入学式は、拍子抜けするほど普通だった。
来賓の祝辞に、新入生代表の宣誓。壇上で語られるのは、「自由」や「可能性」といった、どこの高校でも聞けそうな言葉ばかりだ。違うのは、体育館の天井の隅にまで黒いレンズが光っていることくらいだった。
浦原はパイプ椅子に浅く腰かけ、話を聞いているふりをしながら、周りの新入生たちを眺めていた。
(高校の入学式は、10年ぶりか。あのときは、まさか二度目があるとは思っていなかったな)
新入生はクラスごとに列を作って座っていた。Aクラスの列が壇上に近く、Dクラスの列は体育館の一番後ろの端だ。
浦原は前の列から順に、目を走らせていった。背筋を伸ばして壇上を見つめる者、隣とひそひそ話す者、早くも船を漕いでいる者。百六十人の新入生は、誰もがどこにでもいる15歳の顔をしていた。
(この中の誰かが、シンシーの工作員。……今は、顔と名前を一人ずつ覚えていくしかない)
Dクラスの列に目を戻すと、池がつまらなそうにあくびを噛み殺し、その少し先で平田が真面目に壇上を見つめていた。高円寺は腕を組んだまま目を閉じている。眠っているのか、考えごとをしているのか、外からはまるで分からない。
式の途中、一人の男性が壇上に上がった。40代の終わりか、50代の初めといったところだろうか。穏やかな顔つきで、声を張り上げるでもなく、新入生たちに語りかける。
「理事長の坂柳です。皆さん、入学おめでとうございます」
話は短く、中身もありふれていた。それでも浦原はその顔をしっかりと目に焼きつけた。
(あれが、この学校でただ一人の味方か)
式が終わり、生徒たちが体育館を出ていくとき、浦原は出口で事務の職員に呼び止められた。
「1年Dクラスの浦原大輔くんですね。帰国生の手続きのことで、理事長室まで来てもらえますか」
近くにいた生徒の何人かがちらりとこちらを見た。浦原は少し戸惑ったような顔を作って頷いた。
帰国子女なら、書類の手続きが残っていてもおかしくはない。うまい名目だ。
――――――――――
職員のあとについて、渡り廊下を抜け、人けのない校舎へ入っていく。
「帰国生の人は、何かと書類が多くて大変でしょう。入学早々、ごめんなさいね」
「……いえ。大丈夫、です」
ぎこちなく答えながら、浦原は廊下の天井を確かめていた。生徒の行き来する校舎に比べると、カメラの数はずっと少ない。
理事長室はその校舎の奥まった一角にあった。
案内の職員が扉を閉めて去ると、部屋には浦原と、先ほど壇上にいた男だけが残った。
「わざわざ来てもらって、すみませんね。どうぞ、座ってください」
勧められるまま、浦原は応接用のソファに腰を下ろした。
目だけで部屋の中を一周する。窓、本棚、額に入った書。天井の隅にも、黒いレンズは見当たらない。
「ここは、校内でも数少ない、カメラのない部屋です」
浦原の視線に気づいたのか、坂柳理事長はそう言って、向かいのソファに座った。
(……気づかれたか。今の目の動きは、浦原大輔らしくなかったな)
「さて。手続きの話というのは、名目です。もう察しているでしょうが」
「……はい」
「先に言っておきます。私は、あなたが何者なのかを知りません。総理から聞かされているのは、政府の依頼で、ある生徒を一人入学させること。そして、その生徒の連絡役を務めてほしい、ということだけです」
理事長は膝の上で静かに手を組んだ。
「それ以上は、聞かないことにしています。知らないほうがいいことも、世の中にはありますから」
(知らされていない、か。……妥当な判断だ)
別班の存在を知る者は、ごく一部に限られている。協力者に任務の中身を明かさないのは、その協力者自身を守るためでもあった。
「……どうして、引き受けてくださったんですか」
「この学校は、国が作った学校ですから。その国の総理から頼まれれば、理事長として断る理由はありません」
