壁も床も闇に沈み、足元の影さえ見分けがつかない。空調の低い唸りだけが、この部屋にも音があることを思い出させる。
千反田はその闇の中で背筋を伸ばし、言葉を待っていた。この部屋に呼ばれるのは、決まって任務が下るときだ。そして、呼ばれた理由を前もって知らされたことは一度もない。
部屋にあるのは、巨大なディスプレイだけだった。そこに、壮年の女性が映っている。その女性は淡々と、こう口にした。
「今年の高度育成高等学校の新入生に、シンシーの工作員が紛れ込んでいるという情報を傍受しました。個人名は不明、性別も不明、今年の新入生という情報のみが判明しています。
高度育成高等学校、通称『高育』は知ってのとおり、将来の日本を担う優秀な人材を輩出する目的で創立された学校であり、この学校で作られるコネクションは工作員にとっては値千金になり得る資産となります。
言ってみれば青田買いです。
将来重要ポストに就くであろう卒業生とコネクションを作られるということは、将来の日本の情報が筒抜けになり、最悪の場合、国家存亡の危機になり得ます。
私たち別班は、そのような事態を未然に防ぐ役割を持っています。
高度育成高等学校に潜伏するシンシーの工作員を退学させる、その任を千反田翔太さん、あなたに与えます」
「……拝命いたします」
短く答えた声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
だが、内心では驚いていた。
(高度育成高等学校の入試は、学力や運動能力が直接の意味を持たず、実質的にはその人間の背後にある経歴で合否が決まる。
その入試を突破した者にシンシーの工作員が紛れ込んでいると。
そして何より……)
「櫻井司令、ひとつ質問をしてもよろしいでしょうか」
「構いません。許可します」
「ありがとうございます。
質問ですが、年齢はどうなっているのでしょうか。私の年齢は現在25歳、高校生と言うには10歳ほど離れております」
一瞬、画面の向こうに沈黙が落ちた。櫻井司令の表情はいつもと何ひとつ変わらない。その沈黙が考えるための間なのか、それとも答えるまでもない質問だという意味なのか、千反田には判断がつかなかった。
「そこは心配ありません。
千反田さん、あなたはこれまでの別班任務で見える場所に傷を負っていないうえ、実年齢より若く見えます。そのため、あなたが若者らしく振る舞っていれば問題はありません。
偽装用の戸籍も手配済みです。
浦原大輔、15歳男性。中学生まではアメリカで過ごし、高育に進学するために単身で日本に帰国しました。そのようなストーリーの人物です。
実際に中学生までの期間をアメリカで過ごしたあなたには無理のない設定でしょう。
入学試験も総理に掛け合って根回しを済ませているため、特に問題はないかと思います。
なお、高育では在学中、外部との連絡が一切禁じられています。こちらからの指示とあなたからの報告は、すべて理事長を通じて行います。理事長には、総理から話を通してあります。
それでは千反田さん、健闘を祈ります」
櫻井司令は「ほかに質問はないですね」とだけ確認し、通話を切断した。
画面が消えると、部屋は本当の暗闇に戻った。
千反田はしばらくその場から動かず、たった今受けた任務の中身を頭の中で並べ直した。
ツッコミどころは多々あるように感じたが、任務は把握した。
(実年齢より若く見える、という一言で片付けていい問題なのだろうか。
アメリカ育ちという設定も、私の経歴をほぼそのまま使っている。偽装というより、ほとんど私自身だ)
こうして千反田は約7年ぶりに高校生活を送ることになった。
(まさか、25にもなって私が再び高校1年生とは……
無事にここまで成長できたのだと思うと、少し感慨深くもある。……そうか、私が高校生か。
最後に教室の机に座ったのは、もう7年も前のことだ。あのころの自分に、7年後にもう一度高校の制服を着ることになると教えたら、いったい何と言うだろうか。
――つまり、高校生のコスプレをするということか。
幹部が国際指名手配されているテロ組織に潜入したときよりも気が重いな。
高校入学までに人格を作っておくか。
私が高校生のコスプレをするのも国防のためだ)
千反田は深いため息をついて、作戦会議室をあとにした。
