それからというもの。
俺は休みのたびに、パパンにお願いして第二鉱山の近くを訪れるようになった。
もちろん、一人で行くことは許されない。
四歳児だからね、仕方ないね。
だが、成果はあった。
三度目の訪問。
俺は再び、あの赤いコソクムシを発見したのである。
「……いた」
岩陰に、小さな赤い影。
間違いない、あいつだ。
左側の装甲に、ほんの少しだけ欠けたような部分がある。
最初に見かけたときも、同じ場所に傷があった。
つまり同じ個体だ。
よし。
とりあえず生存確認。
すこぶるよろしい。
……おっと。
ここで叫んではいけない。
前回の反省を活かすのだ。
俺はパパンの隣にしゃがみ込んだ。
「リン、どうした?」
「しーっ」
「……ああ。あの子か」
パパンも小声になる。
俺たちは少し離れた場所から、コソクムシの様子を見守った。
コソクムシは、浅い水辺に流れ着いた小さな木片をつついている。
どうやら餌を探しているらしい。
……ふむ。
なるほどなるほど。
前世の知識だと、コソクムシは落ちているものを何でも食べてみる習性があるんだったか。
海辺の掃除屋みたいなポケモンなんだよな。
かわいい、実にかわいい。
しばらく眺めていると、コソクムシがこちらに気づいた。
「コソ……?」
ぴたりと動きが止まる。
俺も動かない。
コソクムシも動かない。
…………。
…………。
……あの。
これ、何の勝負ですかね?
先に動いたら負けなの?
ポケモンバトルじゃなくて、だるまさんがころんだが始まってるんですけど。
やがて。
「コソッ!」
コソクムシは岩陰へと逃げていった。
……まあ、そりゃそうだよな。
けれど、今回は前よりも長く姿を見ることができた。
俺は小さく拳を握った。
よし、一歩前進。
次だ。
♦
さらに何度か通ううちに、少しずつわかってきたことがある。
どうやら、あのコソクムシは決まった岩場を生活圏にしているらしい。
晴れた日は水路の近く。
雨の日は岩の下。
そして、昼過ぎになると海から流れてきたものを漁っていることが多い。
俺は毎回、それをじっと観察した。
前世では色違い厳選といえば、ひたすら同じ作業を繰り返すことも珍しくなかった。
だが、今回は違う。
同じポケモンを見ているはずなのに、毎回新しい発見があるのだ。
何を食べるのか。
どんな音を嫌がるのか。
どこで眠るのか。
そして、どのくらい近づけば逃げるのか。
最初は姿を見ただけで逃げていたコソクムシだったが、ある日、俺たちが少し離れた場所に座っていても逃げなくなった。
その次には、こちらをじっと見つめるようになった。
また別の日には、岩の上から首を伸ばし、俺たちの様子を窺っていた。
「……少しは慣れたのかな」
パパンが呟く。
「うん」
俺は頷いた。
たぶん、そうなんだろう。
ただ、触ろうとすれば逃げる。
急に立ち上がれば逃げる。
声を大きくすれば、もちろん逃げる。
……警戒心の塊か、お前は。
いや、知ってたけどさ。
コソクムシだもんな。
でも、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、少しずつ距離が縮まっていくのが楽しかった。
あるとき、俺は持ってきたきのみを一つ、岩の上に置いてみた。
そして十分に離れる。
コソクムシはしばらく警戒していたが、やがてそろそろと近づいてきた。
きのみをつつく。
一度、こちらを見る。
またつつく。
…………。
おお。
食べた。
食べてくれたぞ。
いやっほぉぉぉ!
……と叫びたいところだが、ここは我慢。
俺は無言で、ぐっと拳を握り締めた。
内心では、盛大にガッツポーズを決めている。
「リン、嬉しそうだな」
隣でパパンが笑う。
「うん!」
「本当にあの子が好きなんだな」
「だいすきだよ!」
即答だった。
だってそうだろう。
こんなに可愛いんだぞ?
何度逃げられても、また会いたくなる。
少しずつ、俺のことを覚えてくれているような気がする。
……なんというか。
不思議な感覚だった。
前世では、画面の中でポケモンを捕まえてきた。
でも今は、目の前にいるこの小さな生き物が、俺のことをどう思っているのか。
それが、妙に気になる。
捕まえたい。
もちろん、捕まえたい。
だけど、それ以上に。
できれば、俺のことを怖がらなくなってほしい。
そんなふうに思うようになっていた。
♦
転機が訪れたのは、それからさらにしばらく経った日のことだった。
前日に雨が降ったせいか、水路の水はいつもより多かった。
岩場には流木や海藻が打ち上げられ、ところどころに古い漁網が引っかかっている。
「リン、今日はあんまり近づけないぞ」
「うん」
「危ないところには絶対に行くなよ」
「わかった!」
今回は本当に守るつもりだった。
何しろ、雨上がりの岩場は滑りやすい。
四歳児が転んだら、洒落にならない。
そして何より、今日はコソクムシの姿が見えなかった。
いつもの岩陰にもいない。
水路の近くにもいない。
おかしいな……雨で寝床を変えたのだろうか。
そう思いながら辺りを見回していると。
「……コソ」
小さな鳴き声が聞こえた。
……ん?
