「しずくー! そろそろ帰るぞー!」
「シズー!」
ぽちゃん。
返事だけが聞こえた。
しかし、本人は水の中から出てこない。
……おい。
返事の意味、理解してる?
「しずく! もうお昼だって!」
「シズッ!」
ぷくぷく。
駄目だ、完全にくつろいでやがる。
「ムーちゃん、お願い!」
「グソッ!」
俺の隣にいたムーちゃんが、ゆっくりと水辺へ近づいた。
そして、大きな前脚を差し出す。
すると。
「シズッ!」
先ほどまで一切動かなかったしずくが、ものすごい勢いで水面から飛び出してきた。
そのまま、ムーちゃんの前脚へ着地。
俺の呼びかけ、二回とも無駄だった件。
いや、いいんですよ?
仲がいいのは素晴らしいことですから。
ただ、トレーナーとしては少々複雑な気持ちになるわけで。
「しずくさぁ……」
「シズ?」
「たまには自分で歩こうぜ?」
「シズッ!」
元気な返事。
なお、降りる気配はない。
……うむ、今日も平和である。
♦
十一歳になった。
ヨロイ島での二度目の修行を終え、バウタウンへ帰ってきてから約一年。
俺の日常は、以前と比べて随分と変わった。
一番大きいのは、行動範囲が広がったことだろう。
もう十歳を過ぎているので、近場の修行や野生ポケモンの観察なら、俺一人でも出かけられるようになった。
もちろん、危険な場所へ勝手に入るつもりはない。
ママンには行き先を伝えるし、帰宅時間も守る。
……これを破ると、外出許可が消し飛ぶからな。
ポケモンの技より恐ろしい、ママンの説教。
あれだけは食らいたくない。
最近はパパンにバトルを見てもらったり、ルリナ姉さんと水辺で練習したりすることも増えた。
俺の手持ちも、少しずつ成長している。
ムーちゃんは、頼れる相棒。
モスは相変わらず強敵との勝負が大好き。
ルージュは今日も元気にいたずら中。
かえでは以前より慎重に動けるようになった。
フェリヤとは、まだ静かな関係が続いている。
けれど最近は、俺の隣で休んでくれることもある。
そして、しずく。
我がパーティーの最年少……というわけではないが、圧倒的末っ子枠である。
ムーちゃんが大好き。
水遊びが大好き。
日向ぼっこも大好き。
性格は、驚くほどマイペース。
ちなみに。
この子、まだ進化していません。
♦
シズクモの進化先は、オニシズクモ。
むし・みずタイプのまま、大きく成長するポケモンだ。
立派な体格。
優秀な耐久力。
そして、特徴的な巨大な水泡。
前世でも愛用していた俺としては、ぜひとも進化した姿を見てみたい。
……のだが。
しずくは、なかなか進化しなかった。
育成が足りないわけではない。
実は、進化に必要な成長段階なんて、とっくに超えている。
バトルはムーちゃんたちほど多くないものの、ヨロイ島でも十分に経験を積んできた。
以前、一度だけ身体が淡く輝いたこともあった。
けれど、そのときはすぐに光が消えてしまった。
俺は進化を促さなかった。
師匠にも相談したが、無理に進化させる必要はないと言われた。
本人が今の姿を気に入っているなら、それでいい。
何より。
「シズー♪」
「グソッ♪」
この二匹。
見ているだけで幸せになるんですよね。
ムーちゃんの前脚に収まる、小さなしずく。
それを大切そうに抱える、大きなグソクムシャ。
……ああ、今日も世界が美しい。
俺の精神衛生上、この組み合わせは非常に重要なのである。
♦
「リンー!」
「あっ、ルリナ姉さん!」
その日の午後。
俺たちは、バウタウンの外れにある入り江へ来ていた。
ここは潮の流れが穏やかで、野生の水ポケモンも多い。
ルリナ姉さんとは、この場所で何度か練習している。
「今日も元気そうね!」
「もちろん!」
「ムーちゃんも、相変わらず立派ね」
「グソッ!」
ムーちゃんが嬉しそうに胸を張る。
その前脚から、しずくが顔を出した。
「シズッ!」
「ふふっ。しずくちゃんも一緒なのね」
「うん! 今日はしずくも練習するよ!」
そう。今回の目的は、しずくの実戦練習である。
最近は技の扱いにも慣れてきたので、少しずつ経験を積ませている。
とはいえ、無理は禁物。
しずくは、まだ身体が小さい。
それに、本人が戦いたがらない日は、水遊びだけして帰ることもある。
