寮から校舎までの並木道は、昨日と同じように真新しい制服の群れで埋まっていた。
ただ、その空気は昨日とは少し違っていた。入学初日の緊張はもうどこにもない。あちこちで「昨日何買った?」「部屋、意外と広くなかった?」という声が上がり、早くも二人、三人と連れ立って歩く者たちがいる。
浦原はその流れの中を一人で歩いた。昨夜はほとんど眠らなかった。部屋の点検を終えたあとも、聞き慣れない寮の物音がするたびに目が開いた。初めての任地では、いつもそうだ。
それでも、体は少しも重くない。眠らずに動くことには慣れている。
並木道の街灯の上から、黒いレンズが今日も新入生たちを見下ろしていた。
入学二日目の朝は出席から始まった。
「――池寛治」
「はーい」
「須藤健」
「……うっす」
茶柱が名簿を読み上げるたびに、教室のあちこちから返事が上がる。
名前そのものは昨日のうちに頭に入れてあった。黒板に貼られていた座席表を一度見れば十分だ。出席で確かめるのは、名前ではない。返事の声と、その返し方だった。
赤い髪の大柄な生徒――須藤は面倒くさそうに短く答えると、もう机に頬杖をついている。
「堀北鈴音」
「はい」
窓際の最後列から、短く澄んだ返事が返ってきた。迷いも、愛想もない、まっすぐな声だった。
(返事ひとつにも、人は出る)
四十人分の名前と顔に、声と癖が一人ずつ書き足されていく。名前を覚えるのは、潜入の第一歩にすぎない。本当に役に立つのは、その先にある人となりの手がかりのほうだ。
もっとも、それを表に出すつもりはなかった。浦原大輔はクラスメイトの名前を覚えるのに一週間はかかる。そういう生徒なのだから。
――――――――――
授業の初日は、拍子抜けするほど和やかだった。
どの教師も最初の時間は自己紹介と授業の進め方の説明に充てた。冗談を交えて笑いを取る教師もいれば、「分からないことは何でも聞いてください」と穏やかに微笑む教師もいる。
厳しい学校を想像していた生徒たちは、すっかり肩の力を抜いていた。昨日の茶柱の冷たさが嘘のようだ、と誰かが言い、周りが笑う。
(……優しすぎるな)
浦原は黒板の前で笑う教師たちを、少しだけ醒めた目で見ていた。
生徒を測る、と担任が言い切った学校だ。その教師たちがそろいもそろって何ひとつ求めてこない。優しさというものは、それ自体が試験になることもある。
別班に入る前の訓練でもそうだった。最初の数日、教官たちは驚くほど親切だった。消灯時間に多少遅れても、何も言われない。そうして気が緩んだ者から順に、あとで名前を呼ばれた。教官たちは見逃していたのではない。誰が緩むのかを、黙って見ていたのだ。
(あのときと、同じ匂いがする)
浦原は隣の席の生徒があくびを噛み殺すのを横目に、ノートの端に意味のない落書きをした。真面目すぎる新入生も、それはそれで目立つ。
昼休みには食堂に足を運んでみた。
券売機の並ぶ広い食堂は、新入生と上級生でごった返していた。メニューの値段は外の食堂とそう変わらない。その中にひとつだけ、値段の欄に「0」と書かれた定食があった。山菜定食、とある。
(また、無料か)
昨日のコンビニの棚と同じだ。浦原は何気ないふりで、食堂の中を見回した。
山菜定食の載った盆を前にしているのは、ほとんどが上級生だった。誰もがどこか慣れた手つきで、黙々と箸を動かしている。
(新入生は、まだ誰も頼んでいない。頼んでいるのは、ここで1年以上を過ごした者たちだけだ)
毎月10万ポイントが入るはずの学校で、毎日の昼食を無料で済ませる上級生がいる。節約が好きなだけ、という可能性もある。だが、それにしては数が多すぎた。
すぐ後ろの席から、上級生らしい男子二人の会話が聞こえてきた。
「今月も山菜かよ。いい加減、飽きたわ」
「言うなって。来月こそは、まともなもん食おうぜ」
ため息まじりの、慣れきった声だった。浦原は味噌汁の椀を口に運びながら、その言葉を頭の奥に書き留めた。
「今月も」。そして、「来月こそは」。好きで無料の定食を選んでいる人間の言い方ではない。
浦原は自分の盆に載ったカツ丼に目を落とした。ポイントで買った、ごく普通のカツ丼だ。
(……今月は、まだいい。だが、来月はどうなるか)
――――――――――
放課後、体育館で部活動紹介が開かれた。