「コソッ……コソッ!」
あ、この声。
俺は音のするほうへ顔を向けた。
水路の奥。
流木と古い漁網が重なった場所に、赤いものが見える。
……いた。
いや、違う。
様子がおかしい。
コソクムシが、必死に身体を動かしている。
細い脚に、漁網の糸が絡まっていた。
「……っ!」
まずい!
あれ、抜けられなくなってる!
「パパン! あそこ!」
「どうした?」
「あのこ! あみにひっかかってる!」
パパンが目を凝らす。
「……本当だな。待ってろ、今――」
そのときだった。
水路の奥から、鈍い音が響いた。
ごとり、ごとり。
何か硬いものが岩にぶつかる音。
そして。
「ガメェェェッ!」
大きな影が、水辺から姿を現した。
青緑色の、分厚い身体。
頑丈そうな甲羅。
そして何より、岩をも噛み砕きそうな巨大な顎。
……カジリガメ。
カジリガメである。
しかも、けっこうデカい。
ゲーム画面で見るのとは、迫力がまるで違う。
おいおい、ちょっと待てよ。
あの顎、絶対に痛いやつだろ!
いや、痛いどころじゃ済まないのでは?!
カジリガメは水路を進みながら、周囲を見回していた。
そして、その視線が止まる。
漁網に絡まった、コソクムシのほうへ。
「……っ!」
まずい。
嫌な予感がする。
「コソッ! コソソッ!」
コソクムシは必死に逃げようとしている。
しかし、糸が絡まって動けない。
いつもなら、あっという間に逃げ出すはずなのに。
逃げられない。
カジリガメが、一歩近づく。
また一歩。
……おい、やめろ。
そいつは……。
そいつは、俺がずっと会いに来てた――
「パパン!!」
「わかってる!」
パパンの声が鋭くなった。
次の瞬間、腰のモンスターボールを取り出す。
「頼んだぞ!」
白い光が弾け、がっしりとした腕を持つゴーリキーが現れた。
「ゴーリキー、あのカジリガメを止めてくれ! 無理に傷つけるなよ!」
「ゴーリッ!」
ゴーリキーが駆け出した。
カジリガメの前に立ち、その進路を塞ぐ。
「ガメェッ!」
「ゴーリッ!」
二匹が睨み合う。
……すごい。
本物のポケモンバトルだ。
いつもの俺なら、きっと目を輝かせていたと思う。
でも、今はそんな場合じゃない。
「パパン! あのこ!」
「よし、今のうちだ。リンはここで待ってろ!」
パパンが水路へ向かう。
俺も思わず、一歩踏み出した。
「リン!」
「……っ!」
鋭い声に、足が止まる。
「そこから動くな!」
……そうだ。
俺が近づいたところで、何ができる……。
四歳児だぞ……。
力もない。
ポケモンもいない。
下手をしたら、助けるどころか足手まといになる。
……くそっ。
こんなときに。
こんなときに限って。
俺は、自分の小さな身体が嫌になった。
パパンが漁網に手を伸ばす。
「……よし。少し待ってろよ」
「コソッ! コソソッ!」
コソクムシが暴れる。
怖いのだろう……当然だ。
逃げられない状況で、大きな人間が近づいてきたんだから。
「パパン! むりにひっぱると、あしが!」
「ああ、わかってる!」
パパンは糸の絡まった部分を慎重に確かめた。
しかし。
「……くそ、ずいぶん複雑に絡まってるな」
そのとき。
「ガメェェェ!!」
カジリガメが大きく吠えた。
ゴーリキーに押し返されながらも、激しく身体を動かしている。
その勢いで、水路の石がいくつか崩れた。
水飛沫が上がる。
コソクムシが、びくりと震えた。
俺は、ぎゅっと拳を握った。
怖い。
正直、めちゃくちゃ怖い……。
あんなデカいカジリガメ、四歳児の俺がどうこうできる相手じゃない。
でも、だからといって、何もできないわけじゃない!
