校門をくぐった先は、学校というより、ひとつの町だった。
まっすぐに伸びる並木道の向こうに、真新しい校舎が並んでいる。案内板には、寮や図書館、体育館のほか、商業施設やカフェの名前までが書かれていた。見取り図は頭に入れてきたが、実際に歩いてみると、その広さは想像以上だ。
おろしたての制服の群れが、桜の下をそわそわと歩いていく。浦原は気を抜くとすぐに伸びてしまう背筋を、意識して少しだけ丸めた。
すれ違う上級生らしき生徒たちは、新入生たちをどこか面白がるような目で眺めていた。
(敷地の外に出なくても、3年間暮らしていけるように作られている。……裏を返せば、外に出る理由を与えないための作りか)
並木道の街灯、校舎の軒下、昇降口の天井の隅。浦原の目は半ば無意識に黒く小さな機械を拾っていった。監視カメラだ。それも、ひとつやふたつではない。
(学校にしては、ずいぶんと目が多い)
浦原は人の流れに乗って昇降口へ向かい、掲示板に貼り出されたクラス分けを確かめた。
Aクラスから順に並んだ名簿の一番最後の紙に、その名前はあった。
1年Dクラス。浦原大輔。
教室にはすでに半分ほどの生徒が集まっていた。
さっそく打ち解けて笑い合う者もいれば、自分の席から一歩も動かず、スマートフォンをいじっている者もいる。初対面の人間が集まった部屋の空気は、どこの国でも変わらない。
黒板に貼られた座席表によれば、浦原の席は廊下側の後ろから二番目だった。教室全体を見渡せて、出入り口にも近い。潜入する側からすれば、悪くない位置だ。
席に着き、何気なく窓際に目をやる。
最後列の窓際に、見覚えのある男子生徒が座っていた。その隣にはあの黒髪の女子生徒がいる。
男子生徒が何か話しかけたようだったが、女子生徒は一瞥をくれただけで、すぐに手元の本へ視線を戻した。会話と呼べるほどのものは、続かなかったらしい。
(バスの二人か。同じクラスとはな)
「ねえ」
不意に、前の席から声がかかった。
振り返ったのは、明るい色の髪をきれいに整えた女子生徒だった。
「同じバスだったよね? 後ろのほうの窓際に座ってた」
「……あ、うん。そう、です」
一拍遅れて、浦原はぎこちなく頷いた。物静かで、人付き合いが少し苦手な帰国子女。最初の受け答えとしては、悪くないはずだ。
(確か、バスの中ほどで吊り革につかまっていた生徒だ)
「あの金髪の人、すごかったね。でも、言ってること自体は間違ってないんだよね。優先席って、譲らなきゃいけない決まりがあるわけじゃないし」
「……うん。そう、かも」
あいまいに相槌を打ちながら、浦原は頭の中で浦原大輔ならどう答えるかを考えていた。気の利いた返しはしない。それが、この偽装の人格だ。
彼女はそれ以上話を広げず、小さく笑って前を向いた。
浦原は改めて教室を見回した。机の数は四十。学年全体ではおよそ百六十人になる。そのうちの誰かが、シンシーの工作員だ。
――――――――――
始業のチャイムが鳴ると同時に、一人の女性教師が教室に入ってきた。彼女が教壇に立った瞬間、教室のざわめきがすっと引いた。
スーツをきっちりと着こなし、長い髪を後ろでひとつにまとめている。生徒たちを見渡すその目には、歓迎の色も、親しみの色もなかった。
「このクラスの担任の茶柱佐枝だ。担当は日本史。この学校にクラス替えはない。3年間、このクラスで過ごすことになる。そのつもりでいろ」
茶柱は淡々と、学校の仕組みを説明していった。
全寮制であること。在学中は、学校の敷地の外に出ることも、外部と連絡を取ることも禁じられていること。そして、配られた学生証のカードが校内での財布の代わりになること。
「ポイントは毎月1日に、自動で振り込まれる。1ポイントは1円の価値がある。お前たちには今月分として、すでに10万ポイントが支給されている」
教室が一気にざわめいた。
「10万!?」
「マジかよ、何買う?」
「服! あとゲーム機あるかな」
浮き立つ声をよそに、茶柱は表情ひとつ変えない。教室の誰もその冷めた態度を気に留めている様子はなかった。