参加は自由だったが、新入生の多くが集まっていた。体育館に並べられたパイプ椅子はほとんど埋まっている。百人を超える新入生が一か所に集まっているのだ。
浦原にとっても、またとない機会だった。
(ほかのクラスの顔を、まとめて見られる)
AクラスからDクラスまで、百六十人。そのうちの誰かが、シンシーの工作員だ。教室にいるだけでは、ほかの三つのクラスの生徒を見る機会はほとんどない。
浦原は体育館の後ろのほうの席に座った。全体を見渡すには、後ろの席が一番いい。
壇上では各部の紹介が次々と始まった。
野球部が、体育館の窓ガラスが震えるほどの声量で挨拶をし、吹奏楽部が短い曲を披露する。
(あの声なら、どこの訓練所でも通用するな)
思わずそんなことを考えて、浦原は小さく咳払いをした。
ある運動部の部長が「初心者大歓迎!」と叫ぶと、新入生のあいだから笑いが起きた。茶道部は着物姿で登場し、演劇部は短い寸劇まで見せた。
体育館はすっかりお祭りのような騒がしさになっていた。新入生たちは隣の友人と話しながら、半分は聞き流すようにして壇上を眺めている。
浦原は壇上ではなく、客席を見ていた。
熱心に部活の紹介を聞く者。早くも退屈そうにスマートフォンをいじる者。ほかのクラスの生徒と、もう打ち解けて話している者。浦原は一人ひとりの顔とその振る舞いを、頭の中の帳面に書き込んでいった。
(派手に騒ぐ者は、ひとまず後回しでいい。気になるのは、騒ぐふりをしながら、周りを見ている者だ)
そうして客席を眺めているうちに、最後の紹介になった。
壇上に一人の男子生徒が上がった。
眼鏡をかけた、細身の上級生だった。背筋はまっすぐに伸び、制服には一分の乱れもない。マイクの前に立った彼は、しかし、何も言わなかった。
ただ、黙って客席を見ている。
最初、新入生たちはそれに気づきもしなかった。前の部活の余韻で、体育館はまだざわついている。
10秒が過ぎた。壇上の男子生徒はまだ何も言わない。
前のほうの席から、ざわめきが少しずつ引いていった。「何あれ」「始まらないの?」というひそひそ声も、やがて小さくなっていく。
20秒。30秒。
どこかで誰かが小さく咳をした。パイプ椅子のきしむ音がやけに大きく響く。その音を立てた生徒が、気まずそうに身を縮めるのが見えた。
浦原は頭の中で秒を数えながら、客席のほうを見ていた。誰が最初に黙り、誰が最後まで話し続けるのか。それだけでも、人となりの一端は分かる。
沈黙は前の席から後ろの席へと、波のように広がっていった。誰かが静かにしろと言ったわけではない。それなのに、一人、また一人と口を閉じていく。気づけば、百人を超える新入生が一人残らず黙り込んでいた。
体育館に空調の音だけが響いている。
(……見事だ)
浦原は思わず息を詰めていた。
黙っている者を前にすると、人は不安になる。不安になった人間は、相手が何を待っているのかを自分で考え始める。そして、いつの間にか相手の望む形に自分から収まっていく。
尋問の場で、腕のいい者が使うやり方だった。声を張り上げるより、ずっと強く人を従わせる。それを、この上級生は百人を超える相手に、たった一人でやってのけたのだ。
しかも、壇上の顔には力みひとつない。
(場を支配することに、慣れている。……いや、慣れすぎている)
体育館が完全に静まり返ったところで、彼はようやく口を開いた。
「生徒会長の、堀北学です」
低く、よく通る声だった。
「生徒会は、3年生の卒業によって空いた役員の席を補うため、1年生から新たな役員を募集します。立候補を考えている者は、生徒会室まで来てください。なお、生徒会と部活の掛け持ちは、原則として受け付けていません」
話はそれだけだった。
堀北学は一礼もせず、静かに壇上から降りていった。その背中が舞台袖に消えるまで、誰ひとり声を出す者はいなかった。
――――――――――
司会の生徒が閉会を告げると、体育館はようやく息を吹き返した。
「怖っ」「なんだったの、今の」という声があちこちから上がる。
だが、浦原の目は別のものを拾っていた。生徒会長が役員の募集を告げた瞬間、客席の何人かがわずかに身を乗り出したのだ。前のほうの席にいた、ほかのクラスの生徒たちだった。名前はまだ分からない。だが、顔は覚えた。
浦原はその騒がしさの中で、さっき聞いた名前を頭の中で繰り返していた。