「……コソクムシ!」
俺は、その場から声を張り上げた。
「だいじょうぶ!」
コソクムシの身体が、ぴくりと動く。
赤い顔が、こちらを向いた。
「パパンが、たすけてくれるから!」
「コソ……?」
「だから、もうちょっとだけ、がんばって!」
……頼む。
落ち着いてくれ。
お前が暴れれば暴れるほど、糸が絡まってしまう。
いつもだったら逃げてもいい。
むしろ逃げてくれていい。
でも、今だけは。
少しだけ、我慢してくれ。
「コソ……」
コソクムシの動きが、止まった。
「……よし。いい子だ」
パパンが小さく呟く。
持っていた道具で、糸を一本ずつ切っていく。
一つ。
二つ。
三つ。
そして。
「……よしっ!」
最後の糸が切れた。
コソクムシの脚が自由になる。
「リン! もう大丈夫だ!」
その声に、全身の力が抜けた。
……よかった。
本当に。
よかった……。
「ゴーリキー、もういいぞ! こっちへ!」
ゴーリキーが大きく一歩下がり、カジリガメとの距離を取る。
カジリガメはしばらくこちらを睨んでいたが、やがて興味を失ったのか、水路の奥へと戻っていった。
ふぅ……助かった。
……いや、マジで助かった。
パパンとゴーリキーがいてくれてよかった。
俺一人だったら、何もできなかっただろう。
そんなことを考えていると。
「……コソ」
小さな鳴き声がした。
顔を上げる。
そこには、あのコソクムシがいた。
漁網から抜け出したあと、少し離れた岩の上に移動していたらしい。
……あれ?逃げない。
いつもなら、俺たちの姿を見た瞬間に逃げるはずなのに。
コソクムシは、じっとこちらを見つめている。
「……だいじょうぶ?」
俺はその場にしゃがんだ。
手は伸ばさない。
急に動かない。
今まで何度も繰り返してきた、いつもの距離。
「こわかったね」
「コソ……」
「もう、だいじょうぶだよ」
コソクムシが、少し首を傾げた。
そして。
とことこ。
……ん?
とことこ、とことこ。
……え?
こちらへ歩いてくる。
いや、待て。
待て待て待て。
落ち着け俺。
動くなよ、絶対に動くな。
ここで変な動きをしたら、また逃げられる。
コソクムシは、俺のすぐ目の前までやってきた。
そして、小さな頭を伸ばす。
「……コソ」
こつん。
俺の靴に、その頭が触れた。
……え?
今、触った?
俺に?
あの、逃げ足だけは一人前だったコソクムシが?
「……っ」
やばい、泣きそう……。
なんだこれ。
色違いを捕まえたわけでもないのに。
ただ、ちょっと触れてくれただけなのに。
なんで……こんなに嬉しいんだよ。
「……リン」
パパンが、静かに声をかけてきた。
顔を向けると、優しい表情で笑っている。
「その子、お前のことが気に入ったみたいだな」
「……うん」
「一緒に来てくれるか、聞いてみるか?」
…………。
俺は、思わず目を見開いた。
パパンは、小さなモンスターボールを一つ取り出した。
赤と白の、ごく普通のモンスターボール。
「前から用意してたんだ。お前が、本当に大切にしたいポケモンと出会ったときのために」
「……パパン」
「もちろん、家に連れて帰るなら、お前もちゃんと世話をするんだぞ?」
…………。
ああ……なんだよ。
そんなの。
そんなの、決まってるだろ。
「……うん!」
俺は力いっぱい頷いた。
そして、差し出されたモンスターボールを両手で受け取る。
……小さいな。
不思議なものだ。
前世では、画面の中で何万回と投げてきたはずのモンスターボール。
それが今、俺の手の中にある。
ちゃんと重さがある。
ちゃんと温かさがある。
いや、温かいのは俺の手のほうか。
……はは。
なんだか、緊張するな。
「……コソクムシ」
「コソ?」
俺は、目の前の小さなポケモンを見つめた。
「おれと、いっしょにこない?」
コソクムシが首を傾げる。
俺は続けた。
「いっぱいあそんで、いっぱいごはんたべて……」
……あれ、なんだろう。
言いたいことは、山ほどあるはずなのに。
全然、上手く言葉にならない。
前世では、ポケモンの育成論を語らせたら止まらなかったというのに。
今、目の前の一匹に伝えたいことすら、上手く言えない。
……まあ、いいか。
難しいことは、あとで考えればいい。
今は、ただ。
「……ずっと、いっしょにいたい」
それだけだった。
コソクムシは、しばらく俺を見つめていた。
そして、目の前のモンスターボールに視線を落とす。
「コソ……」
ちょん。
小さな脚が、ボールに触れた。
その瞬間。
赤い光が弾けた。
「……っ!」
コソクムシの身体が光に包まれ、ボールの中へと吸い込まれる。
手の中のボールが、ことりと動いた。
一回。
…………。
二回。
…………。
三回。
…………。
カチッ。
…………。
……入った。
入った、よな?