「この学校は、実力で生徒を測る。入学を果たしたお前たちには、それだけの価値があると判断された、ということだ。ポイントの使い道は自由だ。好きに使え」
それだけ言うと、茶柱は質問も受け付けずに教室を出ていった。
(あの教師、生徒を見る目が教師のそれではないな。……値踏みする目だ)
ざわめきの中で、浦原は黙って手元のカードを見つめていた。
ふと窓際に目をやると、あの男子生徒もまた、はしゃぐでもなくカードを指先で静かに裏返していた。
(あの教師は「今月分として」と言った。毎月10万とは、一言も言っていない)
カードを裏返し、また表に戻す。
(実力で生徒を測る、とも言っていたな。測るということは、どこかで誰かが見ているということだ。
……あの監視カメラの数も、そのためか)
浦原は教室の天井の隅にある黒い機械を、視界の端だけで確かめた。あの位置からなら、教室のほぼ全員の顔が映る。
(外部との連絡も禁止、か。これで、櫻井司令とも直接は話せない。事前に聞かされていたとおり、頼れるのは理事長だけということだ)
――――――――――
ざわめきが収まらないうちに、一人の男子生徒が立ち上がった。
「みんな、ちょっといいかな。入学式まで時間があるし、自己紹介をしない? これから3年間一緒なんだし、早く名前を覚えたほうがいいと思うんだ」
爽やかな顔立ちに、よく通る声。クラスの空気をまとめる役をごく自然に引き受けられる人間だ。中学でもずっとクラスの中心にいたのだろう。何人かがすぐに賛成の声を上げた。
「言い出しっぺだから、僕からいくね。平田洋介です。中学ではサッカーをやってました。みんなと仲良くなれたら嬉しいです」
拍手が起こりかけた、そのときだった。
「くだらねえ。自己紹介なんて、やりたいやつだけでやってろよ」
赤い髪の大柄な男子生徒が椅子を鳴らして立ち上がり、そのまま教室を出ていった。
(感情で動く手合いだな。工作員なら、初日からあれほど目立つ真似はしない)
赤い髪の生徒に続くように、窓際の黒髪の女子生徒も無言で席を立つ。迷いのない足取りだった。最初から、こうなったら出ていくと決めていたかのように。ほかにも何人かがそのあとを追った。
窓際の最後列の、あの男子生徒は座ったままだった。隣の席の彼女が出ていくのを、見送るでもなく、引き止めるでもない。
気まずい沈黙が落ちる。平田が困ったように笑いかけた、そのとき。
「じゃあ、残った人だけでやろうよ! 平田くん、続けて続けて」
明るい声でそう言ったのは、バスで乗客に呼びかけていた、あの女子生徒だった。
止まりかけていた空気が、それだけで再び動き出す。平田がほっとしたように「ありがとう」と彼女に笑いかけた。
(……バスのときと同じだ。場の空気の扱い方を、よく心得ている)
自己紹介は廊下側の列の前の席から順に進んでいった。
お調子者らしい男子たちが笑いを取ろうとして滑り、滑ったことでまた笑いを取る。
「池寛治です! 彼女募集中でーす!」
すかさず女子のあいだから冷ややかな笑いが起こり、本人はなぜか満足そうに席に着いた。
やがて、さっき場を立て直した女子生徒の番が来た。
「櫛田桔梗です! 私の目標は、この学校の全員と友達になることです。だから、みんなの連絡先、あとで教えてね!」
弾けるような笑顔に、男子たちから歓声が上がる。
(全員と友達に、か。本気で言っているのなら、大したものだ。……さっきの手際を見る限り、口だけではなさそうだ。人脈を広げるという意味では、工作員にとっても理想的な立ち位置だが)
続いて立ち上がったのは、バスの優先席に座っていた、あの金髪の男子生徒だった。
「私は高円寺六助。高円寺コンツェルンの一人息子にして、いずれこの国の頂点に立つ男だ。以後、私の邪魔だけはしないでくれたまえ」
それだけ言って、彼は満足げに腰を下ろした。教室がなんとも言えない空気に包まれる。平田が「よ、よろしくね」と、どうにか笑顔で応じた。
(あれはあれで、筋が通っているな。……少なくとも、あれほど目立ちたがる工作員はいないだろう)
前の席の彼女の番が来た。