……まあ水遊びのほうが多い気もするけど。
「それじゃあ、始めましょうか」
「うん!」
ルリナ姉さんが微笑んだ。
♦
今日の練習は、野生のウデッポウとの模擬戦だった。
「ウデッ!」
「シズッ!」
水辺で向かい合う二匹。
ウデッポウが、大きなハサミを構える。
しずくは水泡をぷるぷるさせながら、その場で待っていた。
「しずく! 相手をよく見て!」
「シズッ!」
ウデッポウが水鉄砲を放つ。
「右へ!」
しずくが、ひょいっと身体を動かした。
水流が横を通り過ぎる。
……よし。
以前より、ずっと上手い。
「今だ! バブルこうせん!」
「シズッ!」
小さな泡が連続して飛び出し、ウデッポウの周囲へ広がった。
「ウデッ!?」
ウデッポウが慌てて後退する。
……いいぞ!
しずくは素早いポケモンではない。
だからこそ、相手の動きを見て、無駄なく立ち回る必要がある。
その点、この子は意外と器用なのだ。
普段はあんなにのんびりしているのに。
「しずく、いい感じ!」
「シズー!」
……おっ、嬉しそう。
俺まで嬉しくなってしまう。
ところが次の瞬間だった。
――バシャッ!
「……ん?」
少し離れた岩場から、大きな水音が聞こえた。
振り返る。
そこには、別の野生のウデッポウがいた。
どうやら練習の音に驚いたらしく、ハサミをこちらへ向けている。
その先には。
「メラ?」
……かえで!?
見学していたかえでが、突然現れたウデッポウを見つめていた。
ウデッポウがハサミを開く。
水が集まっていく。
……まずい!
「かえで! 離れて!」
「メラッ!」
かえでが動く。
しかし、濡れた岩の上で足を滑らせた。
――ドンッ!
勢いよく、水流が放たれる。
かえでは、むし・ほのおタイプ。
水技は大の苦手だ。
「ムーちゃん!」
「グソッ!」
俺が叫ぶと同時に、ムーちゃんが駆け出した。
だが、その前に。
「シズッ!!」
小さな影が、かえでの前へ飛び込んだ。
……え、しずく?
しずくが、頭の水泡を大きく膨らませた。
そして、水流を正面から受け止める。
――バシャァッ!!
「シズッ!」
小さな身体が、水圧に押される。
それでも、しずくは退かなかった。
かえでを背に庇い、必死に踏ん張っている。
いつものしずくなら、驚いてムーちゃんの前脚へ戻ってきてもおかしくない。それなのに今は、後ろを振り返ることさえしなかった。
かえでが動けるようになるまで、あの小さな身体で守るつもりなのだろうか。
……しずく。お前、そんな顔もできるんだな。
……嘘だろ?あのしずくが。
いつもムーちゃんの後ろに隠れている、あの子が。
「しずく!!」
「シズッ!!」
水流が弱まる。
ムーちゃんが二匹の前へ到着した。
「グソォッ!」
大きな身体で壁を作り、ウデッポウを牽制する。
ルリナ姉さんも駆け寄ってきた。
「リン! 二匹を下がらせて!」
「うん!」
俺はしずくとかえでを呼び戻した。
幸い、大きな怪我はない。
ウデッポウもこちらに敵意がないとわかったのか、岩陰へ戻っていった。
……ふぅ、危なかった。
でも。
「……しずく」
「シズ?」
俺は、目の前の小さなポケモンを見た。
いつもはのんびり屋。
ムーちゃんが大好きな、甘えん坊。
そんな子が、自分より大きな相手に立ち向かった。
かえでを守るために。
「……すごかったよ」
「シズ?」
「かえでを守ってくれて、ありがとう」
しずくが、水泡を揺らした。
そして俺の手に、そっと触れた。
♦
その瞬間だった。
――ぱぁっ。
「……え?」
しずくの身体が、淡く輝き始めた。
白い光。
水泡を包み込む、不思議な輝き。
……これは。
「リン!」
ルリナ姉さんが声を上げる。
「しずくちゃん、もしかして……!」
「……うん!」
間違いない、進化だ。
しずくの身体が、ゆっくりと大きくなっていく。
小さかった脚が伸びる。
胴体が変化する。
そして、頭を包んでいた水泡が、さらに巨大なものへと変わっていった。
……おお、おおお。
俺は思わず、息を呑んだ。
進化の光が収まる。
そこに立っていたのは。
大きな水泡。
堂々とした体格。
そして、色違い特有の美しい配色。
「うおおおお!! でっかくなったぁぁぁ!!」
色違いオニシズクモ!!爆誕!!