俺は、手の中のモンスターボールを見つめた。
……。
「……パパン」
「……ああ」
「おれ……」
「うん」
「ゲット……した?」
パパンは、にっこり笑った。
「ああ。おめでとう、リン」
…………。
……あ。
あああ。
あああああああああ!!
「やっ……」
やった……やったぞ!
俺は……俺はとうとう。
「やったああああああああああああああ!!」
鉱山の入口に、俺の声が響き渡った。
「やった! やった! パパン! ゲットした!!」
「ははは! よかったな!」
「いろちがい! いろちがいコソクムシ!!」
「ああ、ああ。わかったから落ち着け!」
「やったあああああ!!」
無理だった。
落ち着くなんて不可能だった。
だって、だってさ。
人生二度目の、最初のポケモンなんだぞ。
それも、大好きなコソクムシ。
しかも色違い。
こんなに嬉しいことがあるか?
いや、ない。
断言する。
前世でシーズン最終一位を達成したときだって、もちろん嬉しかった。
嬉しかったけど。
今は、なんというか。
それとは全然違う気持ちでいっぱいだった。
俺は、震える手でモンスターボールを見つめた。
この中には、あの小さなコソクムシがいる。
何度も逃げられた。
何度も会いに来た。
少しずつ、少しずつ、距離を縮めてきた。
そして今日。
ようやく、仲間になってくれた。
……。
…………。
「……よろしくな、あいぼう」
ボールに、そっと頬を寄せる。
すると……。
かたん。
小さく、ボールが揺れた。
…………。
うん。
よろしく。
♦
ちなみに、帰宅した俺はママンに向かって盛大に報告した。
「ママン!! ゲットした!!」
「えっ? 何を?」
「コソクムシ!!」
「……え?」
「いろちがい!!」
「…………ん?」
ママンが、ゆっくりとパパンを見る。
パパンが、ゆっくりと視線を逸らす。
…………。
あっ。
これ、なんか嫌な予感がする。
「……あなた?」
「いや、その、ちゃんと俺がついてたし……」
「リンはまだ四歳なんだけど?」
「それはそうなんだが……」
「しかもコソクムシって、野生のポケモンよね?」
「う、うん……」
「……どういうことか、説明してもらえる?」
…………。
パパン……頑張れ。
俺は心の中で応援した。
もちろん口には出さない。
なぜなら。
俺は今、人生で初めてゲットしたポケモンとの記念すべき時間を過ごさなければならないからである。
つまり、これは決して逃走ではない。
戦略的撤退である。
「……リン?」
ママンがこちらを見る。
「……はい」
「あなたも、お話があるわよね?」
…………。
はい、逃走失敗。
無念。
隣ではパパンが、なんとも言えない顔をしていた。
どうやら今日の我が家には、説教という名の高難度コンテンツが待ち受けているらしい。
……まあ、でも。
俺は、手の中のモンスターボールを見つめた。
中には、あの赤いコソクムシがいる。
俺がこの世界で出会い、初めて仲間になってくれたポケモン。
これから、どんな冒険が待っているんだろう。
どんな景色を、一緒に見られるんだろう。
いつか、お前と一緒にジムチャレンジに挑む日が来るのだろうか。
もしかしたら。
もしかしたら、いつか。
世界一を目指したりするのかもしれない。
……なんてな。
まだ、四歳だ。
冒険なんて、ずっと先の話。
今はただ、この小さな相棒と一緒にいられるだけでいい。
「……えへへ」
思わず、笑みがこぼれた。
「リン? ちゃんと聞いてる?」
「きいてる!」
「本当に?」
「うん!」
「じゃあ、今ママが何て言ったか教えて?」
…………。
………………。
……おっと。
これはまずい。
初手から択を間違えたかもしれない。
助けてくれ、相棒。
俺は祈るような気持ちで、モンスターボールを見つめた。
だが、当然ながら返事はない。
…………。
うん、そうだよね。
コソクムシだもんね。
逃げるの、得意だもんね。
今の俺も逃げたいです。
非常に。
切実に。
……というわけで。
元世界一位の色違い廃人、リン。
四歳にして、人生二度目の最初の相棒をゲット。
なお、初めての捕獲を祝う余韻もそこそこに、母親によるお説教が始まった模様。
……。
…………。
俺のポケモン人生、前途多難すぎんか?
今日は書き溜めから何話か投稿します。
よかったら、お気に入り、★、感想お願いします。