていた。
「……つかれたぁ」
「グソ?」
ムーちゃんが、心配そうに顔を覗き込む。
「だいじょうぶ。ちょっとだけ、ねむい……」
俺はムーちゃんの大きな装甲へ寄りかかった。
ああ、落ち着く。
硬いはずなのに、なんだか安心するんだよな。
昔からずっと一緒にいるからだろうか。
ムーちゃんは、俺が寄りかかっても嫌がることなく、静かに身体を支えてくれた。
その温かさを感じていると、ふと昔のことを思い出した。
第二鉱山で、小さなコソクムシだったムーちゃんと出会った頃。
最初は、近づくだけで逃げられていた。
色違いのコソクムシを見つけたときは、正直めちゃくちゃ興奮した。
前世であれほど探し求めていた色違いが、目の前にいるのだから。
そりゃもう、捕まえたくて仕方がなかった。
けれど、ムーちゃんはとても怖がりだった。
だから何度も会いに行って、少しずつ距離を縮めた。
警戒されなくなって、近くにいてくれるようになって、ようやく俺の隣へ来てくれた。
そうして一緒に過ごしているうちに、いつの間にか今の関係になっていたんだ。
……そっか。
ムーちゃんだって、最初から俺を信じてくれていたわけじゃない。
それなのに、フェリヤには少し早く仲良くなってほしいと思ってしまっていた。
もちろん、二匹の性格は違う。
ムーちゃんと同じ時間をかければ、同じように仲良くなれるというものでもないだろう。
でも、一つだけ共通していることがある。
どちらも、俺が望んだからといって、すぐに心を開いてくれるわけじゃないということだ。
「……ムーちゃん」
「グソ?」
「ありがと」
「グソッ!」
優しい鳴き声が返ってくる。
俺はその装甲をそっと撫で、少しだけ目を閉じた。
フェリヤとも、焦らずに向き合っていこう。
何年かかったっていい。
少なくとも、俺の都合で急がせるのは、もうやめよう。
♦
翌朝。
「……ふぁぁ」
俺は大きなあくびをしながら、道場の廊下を歩いていた。
昨日は掃除を頑張りすぎたらしい。
腕も少し痛い。
九歳児の身体に、あの大掃除はなかなか厳しかったようだ。
そんなことを考えながら歩いていると、昨日掃除した客間が目に入った。
扉は、少しだけ開いていた。
……そういえば。
フェリヤ、あのあと部屋を使ってくれたのかな。
別に使っていなくても構わない。
そう思っていたのだが、部屋の前を通りかかったところで、あることに気づいた。
「……あれ?」
敷物の位置が、昨日とは少し変わっている。
窓際に置いておいた小さな器も、綺麗に並べ直されていた。
さらに、床の隅に置いていた布まで、きっちりと畳まれている。
……ん?
これって、もしかして。
俺は、開いていた扉の前で足を止めた。
すると、部屋の奥から白い影が見えた。
フェリヤだった。
窓際に座り、布の端を丁寧に揃えている。
俺がいることに気づいたのか、彼女が顔を上げた。
「……フェロ」
「あ、おはよう」
俺が声をかけると、フェリヤはちらりとこちらを見た。
それから、また布へ視線を戻す。
逃げる様子はない。
ただ、自分の作業へ戻っただけだった。
俺は、その光景を見て少しだけ笑った。
……そっか。
使ってくれたんだ。
昨日は中に入らなかったけれど、あとから自分で確かめに来たのかもしれない。
そして、今はこうして窓際で休んでいる。
それだけで、何だか嬉しくなった。
しかし、よく見ると。
敷物は真っ直ぐ。
器の向きも完璧。
布の角まで、きっちり揃っている。
……おお。
掃除のプロか?
俺が昨日あれだけ頑張って整えた場所が、さらに綺麗になっているではありませんか。
俺の掃除、まだ甘かった?