理事長はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「それに、総理が直々に頼んでくるくらいです。よほどの事情があるのでしょう」
「助かります」
浦原は、浦原大輔の声のまま、短く答えた。ここでは演じる必要はないのかもしれない。だが、カメラのない部屋だという言葉をそのまま信じる理由もなかった。
「ところで、この学校の印象はどうですか。まだ半日ですが」
探るような問いではなかった。少なくとも、そう聞こえるように言っている。
「……カメラが、多いですね」
「ええ。生徒たちの安全のため、ということになっています」
理事長は否定も肯定もせず、ただ穏やかに頷いた。「ということになっている」という言い方を、浦原は聞き逃さなかった。
「では、連絡の方法を決めておきましょう」
理事長が示したのは、拍子抜けするほど単純なやり方だった。
「私に用があるときは、学校のメールで私宛てに、『書類のことで相談があります』とだけ送ってください。帰国生の手続きという名目で、その日のうちに時間を作ります」
「外からの連絡は、どうなりますか」
「私のところに何か届いたときは、こちらから帰国生の面談という名目で呼びます。もちろん、中身は見ません」
浦原は頷いた。古典的だが、悪くない。手段が単純なほど、綻びは少なくなる。
「ただし、ひとつだけ、はっきりさせておきたいことがあります」
理事長の声は穏やかなままだった。だが、その目は笑っていなかった。
「この学校の中では、あなたも一人の生徒です。成績やクラスのことで、特別な扱いはできません。ほかの生徒たちと同じ規則の中で過ごしてもらいます」
「もちろんです」
「それから――あなたの目的が何であれ、この学校の生徒を傷つけるようなことはしないでください。それだけは、約束してほしい」
浦原は一瞬だけ言葉に詰まった。
任務は、シンシーの工作員を見つけ出し、この学校から退学させることだ。それが「傷つける」に当たるのかどうか。
「……この学校の生徒を守るために来た、とだけ言っておきます」
嘘ではない。少なくとも、浦原はそう信じている。
理事長はしばらく浦原の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「それなら、結構です」
面談はそれで終わった。
扉を閉める前に、浦原は一度だけ部屋を振り返った。理事長はもう机に戻り、何事もなかったように書類に目を落としていた。
(協力はする。だが、肩入れはしない。……ああいう相手は、かえって信用できる)
――――――――――
理事長室を出たころには、日が傾き始めていた。
寮に帰る前に、浦原は敷地内のコンビニに寄ることにした。生活に必要なものをそろえる、という理由もある。だがそれ以上に、この町の物の値段を自分の目で確かめておきたかった。
店の中は新入生たちでにぎわっていた。カゴいっぱいに菓子や飲み物を詰め込む者、雑誌を手に取って笑い合う者。10万ポイントという数字が、彼らの財布の紐をすっかり緩めているらしい。
棚に並ぶ商品の値段は、外の店とほとんど変わらなかった。1ポイントが1円という説明に、偽りはないようだ。
(物価は普通。なら、月に10万は、高校生にはかなりの額だ)
飲み物の棚をひととおり眺めたところで、浦原は自分が無意識に、ある棚を探していたことに気づいた。酒の棚だ。
当然、高校の敷地のコンビニにそんなものが置いてあるはずもない。
(……3年間、禁酒か。いや、任務が早く片付けば、もっと短くて済む。たぶん)
日用品の棚の前で、浦原の足が止まった。
歯ブラシや石けん、ノートといった品が並ぶ一角だけ、値札の代わりに「無料」と書かれた札が貼られている。持ち帰れる数には限りがある、と小さな字で但し書きが添えられていた。
(無料……?)