いや、待って!
めちゃくちゃ格好いい!!
しかも可愛い!!
何この子!?
さっきまでムーちゃんの前脚に乗ってたんですよ!?
それが今や、ムーちゃんと並んでも見劣りしない体格!
……すごい。
感動がすごい。
感情が忙しい。
「……しずく?」
「オニシズッ!」
元気な返事。
……うん。
間違いなく、しずくだ。
大きくなっても、あのマイペースな雰囲気は変わらない。
そして、しずくはゆっくりとムーちゃんへ近づいた。
「グソ?」
ムーちゃんが首を傾げる。
すると。
「オニシズッ!」
しずくが、ムーちゃんへ身体を寄せた。
……あ。
いつものやつだ。
前脚に乗せてもらおうとしている。
もうサイズ的に無理なんですけど!?
「グソォッ!?」
ムーちゃんも困惑。
そりゃそうだ。
昨日まで手のひらサイズだった妹分が、突然自分と同じくらい大きくなったんだから。
……いや、気持ちはわかる。
俺もまだ混乱してる。
しかし、しずくは気にしていない。
ムーちゃんの隣へ身体を寄せ、そのまま満足そうにくつろぎ始めた。
ああ、そうか。
大きくなっても、変わらないんだな。
しずくは、しずくのまま。
ムーちゃんが大好きな、優しい女の子。
ただ、今度は。
守ってもらうだけじゃなく、誰かを守れるようになった。
……うん。
立派になったなぁ。
俺は思わず、目を細めた。
♦
「いやぁ……すごかったね」
練習を終えたあと。
ルリナ姉さんが、しずくを見上げながら笑った。
「まさか、あそこで進化するなんて」
「俺もびっくりした!」
「ずっと進化しなかったんでしょう?」
「うん。本人がまだ進化したくなかったみたいで」
俺は、しずくの大きな身体を見つめた。
進化に必要な経験は、とっくに積んでいた。
それでも、しずくは小さな姿のままでいた。
きっと、あの姿が好きだったんだろう。
ムーちゃんの前脚に乗って、のんびり過ごす毎日。
あれはあれで、幸せだったはずだ。
……でも今日、かえでを守ろうとしたとき。
しずくは、自分の意思で進化を選んだ。
……そう考えると、なんだか、すごく嬉しい。
「……しずく」
「オニシズ?」
「これからも、よろしくな!」
「オニシズッ!」
大きな水泡が、ぷるぷると揺れた。
……おお、かわいい。
サイズアップしても、かわいさは健在。
最高じゃないか。
♦
帰り道。
俺は、腰につけたマスターボールを眺めていた。
紫色のボール。
中央に刻まれた『M』の文字。
極めて希少で、普通ならそう簡単に手に入らないマスターボール。
とはいえ、この世に一つしかないわけじゃない。
その中には。
色違いオニシズクモ、しずく。
……うむ。我ながら、素晴らしい組み合わせだ。
前世の俺が見たら、絶対に羨ましがるだろう。
いや、そもそも。
マスボ入り色違いオニシズクモとか、存在がロマンすぎません!?