何というか、少々複雑な気分である。
「……フェリヤ」
「フェロ?」
「おれより、おそうじうまいね……」
フェリヤは、特に反応しなかった。
ただ、布をもう一度畳み直し、窓際へ丁寧に置いている。
うむ。
負けました。
衛生管理に関しては、完全敗北である。
俺は小さく笑い、部屋の入り口から離れた。
これ以上話しかける必要はないだろう。
フェリヤは今、自分の選んだ場所で、自分の好きなように過ごしている。
その時間を邪魔したくなかった。
もちろん、部屋を使ってくれたからといって、俺を信用してくれたとは限らない。
昨日の謝罪を許してくれたのかどうかも、わからないままだ。
でも、それでいい。
俺が用意した場所を、フェリヤが自分の意思で使ってくれた。
今は、その事実だけで十分に嬉しかった。
♦
「師匠ぉぉ!」
「ほっほっほ! どうしたんじゃ、リンちゃん!」
「フェリヤが、おへやつかってくれた!」
「おお! それはよかったのう!」
「しかも、すっごくきれいにしてた!」
「ほっほっほ!」
師匠は楽しそうに笑った。
俺は少しだけ胸を張る。
「おれ、フェリヤのこと、ちょっとだけわかったきがする!」
「ほうほう。何がわかったんじゃ?」
「きれいで、しずかなばしょだと、あんしんできるのかも!」
そう答えると、師匠は嬉しそうに頷いた。
「よい気づきじゃのう」
へへっ。
褒められた。
しかし、そのまま師匠は続けた。
「それで、リンちゃん。フェリヤちゃんは、その部屋を使ってくれたんじゃな?」
「うん!」
「では、次はどうするつもりじゃ?」
「……次?」
俺は少し考えた。
そういえば、今までは何かが上手くいくと、すぐに次の目標を決めていた気がする。
技を一つ覚えたら、次はもっと強い技。
バトルに勝ったら、次はもっと強い相手。
仲良くなれたら、次は一緒に遊んで、さらにその次はバトルも。
でも、フェリヤの場合は。
「……とくに、なにもしない」
俺が答えると、師匠が目を細めた。
「ほう?」
「フェリヤがあのおへやを気に入ってくれたなら、そのままつかってもらいたい。もっとなかよくなりたいけど、それはフェリヤが決めることだから」
俺は少し照れくさくなり、頬を掻いた。
「だから、今はおへやをきれいにしておくくらいでいいかなって」
師匠は、しばらく俺を見つめていた。
そして、いつもの大きな笑顔を浮かべた。
「ほっほっほ! それでよいんじゃよ、リンちゃん」
「ほんと?」
「うむ。相手のために何かをすることも大切じゃが、相手が自分で決められるようにしてあげることも、同じくらい大切なんじゃ」
俺は、その言葉をゆっくりと噛みしめた。
相手が、自分で決められるようにする。
フェリヤが部屋を使うかどうか。
俺たちと遊ぶかどうか。
いつか、一緒にバトルをしたいと思うかどうか。
そして、元の世界へ帰りたいと思うのかどうか。
どれも、俺が勝手に決めていいことではない。
もちろん、危ないことをしようとしたら止めなければならないし、困っているなら助けたい。
けれど、それとフェリヤの気持ちを無視することは違う。
その違いを、ちゃんと覚えておこう。
「……師匠」
「なんじゃ?」
「おれ、まだまだだね」
「ほっほっほ! 九歳で全部できるようになったら、わしの出番がなくなってしまうわい!」
師匠は大きく笑い、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
俺も、つられて笑った。
前世の記憶があるからといって、何でもできるわけじゃない。
でも、それを言い訳にする必要もない。
できなかったことがあるなら、これから覚えていけばいい。
それは、ポケモンバトルだって同じだった。
俺は、もう一度庭の方へ目を向けた。
客間の窓が、朝日に照らされている。
あの中では、今もフェリヤが静かに過ごしているのだろう。
俺がいなくても安心できる場所が、一つ増えた。
それが、今は何より嬉しかった。
……さて。
そうなると、次の問題がある。
「……師匠」
「なんじゃ?」
「おれより、フェリヤのほうが道場生活むいてません?」
「ほっほっほ! 確かに掃除は上手そうじゃのう!」
……いや。
そこは否定してほしかった。
俺だって頑張ってるんですよ?
毎朝ちゃんと起きてるし、掃除もしてるし、ぼんぐり採取だって――
……あ。
まだやってないわ。
俺は、ゆっくりと庭の方を見た。
そういえば、今日の当番だった。
しかも、昨日はフェリヤの部屋を掃除するのに夢中で、採取道具の準備まで忘れていた気がする。
……うん。
これはまずい。
フェリヤの生活環境を整えるのは大事。
しかし、自分の仕事を忘れていい理由にはならないのである。
「し、師匠! おれ、ちょっといってくる!」
「ほっほっほ! 転ばんようになー!」
俺は慌てて頭を下げ、採取道具を取りに走った。
ミツバさんにバレる前に、今日の当番を終わらせよう。
なお。
その日の観察日記には、新しい一行が追加された。
『フェリヤは、きれいで、しずかなばしょだと、あんしんできるかもしれない』
まだ「かもしれない」だけど。
今の俺には、それが何より大切な発見だった。
それから、もう一行。
『フェリヤのおへやは、フェリヤがすきなようにつかっていい』
これは、俺が決めたこと。
そして、最後に。
『あしたも、かってにじゃましない』
……よし。
今度は、ちゃんと守ろう。