(堀北学。……堀北)
座席表にも、今朝の出席にもあった名前だった。
浦原はDクラスの生徒たちが座っていたあたりに目をやった。
教室では窓際の最後列にいる、あの黒髪の女子生徒――堀北鈴音は、まだ席に座ったままだった。周りの生徒たちが立ち上がり始めても、彼女だけは動かない。膝の上で両手をきつく握りしめている。その目は生徒会長が消えていった舞台袖を、まっすぐに見つめたままだった。
(同じ苗字。それに、あの顔だ)
ただの偶然で、あんな顔はしない。尊敬なのか、恐れなのか、それとも別の何かなのか。浦原にはまだ見分けがつかなかった。だが、少なくとも他人を見る目ではない。
(兄妹、か)
入学初日に自己紹介を待たずに教室を出ていった、あの迷いのない足取り。誰とも馴れ合おうとしない態度。その奥にあるものが、少しだけ見えた気がした。
ふと視線を感じて、浦原は目だけを動かした。
堀北から数席離れたところに、綾小路が座っていた。彼もまた壇上ではなく、堀北のほうを見ている。その顔にはいつもと同じように、何の色も浮かんでいなかった。
(……あいつも、同じものを見ているのか)
綾小路は浦原の視線に気づいたのか、気づかなかったのか、すっと立ち上がり、出口へ向かう人の流れに紛れていった。
――――――――――
寮へ戻る道すがら、浦原は今日見たものを頭の中で並べ直した。
(生徒会、か)
シンシーが高育の新入生を狙った理由は、将来この国を動かす人材とのつながりだ。それなら、この学校で一番の力が集まる場所は、工作員にとって何より近づきたい場所のはずだった。
そして今日、その場所が新入生に向けて扉を開けた。
(俺が生徒会に入れば、近づいてくる者を内側から見張れる)
一瞬だけ、そう考えた。
だが、すぐに打ち消した。物静かで、人付き合いの苦手な帰国子女が、入学二日目に生徒会に立候補する。それほど目立つ真似はない。それに、あの生徒会長のそばにいれば、演技に使う神経は倍になる。見抜かれるとは思わない。だが、見抜こうとする相手の前で、わざわざ毎日芝居を続ける理由もなかった。
入るのではなく、見ていればいい。生徒会に近づこうとする新入生が誰なのかを。
さっき身を乗り出していた何人かの顔が、頭に浮かんだ。もちろん、生徒会を目指す新入生がみな工作員であるはずがない。むしろ、ほとんどは純粋に上を目指しているだけだろう。だが、工作員が生徒会を目指すなら、その中に紛れ込むのが一番自然だ。
疑う相手の候補がまた何人か増えた。
(部活も、入らないでおくか)
走るのが速い、という設定にした以上、陸上部あたりから声がかかってもおかしくない。だが、部活に入れば放課後の時間は練習に取られる。それに、毎日の練習で体を動かしていれば、いつか必ず加減を誤る日が来る。
帰宅部の帰国子女。それが、浦原大輔には一番似合っている。
寮の入り口が見えてきたところで、浦原はふと、体育館の沈黙を思い出した。
百人を超える人間を、声ひとつ出さずに黙らせた男。そして、その男を身じろぎもせずに見つめていた妹。
(この学校は、生徒のほうも、ずいぶんと底が深い)
浦原は小さく息をつき、浦原大輔の顔のまま、寮の自動ドアをくぐった。
――――――――――
その夜、ベッドに横になってからも、浦原は体育館の沈黙を思い返していた。
あの静けさの中で、浦原も口を閉じていた。もちろん、黙らされたわけではない。周りに合わせて黙るのが、浦原大輔として正しい振る舞いだったからだ。
それでも、あの沈黙の作り方には素直に感心した。
(高校生にしては、という但し書きはいらないな。あれは本物だ)
久しぶりに手応えのありそうな相手を見た気がした。
あの生徒会長は、ただ人を黙らせることに長けているだけではない。黙った人間を壇の上から一人ずつ見ていた。誰が最初に黙り、誰が最後まで話していたのか。おそらく、浦原と同じことをしていたのだ。
そうだとすれば、後ろの席で客席ばかりを見ていた一人の新入生のことも、あの目は見ていたかもしれない。
(あの男の前で、隙を見せるつもりはない。だが、侮るつもりもない)
浦原は頭の中の帳面に、新しい欄をひとつ書き足した。生徒会長、堀北学。疑う相手ではない。だが、警戒すべき相手だ。
目を閉じると、寮の廊下の物音は、昨日よりも少しだけ遠く聞こえた。