余は、大満足である。
なおルリナ姉さんは、少し違う感想を抱いていたらしい。
「……ねえ、リン」
「ん?」
「しずくちゃんって、マスターボールに入ってるのよね?」
「うん!」
「……本物の?」
「もちろん!」
ルリナ姉さんは、しばらく俺の腰のボールを見つめていた。
そして。
「……なんで?」
……え?
なんでって、そんなの。
「かわいいから!」
俺は即答した。
ルリナ姉さんが、深いため息をつく。
「……相変わらずねぇ」
ちょっと待って。
なんでみんな、マスターボールの使い道に疑問を持つんだ?
極めて珍しい品なのは認める。実際、誰もが気軽に手に入れられる代物じゃない。
ただ、世界に一個しか存在しないわけでもないんだ。
前世のゲームでは、ブルーベリー学園のリーグ部にあったボールガチャから、マスターボールが出ることだってあった。……まあ、あれはゲームの話。こっちの世界でも同じ仕組みなのかは知らないけどね。
ともかく、俺は貴重なボールだからこそ、大好きなしずくに使ったのである!
だから大好きなポケモンに使って何が悪い?
……いや。むしろ、それ以上に素晴らしい使い道があるだろうか。
俺には思いつかない。
「ルリナ姉さん!」
「なに?」
「しずく、すっごくかわいいでしょ!」
「……うん。それは認める」
「じゃあ、マスボでよくない?」
「……その理屈だけは、一生わからない気がするわ」
……むむ。解せぬ。
価値観の壁、分厚すぎる。
♦
その日の夜。
俺は、庭で六匹の仲間を眺めていた。
ムーちゃん。
しずく。
ルージュ。
モス。
かえで。
そして、フェリヤ。
しずくは進化して、随分と大きくなった。
けれど、性格は変わらない。
ムーちゃんの隣でのんびりとくつろぎ、時折水泡を揺らしている。
かえでは、そんな二匹の近くで身体を丸めていた。
今日、しずくに守ってもらったことを覚えているのだろうか。
「メラッ」
「オニシズッ」
二匹が、小さく鳴き声を交わす。
……うん、いい光景だ。
その少し離れた場所には、フェリヤが立っていた。
以前よりも、俺たちの近くにいる時間が増えている。
それでも、まだバトルには参加していない。
……だけど今は、それでいい。
ムーちゃんには、ムーちゃんの成長がある。
しずくには、しずくの成長がある。
そしてフェリヤにも、きっとフェリヤなりの時間がある。
焦る必要なんてない。
俺は、しずくを見上げた。
「……しずく」
「オニシズ?」
「進化、おめでとう」
しずくが、嬉しそうに水泡を揺らした。
そして、俺の肩へ頭を寄せようとする。
……おっと。
待って。
ちょっと待って。
君、もうシズクモじゃないからね?
体格が全然違うからね?
「……うわっ!?」
どすん。
俺は、そのまま地面へ尻餅をついた。
「オニシズ?」
かわいいよ?
かわいいんだけど。
進化後のスキンシップ、物理的に威力高いんだってば。
「グソォッ!」
ムーちゃんが、慌てて俺を起こしてくれた。
……ありがとう、ムーちゃん。
やっぱり君は頼りになるな。
……考えてみれば、俺のパーティーにはすでに巨大な甘えん坊が一匹いたわけで。
そこへ、新たな巨大甘えん坊が加入したということは。
……あれ?
これ、俺の身体も鍛えないと危なくない?
色違いむし統一、トレーナーの耐久努力値まで要求される件。
……勘弁してください。
今日もお読みいただき、ありがとうございます。
よかったら、感想、評価、お気に入りいただけますと嬉しいです。
感想も一つ一つ大切に見させていただいております。
返せるときに全員返していきますので、軽率に感想いただけますと幸いです。