それからの日々は、千反田にとって、どの潜入任務の準備よりも奇妙なものになった。
まずは資料だ。高育の学校案内、敷地の見取り図、卒業生の進路。表に出ている情報は驚くほど少なかったが、それでも頭に叩き込めるだけ叩き込んだ。学校までの交通手段のような細かいことは、資料のどこにも書かれていなかった。
次に、浦原大輔という人間の作り込みだ。アメリカで過ごした中学時代の思い出、日本に戻ると決めた理由、好きな食べ物。聞かれたときに迷わず答えられるよう、偽装の経歴をひとつひとつ自分の記憶に縫い付けていく。ここまではいつもの任務と変わらない。
厄介なのは、その先だった。
十代の若者が何に笑い、何を面白がり、どんな言葉で話すのか。流行りの言い回しくらいは千反田も知っている。だが、知っていることと、25歳の男が口にして浮かないことは別の話だ。千反田は動画サイトに上がっている高校生の動画を何十本と見て、言葉そのものより、その間合いや声の調子を耳に馴染ませていった。
今の高校生のあいだで流行っている音楽や漫画にも、ひととおり目を通した。25歳と15歳では、流行りの顔ぶれが案外違う。気づけば、机の上には作戦資料よりも漫画の単行本のほうが高く積み上がっていた。
髪も少しだけ長めに伸ばした。任務のために短く刈り込んだままでは、どうにも大人びて見える。
立ち居振る舞いも直した。長年の訓練で身についた隙のない立ち方や歩き方は、普通の高校生には似合わない。わざと少し猫背にし、歩幅を狭め、ポケットに手を入れて歩く。たったそれだけのことが、驚くほど落ち着かなかった。
一人称を「私」から「俺」に切り替える練習もした。だが、長年染みついた習慣はなかなか抜けない。ふとした拍子に「私は」と言いかけては、鏡の中の自分と目が合い、黙って言い直す。そんなことを入学の日まで何度も繰り返した。
やがて迎えた4月。千反田翔太は、浦原大輔になった。
――――――――――
――入学当日
そこには新品の制服に身を包んだ浦原がいた。
糊のきいたシャツの襟が首筋にやけに硬く当たる。ブレザーの肩はまだ体に馴染まず、袖口からは新品特有の匂いがした。
出がけに鏡の前で三度ほど身だしなみを確かめたが、そこに映っていたのは、どう贔屓目に見ても『高校生の格好をした誰か』だった。
制服姿の25歳男性が正真正銘15歳の学生に紛れ込んでいるなんて、平時であれば事案である。
今日から高校生の浦原として生活することになった彼は、高育行きのバスに乗り、今後の行動を考えていた。
バスは停留所を離れ、まだ人通りの少ない朝の大通りをゆっくりと走っていく。窓の向こうでは、散り始めた桜の花びらが街路樹の根元に薄く積もっていた。
(改めて、行動の指針を確かめておこう。私――いや、俺が別班だということが悟られないように、平凡な生徒のふりをしよう。
悪目立ちしない程度に、少し鈍臭いくらいがいいだろうか。
運動能力と頭脳はやや平均より上で、コミュニケーション能力は平均以下の物静かな設定で行こうか。
帰国子女という設定もあるし、英語は得意で国語が苦手という、科目ごとのバラツキもあって然るべきか。理系よりも文系寄りのほうが警戒はされにくいだろうし、数学もやや出来が悪く、成績のわりに頭の回転が遅い印象を持たせよう。
運動能力のほうは、走力などの基礎能力は高いが、球技などの応用系になるとてんでダメな、不器用な印象を持たせるか。
とはいえ、クラス内でも一定以上の地位があったほうが動きやすいだろうし、どこか頼れるところを見せたいが、そこは追々詰めていくところか)
そこまで考えて、浦原は小さく息を吐いた。
任務の重さに比べて、考えていることは妙にこまごまとしている。だが、潜入とは結局のところ、こうした細かな積み重ねでしかない。
窓際の席に座ってぼーっとしていると、制服姿の若者や、私服姿のお年寄り、スーツを着た人がちらほら乗ってきた。
高育行きのバスなど、乗るのは新入生くらいだろうと思っていたが、意外と利用者がいるものだ。浦原はそんなことを考えながら、周りを見ていた。
もっとも、ぼーっとしているように見えるのは、あくまで外から見た姿の話だ。
視線は窓の外に置いたまま、浦原は窓ガラスに映り込む車内を眺めていた。乗り込んできた客の人数、座った位置、手荷物の大きさ。染みついた習慣は、制服を着たくらいで抜けるものではない。