毎月10万ポイントを配る学校で、わざわざ無料の品を置く理由はない。
――普通に考えれば。
(もし、ポイントが足りなくなる生徒が、初めから出ると分かっているなら)
茶柱の「今月分として」という言い方。生徒を値踏みするような、あの目。そして、この無料の棚。ばらばらだった小さな引っかかりが、頭の中で一本の線になりかけた。
(教室で引っかかったことは、どうやら当たりだ。この学校は、毎月10万が入る前提で動いていない)
入学したばかりの生徒に、いきなり10万。使い道を指図するでもなく、貯めろと言うでもない。普通の学校なら、まずやらないことだ。
浦原は無料の棚から歯ブラシを一本だけ手に取った。浦原大輔は、ただでもらえるものはありがたくもらっておく性格だ、ということにしておく。
レジでは弁当とお茶の会計を学生証で済ませた。カードを読み取り機にかざすだけで、支払いは一瞬で終わる。レジの上にも小さなカメラがあって、こちらを見下ろしていた。
(誰が、いつ、どこで、何を買ったか。その記録は、すべて学校に残るということか)
(……配ったポイントを、生徒がどう使うか。それ自体を、学校が見ているということもありうるな)
学生証ひとつで払える、便利な仕組みだ。そして、使いようによっては人を追うための仕組みでもある。もしシンシーの工作員が校内で何かを動かそうとすれば、どこかに必ず跡が残るはずだ。
自動ドアをくぐって外に出ると、店の前が少し騒がしかった。
赤い髪の大柄な男子生徒が上級生らしき二人組とにらみ合っている。教室で「くだらねえ」と言い捨てて出ていった、あの生徒だ。手には湯気の立つカップ麺を持っている。
「あ? 先に座ってたのはこっちだろうが」
「ここは2年が使う場所なんだよ。1年はどけ」
店の前のベンチをめぐる、ありふれたもめごとらしい。
浦原は自動ドアの脇で足を止めた。本気で殴り合いになりそうなら、止める方法はいくらでもある。だが、目立たない帰国子女が上級生とのけんかに割って入る理由は、どこにもなかった。バスのときと同じだ。今は、見ているだけでいい。
大柄な男子生徒が一歩踏み出すと、上級生の一人が面倒くさそうに尋ねた。
「お前、何組だ」
「Dだよ。文句あんのか」
その答えを聞いた途端、上級生たちは顔を見合わせ、笑い出した。
「Dか。じゃあ、仕方ねえな」
「せいぜい、今のうちに楽しんどけよ」
二人組はそれだけ言うと、あっさりと背を向けて去っていった。大柄な男子生徒は舌打ちをして、ベンチにどかりと腰を下ろす。
(殴り合いにはならなかったか。……それより、今の笑い方だ)
Dと答えた瞬間から、上級生たちの態度が変わった。怒りでも警戒でもない。あれは、哀れみに近い笑いだった。
掲示板の名簿はAクラスから順に並んでいた。その一番最後が、Dクラスだ。
(クラスの名前は、ただの組分けじゃないのかもしれない)
ふと視線を巡らせると、少し離れた街灯の下にレジ袋を提げた男子生徒が立っていた。
綾小路清隆だ。騒ぎを見物するでもなく、かといって立ち去るでもなく、ただそこにいる。
彼は浦原に気づいたのか、気づかなかったのか、何事もなかったように寮の方角へ歩き出した。
(……また、あいつか)
――――――――――
寮の部屋は一人で使うには十分すぎる広さだった。
ベッドと机、小さなキッチンに、ユニットバス。窓からは夕暮れに染まる敷地が見渡せる。
浦原は荷物をほどくより先に、部屋の点検を始めた。
照明の傘の内側、コンセントの差し込み口、エアコンの吹き出し口、テレビの裏。火災報知器はカバーを外して中まで確かめた。道具がなくても、見るべき場所は分かっている。
ひととおり調べ終えて、浦原はようやく息をついた。カメラも、盗聴器も見つからなかった。
(廊下にはカメラがあったが、部屋の中までは見ない、か。……少なくとも、今のところは)
外したカバーを元に戻しながら、浦原はふと我に返った。入学初日の夜に火災報知器を分解している男子高校生。もし誰かに見られたら、帰国子女の奇行で済むだろうか。
(……済まないだろうな)
ベッドに腰を下ろし、浦原は今日一日の出来事を頭の中で並べ直した。
監視カメラだらけの校舎。「今月分」の10万ポイント。無料の棚。Dと聞いて笑った上級生。そして、誰が何を買ったかまで残る、学生証の記録。
(この学校は、何かを隠している。それも、生徒の誰にも気づかせないような顔をして)
メモは取らない。紙に書けば、それはいつか誰かに読まれる。報告として書くその日までは、気づいたことはすべて頭の中にしまっておく。それが、この仕事の鉄則だった。
シンシーがなぜこの学校の新入生に目をつけたのか。その答えも、案外この仕組みの中にあるのかもしれない。
浦原は無料の棚から持ってきた歯ブラシの封を切った。
(司令が詳しく話さなかったのは、わざとだろうな。知っていれば、どこかで顔に出る。……自分の目で確かめろ、ということか)