「松下千秋です。趣味はカフェ巡りと買い物かな。この学校、お店がいっぱいあるみたいだから楽しみです。よろしくね」
ほどよく明るく、ほどよく短い。誰の反感も買わず、誰の記憶にも、ちょうどいい形で残る自己紹介だった。
そして、浦原の番が回ってきた。
(名前、出身、ひとこと。偽名を名乗るのには慣れている。なのに、なぜこうも落ち着かない)
何度も練習した言葉を頭の中でなぞる。物静かで、少し不器用な帰国子女。目立ちすぎず、浮きすぎず。
どんな尋問の場でも、ここまで喉は渇かなかった気がする。
浦原は立ち上がった。
「浦原大輔、です。中学まで、アメリカにいました。わた……俺は、日本の学校に慣れていないので、変なことを言ったら、教えてください」
一瞬、教室に間が空いた。
(しまった)
何百回と練習して、それでも抜けなかった一人称だった。テロ組織に潜入したときでさえ、こんな初歩的なしくじりをしたことは一度もないというのに。
「いいじゃん、帰国子女っぽくて!」
声を上げたのは、池だった。それにつられるように、あちこちから笑い声と拍手が起こる。からかう響きはない。むしろ、少し抜けたところのある新入生として、好意的に受け止められたようだった。
前の席では、松下が小さく肩を揺らして笑っていた。
(……助かった)
笑いを取るつもりなど、毛頭なかったのだが。
浦原はぎこちなく頭を下げて腰を下ろした。
拍手の中で、ふと視線を感じた。窓際の最後列から、あの男子生徒が静かにこちらを見ている。目が合う前に、その視線はすっと外れた。
自己紹介は窓際の列へと移り、やがて最後列のあの男子生徒が立ち上がった。
綾小路清隆、と名乗った彼の自己紹介は、お世辞にも上手いとは言えなかった。言葉に詰まり、視線をさまよわせ、最後は消え入るような声で締めくくる。
まばらな拍手が起こり、平田が「よろしくね、綾小路くん」と優しく声をかける。誰の記憶にも残りそうにない、ありふれた失敗だった。
だが、浦原はその姿から目を離せなかった。
(……上手すぎる)
つまずき方が、ちょうどいいのだ。笑いものになるほどひどくはなく、印象に残るほど面白くもない。数日もすれば、クラスの誰もが名前すら思い出せなくなる。そういう失敗だった。
それはまさに、浦原自身がこの自己紹介でやろうとして、一人称ひとつでしくじったことだった。
(バスで、窓に映る車内を見ていた男……。
それに、さっきの視線。俺がしくじった瞬間を、あいつは笑わずに見ていた。
シンシーの工作員か? いや、決めつけるのはまだ早い。だが、覚えておく価値はある)
浦原は綾小路清隆という名前を、頭の奥の小さな引き出しにしまい込んだ。
別班に入って最初に叩き込まれた教えがある。本当に危険な人間は、危険には見えない。
――――――――――
入学式の開始を告げる校内放送が流れ、生徒たちはぞろぞろと席を立ち始めた。
廊下に出ると、新入生たちの話し声が体育館へ向かう流れとなって続いていた。10万ポイントで何を買うか。どの部活に入るか。寮の部屋はどんな感じか。誰もがこれから始まる3年間を、少しも疑っていない顔をしている。渡り廊下の窓から、春の光が差し込んでいる。
少し前を歩いていた松下が、ふと振り返った。
「浦原くん、さっきの『わた……』ってやつ、わざと?」
「……わざとじゃない。向こうでは、日本語を使うのは家の中だけで、それも丁寧な言葉ばかりだったから」
練習してきた偽装の経歴が、すらすらと口をついて出た。こういうところだけは、いつもの任務と変わらない。
「そっか。じゃあ、そのうち直るといいね」
それだけ言うと、彼女は前を向き、近くを歩く女子たちの輪に加わっていった。
浦原はその背中から視線を外した。
任務の初日。工作員の手がかりはまだ何ひとつない。疑わしい者は、この学年の全員だ。
ただ、目立ちすぎる者は外していい。本物の工作員は自分から人目を集めたりはしない。残るのは、目立たない者だ。
浦原は一度だけ、教室のほうを振り返った。
綾小路清隆は誰と話すでもなく、一人で教室を出てくるところだった。
その足取りは、どこまでも平凡だった。――平凡すぎるほどに。