同じ制服を着た若者たちは、ざっと見て十人に満たない。
スマートフォンの画面から顔を上げない者、イヤホンで外の音を締め出している者、隣に座った初対面の相手とぎこちなく言葉を交わす者。誰もがこれから始まる3年間を前に、期待とも不安ともつかない顔をしている。
(この中にシンシーの工作員がいる可能性も、ゼロではない。
……まあ、見ただけで分かる相手なら、俺がわざわざ制服を着る必要もないか)
ふと、窓ガラスの中で、前のほうの席に座る男子生徒と視線が重なりかけた。これといって特徴のない、どこにでもいそうな顔だ。ただ、その視線もまた窓に映る車内をなぞっていたように見えた。
浦原はその男子生徒からさりげなく視線を外した。物静かで、少し鈍臭い帰国子女。初日から周りを観察している新入生など、それこそ悪目立ちする。
(……気のせいか)
あくびをひとつ噛み殺して、浦原は再びぼーっとした新入生に戻った。
バスがいくつかの停留所を過ぎたころには、車内はすっかり混み合っていた。
吊り革につかまる人が増え、通路には立ったままの乗客が並んでいる。窓際の浦原の席からは、前方の様子が人の肩越しに見えた。
その中に、一人の老婆がいた。
腰が少し曲がっていて、バスが揺れるたびに手すりを握る指に力がこもる。すぐ目の前は優先席で、そこには高育の制服を着た金髪の男子生徒が、長い脚を組んで座っていた。
「ねえ、君。そこ、優先席でしょう。おばあさんに席を譲ってあげたらどうかな」
声をかけたのは、老婆の隣に立っていたスーツ姿の女性だった。
男子生徒はゆっくりと顔を上げた。
「実に理解に苦しむ提案だねえ。優先席とは、優先して座ってよい者のための席であって、座っている者に譲る義務を課す席ではないはずだが?」
「でも、あなたは若くて元気なんだから……」
「そのとおり。私は健康そのもので、立っていることに何の不自由もない。だが、座っていたい。それ以上の理由が必要かな?」
女性は言葉に詰まった。老婆は「いいんですよ」と、申し訳なさそうに首を振る。車内の空気がわずかに張り詰めた。
(……なるほど、あれは筋金入りだな)
浦原は男子生徒を観察した。制服の上からでも分かる、よく鍛えられた体。周りの視線を一身に浴びても、少しも揺らがない態度。虚勢を張っている人間の顔ではない。本心から、自分の正しさを疑っていないのだ。
(普段なら、俺が立てば済む話だが)
浦原の席から老婆までのあいだには、何人もの乗客が立っている。ここで立ち上がり、人をかき分けて席を譲りに行けば、車内中の目を集めることになるだろう。今の自分が演じる人物のやることではない。
浦原が迷っているうちに、別の声が上がった。
「あの、すみません」
声の主は、同じ高育の制服を着た女子生徒だった。
彼女は優先席の男子生徒ではなく、車内全体へと向き直った。
「どなたか、おばあさんに席を譲っていただけませんか? 少しの間だけでもいいので……お願いします」
柔らかい声だった。誰かを責めるのでも、押しつけるのでもない。ただ困っている人のために頭を下げる声だ。張り詰めていた空気が、それだけで少し緩んだ。
ほどなくして、近くに座っていた別の乗客が立ち上がった。老婆は何度も頭を下げながら、その席に腰を下ろす。
女子生徒は席を譲った乗客と老婆に、笑顔で礼を言っていた。
(……あの女子生徒、場の空気の動かし方を心得ているな)
名指しで誰かを責めれば、相手は意地になる。だから不特定多数に向けて頼み、誰でも応じやすい形にした。意識してやったのか、自然とそうできるのか。どちらにしても、敵に回せば厄介な類の人間だ。
それから浦原は、老婆のすぐ近くの席に目を留めた。
そこには高育の制服を着た男女が並んで座っていた。黒髪の女子生徒は騒ぎなど初めからなかったかのように、窓の外を見ている。その隣の男子生徒も目立った動きは見せなかった。
窓ガラス越しに目が合いかけた、あの男子生徒だ。騒ぎのあいだも、その表情は少しも動かなかった。
二人とも席を譲れる位置にいながら、最後まで立たなかった。
(まあ、俺も人のことは言えないか)
浦原は知らず力の入っていた膝から、そっと力を抜いた。
(高育の新入生……一筋縄ではいかない連中ばかりのようだ)
バスは何事もなかったかのように走り続ける。やがて窓の向こうに、高度育成高等学校の巨大な校門が見えてきた。